季節外れの風鈴

 

 りーん、りん。
 庭に面した縁側に座る僕の耳に、風鈴の静かな音色が鳴り響く。
 一面に敷き詰められた小石。その中に落ちている松ボクリ。小さな池に折れ曲がった松の木。
 子供の頃から変わることのない景色を、僕はぼんやりと眺めてる。
「随分と季節外れねえ。まだ冬なのに」
 くすくすと笑いながら、全く情緒を感じられない感想を述べる声がした。
 声がしたほうを向くと、雪のように白い肌をした少女が、肌の色とは対照的な長い黒髪をなびかせて立っている。
 懐かしい顔に、僕は笑いかけた。
「おや、いつ来たんだい?」
「ついさっきね」
 そっけなく答えて彼女は僕の隣に座る。
 風鈴は冬特有のからっ風に吹かれて、激しい音をたてていた。これでは耳障りな音にしか感じない。確かに季節外れもいいところだ。
「風鈴といったら夏のものよね」
 思い出したように言う彼女の言葉に僕は頷く。
 子供の頃、彼女と一緒に過ごした夏の日。よくこの縁側に座ってスイカを食べていた。よく冷えたスイカに塩を振りかけて、気分よくかぶりついていたものだ。種ごと食べてしまう僕は、いつも彼女に怒られていたような気がする。僕は僕で彼女の言いなりになるのが嫌で、無理やりにでも種を飲み込んでいたものだった。
 そんな幼き子供の頃。
「君は昔から変わらないね。一目でわかったよ」
「そう? そういうのって自分ではわからないものでしょ」
 彼女は横を向いて、何の気もなさそうに髪をかきあげる。その仕草は昔と少しも変わらない。
「そういうあなたのほうは随分と変わったわよ」
 いたずらっ子のように僕を指さして笑う彼女に、僕は苦笑してしまう。
 彼女はいつもはお姉さんぶるくせに、本当はとても子供っぽいのだ。
 本当に、本当に懐かしい。
「……そうだろうね」
 腕をあげて、手の平を透かしてみる。
 まるで、枯れ枝のように不健康な細い腕。
 彼女とは違う、これが勉強ばかりしていた僕の腕だ。
 人は嫌でも成長する。それは良くも悪くもだ。幼いままでいたくても、人は子供のままではいられない。
 りーん、りん。
 会話の途切れた僕たちの代わりに、風鈴の音が静かな音をたてる。
 日の光が雲に遮られ、辺りは薄く霞がかかっていた。
「ねえ、わたしに何か言いたいことがあったんじゃないの?」
 唐突に、彼女はそうきり出した。
「……そうだね」
 彼女の顔を見ないように頭を下げて、目を閉じる。
 頭をよぎるのは、やはりあの日のこと。


 ……夏の日の庭園。
 そこに倒れているのは、小さな小さな女の子。
 家の中に一人残された幼い僕。
 どうしていいのか、全くわからなかった……。


 あの時よりも随分と大きくなった拳を、力の限り握りしめる。
「偉そうに、"僕は医者になるんだから一人でも君の事は大丈夫"なんて言ってたくせに、あの時。僕は。何も。できなかった……」
 目を開き、あさってのほうに顔を背けた。握った拳は微かに震えてる。
 とても彼女の顔を直視出来なかった。
 出来るわけがない。
 僕が医者になりたかった理由なんて、彼女の病気を治したかっただけ。そしてそれは、医者になった今でも変わっていない。
「夏が来れば君に会える。そう思っていたから風鈴はしまわなかった。君が死んだ夏の日に」
 そう。そんなことはわかっている。
 目の前の彼女は僕が勝手に見ている幻だ。
 そんなことがわからないほど僕は子供ではない。
 でも……。
「どうして、今なんだ?」
 彼女との思い出のほとんどが夏のもの。
 彼女が死んだのもあの夏の日。
 何で今頃こんな幻を見るのだろうか?
 彼女は無言のまま何も答えてはくれない。
 風鈴の音は完全に止んでいた。
 止んだ音とは裏腹に、時間だけが静かに静かに流れてく。
 日はすでに落ち、辺りは暗くなっていた。吐く息は白く、空気に溶けるように霧散する。
 僕は彼女に何を言えばいいのだろう?
 僕は彼女に何が言いたかったんだろう?
 ずっと彼女に会いたかったのに、言いたい言葉があったのに。
 言葉が口から出てこない。
 思い浮かぶ言葉は全部安っぽく、口の中でかすれては、形になる前に消えてしまう。
 残酷なほどに早すぎた時の流れというものは、一番大切な気持ちをも風化させてしまったとでもいうのだろか。
「わたしとしてくれた約束は覚えてる?」
 彼女は言う。
「うん。忘れるわけがないよ」
 彼女との唯一の約束。
 彼女と初めて会ったとき。彼女は一人、部屋の隅で人形遊びをしていた。
 空が澄んでいる、からっと晴れた夏の日だった。
 こんなに天気が良いんだから、外で一緒に遊ぼうよ。縁側に膝を乗り上げて、そんな風に彼女を誘ってみたけれど、わたし病気だから外じゃ遊べない。その時断られるだけじゃなく、人形までぶつけられるしまつだった。
 それで何をむきになったのか、僕は靴も脱がずに部屋に上がり込んでから、無理矢理彼女の手を握り、外へと連れ出した。
 無理だ、と言う彼女に向けて、

 ……病気なんて大丈夫だよ。そんなの僕がお医者さんになって、治してあげる……

 今ではとても言えない、そんな言葉。
 そんな僕に、彼女はおずおずと小指を差し出して。

 ……本当に? じゃあ、約束だよ……。

 そう言って、お互いの小さな小指を絡ました……。
 何の保証もない、幼い子供の約束だ。
 けれども、その何でもない約束こそが僕の全てだった。保証なんてないからこそ、本気だったのだ。
 彼女を失った僕は、結局医者になった。
 彼女の命は救えなかった。それなら他の誰かの命を助けてあげよう、と。
 あの時の僕はそんなことを思っていたんだと思う。
 それで、何人もの人を救えてきたと思うし、感謝されもした。
 けれども、彼女は帰ってこない。
 誰を何人助けようとも、誰にどれほど感謝されようとも、行ってしまった彼女が帰ってくるはずもない。
 逆に、誰かを助ければ助けるほどに、彼女が遠くなっていくような気さえする。
 あの時助けられなかったのに。今更僕は何をやっているのだろう。
 白衣を着て、聴診器を使って、カルテを書いて、メスを握って……。
 そうやって毎日が行き過ぎていっても、あの日のことだけはいつでも鮮明に思い出せる。
 こちらを向いて、にっこりと笑った君の顔が。
 手を差し出すだけで、倒れる彼女の体すら支えようとしなかった僕を。
 あの時、差しだそうとして空を切った腕の感触も。
 何もかも……。
 後悔してもしきれない。
 人は失ったものを糧にして、前に進んでいく生き物だ。
 彼女が死んだからこそ、僕は医者になった、なれたんだと思う。
 彼女の死を無駄にはしたくないから……したくないけれど。
 やはりその時の僕は幼すぎたんだろう。
 成長したのは見た目だけで、肝心の物は何一つとしても成長していない。
 木枯らしが吹き抜けて、身を切るような冷たさと、鳴り響く鈴の音が、僕を我に返らせる。
 甲高く鳴る風鈴は、情緒などは何もなく、ただ間違っているという現実を教えてくれるだけ。
 横を振り向くと、隣に座るのは、幼い子供の姿の少女。
 僕はすっと手を持ち上げて、彼女の頬に触れようと――彼女はゆっくりと首を横に振った。
 僕はびくり、と腕を止める。
 それはそうだろう。僕が。僕なんかが、彼女に触れていいはずもない。
 それからどれくらいの時間がたったのか、夜の闇は深くなっていた。温度は下がり、空気は刺すように冷たくなっている。時折吹く風が、落ちている枯れ葉をかさかさと揺らす。
 すっと彼女は立ち上がる。
「そろそろ行くわね」
 そう言って、僕に背を向けた。
「待って」
 無意識に彼女のことを呼び止める。
 これ以後彼女とはもう二度と会うことはないだろう。
 それなのにこんな別れ方でいいはずがない。たとえ、それが未練がましい行動だとわかっていても。
「名前」
「え?」
「私の名前。あなたはまだ呼んでくれていないわ」
 こちらのほうを振り向きもせず、彼女は僕に背を向けたまま、ぽつりと呟いた。
 彼女の名前。
 それが一体……
「ゆ……き……」
 雪。
 白い雪。
 呼んでみて初めて気づく。
 彼女と遊んでいた夏の頃。
 季節外れの名前だね。そう言って、お互い笑いあっていた。
 そうか。
 そうなんだ……。
 僕はようやく彼女がここにいる理由を理解する。
 そして、雪は僕のほうに振り向いてくれる。
 空からは白い雪がぱらぱらと降り始めていた。
「ごめん」
 結局僕に言えたのはそんな短い謝罪の言葉。
 けれども僕にはそれだけで充分だった。飾った言葉なんかじゃなく、彼女の目を見てはっきりと言えたから。
 雪は昔のままの表情で、
「これからは、ちゃんとするのよ」
 そう言い、雪の中に姿を消していった。
 冬の日の風鈴。
 夏の日の雪。
 季節に外れた二つの言葉。
 きっと雪は、彼女と同じ季節外れな風鈴に引かれて姿を見せてくれたのだろう。
 全く。気紛れな彼女らしい。
 りーん、りん。
 しんしんと雪が降る中で、季節外れの風鈴は静かな音色を奏でてる。