一本の薔薇

 

 一日前。
 すでに彼女は悟っていた。
 もう自分が長くないことを。
 だから願う。
 ……逢いたい。
 彼に逢いたい。
 一月前に去ったあの人に。
 私にさよならを告げた、あの人に。
 思い出せることはいつも同じ。
 庭園でのお話。
 その内容は今となっては思い出せないけれど、自分に向けられた彼の笑顔だけは、心に深く焼き付いている。


 一週間前。
 ベッドで横たわる彼女あの日から何も口にしない。
 そんな彼女にむけて大臣は、
「もうあの者を想うことはやめてくだされ」
と、告げた。
 その言葉に彼女は瞳を閉じたまま何も答えない。
「あなたはご自分の立場が分かっておいでなのですか?」
「……私はエレハイム。この国の女王です」
「それならばお分かりでしょう。王家の者の義務というものが」
「上に立つ者としての体面。それと世継ぎを残すことです」
「それがお分かりならばまだ間に合います。あんな者のことは忘れてしまい、ご自分のことだけを考えてくだされ。それが、一番なのです」
 大臣の言葉を遮るように、彼女は静かに首を振る。
 大臣はようやく自分では彼女を説得させれないことを悟った。
 そして、それが出来るのは……


 一月前。
 彼女は柄にもなく緊張していた。
 着ていくドレスに悩んだことなど一体いつぶりのことであろうか?
 今日は舞踏会。
 そして、ずっと思い続けていた彼に告白する日。
 心臓の音が高鳴る。
 体が強ばる。
 まるで自分の物ではないようだ。
 彼女は鏡の前に立つ。
 淡いピンク色を基調としたドレス。
 彼女はくるりと回ってみる。
 ……完璧。
 けれども、新雪のような白い肌に、赤みが差しているのだけは隠しようがなかった。
「……大丈夫よね」
 彼女は自分にそう言い聞かせ、彼を呼び出した。
 両手には抱えきれない程の薔薇を持って。


 一年前。
 彼女は退屈だった。
 決められたことを、決められた通りにするだけの日々。
 彼女の存在は見せ物であるが為に、美しく可憐な見せかけだけの生活を送らねばならない。
 それが容姿だけを褒め称えられた、白瑠璃と呼ばれる自分の役目。
 そんないつもと変わらぬ日々。
 彼女は薔薇の園で水やりをしていた。
 自分が女であるというだけで、花が好きでならなければならない。
 花は嫌いじゃない。嫌いじゃないけれど――
 そんな馬鹿げた理由のために。
「陛下」
 呼ばれて振り返ると、少し薄汚れた感じの服を着ている少年が立っていた。歳の頃は彼女と同じくらいである。
「今日からここの庭園を任されたリオって言います」
 彼はにこりと笑った後に、頭を下げた。
 美しい物……いや、美しいだけの物など見飽きてる彼女には、その笑顔は別格だった。
 その笑顔には魔法でも込められていたのか、悔しいことに彼女はその笑顔のとりことなってしまった。
 好きでも嫌いでもなかった水やりのことを、楽しみと思えるほどに。
 それが、たとえ勘違いであったとしても……


 ずっと前。
 彼女の両親が亡くなった。
 彼女はわんわんと泣いた。
 どれぐらい泣いていたのかは彼女も覚えていない。
 身近な者を失ったこと。
 彼女が本当に独りぼっちになってしまったこと。
 全てを含めて、ただ泣いた。


 一年前。
 彼の役割は、庭園の世話をすること。
 無駄に伸びた葉や薔薇を刈り、地に落ちたものを処分する。
 ただ、それだけである。
 それ以上のことはする必要はない。
 彼はそういう風に教えられていた。
 彼は言われた通り、庭園にやって来た。
 そこには白い薔薇を背景に、美しい少女が立っている。
 この国の女王のエレハイム女王閣下。
 彼女は彼の方を向く。
 彼は、そんな彼女に微笑みかけた。
 このくらいは大丈夫だろうと思って。


 一月前。
 彼は彼女に呼び出された。
 ――何か自分はしただろうか?
 少なくとも仕事はちゃんとやっている。
 毎日のように彼女に会っているが、失礼なことをしたつもりはない。
 彼は首を傾げながら、いつもの薄汚れた格好でその場所に向かう。
 そこには、彼女が待っていた。
 彼女は彼が来たことに気付いて、こちらのほうを振り向いた。
 両手には抱えきれない薔薇を持って、ただ嬉しそうに笑って――


 一日前。
 どうして――どうして、こんなことになったのか。
 彼には全く理解が出来なかった。
 ……何で、彼女が僕に告白を。
 女王である彼女が、一介の庭師で、ただの――
 彼は悩み続けてた。
 ずっとずっと悩み続けた。
 そして、答えは出なかった。


 その日。
 彼は、彼女の枕元に立ち、一本の薔薇を置く。
 白瑠璃と呼ばれた白い肌は透き通り、もはや生気を感じられない。
 彼には分かっていた。
 彼女を苦しめる物が、決して結ばれない想いのせいであるということが。
 そして彼には分からなかった。
 何で、彼女が自分を――
「リオ……戻ってきてくれたのね。逢いたかったわ」
 彼女がゆっくりと彼に手を差し出すと、彼は黙って自分の手をその手に添えた。
「ずっと独りぼっちだった。お母様が亡くなってからずっと……」
「どうして、どうして僕なんですか?」
「貴方だけが、私を見てくれた」
「……でも。僕は機械の人形にすぎません」
 ここは機械の国。
 彼女を残して"人"はいない。
 大臣も、彼も、ここにある物は全て、彼女達王家の者を守るためだけの、世話をするだけの人形。
「僕はただの人形です。その僕が――」
「そんなことは関係ありません」
 彼女は彼の手を握る。
「私が孤独だったのは、私が機械じゃないからじゃないの。私が女王だから、白瑠璃の私しか、誰も見てくれない」
 彼女は歌うように話す。
「その中で貴方は私を見てくれた。一人の人として私を見てくれた。それだけで充分です」
 その言葉には力があった。
「それは――」
 彼には言葉はなく、ふるふると震える彼女に自分の着ているベストをかけてやった。
「最後にお願いがあるの」
「何でしょうか?」
 彼は姿勢を正して、彼女の顔を見据えた。
「私の……名前を呼んでください」
「名前、ですか……」
「ええ……。それだけでいいの」
「…………エレハイム女王陛下」
 彼は、恐る恐るといった感じに名前を呼ぶ。
 しかし、彼女は首を横に振った。
「名前だけを……。私の名前を。エレハイムっていう名前だけを……」
「しかし、そんな……。恐れ多いことを……」
「…………お願い」
「エレ…………ハイ、ム…………」
 彼は途切れながらも、その名を呼んだ。


 その言葉に――
 彼女は――
 満足そうに――
 微笑んだ…………


「私は貴方を愛したことは後悔してないわ。さよなら」


 彼女の最後の言葉。
 その言葉を最後に、彼女は息を引き取った。


 残された彼は言いたかった。
 それは勘違いだよって。
 所詮自分は人形にすぎない。
 愛などという綺麗な物など、備わってはいなければ理解も出来ない。
「なのに、どうしてこんなに……」
 彼は唇を噛みしめて……