水滴の音

   

 学校の放課後。
 教室には文化祭が間近に迫っているためにあるために、何人もの生徒が残っている。
 この学校の校訓は、創造、自主、奨励である。ようするに自分で作ることを応援する、ということだ。そんな校訓のために、文化祭のような行事にはかなりの力が入れられる。もちろん僕のクラスも同様だ。
「これ、ちょっと支えてて」
「ベースがしっかりしてないと壊れるよ」
「そこのペンキの色は……」
 てな感じである。
 僕もそんな作業にもれなく参加していた。
「お前ら。そこまでにしとけー」
 見回りにやって来た先生が呆れたように言う。
 僕たちが時計に目をやると、針は十時を示していた。やる気があるとはいえ、さすがに明かりがついているのはこのクラスだけである。
 先生がせかすので、僕たちは道具の片づけもそこそこに帰らされることになった。
 昇降口で靴を履き替えていると、
「あ、携帯忘れちゃった」
と、僕の隣の席の少女、沙耶が声をあげる。
「あの、清水君……」
 彼女は申し訳なさそうに僕の顔を見る。あ、ちなみに清水ってのは僕のこと。
「私、暗いの苦手なの。とって来てくれないかなあ?」
 彼女は可愛らしく、僕の顔を下から見上げてくる。
「え……」
 それに対して、僕は実に情けない声を上げてしまった。
「いいじゃん。取ってきてあげなよ」
と、僕が暗いのが少しだけ苦手なこと(あくまで少しだけ)を知らない周りの女子は無責任なことを言う。
 助けを求めようにも、他の男子は僕がのろのろしている間に帰ってしまったらしい。なるほど。どうりでいつも目立ちもしない僕なんかに、こんなことを頼んでいるのかと納得する。
 本当は嫌だけど、彼女のためならば、と僕は頷いた。


 かつーん……かつーん……
 リノリウムの床を歩く音だけが、誰もいない廊下に反響する。
 明かりの消えてしまった廊下では、目をこらしても先がよく見えない。月も雲に隠されて、わずかな明かりすらも差し込まない。仕方がないので僕は一歩、また一歩と確認するように歩くことしか出来なかった。
「やっぱ、やめときゃ良かった」
 歩き始めて十秒で僕は後悔し始めていた。 
 恐怖心というやつは神経を鋭くしてくれるのか、色んな雑音が妙に感じられる。
 自分の呼吸の音が、動悸の音が、時計の針が動く音が……。
 その中で、


 ぴちゃ……ぴちゃ……


 聞こえなくて良いものまで聞こえてきた気がした。
「水道の音……だよね?」
 この音は蛇口から、水滴が落ちる音。
 一滴。また一滴とまた水滴が落ちている。
 僕は誰にともなく呟く。


 ぴちゃ……ぴちゃ……ぴちゃ……ぴちゃ…………


 無視しよう。そう思うのに、音が響く廊下ではその音が耳に張り付いて離れない。
 ごくりと、唾を飲み込んだ。
 そう、この学校にだって怪談みたいなものが3つある。
 そのうちの二つを僕は知っている。


 ……水滴をこぼす蛇口を締めなければ、その音はどこまでも追いかけてくる。どこまでも。どこまでも……


 ……どちらにせよ、この音の出所を確認しないと恐怖に押しつぶされてしまう。
 ぴちゃ、という音を頼りに水飲み場を探す。
 それはそこまで遠くなく、本当にただ蛇口が緩んでいるだけだった。
 僕は閉め忘れた奴に憤慨しながら蛇口を力いっぱい締める。
「全く!! 紛らわしい」
 思いっきり息を吐くと、
 ぴちゃ……ぴちゃ……
「――!!」
 まただ。また、この音が聞こえてくる。
「何で……確かにしめたのに……」
 蛇口にゆっくりと触れてみる。
 目の前の蛇口はすでに締められており、ひんやりとした鉄の冷たさだけを感じた。
 締められているのに、水滴は落ちていないのに。
 ぴちゃり、ぴちゃりと聞こえてくる場合はどうすればいいのだろう?
 いや、締めることが出来ないからこその――
「早く。早く携帯を取って戻ろう」
 悪い考えを吹き飛ばすように頭をふってから、足早に教室にへと向かう。
 意識しないように、聞こえないようにするも、その音は耳に入ってくる。気のせいか、音が大きくなっているような気までした。まるで僕のことを追いかけてくるように……
「うるさい!!」
 僕は勢いよくドアを開き、教室の中に飛び込むと、電気も付けずに目当ての携帯を探す。
 でも、こんな時に限って見つからない。
「くそ。どこだよ、一体」
 焦る僕の肩を何かの腕ががしりと掴む。
 まさか……。
 耳元でぴちゃ、という音が聞こえた気がした。
 僕は機械のようにぎこちなく振り返る。
 そこには、
 人が――


「……!!!!」


 僕は恐怖のあまりに気を失ってしまった。
 悲鳴を上げなかったことは唯一の救いだったろう。







「……あれ?」
 気が付くと目の前には沙耶がいた。
「驚かせてごめんね。大丈夫だった?」
「あ、うん」
 慌てて起きあがって、何とか頷く。
 結局彼女は、僕が帰ってくるのが遅かったから自分で取りに来たんだろう。
 あーあ、格好悪いとこ見せちゃったよ。
 て、あれ?
 今驚かせてごめんって言わなかった?
 ということはさっきの人は……。
「あれ、何でここにいんの?」
 尋ねると、沙耶はさくらんぼのように頬を染める。
「あ、あの。その、私あなたのことがずっと好きでした。私と付き合ってください!!」
「え……」
 この言葉で僕の頭の中に唐突に二つめの不思議が頭をよぎった。
 その話は、二人きりの時自分の席で告白をすれば必ず結ばれるってやつ。伝説の木とかうちの学校にはないから、まあ、妥協案的に出来た不思議の一つだ。
 ……ああ、なるほど。どうりで。
 何となく、僕は理解できてきた。
 男子の妙に手際のいい帰り方といい、女子の態度といい、このシチュエーションを作るためだったのだ。
 きっと怪談に見せかけてびびりな僕を脅かすために蛇口を緩めておいたのだろう。どうりでトイレに行く奴が妙に多かったわけだ。
 そうやって時間を稼いでるうちに彼女が教室に向かって僕を待っているってわけ。今頃みんなで上手くいってるかな、なんて盛り上がっている頃だろう。
 全く……。
「あの……」
 沙耶は心配そうに僕を見つめる。
 びびりな僕が何でこんな怖い目に遭ってまで来たと思ってるんだよ?
 それは、全部……
「僕も、君のことが――」