――0
ぴー、ぴー、かたかた。
縦も横もはっきりとしない真っ暗い空間の中心に、ぽつんと大きなディスプレイが置かれている。
そのディスプレイに、零と一の数字が自動的に並べられていく。
「ふう……」
私は少しだけ離れたところからその数字の群を目で追いながら、大きくため息をはいた。
すると突然、ぴーぴーという音が鳴り響く。
目をもう一度そちらにやると、エラーと表示されている。
……私はディスプレイ近づいてから操作し、原因を探してみることにした。
しとしとと雨が降る中を私は傘をさして歩き、目的の場所に向かう。
私がたどり着いた場所、アスファルトの道路の脇に、一匹の子猫が倒れてる。
元は白色だったろうに、いたずら半分にいじめられでもしたのか、あるいは車にでも跳ねられたのか、あちこち血まみれで赤くなっている。
一度大きくため息をついて、その子猫が倒れている場所にしゃがみ込む。
「ふむ。悪いが、お主の死に場所はここではないみたいだぞ」
私はその猫の首元に手を添える。
手は白い燐光をおび、そのまま子猫の傷は癒えていく。
それから少したつと、子猫は目を開いて、みゃあと一泣きした。
「元気で生きたまえ。君にはそうする義務があるようだ」
私がそう言うと、子猫はそのまま立ち上がり私に背を向けて歩き出した。
私が安堵のため息をつくと、子猫は一度だけこちらを振り返る。私は、軽く手を振って応えてやった。私の反応に満足したのか、子猫はもう一度鳴いて、そのまま夜の喧噪の中に紛れていった。
私はその姿を見送った後、またディスプレイの前に戻って、零と一の数字の洪水を眺めてる。
こんなことは、滅多には起こらない。
世界は今日も安定だ。零と一との死を意味する数字だけがただ単に刻まれていく。
――さくら
――1
安定。
今日も一日何もない。
ディスプレイは相も変わらず、無機的な数字を並べられていく。
そんな数字羅列を、ただじっと私は眺めてる。
こんな真っ暗な空間で、私は一体何をしているのか?
別に何のことはない。私はただの、死神と呼ばれる存在だ。
死神と言っても大したことはない。ただ、ディスプレイに打ち出される数字を管理するだけだ。どこぞの漫画のように、わざわざ一人一人の人間の魂を回収に何て行ったりはしない。じゃないと、人手がいくらあっても足りはしない。魂を持っているのは、何も人だけではないのだし。それになによりも、死神とよばれる者は私しかいないのだから。
かたかたかた……。
こんな風にずっとディスプレイを見張っていると、ふと思う。
私が少し、ここの数字を書き換えるだけで、死の数が何倍にも何十倍にも増やすことが出来るのだ。逆に、誰も死なない世界にも……
「……」
一つだけため息をつく。
別にそんなことをするつもりなんて、毛頭無い。
ただ、暇だからそんなことを考えてしまっただけだ。
退屈はいけない。いらないことばかり、考えてしまう。
ぴーぴー。
エラーをつげるアラーム音。
「昨日の今日で……」
私は、ディスプレイを操作し、エラーの内容を確認する。
画面が変わり、表される数字を目でおっていく。
場所は日本。対象は……
「人、か」
どことなく懐かしいその言葉を口にした。
私は、鏡の前に立って自分の姿を確認する。
一般的な人の年齢でいうならば、五から六歳くらいか。大きな目の瞳の色は青色で、金色の髪を二つに束ねてみる。
格好は普通の、少しだけ上等なピンク色のワンピースに身をつつんでいる。少なくとも、死神の象徴とも言われている鎌も持っていないし、ゴシックロリータの格好なんぞもしていない。
自身の服装が問題ないことを確認して、例の人を尋ねることにする。
301号室。
私はその病室の前に立つ。そして部屋の中に目的の人物以外他の誰もいないことを確認してから、こんこんとノックをした。
「……はい」
中から返答が返ってきて、私はドアを開く。
「こんにちは」
私はにぱっと人好きのする笑みを浮かべて、挨拶をした。
するとベッドの上に横になっていた少女が、身を起こしてこちらを見る。
まだ、十四、五といったところだろう。ショートのボブや切れ長の眉など、全体的につややかな印象で奥ゆかしい日本人形を思わせる。その少女の名前は、ゆきのといった。
「あの、貴方は?」
見知らぬ人物の訪問に、ゆきのは怯えたように少しだけ身をすくませる。
「あのね、私。ゆきのお姉ちゃんに遊んで貰おうと思ってー」
「え、その」
突然の申し出にゆきのは少しだけ困った顔をして、
「ごめんなさい。ちょっと、そんな気分じゃないの」
丁寧な言葉で私を否定した。
「えー」
私は頬を膨らませて、抗議の声を上げる。
けれどもゆきのは、少しだけ笑ってからもう一度、ごめんなさいと口にした。
私は一度小首を傾げる仕草をして、ゆきのの元へ近づく。
「遊んでよー」
私は、じゃれるふりをしてゆきのの体に触れようとする。
しかし、
「さわらないで!!」
パチン、という小気味の良い音がなった。
遅れて私の手が払いのけられた、ということに気付く。
ゆきのは顔に、子供に向けるとは思えない冷たい笑みを浮かべ、
「ごめんなさい」
と、同じ言葉を口にした。
それが、私とゆきのの最初のコンタクト。
――2
何て奴だ。何て奴だ。何て奴だ。
私はディスプレイの前で一人憤慨する。
ただ、抱きつこうとしただけなのに、いきなりぶたれるとは。
おかげで自慢の白い肌が赤くなってしまったではないか。
私はぶたれた手の甲をふーふーする。
「しかし……」
髪の毛をくるくると指に巻き付けながら私は呟く。
よくよく考えれば、こんな状況は初めてだ。というか、コミュニケーションがとれるのが、人間だけなのに。その人間と話すこと自体何年ぶりのことだったか思い出せないくらいだ。
猫等、動物はこんなことでだだをこねたりはしない。
元々、死ぬまで生きることに疑問がないから当然だ。助かる機会があったら、それにさからうはずもない。生きることに疑問を持つのは、今のところ人だけのようである。
「うーむ」
くいくいと、髪の毛を引っ張って脳に刺激を与える。
どうすればいいのかな、と……
次の日、私は昨日と同じ昼過ぎの時間にゆきのの元に訪れた。
彼女は、私を見て、んと眉をしかめる。
「こんにちは」
「……また、来たんですか」
丁寧にお辞儀をする私に、ゆきのは不快に言ってくれる。
「まあね、こっちも仕事だからな。さぼるわけにもいかないのさ」
「そうですか」
そう言う彼女の顔はすでにこちらのほうを向いていない。
こやつ……若干自分のこめかみがぴくりとなったような気がする。
そんな彼女に私が近づこうとすると、
「それ以上、近寄らないでください。人を呼びますよ」
と、子供には付き合っていられないとばかりに冷たく言い放つ。
「やれやれ、嫌われた物だな。私がお主に何かをしたか?」
さすがに人を呼ばれるのは面倒だ。私は顔に渋い表情を浮かべ、その場に立ちすくむ。
「気にしないでください。私は誰にでもこういう態度ですから」
つっけんどんに言われ、私は肩をすくめる。仕方ないので、近くに置かれてある、椅子にちょこん腰掛けた。
「実はのう。私は死神なのだ」
私は昨日精一杯考えたセリフを言ってみる。
「死神といってもお主の魂を奪うようなことはしないのだ。ただ、お主の魂に触れて、傷を癒しているだけで……」
「そうですか」
こちらも見もせずに、一言で片づけられてしまった。
私はがっくりと肩を落としてしまう。
うーん、何かまずかっただろうか。私としては要領を得た説明のつもりだったのが。
仕方なしに、ゆきのが目を向けている窓の方に、私も目をやる。
彼女の冷気を帯びた言葉とは対照的に、窓の外には、春の陽気を感じさせる暖かな光が差し込んできている。私の服と同じ色の桜の花びらが芽吹き始めていた。日の当たり方が関係しているのか、すでに咲いている桜もあれば、まだつぼみを付けたばかりのものもある。
それから病室の中に視線を戻すと、花びらが一枚舞った。
「なあ。お主は何故医者の治療を拒否しているのかね?」
私は、その花びらを掴みながら尋ねてみた。
昨日病室で、看護師さんとそんな話をしてるのが聞こえたからだ。
「そんなこと、貴方に話したくもありません」
会話終了。
反応があっただけよしとしよう……なんて思えるはずがない。私はつきたくもないため息を、あらんかぎり大きくついた。
「まったく、だったら、誰にだったら話してもいいのかね?」
「それは――」
私の言葉に、ゆきのは言葉をつまらせる。
私が言葉を続けようとすると、看護師さん達が部屋の中に入ってくる。
私は、ぴょんと椅子から飛び降りて、そのまま部屋を後にした。
微かに、誰もいない――と言う言葉が聞こえたような気がした。
部屋の外に出て、私の目の前を通りかかった看護師のお姉さんのスカートを引っ張って、呼び止める。
「のう。お主」
私が声を出すと、看護師のお姉さんは、あら、と言ってこちらを見る。
お姉さんは、私の顔を見ると、
「うわぁ」
そんな言葉を漏らして、私の顔を見つめてくる。
「……?」
「可愛いー」
私が小首を傾げると、きゃー、と言いながら抱きしめられた。
「む、むう。いきなり何をするのだ――」
私は、じたばたと暴れてその束縛を解こうとするが、あばれる患者の相手で慣れているせいか、お姉さんの腕は巧妙に決まっており中々離してくれない。
それから少したって、ようやく解放された私は、ゆきのの部屋の病室を指差す。
「この部屋に入院しているおなごのことで聞きたいのだが、何故治療を拒否しておるのだ」
「あら、お嬢ちゃん。ゆきのちゃんの知り合いなの」
「うむ」
私が頷くと、お姉さんはあごに手を添えて、
「教えてあげても、いいけど……」
「いいけど。何じゃ?」
「もう一度抱きしめさせてぇ」
と、言った瞬間抱きしめられていた。力の限りに。
「ええい。離さぬか!! 私は、まだいいとは許可しておらぬぞ」
「お人形さんみたいー」
私の言葉なんぞ、虚空の彼方に消えてしまったようであった。
――3
このままいけば、彼女はあと、八日間で死ぬことになるだろう。
原因は脳血栓。そのために、今は何ともないように見えるのだ。ちゃんと検査をすれば見つかるだろうけど、彼女が検査を拒否しているために発見されていないのだ。
別に、私が彼女を助けることなど、造作もないことだ。
彼女が泣こうが、叫ぼうが、私が近づいて触れれば彼女の体は良くなるだろう。
その後彼女が、自殺しようが何をしようがは関係はない。ただ、零と一の羅列の中に飲まれていくだけだ。
なのに、何でしないのか……
ぼんやりと、以前助けた人のことを思いかえす。
確か二十年位前のこと。
目を閉じると、少しずつでも鮮明に思い出せていく。
場所はゆきのと同じように病院。
ベッドの上に横たわっているのは、白髪の女性。
病室に入った、私は微笑みかける。
女の人も、私に微笑みかけてくれる。
私は嬉しくなって、彼女に近づき、抱きしめる。
その女の人は、私にもう一度微笑みかけてくれて、何かを言った。
記憶は曖昧で、細かい言葉は思い出せないけれど、私が直した後に、微笑みかけてくれた女の人の顔は今でも覚えてる。
それに比べて、ゆきのとかいう女は……
意地でも立ち直らせる。
そう心の中で誓いつつ、私はディスプレイに目を向ける。
今日も、零と一の数字が順調に流れてる。エラーなんてない。
「こんにちは」
「また、来たんですか?」
さすがに、三回目ともなると、彼女は警戒心をあらわに怪訝そうな顔を崩さない。
「あなたは一体何なんです?」
「だから、死神と言っておろうに、お主、理解力が乏しいのか?」
「頭のおかしな子に言われたくはありません」
ゆきのは、そう言って前と同じように窓の外に視線を逃がした。
「お主。子供は嫌いなのか?」
「好きですよ。私に関わってこなかったら」
何というひねくれ者だろう。本気で彼女の将来が心配になってくる。
仕方ないから私は椅子へと腰掛けた。
「お主。この間、交通事故に遭ったようだな」
私は足をぶらぶらさせながら、尋ねる。
昨日の看護師のお姉さんに教えて貰ったのだ。おかげで、小一時間離して貰えなかったのだが。
ゆきのは精神的にも相当なショックを受けている。看護師のお姉さん曰く、彼女は他人とは氷の壁を引いているらしい。見た目が子供である私に対してまで丁寧語なんて使っているのが良い例だ。あの言葉には、はっきりと拒絶の意思が込められている。
それとゆきのを元気づけるために、看護師のお姉さん達も色々しているそうだ。ゆきのはきっと、私のこともその行為の一環とでも思っているのだろう。
「…………」
彼女はこちらをそれでも見ない。
仕方がないので、こちらで勝手に言葉を進める。
「家族の乗った車に、赤信号なのに横から車を突っ込んできて、家族五人の中で助かったのはお主だけだ」
「…………」
「つぶれる瞬間、お主を庇って、隣の席の……」
「もう、やめて!!」
病院中に響き渡ったんじゃないのかと思えるほどの怒声が、私の言葉を遮った。
「一体、貴方は何なんですか!! 何で私の中に土足で踏み込んでくるんです」
今までの無表情さとうってかわり、鋭い目をつり上げて私を睨み付けてくる。
その勢いに押される私は椅子を蹴倒して、一歩後ずさってしまう。
「それは、死神だから……」
「馬鹿にしないでください!!」
彼女は手につく物、枕を掴んで私に投げつけてくる。
狙いを外した枕はドアにぶつかった後、力学の法則に従って地面へと落ちた。
「私は、私は……」
そう言う、ゆきのは力なく俯き、嗚咽をこぼす。
ばたばたと、部屋の外が騒がしい。今の大声を聞きつけて、人が集まってきたのだろう。
「ふむ」
こんな状態を人に見られたらやっかいだ。次に病院に来たとき、入室すらさせてもらえないかもしれない。
彼女を一度だけ見て、そのまま私はこの世界から姿を消した。
――4
次の日、私は先日と変わらない時間にゆきのの病室に訪れる。
彼女は、私が部屋に入ってくると、驚きに目を見開かせる。
「こんにちは」
「――あなたは」
ゆきのは言葉をつまらせる。
私がひょこひょこと彼女の元に、近づこうとすると、
「こ、こないで……」
彼女はいつもと変わらない拒絶の言葉を口にする。昨日と違うのは、その言葉に怯えの色が見えること。
おや、と思い、私は口元に指を添えて考えてみる。
そして、その原因に思い当たり、私は唇をつり上げてみせる。
「ほほう、お主。私の姿が突然、この世界からかき消えてしまったのを、見てしまったのだな」
あの時は、騒ぎに巻き込まれるの避けるために、そのまま消えてしまったのだ。その時は考えもしなかったが、そんな光景を見せられたゆきのが動揺するのは当然のことだろう。
彼女は、怯えた表情のままナースコールを押す。
けれども、何の反応もない。
「あ……え……」
彼女はかちかちと、ボタンを押し続けるが、向こうから応答する音はまったくしなかった。
「ど、どうして……」
「ふむ。悪いけど、ここの空間は他とは切り離させて貰ったのさ。ためしに大声で叫んでみてもいい。誰も、来ることはないから」
私は手をひらひらとふりながら、こともなげに言う。
「だ、誰か!!」
彼女は大声で叫ぶも、周りには何の反応もない。ただ、私の耳にびりびりと響いただけだ。
ゆきのの表情が、怯えから恐怖に変わっていく。
「あ、なたは、一体……」
「だから死神というておろうに」
私は呆れ気味に答えると、彼女はベッドからふらつく足で立ち上がり、窓を開く。
「おいおい、ここは三階だぞ」
そんな、私の忠告を無視して、ゆきのは私から逃れることだけを目的に、窓の外に出ようとするが、
「――!!」
ゆきのが窓の外に手をやると、差し込んだ指先が窓枠を境界に消えていた。
自分でそんなことをしていてなんなのだが、外の風景は変わらずにそこにあるのに、そこに差し伸べたゆきのの指だけが消えて映っているのは、かなり不気味だ。
「ひぃ……」
彼女は悲鳴を上げて、のけぞる。
「うーむ。すまんすまん。驚かせるつもりはなかったんだが、何分こっちにも都合という物があってね。まあ、気にしないでくれ。誰もとって食おうと何てするわけではいないから」
私の場違いなほどのんきな声に、ゆきのはふらふらとベッドに戻る。まあ、単純に諦めてくれたんだろうが。
「それで、貴方は?」
「だから、死神だ」
もう何度目になるのかも覚えていないやりとりをまた繰り返す。
けれども、今度はゆきのは押し黙ってしまった。
「それで、貴方が死神ということは、私の命を狩りにでも来たんですか」
「お主、人の話を全然聞いておらぬな……」
どうやら、少しは納得してくれたようだが、少し気にかかることがあった。
彼女の言葉に少しだけ、喜びが混じっているように感じられたのだ。
「お主。何を喜こんでいる?」
「だって、私はもうすぐ死ぬんでしょ。だからです」
どうやら、ゆきのは完璧に勘違いしているようだ。私が死神で、命を奪うためにここに来ている、と。
「……」
私は、誤解を解こうと――思ってやめた。
時計をみやる。時刻は、すでに看護師さん達が来る時間を迎えようとしている。
私がぱちんと指を鳴らすと、空間がぐにゃりと、という音をたてる。元の空間と接続が戻ったのだ。
「それじゃあ、また来るよ」
私はそう言い残し、私は立ち去った。
……かたかたかた。
私は何故正しいことを言わなかったんだろう。
少しだけ、考えてた。
――5
「やあ、こんにちは」
五回目ともなれば、さすがに慣れたもので、私は違和感もなく病室の中に足を踏み入れる。
「……こんにちは」
ゆきのは私を見て挨拶をしてきた。
私は彼女の近くに置かれている椅子に近づいて、腰掛ける。今日は、近寄るなとは言われなかった。
「それでお主は何で死にたいのかな?」
私が尋ねると、ゆきのは一度眉をひそめて、
「知っているんじゃないんですか?」
私の目を真摯に見つめてくる。
「死神とはいえ、分からないことくらいあるのだよ」
私は肩をすくめて見せた。
「……だって、私の世界はもう終わってるんです。あの事故で」
その言葉を引き金に、ゆきのはぽつぽつと語り出した。
「あの事故で、私の大事な物は何一つ残らなかった。もう生きていても仕方ない。だって、何も見いだせない。生きる意味なんて」
声は小さくとも、心を震わせるような底冷えのする声だ。
「じゃあ、何故自分で命を絶とうとしないのかね?」
「だって……事故の時。私をかばった、お母さんが言ったのよ。『大丈夫、ゆきの。怪我はない?』って」
ゆきのは唇を噛みしめて、歯ぎしりをする。ぎりぎりという音は、とても耳に痛い。
「お母さんにかばって貰ったのに。助けて貰ったのに、自分で死ねるわけが無いじゃない!!」
私は黙って、彼女の様子を眺めることしかできない。
「でも、こういう風に死ぬのなら仕方ないですよね。だって、私の意思じゃないし。どうしようもないんだから」
ゆきのは笑う。
楽しくもないだろうに。嬉しくもないだろうに、何故彼女は笑うんだろう。
私には彼女の笑みが不可思議なものにしか映らない。
時計に目をやると、時刻はいつもの時間に迫っていた。
私は立ち上がり、彼女の背を向ける。
「あの……」
ゆきのは、私を呼び止めようと手をのばそうとした。
そんな彼女に微笑みかけて、
「大丈夫。明日もまた同じ時間にくるからな」
桜の花びらは今日もゆらゆらと、揺れている。
……昔の死神のやり方は、魂の記憶の上手くいかない死に往く者の魂を、狩りに行く物だった。
良くある悩み。死に往く人への同情は、嫌でも考える。当然だ。
相手は我々の言葉を理解できる存在だ。
そんなに、割り切ることはできるもんじゃない。
結果、冷徹に殺すことが出来ない死神が多く出た。
結局それが原因で、制度が変わっていったのだ。
少しだけやり方が変わった。殺すのではなくて、助けるということなら誰も文句は言わない。
それも随分と昔の話だ。
制度が変わり、管理もスムーズになったため人手も必要なくなった。
今では死神という役職に、私だけが残っている。
久しぶりに自分の鎌を取りだしてみた。自分の三倍以上の丈のある鎌を。
「久しく、忘れておったな……」
刃の部分を指でそってみる。ひどく冷たい。
自分の家族を失って、絶対的な孤独に叩き落とされたゆきの。
孤独……か。
何だろうか。この感じは。
胸の奥にまで染み渡ってくるような、この感覚は。
そうか。孤独のつらさを一番知っているのは、私自身か。
その日の深夜。
私はゆきのの病室に音もなく、降り立った。
その身を、漆黒の衣に包み、手には黒色にはえる紅の鎌。
夜に舞う桜の花びらは、消えかけた街灯と、白い月明かりに照らされて青白い光を帯びている。それはとても幻想的で、人を引きつけては、迷わせるような雰囲気だ。
ゆきのは、私が降り立ったことに気付いた様子もなく、ベッドの上に半身を起こしていて窓の外を向いている。
「やあ、こんばんは」
私の気軽な挨拶に、ゆきのは特に驚いた様子もなく私を見る。そして、納得のいったように頷いた。
「今から、私は殺されるんですね」
「そうだ」
私はそう言い、紅の鎌をゆきのへ突きつける。
「何か言い残した言葉はあるかな?」
「いえ……特には」
ごくり、と唾を飲む音が聞こえた。
深い色をしたゆきのの瞳。瞳の奥にあるゆらゆらとした感情。
私にはその奥にある感情を読み取ることは出来ない。
「私には、お主の孤独のつらさは……」
「え……」
「悪いな。これも仕事だ」
私は唇の端をつり上げてみせて、死の鎌を振り上げる。
ゆきのの額から冷や汗が一筋流れ落ちた。
前に人を殺さなければならなかったのは、いつの頃だったか。
もう随分と前ということくらいしか思い出せない。百年前くらい前だったかもしれないし、それ以上前のことだったのかもしれない。
けれども、その時のその様子。私には鮮明に思い出せる。
相手の怯えた顔も。手に持った温度のない鎌の冷たさも――
「何てね」
私は鎌をおろした。
「え……?」
拍子抜けした声が、ゆきのの口から零れる。
「悪いね。私は、元々殺せない死神なんだ」
私は、くるりと鎌を一度回す。するとぱりんと硝子が割れたような音がして、鎌はそのまま消え失せた。
ゆきのは呆然と私の顔を見る。
そんな彼女を見て私は、
「あはっはっはっは……」
腹を抱えて、笑ってしまう。おかしくてたまらない。
何が起こっているのかさっぱり分かっていないゆきのは、あらん限りに目を見開いて、口をぽかんと半開きにしている。
「ふふふ。悪いね、今のはたちの悪いジョークだ」
「……」
「お主の命は、まだあと四日間はある。そんなに焦ることはないだろう?」
私がそう言うと、彼女は白い肌を真っ赤にして。
「貴方って、人は!!」
大声を張り上げる。
すでに空間のゆがみはといてある。今の大声で、人が集まってくるだろう。
私のこんな格好を見られたら、何を言われるか分からない。もとい、もみくちゃにされるのは遠慮したい。ここは、さっさと退散することにしよう。
私は一体何をやっているのだろうか。
自身の行動を思い出し、笑ってしまう。
私はただ、彼女に立ち直って欲しいだけなのに。
死ぬということが、どれほど恐ろしいものかを知って貰いたいだけなのに。
でも、ゆきのの気持ちも分からないこともない。
一瞬だけ。ほんの僅かな時間、私は本気で彼女を殺そうと思った。
ただ、一人きり残されてしまったゆきの。
その、孤独は何もかもがどうでもよくなるのだ。
そして、耐え難い苦痛へと変わっていき、心も体も苦しめる。
「不器用なものだな」
私は自分の不器用さ加減を痛感し、大きくため息をついた。明日は一体何と話をすればよいのやら、と考えながら。
――6
「あと、四日……ですね」
いつものように、ゆきのの枕元に座る私に、彼女は話しかけてくる。
「ん、ああ。そうだな」
歯切れの悪い、私の言葉に、ゆきのはおかしそうな顔をするが特には何も言わなかった。
私は何となく気まずさを感じて、視線を彼女から部屋の中へと逃がす。白い花瓶に入った、ピンク色のチューリップ。昨日には無かったものだ。
「お主には、趣味とかはないのか?」
「趣味、ですか……」
「ふ、お主のように、怒ってばかりのおなごには、そのようなものなどないか」
私はやれやれといった感じに、首を振ってみせる。
「――別に、そんなこと、貴方には関係ないでしょう!!」
「まったく。仕方のないおなごじゃ……それなら、好きな子くらいはおらんのか」
この言葉に、ゆきのは白い肌をさくら色に頬を染める。
……実にわかりやすい奴だった。
「そうか、そうか」
私は腕を組んで、うんうんと頷く。
「それで、どのようなやつなのかな?」
「えーと、彼は、優しくてね……」
ゆきのは、少し上気した感じで、その彼のことを話してくれる。
どうやら今日お見舞いに来てくれたようで、その花もその時に狩ってきてくれた物らしい。
男の子の話をする彼女の顔は、どこにでもいる年相応の女の子の物だった。
「て、何でこんなことを、貴方に――」
自分で何を、言っているのかに気付いたゆきのは、赤くなった顔を尚赤くして、シーツの中に顔を埋めてしまった。
薄い色の桜が咲き誇る、穏やかな昼下がりだった。
――7
次の日も、いつもと同じ時刻に彼女の部屋にやってくる。
私の格好は以前と同じ、普通のだ。
ゆきのはというと、いつもと変わらない白色の寝間着だ。
変わったのは、窓の外の桜が満開を迎えようとしていることか。
「こんにちは」
私が挨拶をすると、彼女は、
「こんにちは」
と、素直に挨拶を返してくれる。
てっきり怒っているとばかり、思っていたので少しだけ拍子抜けした気分になる。
「ふむ、今日は随分と冷静なものだな」
「ええ、あと三日で死ねますからね」
無表情なまま、相も変わらずつっけんどんな言葉が返ってくる。
私は彼女に笑いかけて、いつもの椅子に座る。
「あの……」
今日は珍しく、彼女から話しかけてきた。
「何かな?」
私は椅子をくるくると回転させながら、聞き返す。
う。少し、気持ちが悪くなった……
「死後の世界というものは、あるんですか」
彼女はもうすぐ、死ぬと思いこんでいるのだから、気にするのは当然だろう。
「それで、お母さん達は……」
その言葉ではっとしてしまう。
事実として言うならば、死後の世界なんてものは存在しない。そして、厳密の意味で言うならば、魂なんていうものも存在はしない。死んだものは、そのまま消え果てる。
エラーとして扱われる存在は、地球の記憶の外にある存在だ。そして、死神というのは死の情報を統括する存在である。実際に行っているのは、死に往く者へのマーキング。
その時に排除するのも、浄化して命を長らえさせるのも同じことだけど……そんな、ことをゆきのに伝えられるわけがない。
「そうだな。死後の世界、というやつは存在する」
「お母さん達も、貴方が連れて行ったんですか?」
「いや。元々魂というものは、死後の世界への生き方は知っておるのだ。死神は、生き方が分からない、存在をその世界に連れて行く存在だ」
言っていて、内心で冷や汗を感じる。
「そうなんですか」
「……滅多なことがない限り、地獄と呼ばれるようなところに連れて行かれることがないから安心したまえ」
私がそう言うと、ゆきのは嬉しそうに笑った。
春の暖かな日差しと、軽やかに舞う花びらを背景に。
私は、一体どう答えれば良かったのだろうか。
あんな風に問いかけられて、ありえないと答えるべきだったのか。そして、彼女を落胆させるべきだったのか。
そんなことは、出来なかった。
けれども、ゆきのが死後の世界などに気をはせていたら、彼女を立ち直らせること何て出来はしない。
「……く」
私は下唇を噛みしめる。
きっと、昔の死神はコミュニケーションをとるの下手だったんだろう。
殺すだけなら、そんなものは必要はないからだ。
そして、コミュニケーションが上手な人は、殺せない。
コミュニケーションを取るって言うのは、とても……難しい。
――8
この日も私は、ゆきのの部屋へとやってくる。
天気はあいにくの曇り空。まだ、日も落ちていないのに、部屋の中は薄暗く、少し肌寒い。
あと、二日。
今日を入れて、後二日で終わりだ。
「こんにちは」
挨拶をして、部屋に入る。
「お主は、生きようという意思はないのかな」
単刀直入に言う。正直、私は少し焦っていた。
後二日、しかないのだから。
「……ありません」
「けれども、お主には好きな子もおるのだろ。家族は失ったかも知れないが、お主の世界自体は終わってはいないのではないのか」
「別に。いいんです」
「きっと、お主が死んだら悲しむ人がおるぞ。君の治療を担当している医者も、その勇気くんとやらもだ」
私は言葉を続ける。
「それに、お主がやろうとしておることは、矛盾しておるぞ」
この言葉を言うべきかどうかは、悩んだが、私は言った。
「お主がしておる、治療の拒否も、私に殺されることに抵抗しないのも、どちらもただの自殺にすぎん。ただ、自分で行うか、他人にさせるかの違いだけだ。自分の意思で死のうと思っておることには、変わりない」
私は両手を広げて、必死でゆきのを諭してみる。
「死神のくせに、面白いことを言うんですね」
ゆきのはくすりと笑った。同時に、ぽつぽつと雨が降り始める。
「いいかげんに……きれい事は止めてくれませんか」
低く澄んだ声が、病室に響いた。
「貴方なんかに、何が分かるって言うんですか!! 神様なんかには分からない!! 人は孤独にはたえられないの!!」
「だが……」
「好きな人だって、所詮は他人なの!! 家族以外は、所詮は他人に過ぎないの!!」
ゆきのは我を忘れたかのように、髪の毛を振り乱し、わめき散らした。
彼女の心を代弁するかのように、降り始めた雨の音は強まっていく。
「こんな、孤独、私には耐えられない」
「ふざけるな……」
そして私は、何でこんな言葉を。
「この、たわけが!! どこまでも、甘えおって!!」
私の怒声と共に、部屋の窓硝子が砕け散った。破片は形を残さずに砂となり、そのまま消え失せる。
それだけにとどまらず、部屋中に蒼白い火花が飛び散った。
「お主は、何様のつもりだ!!」
「貴方こそ、何様よ!! 貴方に私の何が分かるって言うのですか」
一度私の力を見ているせいか、ゆきのはそんなことでは物怖じもせず、私の顔を睨み付けてくる。
しかし私は、自分の体格の倍以上もあるゆきのの胸ぐらを掴みあげる。
そのまま彼女の目を睨み付けて、
「分かるわけがなかろうが!! 泣きわめくだけの人間が、今のお主に何が見える。他の人の気持ちを考えたことがお主にはあるのか!! お主だけが悲劇のヒロインか!! そんなお主ごときに、私の何が!! 他の死神なんぞ誰もおらず、死ぬことなど無く、何百年もずっと一人きりで、真っ暗な闇の中にだけおる私の、心なんぞ!!」
つかみあげた手が、震えるほどに力がこもる。
ゆきのは、降り込む雨も気にせずに、呆然と私の顔を見つめていた。
……そして、気がついた。自分の発言に。
今、私は何を言っていたのだ。
「すまぬ」
私は、手を離し、足早に逃げ出した。
馬鹿だな。私は。
逃げ帰ってきた私は、ディスプレイの前でうずくまる。
「うう……」
零と一の、数字達が流れてく。
上から下へとかたかたと。かたかたと。
「ううう……」
私は何て、ひどいことをしたんだ。
ゆきのの傷のことを理解していながら、あえてえぐるような言葉を口にした。
孤独で、独りぼっちな女の子の傷をえぐり取るような真似を。
「ううううう」
理屈じゃないのだ。
分かっていても、納得できないことがある。
そんなことが、分かっていないほどゆきのは無知ではないだろう。
「ううううぅぅぅ……」
後一日だ。
後一日で、どちらにしろ終わるのだ。
私の我が侭も、後一日で。
「うううぅ……あああぁぁ……」
ディスプレイは今日も異常なし。
――9
最後の日。天気は昨日から変わらず、雨模様。
折角の桜も、この雨にうたれて、命短く散っていく。
「昨日はすまぬ」
私は病室に入ってからの、第一声に謝罪の言葉を口にする。
「いえ、気にしないでください」
ゆきのの声は平坦だ。
私はやりにくそうに、彼女の顔を見る。
ゆきのはどこか、思い詰めているような顔をしていた。
きっと、昨日のことよりも、今日のことに思いをはせているのだろうか。
「それよりも、私はお主に謝罪せねばならぬ」
「え?」
「私は、お主を助けるために来たのだ」
ゆきのは、私の顔を見つめてくる。
「でも、貴方は死神、なんじゃないのですか……」
「死神は、死神だ。ただ、殺すか助けるかの違いはあるがな」
私は一呼吸置く。
「本当は、お主に触れさえすれば一瞬で助かるはずだった。でも、しなかった」
「どうして……」
「ただの、私の我が侭だ」
私は自身のちいさな拳を握った。
「そんなことは、どうでもいいな。お主のことを助ける」
「……」
「何、すぐ終わる。お主の額に触れるだけだ」
「……」
「その後のことは知らん。死ぬなり、なんなり好きにするがいい。そんなことまでは、私は干渉せぬ」
元々私には、そんな権限など在りはしない。
彼女の人生は彼女のものなのに。何故私ごときが、彼女の生き方までも決めてしまえるとでも思っていたのか。
自分が神だと、いつの間にか思い上がっていたのか……
「どうして、貴方が泣いているの」
そして、止まってしまった。
雨音は大きく、直されたばかりの窓硝子に激しく打ち付ける。
「何をお主は言っておるのだ。私が泣くだと。お主、耳だけじゃなくて目まで悪くしまったのか」
私は彼女の額を、触れるべく手をのばす。
けれども、私の手はゆきのの腕に遮られた。
「手を……離さぬか」
「そうよね……」
ゆきのは、寂しそうに呟いて、
「独りぼっちは……辛いよね……」
ゆきのはそう言い、私の体を抱きしめた。
「何を言っている。私は、孤独なんて、辛くない。お主のように、甘ったれてなんぞおらぬ」
言葉に出せば出すほど、それが、嘘であることが自覚できてしまった。
降り荒ぶ雨。一面に広がった水たまりには溢れんばかりの花びらが浮かんでる。
そして、肝心の桜の木は、まだ葉もついておらず、すでに枯れてしまったように見える。
私は、雨が嫌い……雨に、うたれる桜。花びらを散らす様。
馬鹿だ。私は大馬鹿だ。
何で彼女の命をすぐに助けなかったのか。
彼女を助けたいなんて、上から見たようなことを思っていたくせに、この日々が終わるのが嫌だっただけじゃないか。本当は、私のほうが下から手をのばしているくせに……
……私は動物も昆虫も殺したことはありません。
そんな私は人を殺しました。
たった一人です。
けれども、人を殺したんです。
助けてと、泣いて叫ぶ子供を。
私の持つ鎌の意味も知らず、かたかたとうちふるえてる。
紅の鎌。
感触は私にはありません。
とてもあっさりと、柔らかに。
ゆっくりと鎌を引く抜くと、そこにはこときれた子供が一人。
何でしょう。こんなものなんでしょうか。
私は、少しだけ嬉しくなりました。
殺すってことは、もっと禍々しく、もっと救いの無く、唾棄すべきものかと思っていたからです。
私は、無邪気に笑って立ち去りました。
それが私の生まれた日。
私の生まれた次の日。制度が改正されました。
正直私は、何も考えはしませんでした。
そうか。制度が変わるんだ。
単純にそんなことくらいしか想像できませんでした。
時間は流れて、死神と呼ばれる存在は一人また一人と、消えていきました。
そのなかで、一番若かった私の処分は最後になりました。
けれども、私は処分されませんでした。
そこからは、何もない時間でした。
長い時間でした。
悠久の時でした。
ふと、思います。
私が殺した子供のことを。
いつしか、私はその子供のことばかりを考えるようになりました。
少しだけ、その次の日の光景を見てみました。
死神は星の記憶を管理すべき者。その程度のことはたやすいことです。
子供が倒れています。ゆきのと同じような病院のベッドの上で。
その子供の手を取って、周りの目など関係なく涙を流す女性。その傍らに抜け殻のように呆然と立ちつくす男性。
昔、ある死神は言いました。
殺人は沢山行った方が良い。
何故、と私は尋ねました。
そのほうが死の意味が薄まるから。
一つの死をそのまま受け入れるのは辛いことだから、と。
その言葉の意味が無知な私にもようやく理解が出来ました。
静かな水面に、石をぽちゃんと放り込む。そして波紋が広がっていく。
何度も何度も放り込む。
その都度その都度、新たな波紋が生まれては、消えていく。
それが私の心。
微かに、でも確かに私の心を揺らします。
……ああ。私が殺したんだって。
それから、どれくらいの時が流れたのか。
私は何人かの人と話をしました。何匹かの動物たちとも交流を持ってみました。
無限とも思える時間の中で、考え方や言葉遣いなど、僅かながらも私は変わっていきました。
そうして、今の私がいます。
長い時間でした。
本当に、長い時間でした。
そして、目の前に半身を起こしてこちらを見ている少女の顔を、私は見た。
ゆきのの黒い瞳は少しだけ潤んでおり、その瞳に映る私も頼りなさげに歪んでる。
「何でだ? 何で私が泣いているのだ」
私は言葉短くゆきのに尋ねる。
私の持った素朴な疑問。
ゆきのの瞳に映っている私は、どうして泣いているのだろう。
目元を拭ってみる。手の甲は確かに濡れている。何だか少し冷たい。私は力なくその濡れた跡を見てしまう。
「そんなこと、私が知るわけ無いでしょう」
ゆきのはぶっきらぼうに言い放つ。
私はもう一度、顔をゆきのに向けた後、
「……それも、そうだな」
そう言って、下を向いた。
「怪我をするとね、傷はとても痛むものなの」
そんなことは当然だ。ゆきのは、今更何を言っているのだろうか。
「でも、痛みって、極端に度を超えると感じなくなるでしょう」
そんなことも当たり前だ。だから、ゆきのは一体何を。
「それでですね。それは、心にも当てはまると私は思います」
何故。
「だって、今の私は何も痛くありませんもの。腕も足も首も体のあらゆるところに刃物を突き立てられているような感覚なのに、私には何も感じないの……」
私を抱きしめているゆきのの手が微かに震えてる。
私の体を掴む、指にも力が入り、少し痛い。
「私は、怖いの。死ぬのがじゃない……痛くて痛くて、痛すぎて……本当は私は痛みを感じていないの」
私を抱く力が更に増す。痛みに、顔をしかめてしまう。
「私は、親が死んだことに対して、悲しんでいないかもしれないのがぁ……」
……あらん限りの力が込められたゆきのの爪が私の皮膚を破り、血が滲んでいく。
「私もな。一人だけ人を殺した」
その言葉は、自然と口からこぼれ落ちた。
「別に、私は別に感じなかった。悲しくもないし、辛くもなかった」
それは、事実だ。
私はあのときのことを何も感じてはいない。
でもだ。
その言葉を口にした瞬間、ぱりんと割れる音がした。まるで鏡が砕けたように。
ゆきのの指から力が抜けていくのを感じた。
「でも……私もきっと」
……きっと、怖かった。
私はゆきのの胸に頭を押しつける。
「貴方の、お名前は?」
「私の……名前?」
名前。私の名前。
「そんなものはない」
ひどく、きしんだ。
随分と昔に忘れてしまったような気もするし、初めから持っていなかったような気もする。ただ、一つだけはっきりしているのは、ただの一度も私の名前なんて呼ばれたことはないということ。
「さくら」
歌うような言葉が紡がれた。
「……うん」
私はゆきのの胸に顔を埋める。そうすると、雨の音が聞こえない。心に響くあの音が。そうすると、散ってしまった花びらも、目に入らない。
私は泣いた。ゆきのも泣いた。お互いわんわんと泣いた。涙が枯れるくらい、泣き続けた。
「全く意地っ張りな子供ね」
「お主にだけは、言われたくはない……」
私も、ゆきのも何が救われた訳じゃないけれど、今はこのままでいたい。
とても、暖かい……
――10
「もう、貴方には会えないの?」
「ふむ。そうだな」
私は不敵な笑みを浮かべ、
「お主の魂は真っ黒だからな。またすぐに、治しに来てやらないと悪そうだ」
「――!!」
私は言うだけ言って、逃げ出した。
ドアには、枕がぶつかる音が響く。
ふわりと一枚の花びらが、踊るように宙を舞った。
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