約束という言葉

 

 じゃりじゃり。
 積もった雪を踏みならす音がする。
 僕はこの音がどうしても嫌いだった。
 歌やお話に出てくる雪というのは、どう見ても柔らかいものにしか見えないからだ。でも、実際は違う。こうやって人が歩いた後は、雪は固まりただの厚い氷になってしまう。
 僕は雪を一かきすくって、間近で見てみる。
 やはりどう見ても柔らかい物じゃない。細かく先端が尖っている。まるでガラスの結晶だ。
「はあ」
 大きくため息を吐いた。一体僕は何をしているんだろうなあと思って。
 辺りに視線を飛ばすと、すでに夜も深くなっている。通りには人の数も少なくなり、歩く人達も足早に自分の家へと急いでいるようだ。
 けれども僕には帰る家がない。いや、この言葉は正確ではない。帰る家自体はある。
「……はあ」
 もう一度ため息を吐く。
「ありがとう。さようなら。また明日」
 先程口にした言葉を繰り返す。
 それ以上のことは言えなかった。
 不覚にも思考が真っ白になってしまった。こんなことがあることが信じられなかった。
 出張から急いで帰ってきてみれば、家には自分以外の男がいただけのこと。まるで昼ドラだ。
 僕が出て行く必要はなかったのに、出てきてしまった。スーツ姿のままで、コートを玄関で脱いでそのまま出てきてしまったことを後悔してしまう。定期も財布も全部コートの中に入れておいたため、無一文なのことがよけいに身にしみる。唯一内ポケットに入れておいた膨らみが妙に重く感じる。
「約束……。してたのにな」
 僕はポケットに両手を突っ込み背を丸くし、歩く足を止めない。こんなところで止まってもいられないし、止まると思考が回り出してしまう。何よりも寒さが身にしみる。
「お兄さん。安いよ。一時間五千円だよー」
 雪が降っているというのに、呼び込みの声だけは活気よく響いてる。ご苦労なことだ。女に振られたときはこういう店に行けばいい、と先輩はよく言っていたけれど文無しの自分ではよることも出来ない。元々こういう店は苦手だ。何でお金を払っているのに、こちらが気を遣わなくてはならないのだろう。実に理解に苦しむ。
「は」
 自嘲気味な笑みが零れ、頭を乱暴にかく。こういう面白みのない性格だからこそ、こんなことになったということを、未だに自分は理解していないようだ。
 空を見上げる。どんよりとした黒い雲が覆っていた。


「やっほー。相変わらずしけた顔してるね」
 僕が立っていると、その横に赤色の軽自動車が止められ、ウインドウがおろされた。
「君は相変わらず幸せそうな顔をしてるね」
 まことはしけた顔をしているらしい僕に、けたけたと笑いかけてくる。しっかりと着込まれた厚手のコートがが今の僕には羨ましい。
 結局、さすがにこのままでいるわけにもいかず、お金を借りるべく幸いにも持っていた携帯電話で呼び出したのだ。
 まことは子供の頃からの知り合いで、俗に言う幼なじみというやつだろう。お互い就職を地元でしたために、未だに交流が続いているのだ。別にお金を借りるだけなら、まことじゃなくてもいいのだろうが、これは彼女への当てつけなのだろうか? 自分ではよくわからなかった。
「お金、貸して欲しいんだけど」
 僕は説明するのもおっくうで、単刀直入に用件だけを告げた。
「ん、どうしたの? 真面目なたっくんらしからぬ申し出だね」
 いつもと立場が逆のためか、まことは小首を傾げてみせる。
「色々あったんだよ」
「ふーん」
 仏頂面で答えると、まことはにやにやと笑う。
「ふふん。何があったの。お姉さんに話して見なさい」
 まことは運転席からくいくいと指招きをする。
「誰が、お姉さんだよ」
 断るのも面倒くさくなってくる。それにいい加減寒さに耐えられそうにない。
 僕は素直に彼女の車に乗せて貰うことにした。


 まことに連れてこられたのは、居酒屋だった。前に一度だけ来たことがある。
「僕は悪いけどお金なんて持ってないぞ」
 持っていたら、まことを呼んだりなんてしない。
「いいからいいから。君は口が硬いからね。酒でも飲まないと喋らないだろ。何、お金は後でいいから」
 どうあっても喋らせられるようだ。しかも、おごりではないというのが実にまことらしい。
「全く。少しだけだぞ」
 会社は、明日は土曜日で休みだ。少しくらいなら飲んでも良いだろう。それに飲まなければやってられない。
 店内にはいると、夜も遅いというのに混み合っていた。僕たちはカウンターの一席に座る。
 メニューを手に取ると受け取ると店内の照明がくらいため、目を細める。けれどもまことはすぐに店員を呼び、いくつか注文をした。手慣れた物である。
「……さて、一体何があったんだい?」
 まことはすぐに運ばれてきたブランデーのロックを傾けながら、尋ねてくる。かたん、と氷が溶ける音がした。
「ん……。僕が帰ったら、家に別の男がいただけだよ」
 僕もブランデーを口に運びながら、投げやりに答える。こうして口に出すと何だか遠いことのように思えてしまった。今家に帰ったら、何事もなかったように彼女が待っているのだ。遅かったね、と言いながら夕飯を暖めなおしてくれる。
「ははは。今、実は嘘だったんじゃないかって顔をしてるよ」
 まことは僕を指さして笑う。
「ああ、そうだよ。悪い?」
 誰しも少しくらいはそう思いたい物だ。
「ううん。実にたっくんらしいなって思ってね」
 悪気無さそうにまことは言う。褒め言葉なのか、けなし言葉なのか判断が難しい。
 僕はふうと大きくため息をつく。
「まあ、そんなことはよくあることだって。そんな女早く追い出して、次の女の子に手を出しちゃいなさいよ」
「僕は君みたいに、三歩歩けば嫌なことは忘れられるほど、図太くできていないんだよ」
 男はこういうものはセンチメンタルだということを聞いたことがある。実際はセンチメンタルと言うよりも女々しいだけだと思わないでもないが、いくらなんでも一日もたたないうちに忘れることは難しい。
「君なら、こういうことがあったら一日で立ち直れるの?」
 僕が尋ねると、まことはんーと間延びした声を上げる。
「わかんないな。だって、私振られた事なんてないし」
「ああ、そうかい」
 また大きくため息をついてしまう。まことの率直な意見を聞いていると何だか、悩んでいる自分が馬鹿みたいに感じてくる。
「そういえば、たっくんは約束って言葉が好きだったね」
 まことは唐突にそんなことを言った。
「ん、そうだっけ?」
 すでにブランデーのはいったグラスは空になっている。僕は軽く手を挙げて店員を呼び、新しい酒を注文をする。もっと、度のきつい酒でなくては酔うことが出来そうにない。
「うん。中学とか高校のときとか、どっかに出かけるときとかも、何時にどこどこ駅で集合で。約束だよって、最後に絶対付けてた」
「そう?」
 自分の口癖についてなど考えたこともないため、聞き返してしまう。けれども言われてみれば、確かにそのような気がしないでもない。
「それは君がいつも待ち合わせに遅れてくるからだろ」
 あの頃は携帯電話が復旧していなかったから、突然の予定の変更などは大変だったことが思い出される。今のように、ドタキャンをするのも一苦労の時代だった。
「そうだったかな?」
「そうだよ。全く、自分に都合のいいことはすぐに忘れる癖は、全然変わらないな。約そ……」
 僕は言いかけて口をつぐむ。
 どうやら約束という言葉が好きなことは否定できないらしい。
 約束だから。この言葉はどこか安心感をさそう。約束だからといっておけば、自分が正しいことをしている気持ちになれるのだ。
 出張に出かける前にも、彼女に向けて言っていたその言葉。
「……そっか。僕が悪かったのか」
 僕がそういうと、まことは声を上げて笑った。
「なーんてね。あはは、恋愛なんてどっちも悪い事なんてないさ。別れる場合は、どちらかが悪いんじゃなくて、どっちも悪いんだよ」


 結局お金を借りる予定が、飲み代とタクシー代だけで手一杯だった。まことを家に送り届けて、無一文の僕はまた一人夜道を歩く。
「約束……か」
 出張に出かける前に、彼女に言っていた言葉を思い出す。
 自分を優位に立てて、相手を束縛するその言葉。
 僕は懐に入った小さな箱を取り出して、放り投げた。
 じゃりと雪を散らす音がした。