みーちゃんとぼく

 

 みーちゃんと初めてであったのは、小学校三年の時。父親の転勤にあわせて引っ越した先の隣に彼女が住んでいた。その時、挨拶に行ったとき、彼女と出会ったのだ。
 僕の母さんが呼び鈴を押して、少したってから玄関のドアが開かれた。僕は母親の背中からこっそりと様子を伺う。何てでかい玄関なのだろう。僕が五人両手を広げたくらいの広さだ。出てきたのは、目元が優しい雰囲気のおばさんと、僕と同じくらいの年の女の子だった。
 みーちゃんは何を思ったのか、僕の前まですたすたと歩いて来るやいなや、いきなり僕をえい、と突き飛ばした。
「な、なあ」
 わけがわからない僕は、訳の分からない声を上げることしか出来ない。
 けれどもみーちゃんは、そんな僕に手をさしのべてくる。あんまり無邪気に笑っているものだから、ついついその手を掴んで立ちあがってしまった。
「ねえねえ、あなたのお名前は?」
 みーちゃんは手を後ろに組んで、尋ねてくる。
「僕は、かい。関矢貝って言うんだ」
 横を向いて答えた。横目で、彼女の様子を伺うと、ぎょっとしてしまう。
 みーちゃんは両手を前に組んで、あり得ないくらい目を輝かせていた。それから僕の手を取って、ぶんぶんと振り回す。
「カイ。カイっていうの? とっても素敵な名前だよ!」
「……へ」
 みーちゃんのペースについて行けず、こくこくと頷いてしまう。
 カイ。響きだけなら確かに格好良いのだけれど、貝殻の貝なのだ。引っ越してくる前、そのことが原因で虐められていたせいで、僕にとっては最低の名前に位置する。僕の名前のことで、こんなことを言われたのは初めてだったので、すっかりペースが崩されてしまっている。
「私はね。みみ。桜野みみっていうの。ゲルダって呼んでね」
「何で。一文字もあってないじゃん!」
 そして、生まれて初めて突っ込みを入れたのもこの日だった。


 *


「カーイ君」
 語尾にハートでもつきそうな甘い呼び声が聞こえ、僕は目を開いた。どうやら、随分と前の夢を見ていたようだ。今僕は中学二年だから、五年も前のことになるのか。とっても懐かしい。
「ん……」
 頭がはっきりとしないまま、机から顔を上げた。
 僕の目の前には、満面の笑みを浮かべた女の子が立っている。形の良いマーチの眉に、まんまるに開かれた目。ふっくらとした頬は僅かな桜色をしている。きらきらと輝くような瞳をまっすぐに僕に向けている。
「みーちゃん」
「ごめんね。私、もう少し時間かかりそうなのー。だから、もうちょっとだけ待っていてくれるかな?」
 みーちゃんはキスが出来そうなほど顔を近づけてくる。彼女の柔らかげな髪の毛が僕の鼻を掠める。頬が熱くなるのを感じながら、うんと頷く。
「へへー。大好きだよ。カイ君」
 ぎゅうっと首元を抱きしめられる。
「ちょ、ちょっと。みーちゃん」
 慌てて抗議の声を上げる。こんなことは毎度のことなのだが、やはり慣れない。冬の制服の生地は厚く、彼女の温度など伝わってくるはずもないのに、何故だかすごく温かい。その暖かさは僕に金縛りをかける。教室には僕たち以外に誰もいないので、僕はそれ以上抵抗することなくそのまま時間が過ぎるのを待つ。
 ドアが開く音がした。
 そこには、クラスメイトの朝口稔が立っていた。
 僕は正真正銘金縛りにあってしまう。稔も同じようで、ドアを開いた姿勢のまま動こうとしない。みーちゃんだけ、カイくーんと猫が鳴くような声を上げていた。
 とりあえず、みーちゃんを引き離すと、彼女はまたすぐ戻ってくるからねえ、とマイペースに手を振りながら教室を出て行った。後には、僕と稔の二人が残される。
 時計に目をやると、針は丁度五時を指していた。十二月の半ばという時期もあってか、窓から見える景色には赤い色が混じりはじめている。窓ガラスは開け放たれており、鋭い風が教室の中に吹き込んでくる。白いカーテンがゆらゆらと揺れた。
「いいよなあ、関矢は。あんな可愛い彼女がいて」
 稔は僕の前の席に座り、盛大に両手を広げてみせる。僕はため息を吐いて見せた。ある意味こういう話題は一番しづらい。
「みーちゃんは彼女なんかじゃないよ。ただの仲の良い友達だよ」
 僕は正真正銘の事実を口にする。
「はあ?」
 稔は呆れかえったような声を発する。まるで、一足す一は三と真面目に答えられたときの反応のようだ。
「別に、俺のことを気にする必要はないんだ、よー」
 そう言って僕にヘッドロックを仕掛けてくる。サッカー部の稔に、帰宅部の僕が敵う通りがない。
「みーちゃんなんて呼びやがってよう」
「ううん。本当なんだってばー」
 ギブギブと言いながら、彼の腕を叩く。そうすると、ひょいと解放してくれた。
「別に隠す事じゃねえだろ。もう中二なんだし、恥ずかしがる年でもねえしな」
 まあ、さっきのはさすがに刺激が強すぎだけどな、とげたげたと笑う。
「本当に。そうだと、いいんだけどね」
 こめかみを人差し指でかきながら答える。稔は、こちらの諦めを含んだような口調を察したのか、笑いを引っ込めた。
「稔ってさ、みーちゃんの噂って聞いたこと無い?」
「桜野の? 変わっているっていう噂くらいしか聞いたことがないけど」
「みーちゃんはさ、童話の、雪の女王が大好きなんだ……」
「は?」
「雪の女王に出てくる男の子の名前がカイって言うんだ。だから、それと同じ名前である僕を気に入っているだけなの。それだけ」
 稔は埴輪のように口をぽかんと開く。稔の気持ちは痛いほどよく分かる。みーちゃんのことを初めて聞く人はみんなこんな顔をするのだ。冗談だったら良いのだが、冗談などでは決してない。これはまごうことのない事実だ。
「……まじ?」
「うん。おおまじ」
 僕はこくりと頷く。僕がため息をつくと、稔は何と言えば良いのか分からないのか横を向いて頭をかいた。その様子を見ると、苦笑いを浮かべてしまう。
 ふと、先程の夢のことを思い出してしまった。後から知ったのだが、あのとき言っていたゲルダという名前は、雪の女王に出てくる女の子の名前だったのだ。みーちゃんのことだから、ゲルダって呼ぶと本当に嬉しそうに笑ってくれるだろう。呼んだことはないけれど。
「いや、まあ。元気出せよ。明日はきっといいことあるさ」
 そう言い、稔はぽんと僕の肩を叩いた。
 忘れ物を取りに来ただけの稔は、そのまますぐに部活に戻っていった。教室には僕一人だけが残される。
「ふう」
 吹き込んでくる風が寒かったので窓に近づくと、勢いよくドアが開かれた。
「カーイ君。かーえろ」
 みーちゃんは赤色の肩掛け鞄を下げて、片手を大きくふってくる。頭には温かそうな毛糸のニット帽をかぶっていた。色は僅かに黄色がかかった白色だ。小さな彼女にはとてもよく似合っている。
「……うん。帰ろうか」
 僕は窓を閉めて、頷いた。赤い西日が教室を照らしてた。


 *


「えへへ。カイ君。今日はねー」
 隣を歩くみーちゃんは、今日あった嫌なこと、楽しかったことをころころと表情を変えながら話している。僕の役目はもっぱら聞き役だ。
 雪の女王が絡まない限り、こんな彼女を見せてくれるのは僕の前だけだ。他の人の前だと、人格が入れ替わったのではないかというくらい大人しくなってしまう。いや、大人しいというよりも大人びた優等生のようになってしまうのだ。前に何で、と尋ねたことがある。けれども、みーちゃんは首を傾げるだけでよく分かっていないようであった。恐らく本人も無意識のことなのだろう。僕にだけ心を開いてくれているのだろうか。それはそれで嬉しい。それが、カイという名前が理由でなければ……。
 そのことに思い至り、僕は今一度ため息をついてしまった。
「んー。カイ君。どうしたの。ため息なんてついちゃって。ため息吐くと、幸せが一つ逃げるからよくないよ」
 みーちゃんは息がかかる間近まで顔を寄せて、僕の顔を見上げてる。
「あ、そうだね。ごめん」
 考え込んでしまうと、周りが見えなくなる上に、ため息をついてしまう。僕の悪い癖だ。おかげでみーちゃんが顔を近づけてくるのにも反応できず、いきなり間近にいるのでどきりとしてしまう。
「気をつけてよー。幸せはいっぱいあるに越したことはないんだからね」
「うん。そうだね」
 みーちゃんは僕が頷くと、不満そうに顔を大きく膨らませる。
「えい!」
 彼女は僕の後ろに回り込んで、どんっと勢いよく突き飛ばされた。
「あ、と……」
 勢いを付けているのは分かるのだが、やはり小柄なみーちゃんの力か。大した衝撃もなく、少しだけ体勢を崩して地面に手を付ける程度の物だ。
「はい」
 みーちゃんはまた僕の前に回り込んで手を差し出している。にこにことすでに不満そうな色はなく、楽しそうに笑っている。僕もその笑みにつられるように口元を緩めてしまう。
「ん、この手袋って?」
 手を握ると、みーちゃんのはめてあるこけ茶色の手袋は、昨日まで使っていた物と違う。毛糸の素材で、温かそうだ。
「んー。これはね。昨日出来上がったんだよ。この模様なんて自分でもいい出来だと思うんだー」
 そう言い、僕に向けて両手の手の平を広げてみせる。女の子のほんの少し髪型を変えたことに気付いてもらったときのように、みーちゃんはご機嫌だ。
「うん。可愛いよ」
「もうすぐ、クリスマスだし。カイ君も欲しいんなら、作ってあげるよー。でも、手袋だけだとすぐに出来ちゃうなあ。そうだ、手袋とマフラーとセーターの一式を作れば丁度いいんだ」
 みーちゃんはこう見えても手先が器用だ。ひょっとすると、今かぶっているニット帽も自分の手作りなのかもしれないな、なんて思ってしまう。クリスマスまであと二週間くらいしかないけれど、彼女ならきっと作ることが出来るんだろう。みーちゃんが僕に今まで一度も嘘をついたことはない。
「クリスマス……か」
 僕は空を見上げて、ぽつりと呟いた。
 みーちゃんは、毛糸のズボンはさすがに作れないなあ、なんて隣で言っていた。


 *


 夕食を食べて、僕は自室へと戻る。
「ふう……」
 一人になった途端ため息をついてしまい、思わず口を押さえてしまう。帰りの最中に、ため息をついちゃいけないよ、と怒っていたみーちゃんの顔が思い浮かび、苦笑いを浮かべてしまう。
 とりあえず、明日の授業の予習を簡単にすませて、ベッドの上に寝ころんだ。
 以前、みーちゃんに雪の女王が何で好きなのか聞いてみたことがある。
 返ってきた答えは、
「だって、女の子が男の子を助けに行く話って素敵じゃない」
 だそうだ。いつの時代でも女性は強いと思う瞬間である。
 しかし、それだけなら可愛らしい理由でいいのだが、続く言葉が強烈すぎてどうにも忘れられない。
「だから、カイ君。攫われたり、行方不明になってもいいよ」
 むしろこちらの言葉のほうが印象に残されている。聞かされた瞬間、きらきらと輝く瞳を向けられていた僕が閉口してしまっていたことが今では懐かしい。軽いトラウマだ。
「はあ……」
 再びため息をついてしまう僕。また、幸せが一つ逃げてしまった。
 もうどうでもいいやと乱暴に頭をかく。これ以上雪の女王についても仕方ない。
 実際みーちゃんは、雪の女王のことを除けば優しい子だ。突き飛ばしたりする変な癖も、男の子を助けたいということが元になっているようなのだが、決して怪我をするようなところでそんな真似をすることはない。だから僕も腹を立てたりはしない。
 それに……彼女が変わっているというのは、悪いことばかりではない。みーちゃんのことを知る人は、僕に対して同情で接してくれる。ある意味では、彼女のおかげで今僕は、虐められることなく生活できているのだ。同情でなければ、僕みたいな根暗、きっと小学生の時と同じように虐められているはずだ。貝殻の貝なんていう名前は。それに。
 僕は起きあがってから、鏡の前に立つ。みーちゃんは穏やかで、優しいと好意的に表してくれるが、そこに映っているのは気弱で、暗そうな男の顔だ。
 ずきり、と頭が痛んだ。
「はは……」
 こんな風な考え方しか出来ないから、虐められるということを僕は未だに学んでいないようだ。
 僕は、マイナス思考を振り払うように、ベッドから跳ね起きる。そして、現在直面する問題を思い浮かべた。
「クリスマスまで、あと二週間か」
 カレンダーに目をやる。
 みーちゃんは手作りセットをくれると帰るとき言っていた。彼女がくれると言っているのに、僕があげないわけにはいかない。僕にだって、プライドの一つや二つくらいはあるのだ。問題は何をあげるか、だ。
 僕は、昨年あげたのは少し大きめなクマのぬいぐるみだった。名前はジョルカエフ田中。語源は不明である。今でもみーちゃんの枕の横に並べられているはずだ。
 クマのぬいぐるみをあげたとき、みーちゃんは嬉しそうに笑ってくれたけど、さすがに昨年と同じ物をあげるわけにもいかない。大体、手作りセットと熊のぬいぐるみでは釣り合いすらとれていない。
「まあ、まだ二週間あるし。後で考えればいいかー」
 僕はそう思って、再びごろんと横になった。


 *


 十二月二十二日。二十三日が金曜日で、二十四日は土曜日となり、必然的に今日が終業式となる。
「早いよ、おい」
 僕は学校のカレンダーの前に立ち、呆然と呟く。僕の呟きの表すように、当然クリスマスプレゼントのクの字も決めていない。
 すでに終業式も終わり、浮かれ気分で生徒達は家路につき始めていた。僕は慌てて、何とか稔が帰る前に捕まえることに成功する。
「何だー?」
「クリスマスプレゼントって、どんなものをあげれば、相手は喜んでくれるかなあ?」
 これ以上先延ばしするわけにもいかず、恥を覚悟に尋ねてみた。幸い、まだみーちゃんが来る気配はない。
「プレゼントって。相手は桜野?」
 僕は正直に頷くと、稔は嬉しそうに口元を緩め、ヘッドロックを仕掛けてくる。
「おいおい。なんだかんだ言って、やっぱりお前もその気なんじゃねーか」
「…………」
「ん?」
 僕が何の抵抗もしないため、稔は手を放す。
「あ。ああ、うん」
 僕は遅れて、こくりと頷く。稔は頭をかいて、
「でも、プレゼントって言ってもなあ。貰えれば、何でも嬉しいもんじゃねえの?」
「……そんなこと言っても。格好悪い物あげられないし」
 そんなもんかね、と言う稔に、そんなもんです、と頷く僕。
「よっしゃ、わかった」
 稔はぽんぽんと僕の肩を叩く。
「今日これから、買いに行くか。俺も付き合ってやるよ」
「ん。今日部活はないの?」
 僕とすればついてきて欲しいけれど、部活があるのにさぼらせるのはさすがに悪いと思い、遠慮がちに尋ねる。うちのサッカー部は名門とまではいかなくても、そこそこ強い。レギュラーメンバーにはいっている稔がさぼったりすると後で大変だ。
「今日から三日間は休みなんだよ」
 嘘をついているようにはとても見えない。というよりも、へらへらと楽しそうに笑う姿は間違えなく楽しんでいる。他人の不幸は蜜の味といったところだろう。
「よっしゃ。善は急げだ。さっさと行くぞ」
 決めるや否や、稔は僕を引っ張り教室を出る。
「ちょ。先に帰るんなら、みーちゃんに言わないと……」
「ばっか。お前、クリスマスプレゼント買いに行くから、先に帰るねなんて格好悪いこと言うつもりなのかよ」
 それはさすがに言えない。
 少しだけ釈然としない物を抱えたまま、僕たちは逃げるように教室を後にした。


 *


 それから一時間が過ぎた。僕はシルバーのネックレスの入ったウインドウの前で固まっている。隣では、稔が呆れたように頭を抱えていた。
 僕たちが今いるのは壁の色がパステルカラーで統一された、町の中央にある雑貨屋である。可愛らしい小物から人形、手頃な値段の家具やアクセサリーから、ちょっとした高級な物なども置かれている。
 本来なら、男二人でなど居づらいことこの上ない場所のはずなのだが、時期が時期だけに男性だけの客の姿も多く見える。高校生や大学生くらいの年齢が多いようだ。みんな僕と同じような状況なのだろうか。
 僕は隣を向くと、稔は顔をぶすっと膨らませていた。
「どうしたの?」
 ひょっとすると、僕が買い物に時間をかけているのが不満なのだろうか。店に入ってから三十分くらい過ぎている。
「ちげーよ」
 僕の考えを読んだかのように、変わらぬ口元をへの字に結んだまま、首を横に振られた。
僕は首を傾げてしまう。
「たく、平和な奴だぜ」
 稔はがしがしと頭を乱暴にかいた。
「それよりも早くしろよなー。あんまり居心地いい場所じゃないし」
「うん。ちょっと待って。まだ決まらなくて」
 視線を動かす。ネックレスの先端についているガラス玉が七色の光を反射する。稔はそのネックレスを手に取った。
「結構綺麗なもんだな、うげ」
 ちらりと後ろの値札を見て、稔は悲鳴を上げた。
「うわあ、これ一万円もすんのかよ。こんなガラスがついただけの物に、こんな金を払うやついんのかよ」
 信じられないといったような声だ。ネックレスの先端についているガラスの形が雪の結晶のような形をしていて、密かにいいかなと思っていたが、その言葉で断念してしまう。
「稔は誰かにプレゼントしたりしないの?」
 それを参考にしようと思い尋ねてみる。何となく藁にもすがる気持ちだった。
「あん。俺が誰にプレゼントなんてあげるんだよ」
 彼はまた不満顔をする。
「えーと、妹さんにあげたりしないの?」
 僕は思いつくまま言ってみる。稔には小学生三年になる妹がいる。
「あげるわけねーだろ。何で俺が。そんなの親の仕事だろ」
 ぶつくさと文句を言いながら、手の平をひらひらさせた。
「そっか。確かに、そのくらいの年頃ならサンタクロースを信じているだろうしね」
 稔などにプレゼントされたら、夢がぶちこわしだ。
「違う違う。あいつはそんなこととっくに気付いてるって」
「そうなの?」
「ああ。だってあいつ犬が欲しいって言って、オヤジと一緒に買ってきたし。たく。ちっとも可愛くねえガキだよ」
 稔は犬が嫌いで仕方がないはず。小学生四年の頃に田中さんの家の猛犬と名高いおばきゅーに追いかけ回されて、ドブにはまってしまったことがあるのだ。しかも哀れなことに、一日誰にも見つかることなく、そのまま動くことも出来なかったのだ。ちなみにそのドブにはまっているところを発見したのは僕である。ギブミーチョコレートーと、何か間違った悲鳴を上げている姿は今でも忘れることが出来ない。焦った僕は、本当にチョコレートを取ってきたし。
「何笑ってんだよ」
「いや別に」
 思い出し笑いをする僕に稔はため息を大きくはいた。
「というか、お前は一体いくらくらいのを買おうと思ってんの。二三千円くらい?」
 さすがにじれてきたのか、稔はそんなことを尋ねてきた。額にうっすらと汗がついている。制服の上にコートを着た僕たちに、人が多く暖房の効いた店内は少し暑い。
「えーと、別に決めてないけど」
「じゃあいくら持っているんだよ?」
「えーと、二万五千円くらい」
 正直に答えると、稔は目を見開いてまじまじと僕の顔を見る。
「ひょっとして関矢ってブルジョワジー?」
「ちがうよ。これは昨年のお年玉が残っているだけ」
 僕の言葉に稔は酷く驚いた様子だった。
「へえ。すげえなあ。そのお金わざわざ桜野にプレゼントするためにとっといたんだ」
 そう言ってしきりに感心している。
 別にこのお金を全部使うわけでもないし、ただ使う予定もなかったからとっておいただけのことなのだが、否定するのは少し面倒くさく感じる。
「しっかし、わかんねーなあ」
「何が?」
 稔は手元にあるサングラスを手に取りながら言う。サングラスを無理矢理開きすぎて、見ているこちらがはらはらする。
「何で、関矢は桜野と付き合わないの?」
「前にも言ったじゃん。それは――」
 いやいや、と言葉を遮るように手を振られた。
「いや。桜野の気持ちじゃなくて、関矢の気持ちだよ。お前は桜野のこと好きじゃないの?」
「……僕?」
「そう。お前さんだよ」
 とんとんと胸を指先で軽くつつかれる。
「僕は、みーちゃんのことが好きだよ。大好きだ」
 僕は素直な気持ちを口にした。


 *


 僕が家に帰った頃には、すでに時計の針は六時を半分くらい回っていた。
 結局、あれからクリスマスプレゼントを決めることが出来なかった。甲斐性がないことこの上ない。
 靴を脱いで上がると、台所からとんとんと小気味のよい包丁で刻んでいる音が聞こえてくる。ふと気になったことを思い出し、後ろ姿の母さんに尋ねる。
「ねえ母さん。みーちゃんから電話こなかった?」
 黙ったまま先に帰ってしまったので、ずっと気になっていたのだ。僕は携帯を持っていないから、連絡を取るには家に電話するしかない。
「んー」
 母さんは間延びした声をして、こちらを向いた。
「電話はなかったような気がするわねえ」
 曖昧な言い方をしながら、エプロンの裾で手を拭いている。
「ふーん」
 電話がなかったんなら別にいいかと思い、母さんに背を向けて自分の部屋に戻る。もうすぐ夕食も出来そうだし、出来たら呼ばれるだろう。
 部屋に戻って鞄を置き、制服を脱いで、肩をごきごきと三度ほどならし、肩をもみほぐす。ついでに目の周りもつまみ、こりをほぐす。極めてオヤジくさいような気もするが、気にしない。寒くても一度くらい換気をしようと思い、窓を開ける。途端に勢いのいい風が吹き込んできた。シャツしか着ていないため身を切るような冷たさを感じる。
 慌てて窓を閉じ、さっさとベッドに潜り込もうと思うが、みーちゃんの部屋に電気がついていないのに気がつく。まだ帰っていないのだろうか。
「かーちゃん」
 居間から母さんが僕を呼ぶ声が響く。
 いつになっても、母さんにかーちゃんと呼ばれるというのは不思議で仕方ない。というよりも間違っていると激しく思うのだが、今更そんなこと気にしてもどうしようもないというものだ。だって、
「やあ、かーちゃん」
「……お帰り、父さん」
 台所にはいるとにこやかな笑顔で迎えられる。僕はあなたの母親ではありませんという言葉を飲み下して、席に着く。
「はっはっは。パパと呼んでくれていいんだぞ」
「そうよ。かーちゃん。私のこともママって呼んでくれていいのよ」
「結構です」
 僕がぴしゃりと言い切ると、母さん達はしょんぼりと肩を落とした。僕は構わず、手を合わせて頂きますといい、箸を持つ。今日の夕食はハンバーグだ。
「そういえば、明後日はクリスマスねえ。今年もみーちゃんは家に来てくれるのかしらー」
 楽しそうにハンバーグにきざみ海苔を振りかけながら、母さんは言う。
「そういえば、まだ聞いてなかった」
 みーちゃんの両親はいつも忙しく、クリスマスも一緒にいられることは少ない。だから毎年家に招いているのだ。
 クリスマスプレゼントを考えすぎていたせいで、今年はどうするのか聞いていなかった。ご飯を食べ終わったら、一度聞きに行ってみよう。それと先に帰ったことも謝っておきたいし。


 *


 夕飯を食べ終えて、みーちゃんの家に行く。引っ越してきてから何度も通ってきた家なのだが、両手を広げても届くことのない玄関の広さにはいつもながら萎縮させられてしまう。大体呼び鈴がピンポーンとなるのではなく、からんころんと鐘の音のような音の時点で住む世界の違いを感じさせられる気がしてしまった。
 ゆっくりと玄関のドアが開かれると、みーちゃんのおばさんが立っており、いらっしゃいと優しい声音で迎えられた。肩にストールが掛けられており、たたずまいにも気品が感じられる。僕は頭を下げた。
「あら。みみは一緒じゃないのですね」
 おばさんの言葉に僕は首を傾げてしまう。
「みーちゃんは家にいないのですか?」
 僕が尋ねると、おばさんはええ、と頷いた。
「貝君の家に行ってくるねーと言って出て行ったから、てっきり貝君と一緒にいると思っていたんですけど」
「え、そうなんですか?」
 思わず聞き返してしまう。おばさんは同じように頷くだけだ。
「みーちゃんには電話していないんですか?」
「いえ。あの子ったら、家に携帯置きっぱなしだから。携帯を置いて出かけるのは貝君の家に行くときなんですけど」
 僕はとりあえず、帰ったら電話なりして教えて貰えるように、と言付けてみーちゃんの家を後にして、自分の家に戻る。
「母さん」
 母さんは居間でこたつに足を突っ込んで、ごろごろしていた。テーブルの上に置かれたみかんを食べている。冬はやはりこたつにミカンよねえ、と見た目は若々しいのにおばさんくさいことを呟いている。僕のおっさん臭い癖はこれに似たんだなあと思うと、何故だかしみじみとした気持ちになってしまう。
「どうしたの、かーちゃん」
 何故だか子供を持ってしまった気がするのは気のせいだろう。みーちゃんのおばさんを少しくらい見習っていて欲しいものだ。
 ため息を一つつき、僕もこたつに足を伸ばす。外で冷えた足を赤外線が暖める。
「みーちゃん夕方くらいに来なかった?」
「んー」
 こたつの暖かさが心地よいのか、妙なうなり声をあげるだけで母さんは中々答えない。
 まあ、その気持ちは痛いほどよく分かる。こたつは人類が作り出した財産だ。こたつがない家は日本人の魂を忘れているに違いない。
「そうそう」
 すると母さんが思い出したように、パンと手の平を叩く。
「今日五時前くらいにみーちゃんが一度来たような気がするわ」
「何でそれを早く教えてくれないんだよ」
 反射的に突っ込みを入れてしまう。
「いやねえ。言われるまで忘れちゃっていたのよ。もう歳かしら」
「て、母さんはまだ三十五だろ」
「あら。女性に対して年齢を直接言うもんじゃわよー。かーちゃんったら失礼しちゃうわ」
 やーねえ、と言わんばかりに手を振る母さん。僕はどことなく頭が痛くなってくるのを感じる。まともに話しても仕方がない。それに段々と論点がずれているような気もするし。そもそも息子にかーちゃん言わないでください。
「あ」
 コタツから足をはい出して、自分の部屋に戻ろうと立ちあがると、母さんが思い出したように言葉を付け加える。
「私が玄関に行ったとき、みーちゃんは背中に何か隠していたわよ。あれはきっとかーちゃんへのクリスマスプレゼントね。ふふ、隠そうとしても頬を赤くしていたらばればれなんだから」
 そう言ってくすくすと笑う。全く敵わないなと思いつつ僕は自分の部屋に戻った。
「クリスマスプレゼントか……」
 さすがに冬休みに突入したばかりで、宿題に取りかかる気力は出ない。僕は電気もつけずにベッドの中に潜り込む。
 僕は一体いつまでサンタクロースなんてものを信じていただろう。僕自身のことは覚えていないが、みーちゃんのことは覚えている。彼女は中学に入るまでサンタクロースの存在なんて信じていた。普通に考えれば、馬鹿げている。けれど、本当はそのほうが正しいことなのかもしれない。
 段々と温かくなっていくのを感じながら、意識が遠のいていくのを感じる。今日は散々歩きづめだったために疲れているのだろう。けれども、そのまま意識がなくなることもなく、どこか水の上に浮いているような浮遊感だ。
 もう少し放っておけば自然と眠りへと落ちてしまうだろう。そう思っていると、廊下の下で電話の音が響き、意識が覚醒させられる。
 僕は布団を蹴脱いで、階段の下に置かれている電話を手に取った。母さんは丁度お風呂に入っているようだ。
「もしもし」
「貝君ね。みみは来ていないかしら?」
 電話の相手はみーちゃんのおばさんだった。
「はい。来ていませんが、ひょっとして……」
 おばさんの続きの言葉を想像するのは難しくない。
「ええ。まだ帰ってきてないの」
 予想通りの言葉が告げられた。僕は柱にかけられている時計に目を向ける。すでに十時を針は指しているのを見て、眉をひそめる。中学二年生に過ぎないみーちゃんが、さすがにこの時間に帰っていないのは異常だ。電話口の先のおばさんの心配している様子が目に浮かぶようである。
 僕がちょっと探しに行ってきますとだけ告げて受話器を降ろす。おばさんは静かにお願いしますとだけ答えた。
 マフラーとコートを自分の部屋から取ってきて羽織り、外に出る。昼間はまだ日があるために耐えられる温度だが、日が落ちると温度が途端に下がる。温度差十度ほどあるのではないか。
 僕は少しでも寒さを感じぬようにと、ポケットに両手を突っ込み背を丸めて、夜の深い闇の中を歩き出した。


 *


 学校やみーちゃんがいそうな心当たりを数点当たってみるが、彼女のことを見つけることは出来なかった。
「どこに行ったんだろう……」
 腕時計に目をやると、十一時を回ろうとしている。おばさんはすでに警察に連絡を入れたりしているのだろうか。確認する手段を持たない僕には知りようがない。
 結局僕に出来るのは、歩き回ってみーちゃんを探すだけだ。
 冬の澄んだ空気の中に白い吐息が溶けていく。
 探しても探しても見つからない。元々当てもなく歩き回ったところで、人一人を見つけられるはずもないのだが、僕は何となしにだけど見つけられるような気がしていた。けれども、見つからない。だから、焦る。
 悪いことがぐるぐると頭の中を回っている。どこかで交通事故に巻き込まれてしまったのではないか。誘拐されてしまったのではないのか。そんな単純なこと。だけどみーちゃんの家は僕とは違い、本当のお金持ちだ。誘拐される可能性は十分にありえるではないか。帰るときにせめて、書き置きくらい残しておけばと後悔などもしてしまう。
 歩く足が段々と早くなり、駆け足になり、そしていつの間にか走っている。住宅の電気もすでに消え始め、夜の闇を一層深くしていく。外を歩いている人の姿も全くない。はあ、はあと自分のあれた呼吸が妙に耳障りだ。暑くなった体には邪魔なマフラーをむしり取るように外し、コートのポケットに無理矢理突っ込む。脈が早くうっている。
 ぼんやりとだが、みーちゃんの姿が見える気がする。僕はみーちゃんにむけて手を伸ばす。その手は決して届かない。掴もうと掴もうと、何度も何度も空を切る。僕が近づくにつれみーちゃんは近づいた分だけ遠のいていく。いや、離れてなんていないようだ。ただ、最初からものすごく遠い場所に彼女は立っている。そして、どこか遠くを見据えている。いつも見慣れているはずなのに、まるで初めてであったときのような錯覚すら覚えさせられる。
 走っていると小さな人影の隣を通り抜けた。僕は歩調を弛め、歩き、立ち止まる。そして、振り返る。
 僕が見間違えるはずがない。ついたり消えたりする古い電灯の下で、みーちゃんは立っていた。
 みーちゃんは僕の姿を見ると、満面の笑みを浮かべて、
「カイ君ー」
 そう言い僕に駆け寄ってくる。両手に白色のセーターなどが握られている。恐らくあれがクリスマスプレゼントなのだろう。僕の中の酷く冷めた部分が、冷静にみーちゃんのことを見据えている。
「みーちゃん」
 僕の言葉に、びくんとみーちゃんは身をすくませて立ち止まる。
「こんな時間まで、何をしていたの?」
「ど、どうしたの。カイ君。ちょっとだけ、怖いよ」
「こんな時間まで、何をしていたの?」
 全く同じ言葉を僕は繰り返す。
「あ。そうそう。これを見てよ。今日出来上がったんだー」
 みーちゃんはそう言い、両手に持った手作りのセーターなどを差し出した。
「えへへ。一番はじめにカイ君に見て貰いたかったから、ずっとずっと探しちゃった。どう。すごくいい出来でしょ。がんばったんだ」
「それだけ?」
「え」
 褒めて貰えるとでも思っていたのか、僕の言いたいことがまるで分かっていないみーちゃんは、反応のない僕を見て首を傾げる。
「そんなどうでもいい理由のために、こんな時間まで外をほつき歩いていたって言うんだ」
 僕は肩をすくめて大きく息をついた。やっていられない。心配していた自分がまるで馬鹿みたいだ。
「酷いよ……。そんな、どうでもいいって――」
 それ以上何かを言う前に、僕はみーちゃんの持っているセーター一式を手で叩き落とした。アスファルトの上に色の鮮やかなセーターやマフラーが散らばった。
「さっさと帰るよ。おばさん達も心配しているから」
 僕はそのまま背を向けて歩き出す。
「……ごめんなさい」
 か細い謝罪の声が聞こえたけれど、決して振り返らない。
 空から雪が降り始めていた。音もなく、しんしんととても静かに。
 ……今日初めて、みーちゃんを泣かせた。


 *


 最低だ。次の日、目を覚まして最初に思ったのはその言葉だ。
 昨夜はあれからまっすぐにみーちゃんを家に送り届けた。その間、彼女とは一言も口をきかなかった。僕は話しかける気分にもなれなかったし、みーちゃんも俯いたまま口を結んでいた。
 家にたどり着くと、みーちゃんはおばさんに優しく迎えられた。みーちゃんは、ごめんなさいと短く謝った。僕にお礼を言うおばさんに対して、僕はまるで何もなかったかのように、何でもないですよ、と答えられたのが自分でも酷く不思議だった。それから家に帰り、そのままベッドに潜り込んで、眠ってしまったのだ。
 僕は起きあがって、カーテンを開け放つ。みーちゃんの部屋を覗くと、まだカーテンが閉められていた。すでに日は高く昇っており、眩しいほどに輝いている。明るい太陽とは裏腹に、陰鬱な気持ちで部屋を出た。
「さすがに、昨日は言い過ぎたよな」
 泣いているみーちゃんのことを思うと、太い針を突き立てられたように痛む。みーちゃんの落ち込んだ顔を見るのがこんなに辛いことだということは初めて知った。
 ふと、みーちゃんの大好きな雪の女王の冒頭が思い浮かぶ。
 それは悪魔がかがみをつくるシーンのこと。悪魔のかがみは、どんな美しいものでも醜く見させるというもの。悪魔はそのかがみを天使達に見せてあげようとしたのだけれど、途中で間違って落としてしまい、かがみを割ってしまったのだ。その割れたかがみの破片が目に入ったら、世の中は全て汚くしか見えなくなってしまうらしい。まるで僕みたいだ。
「お早う。かーちゃん」
「おはよう、母さん」
 挨拶を返しながら、時計に見てみると十二時を指そうとしている。もうすでにこんにちはの時間帯だ。
 朝食は逃してしまったようだが、昼食には丁度いい時間らしい。僕は席に着き、昼食が出来るのを素直に待つことにした。
 そのまま昼食を食べ終え、歯磨きなども一通り終えてから母さんに尋ねる。
「今日。朝からみーちゃん来たりしなかった?」
「んー。来てない気がするわよ。たぶん」
 首を横に振られ僕はそっかとしか頷けなかった。
「あ。そうそう。結局明日はみーちゃんは家に来るの、来ないの?」
 そういえばまた聞きそびれてしまった。でも昨夜のあんな状況では、さすがに聞きづらい。
「えーと、今から聞いてくるよ」
 僕はそう言い、逃げるように家を飛び出した。勿論みーちゃんの家になんて行けるはずもなく、家の外から見上げることしかできない。
 冬とはいえ、まだ日が高い時間帯はそこまで肌寒くはない。今来ているパーカーでも十分耐えられる程度だ。ポケットの中に財布がちゃんと入っているのを確かめて、足を町の方へと向ける。僕はまだ、クリスマスプレゼントを買っていない。
 しかし、意気込んで町までやって来たのはいいものの、結局何を買うかは決めていない。昨日稔とめぼしい雑貨屋は全部回ってしまっている。とりあえず、今日は服屋でも回ってみることにした。


 *


 結局色々回ったが、結局決めることが出来なかった。マフラーや手袋などは自分で作れるみーちゃんだから、そういう小物は必要ない。かといって靴などはさすがにサイズが分からないため、安易に手を伸ばすことが出来ない。
「一体、何をあげればいいんだろう」
 昨夜のことのせいで、よけいに下手な物があげられないという意識を高めてしまう。それにどうせあげるのなら、みーちゃんには思いっきり喜んで貰いたい。昨日、あんなことをしてしまったために尚更そう思う。
 ふと、稔と最初に行った雑貨屋のことを思い出した。そこに置かれていた、雪の結晶のような形をしたガラスの飾りの付いたネックレス。雪の女王が好きで、雪が好きなみーちゃんならきっと気に入るはずだ。そう思い、その雑貨屋に足を向ける。
 店に入り、ネックレスの置いてある場所に寄り道なしに向かう。
 あった。雪の結晶の形をしたガラスは、光の差し込む角度によってその輝きの色を七色に変えている。
 僕はそのネックレスを手に取り、レジに差し出す。
「あら。好きな女の子へのプレゼントかな?」
 レジの、大学生くらいのお姉さんは楽しそうに話しかけてくる。
「えーと、まあ」
「なら、ちょっと待っててね」
 何だか照れくさくて、お茶を濁すような返答すると、お姉さんはそのままレジの奥に引っ込んでいってしまった。それから少し待っていると、ネックレスはピンク色の小さな箱に赤色のリボンを付けられた状態で再び姿を見せる。
 僕がお金を払うと、
「がんばってね」
 と、お姉さんは軽く手を振ってくれていた。僕は軽く頭を下げて、雑貨屋の外に出る。
 少しだけ気分が高揚していた。このプレゼントならみーちゃんはきっと喜んでくれるような気がする。早く、みーちゃんに会いたい。そんなことばかり思っていたために、油断していた。
 家路を急いでいると、肩に軽い衝撃を感じた。人とぶつかったのだ。
「痛てえなあ」
「あ、すみません」
 僕が反射的に謝ってしまう。
 ぶつかった人は高校生、もしくは大学生くらいの男の人で、髪の毛を茶色に染めている。あまり好きにはなれない感じの人だ。
 男は僕に馴れ馴れしく肩を組んできて、
「金出したら許してやるよ」
 当然の権利といわんばかりの口調で言ってくる。僕は見た印象のままの人だと思いながら、
「お金なんて、持っていませんよ」
 咄嗟に嘘をつく。けれども、男は顔を耳元まで近づけて、
「嘘つくなよ。二万円近く持ってるんだろ」
 僕はその言葉で、自分が初めから狙われていたと言うことにようやく気付いた。相手の体を突き飛ばして、僕は逃げ出した。
 服を買おうとして、店員に予算を話していたのを聞かれたのか、相手は僕がある程度お金を持っていることを知っている。そのため、追いかけてくるのを中々諦めてはくれない。きっと、狙いやすいカモとして相手の目には僕のことが映っているのだろう。確かに気弱そうな中学生なんて、かつあげの格好の的だ。悔しさで胸が張り裂けそうになる。
 いつの間にか袋小路へと追いつめられていた。
「金出してくれたら、許してやるって」
 男はへらへらと笑いながら言う。いつの間にか、その右手にはナイフが握られていた。
 僕がお金を出すのが当たり前だと言わないばかりの口調に心底腹が立つ。そして、そんな相手にどうすることも出来ない自分にはもっと腹が立つ。
 僕は唇を噛みしめて、財布を取り出そうとポケットに手を入れたとき、
「カイ君に手を出すなー!」
 みーちゃんが男の後ろから、どこからか拾ってきたらしい木の角材を振り上げて走ってくる。
 何でみーちゃんがこんなところに。ひょっとすると、僕の後をつけてきていたのだろうか。僕がそんなことを思っている間にみーちゃんは、角材を男の体に打ち付けた。
「痛てえな。このくそガキが」
 非力なみーちゃんの一撃では倒れることのなかった男は、乱暴に彼女を突き飛ばした。きゃあ、とみーちゃんは悲鳴を上げて尻餅をつく。
「やめろ!」
 頭で考えるよりも先に、男に飛びかかった。ナイフを落とす算段など何もない。
 男は咄嗟に、こちらを向いた。右手に持たれたナイフもこちらを向き、僕の腹部へと突き刺さった。
「あ……」
 その声は誰が発した物だったのだろう。僕が出したような気もするし、男が漏らした言葉のようにも聞こえる。ひょっとすると、横で倒れているみーちゃんのものなのかもしれない。
 そんなことを思いながら、体中の力が全て抜けきってしまっているのを感じる。まるで電気ショックを受けた後のような感じ。ひょっとすると、これがショック死というものだろうか。
 視界に最後に映ったのは、泣いているみーちゃんの顔。
 また、泣かしてしまった。
 僕は、最低、だ……。


 *


 誰かの泣き声が聞こえてくる。誰のだろう。みーちゃんだ。みーちゃんが泣いている。
 みーちゃんが帰ってこなかったあの日のことが思い浮かぶ。
 僕はどうしてあんなに怒っていたのだろう。
 みーちゃんのことを心配するふりをして、僕なんて見ずに遠くに行ってしまうことを恐れていただけのこと。カイという、名前しか見て貰えていないことに対する劣等感や嫉妬心だけが僕の中に渦巻いている。
 何と情けない言い訳なんだろう。何て格好悪い男なんだろう。
 だからこうやって罰が当たる。自分勝手な理由で、一番大好きな人を泣かせる僕に与えられる当然の罰。さあ、もう眠ってしまえ。


「死んじゃ駄目だよー!」


 そんな叫びが聞こえた気がした。
 耳元で、悲痛とも言える叫びが繰り返される。
 僕は歯を食いしばり、瞼を開けようとする。けれども瞼は非常に重い。鉄で作られた金庫のように頑強で、まるで開かない。
 ならば棒でも何でも突っ込んで無理矢理こじ開けるだけのこと。差し込んだ棒が曲がったならば、また別の棒を取ってきて差し込むだけだ。出来るだけ頑丈な棒にあらん限りの力を込める。腕が震える。踏ん張る足の膝もがくがくと笑う。
 けれども決して開かない。頑丈な棒はまた折れる。力を込めすぎていたために、僕も前のめりに倒れてしまう。
 僕はまた別の棒を手にとって立ちあがる。だってそうだろう。
「死んじゃったら、さすがに助けられないよう……」
 こんな声で呼ばれたら、夢の中でも頑張らないわけにはいかないじゃないか。
 僕は金庫の隙間に棒を思い切り突き立てる。そして、
「いい加減に、開けよ!」
 思いっきりその棒を蹴飛ばした。


 *


 目を開くと、白い天井が目に入る。あれから病院に運ばれたのだろうか。僕の胸元ではみーちゃんがわんわんと泣いていた。僕はぎこちなくみーちゃんの頭を撫でる。
「カイ君!」
 びっくりしたようにみーちゃんは顔を上げる。
「お早う、みーちゃん」
「もう。こんばんはの時間だよ……」
 みーちゃんは目元を拭いながら、えへへと笑う。目は真っ赤にはれていた。ずっと泣いていたのだろうか。
「ごめんね。みーちゃん」
 僕が謝ると、みーちゃんはふるふると首を振る。
「どうしてカイ君が謝るの。悪いのは、刺したあいつだよ」
「ううん。そんなことはどうでもいいんだ」
 僕も首を横に振る。
「昨日の夜は本当にごめん」
「昨日の、夜?」
 みーちゃんは少しだけ首を横に傾ける。
「そのことなら気にしてないよ。私こそごめんね。カイ君に心配かけちゃって」
「ううん。違うんだ。そうじゃないんだ。えーと、そうじゃなくて」
 がしがしと頭をかく。こんなことを言いたい訳じゃなくて、と焦ってしまう。
 みーちゃんはきょとんとした顔で僕を見ている。
 僕はええい、と気合いを入れ直しみーちゃんの両肩を掴み、まっすぐに見る。
「僕は、みーちゃんのことが好きだ」
 頬が熱くなるのを自分でも感じる。そもそもこの言葉は、最初の文と全く関係ないではないか。言わなくちゃならない言葉をほとんどすっ飛ばしてしまい、頭の中でパニックを引き起こす。
 みーちゃんは、僕の首元を優しく抱きしめて、
「私も、カイ君のことが好きだよ。世界中の誰よりもずっとずっと大好きだよ」
 更に頬が熱くなるようなことを、僕の耳元でみーちゃんはそっと口にした。


 *


「ずっと。怖かったんだ。みーちゃんは、ただカイって名前が好きなだけで、僕のことなんてどうでもいいと思っていると思っていたから」
 僕は窓の外に目を向けてから、言ってみる。窓の外はすでに暗い。ただ夜が深いということがわかるだけで、今何時なのかも分からない。
「ん。どういうこと?」
 みーちゃんは僕の首元を抱いたまま、尋ねてくる。
「僕以外に、カイって名前の男の子が出てきたら、どうなるかなってこと」
 一番怖かったことを僕は言ってみる。
「別にどうにもならないと思うけど……」
「え?」
「少しだけ、良い名前だねって思うかもだけど。それがどうしたの?」
 その言葉を聞いた瞬間に、僕は吹き出してしまった。
「ど、どうしたの」
 みーちゃんにはわけが分からないであろう。だって、こんなアホな勘違いはないだろう。
 今まで一度だって、みーちゃんは僕の名前が好きだから僕のことを好きなんて言ったことなんてないのに。僕が勝手に、そういう理由を作っていただけのこと。
「まるで、雪の女王の最後のシーンみたいだね」
 カイに突き刺さった悪魔のかがみの破片は、ゲルダの涙によって洗い流された。この場合は僕の中にあった、つまらない誤解なんだけど。
「ほら。見て見て。カイ君。雪が降っているよー。ホワイトクリスマスー」
 みーちゃんは僕を離して、窓に駆け寄る。黒色のキャンバスに白い粉をまくように雪が降り始めていた。
「どうせなら、明日降ってくれた方がいいのになあ」
 僕の感想に、みーちゃんは顔を膨らます。
「もう。カイ君ったら何を言っているの。カイ君はあれから一日まるまる眠っていたんだから、今日がイブなんだよー」
「嘘。それ本当!」
「本当だよ。おばさん達なんて、さっさと帰っちゃって家でパーティをしていたはずなんだからね」
 僕は脱力してしまい、口もきけない。母さん達らしいと言えば母さん達らしい。
 僕も立ちあがってから窓によろうとベッドに手をつくと、何か硬い感触があった。見ると、ひしゃげたピンク色の箱。みーちゃんのために買ったクリスマスプレゼントだ。
 嫌な予感がして、箱を開いてみる。すると、出てきたネックレスのガラスは砕けていた。恐らく、倒れたときに押しつぶしてしまったのだろう。
「それ……」
 みーちゃんは砕けたネックレスを見ている。僕は咄嗟に背中に隠してしまった。
「みーちゃん。クリスマスプレゼントで何か欲しい物とかある?」
 もうこの際だから、直接聞いた方が早い。
「うん。一つだけあるよ」
 みーちゃんは大きく頷いた。
「な、何かな?」
 僕は唾を飲み込んでしまう。もしもここで高い物を言われて、買えなかったら本当に格好悪い。
「それはね」
 緊張する僕に、みーちゃんは軽やかに僕に近づいて来て、唇にそっとキスをした。
「えへへ。最高のプレゼントありがとね」
 僕は自分の唇を触れてしまう。みーちゃんははにかんだ笑みを浮かべてた。


 ……全く、最高のクリスマスプレゼントだよ。