バッドエンドなんて……

 

 [

 黙っていなくなるのはずるいと思うので、短くてもちゃんと書きます。
 母さん父さん、ごめんなさい。
 二人とも本当に大好きです。
 そして、由貴君、ごめんなさい。
 マフラー、出来たから置いていくよ。
 こんなものしか残せなくて、ごめんね。
 愛してる……さようなら。

今井かける



 T



 その異常に気づかされたのは、四月が終わったばかりのときのこと。私が生年月日上で十四歳の時だ。
 私はちょっと風邪をこじらせてから入院してしまった。
 最初は一部屋六人の大部屋で検査も血液検査だけだったのに、何だか日に日に検査の種類が増えていった。そして、部屋もいつの間にか個室に移されていた。
 医者の先生も、看護士のおばさんも何でもないよ、ただの風邪だから、と言っていた。けれども、そんなはずがない。ただの風邪なのに何で部屋が個室に移らされたのか、しきりに痛いところはないと気つかわしげに聞くのか、そんな毎日のように一日時間をかけていっぱい検査をするのか。
 ひょっとして、私はものすごく重い病気にかかったんじゃないだろうか。ドラマや漫画でしか知らないけれど、そういう命にかかわる病気って本人にだけは隠すみたいだし。
 何となしに、お見舞いに来ているお母さんにそんな話をふってみると、そんなはずあるわけないじゃないと顔を真っ赤にしてすごい勢いで怒られた。
 お母さんの気持ちは嬉しいのだけど、それって正しいと認めたようなものです。
 あー、私もうすぐ死ぬんだ。
 最初はあまり怖くなかったんだけど、一日二日と過ぎるにつれて風船に空気を入れるように、日に日に膨らんでいって、勢いよくはじけちゃった。
 その夜、私は消灯の早い病院の時間に合わせるように、ベッドの上で横になり目を閉じた。
 すると、ぎゅうっと胸が締め付けられるように突然痛み、ぐっと押さえた。胸を力いっぱい押さえると、どくんっと心臓がはねる。一度はねただけでは収まらず、どくんどくんと何度も跳ね回り続ける。私はわけがわからず、呼吸するのも苦しくなって膝を抱えると、ぽろぽろと涙が溢れてきた。
 涙が最終的なスイッチになってしまったのか、私はひたすら声をあげて、わんわんと泣いてしまった。
 廊下にまで響く泣き声で、看護士のおばさんが飛んできてくれて、一晩中一緒にいてくれた。泣き止まない私の背中を優しくなで続けてくれた。
 この時、ようやく私は死ぬのはものすごく怖いってことを思い知った。
 それからの私は心底びくびくしながら、審判の時を待った。
 その判決はすぐに告げられることになる。
 正装をした両親と一緒に、私の担当になっている医者の先生が部屋へとやって来た。私は寝巻き姿のまま、真剣な顔をしている人たちと向き合う。
 医者の先生は、これ以上遅れると、余計に手遅れになるから、と前置きを告げた。
 手遅れになるってことはまだ手のうちようはあるってことかな。成功率の低い手術でも行うって言うのかな。
 私はぐっと息を呑みこむ。大丈夫。ドラマや漫画などで、こんな状況で失敗することなんて滅多にない、と思う。医者の先生が言う確率の逆の確率が成功率さ。
 けれど、医者の先生が次に口にした言葉は、病名はまだないといった。
 まだない?
 医者の先生が言うには、原因はともかくとりあえず私の体に起こっている症状がわかったらしい。
 その症状の内容は、体の成長がとんでもなく早くなっているというものだ。
 あの、私、そんなにオゾンを吸った記憶はないんですけど、と言っても誰も笑ってくれなかったよ。
 現在、私の体の年齢は十八歳と言う。
 何でだろう。たった二週間しか過ぎていないのに、その間に四つも歳をとってしまっているらしい。
 私は震える声で、人の体の年齢ってそんな正確に測ることが出来るんですか。ただ、私が人よりも老けているだけじゃないんですか。
 よくもまあ、そんな屁理屈じみた言葉がすらすら出てくるものだと思ったけど、それだけ私も必死だったのだ。おぼれる猫の手は藁をもつかむようなものなのだ。
 その点、医者の先生は、一日一日の採取した細胞の分裂率を測定し、通常の人と比べて二次関数的にその速度が増していると、グラフと英語っぽい字で書かれた表を見せてくれた。グラフなんかは棒グラフで、しかも丁寧に色分けまでしてくれている。
 正直、そんなものを見せられても私にはちちんぷいぷいだったのだけど、普段明るいお父さんの沈んだ顔や、きつい顔のお母さんがよりいっそうきつく唇を噛んでいる顔を見てしまうと、綿が水を吸い取るように、自然と本当のことなんだってわかってしまった。
 私はぎゅっと寝巻きの裾を握りしめて押し黙ると、これからどういう風になっていくのかという話をされる。
 現在は、一日一年くらいの速度で成長しているようだ。ここから速度はまだまだ増すのか、一日一年くらいの速度で収まるのか、このまま何事もなかったように普通の成長速度に戻るのか。それはさっぱりとわからないらしい。
 同じ様な病気にプロジェリア症候群やウェルナー症候群というものがあるって言う。どちらも聞いたことのない病気だ。
 どちらも、老化を早めるというものでが特徴らしくて、成長が早まるのとは違うらしい。その違いは良くわかんない。
 わかるのは一日に一年歳をとるってこと。
 それってどんなに長生きしても、あと百日も生きられないってこと?
 もはや私にはまったく理解できない。掃除機をかけられたように頭の中が綺麗さっぱりと真っ白になってしまった。
 ただ、そんなときでもわかってしまったのは、奇跡的に病が治っても、すでに取った年齢は元には戻らない。ここには若返りの薬もドラえもんも存在はしないんだ。
 母さんがそっと顔を近づけて、したいことはない、と言う。
 私は由貴君に会いたいって言った。


 U


 由貴君は女の子っぽい名前のとおり、とても可愛らしい顔をしている子だ。ふわふわの髪の毛に、くりんくりんとした子犬のような目がチャームポイント。そして、私の家の隣に住んでいる子で、私のボーイフレンド。
 病気の説明があった日の放課後、由貴君は私のいる病室へとやって来た。学校の帰りにそのまま寄ったのか、衣替えしたばかりの白いワイシャツ姿だ。
「大丈夫だったの、かけるちゃん!」
 看護士のおばさんに怒られそうな声をあげる由貴君。私はちょうど横になっていたので、体を起こして由貴君を見る。
「あの、その」
 私は何か言おうと思ったのだけど、由貴君が妙にもじもじした。そう、私の顔はと思うと、私は口をつぐんでしまう。
 由貴君は何があったのかまだ説明していないのだからわかるはずもないし、かといって私の口から説明できるほど、私は落ち着いていなかった。
 おかげで、お互い石像のように固まってしまい、気まずい時間がかちかちと過ぎる。実際は大した時間でもないだろうに、タバコ臭い場所にいるときみたいにたったの一秒間が息苦しい。
「ごめんなさい」
 重苦しさから逃れるように、由貴君が謝った。
「人を間違えました。あの、かけるちゃんのお姉さんですか?」
 思考停止――解凍。
「あはははははは!」
 お腹を抱えて笑ってしまう。由貴君には悪いけど笑いが止まらない。お姉さんがいるなんて私も知らないよ。
「ははは、ぐぅう!」
 いかん、笑いすぎて気管に唾液が。
 一転して、私は胸を押さえて激しく咳き込む。
 そんな私を、由貴君は何が何やらさっぱりわからないうえ、笑われているというにも関わらず背中をさすってくれる。ジェントルメンだわ。私ならこんな風に笑われたら、突き飛ばしているだろうに。
「大丈夫、かけるちゃん?」
「……」
「あ、ごめんなさい。かけるちゃんと咳き込み方がそっくりだったから、また間違えちゃいました」
「その間違え方が間違っているわ!」
 せめて笑い方と言って欲しい。
「すごい! 突っ込み方までかけるちゃんそっくりだ」
 身を乗り出して、由貴君は目を輝かせる。
 かけるちゃんのなどの、由貴君が"かける"という私の名前を別の人のように言うたび、胸の奥底がずきんと痛む気がした。
「あの、それでかけるちゃんは?」
 ようやく落ち着いた由貴君が尋ねる。
「え?」
 今までの冗談が、氷水を思いっきり頭からかけられたように、私は正気に戻る。
「……かけるは、私だよ。かけるは私、だよ」
 同じ言葉を繰り返す。
 二度だけじゃない。何度でも何度でも。その言葉しか知らないオウムのように、ずっと同じ言葉を言い続ける。
 胸のうちに渦巻く感情が多すぎて整理がつかない。太陽のようにごうごうと勢いよく燃え続けてる。由貴君が私のことがわからないのが悲しくて、私の容姿がそんなに変わっているのを信じたくなくて、自分の容姿を確認するのがとても怖くて。
 落ち着かなくちゃ。
 私がパニックを起こしていたら、由貴君にヒステリーをぶつけてしまうだけだ。
 私は両目と口を力の限り閉じた。目や口から感情が漏れ出さないように精一杯にふるふると震えて耐える。
 そっと目元に、しなやかな指先が優しく触れた。
 私はびっくりして目を開いた。由貴君の顔が目の前にあって、さらにびっくりしてしまう。
「驚いた。泣き顔もかけるちゃんそっくりだ」
「由貴、君」
「君は、かけるちゃん、なんだね」
「……うん」
 鈴のなくようなか細い声で頷くのがやっとだった。
 そっか、と由貴君は頷いた。それで、軽く頭をかいて、私の顔をまっすぐに見据える。
「信じてくれるの?」
「俺がかけるちゃんの言葉を信じるのに理由がいるの?」
「……ない」
 答えるのにちょっと時間がかかったのは、恥ずかしかっただけだ。
「それで、どうして、その、こんなことに?」
 とりあえず、医者の先生の言ったとおりに説明する。由貴君は時折相槌をうつだけで、口を挟まなかった。
 説明を終えると由貴君は原因はなんだろう、と言う。私はぶるぶると首を横に振った。
 医者の先生ですらわからないのだ。私みたいなぺーぺーがわかるはずがないよ。
「俺に何か出来ることないかな?」
「わからない」
 私は由貴君に会いたかっただけで、それ以上先のことなんて考えていなかった。ただ、由貴君が傍にいてくれるだけで嬉しい。本音を言えば、これからも一緒にいて欲しいんだけど。
 私は上目遣いに由貴君の様子を伺う。
「俺はかけるちゃんと一緒にいたいんだけど」
「ふーん、そうなんだ。仕方ないわね。私は別に構わないわよ」
 私はふんっと鼻をならし、そっぽを向く。由貴君が嬉しそうに笑うから、とんでもなく嬉しいのに言えやしない。
 窓から見える景色はすでに暗くなっていた。病気の説明に手間取ったせいか、時間がすごくたっていたようだ。
 由貴君は今日のところは帰るということになった。
「あの、由貴君」
 バッグを片手にし、ドアに手をかけた由貴君に呼びかける。
「どうしたの?」
 私はごくりと唾を飲み込んで、
「私のこと、今何歳くらいに見える?」
 尋ねると、はっとしたような顔を由貴君はする。
「十五歳、くらいだよ」
「嘘はいいわ」
 私はにべもなく言う。
「二十歳くらいだ」
 私は、そう、としか言えなかった。


 V


 由貴君と入れ違いに母さんと父さんが病室に入ってきた。由貴君が帰るまで廊下で待っていたのだろう。父さんなんて、いつも遅くまで仕事しているはずなのに、どうしているのだろうか。そう思って尋ねると、母さんが呆れ顔で無理やり有休を使っているのよと言った。確か、今大事なプロジェクトの最中なんじゃなかったっけ。何をやっているのかは知らないけれど、そのせいで最近忙しそうだったのに大丈夫なのかな。
 うん、まあ、大丈夫なんじゃない、などとすごく不安になる感じに頷く父さん。かけるが良くなるまで会社になんか行ってられるかとまで、豪語しだす始末だ。
 言葉だけ聞けば素直に嬉しいのだけど、子供みたいに駄々をこねる父さんに頭を抱えてしまう。
 父さんはしきりに気分は悪くないか、どこか痛いところはないか、食べたいものはないかーと尋ねてくる。そんないっぱい色々聞かれても答えられない。仕舞いには母さんの肘打ちで、父さんは黙らせられた。
 げふぉげふぉと咳き込んでいる父さんをどけて、母さんが今日はどうすると尋ねて来る。
 頭が沸騰を起こしすぎていて、すでに臨界を突破しちゃってる。とりあえず、一人きりになりたかった。
 私がそう言うと、母さんはわかったわと頷いた。父さんは一晩中傍にいると言った。父さんは母さんに引きずられて行った。母さんは去り際に、看護士さんに迷惑かけちゃ駄目よ、と言った。
 一人きりになった私は、うつ伏せになり、白い枕に顔を押し付ける。
 あれだけ泣いたっていうのに、またまぶたの裏側が熱くなった。
 すごく強い焦燥感がぎゅうっと胸の奥が締め付けられる。
 私の年齢はすでに十八歳だ。明日目を覚ましたら十九歳。ひょっとしたら二十歳とかもっともっと歳をとっているのかもしれない。
 すごく怖い。
 同時にこんなところで寝ているわけにはいかない。
 今の私にとって、一日が一年分の価値があるのだ。一時間だったら、えーと、どれだけだろう。三百六十五倍だから、一時間は三百六十五時間として、一日が二十四時間でそれで割ると――まあ、とんでもなく早いのだ。
 ただ、それだけの時間が過ぎていく。たった五分の時間で一日分が終わってしまう。
 そう思うと、焦ってしまう。何かしなければ、何かしなければ。
 でも、何を?
 別に今すぐしたいものなんて私にはない。先のことなんて、由貴君と一緒の高校に行けたらいいな程度の思いしかない(私の成績だとがんばらなくちゃいけないけど)。
 結局、私に出来るのは周りに聞こえないように、むせび泣くだけだ。
 どんなに怖くても、疲れ果ててしまうと眠ってしまうようだった。
 小鳥のちゅんちゅんとさえずる音が聞こえ、私は飛び起きた。
 私は何を眠っているんだ。時間は残り少ないっていうのに。
 私は慌てて、鏡を覗き込む。穴があくんじゃないかってくらい睨み付ける。
 そこには二十歳くらいの見知らぬ女性がいた。線が細くて、肌の色は白く、いかにも病弱な容貌だ。
 これは、誰。ひょっとして私なの。元の私とは似ても似つかない。
 ここまで変化していくと、嫌でも自分が歳をとっているのを自覚させられる。
 私は鏡を叩き割りたい衝動をかみ殺し、震える腕で置く。
 どうする。どうすればいいの。この少ない時間をどう過ごせば良いと言うの。
 わからない。わからないよ。
 とにかく病室を飛び出そうと思い、立ち上がろうとすると、思ったとおりに足が動かず転んでしまった。勢いよく、横の棚ごとひっくり返す。どんがらがっしゃんと盛大な音を部屋の外まで響かせる。そのため、看護士のおばさんが飛んできた。
 おばさんはこの惨劇を見て、慌てて頭を押さえてうずくまっている私に駆け寄って、優しくなでてくれる。
 私はぶつけた頭よりも、足が動かなかったことのほうが気になった。
 看護士さんは少しだけ考えて、入院していて体力が落ちているというのが考えられるけど、それよりも急速な成長のため体の使い方に戸惑っているんじゃないかしら、と言った。
 私はほっとして胸をなでおろした。これ以上さらに、変な病気にでもかかったんじゃないかと思ったからだ。
 体をいくつか点検すると、とりあえずなまりきっている以外問題はなさそうだった。骨とかも急速な成長に合わせてしっかりと成長してるみたいだった。それがこの病の特徴だった。いきなり、成長したというわけじゃない。鳥とか牛とかみたいな速度で成長するのが当たり前ってこと。一年分もご飯食べてないのに、どっからそんな栄養を出したんだろうね。病気って不思議。ただ、成長痛だけはどうしようもないから、痛み止めはうっていたみたい。私に気づかれないように寝てる間らしいけど。
 簡単なリハビリをしていると、母さんたちがやって来た。父さんもおり、スーツ姿じゃない。本当に、会社を休んでいるんだ。その背中に何だかいっぱい詰め込まれたリュックサックを背負ってる。とりあえず持ってこれるものは全部持ってきたといった感じだ。母さんが呆れたと言わんばかりに肩をすくめるジェスチャーを送ってくる。私は思わず、苦笑してしまう。
 この日は、朝から夕方まで母さんが作ってきた弁当を食べたりして過ごした。思えば、物心がついてから、いつも仕事で忙しい父さんとこんなに話をしたのは初めてなんじゃないだろうか。本当は、食欲なんかまるでなかったけれど、食べなくちゃ体がもたないと根性でかきこんだ。美味しいはずのお母さんの料理は何の味もしなかった。


 W


 夕方になり学校が終わると、由貴君がやって来た。
 学校から全力疾走でもしてきたのか、額に玉のような汗を浮かべて、肩で息をしている。
 そんなに私に会いたかったのかと思うと嬉しい。
「何をそんなに慌てているのよ」
「だって、かけるちゃんに早く会いたいし」
 二人っきりなら嬉しくて抱きついていたかもしれない。でも、そんな言葉、家族の前で言われても困る。
 父さんが、がたんと椅子を蹴倒すと、ああん。このガキ、何を言ってるんや、とエセ関西弁を使いながら由貴君に詰め寄ろうとし、母さんが電光石火の足払いで父さんを床に転がした。あとは、若い二人にと、どこぞのお見合いのような言葉を残し、倒れている父さんの両足を掴んで去っていく。恋愛ごとは母親のほうが理解があるという話って本当なのかな、とか思った。
 けれども、由貴君と二人っきりになったとたん、言葉がなくなってしまう。
 もともと、由貴君は自分から話すタイプではない。というよりも、私がいつも喋っている。前に、一回どれくらい喋らずにいられるのだろうと試してみたところ、三十分しかもたなかった。私が。
 そのとき、私がぐーっと押し黙って由貴君を見ていると、終始にこにこと笑って私を見つめてた。
「何がそんなに面白いのよ!」
 と、私が詰め寄ると、
「ころころと表情を変えるかけるちゃんを見てると楽しいよ」
 なんて答える。
 私は照れくさくて、持ってた鞄で由貴君の頭を思いっきりぼふぼふと叩いたものだ。好きな人に手を出さずにいられないのは、母さんに似たんだろうな、きっと。
「それで、最近学校はどう?」
 クラスメイトは私が入院してから三日くらい、毎日のようにお見舞いに来てくれていたのに、それ以後さっぱり来てくれなくなっていた。どうやら、母さんが私に知られないように断っていたらしい。知らなかった私は、ぶっちゃけ、なんて薄情なやつらなんだーとか思っていたのはとても言えない。由貴君なんか毎日来てくれていたらしいのにさ。
「うん。かけるちゃんがなかなか良くならないから、みんなすごく心配しているよ。早く良くなって」
 由貴君は少しだけ口をつぐみ、
「クラスに戻ってきてよ」
「……私、こんな風になっちゃったけど、戻れるかな」
 奇跡的に病気が治っても、私の体は元に戻りはしないのだ。腕をなくした人は、義手をつけることは出来ても、新たな腕が生えてきたりはしない。
「大丈夫だよ。かけるちゃん、見た目は少し変わっちゃったけど、すごく綺麗になったからみんな喜ぶよ。それに、かけるちゃんはお馬鹿なんだからちゃんと学校に行かないと」
「言いたことを言ってくれるわね!」
 私は枕を掴んで、由貴君に投げつけようと振りかぶると、ぽろり、と取りこぼしてしまった。
 枕投げは得意なんだけどな。どうやら、体がなまりきっているようだ。
「あはは、調子悪いな」
 無理やり笑ってみせるけど、由貴君は笑ってくれなかった。眉間にしわを寄せて、私を見ている。
 悔しいな。由貴君にこんな情けないところ見せたくなんかないのに、いつも恥ずかしいところばかり見せている。父さんや母さんの前じゃ、まだ普通でいられるのに。
 私が唇を噛んでいると、由貴君は肩をすくめて見せた。
「おばさんやおじさんには敵わないや」
「どういうこと?」
「悔しいから言わない」
 由貴君は背中の痒いところに手がぎりぎり届かないときみたいに、とっても悔しそうに言い、ぷいっと顔を横にそらした。
 はて。由貴君が何を悔しがっているのか、さっぱりわからない。
 でも、悔しがっている由貴君が何だか可愛いから、それで満足した。
「それで、かけるちゃん、何かしたいことはある?」
 ようやく機嫌を直した由貴君が尋ねる。
「わからない」
 したいことと言われても。
 カラオケに行きたいし、ショッピングにも行きたい。新角ビルに新しく出来たスイーツのお店が、飛び上がるほど美味しいって聞いたから行ってみたい。そろそろ夏物の新作が出揃うころだ。
 だけど、冷静な私が、日陰から冷ややかな声でささやく。
「それってそんなにしたいこと?」
 そう。
 カラオケは好き。可愛い服とかを着てみると楽しい。ケーキをお腹が破裂するほど食べたら幸せだ。だけど、それさえしていたら死んでも後悔はしないか、と言われたらそんなはずがない。
 じゃあ、何をすれば満足だというの。
 そんなものわからないよ。
 ――だけど、一つだけしたいことがある。
 そして、一つだけ守りたいものも。
「かけるちゃん?」
「ううん。何でもないよ。あははは」
 明らかにおかしな態度の私は、由貴君の様子もおかしかったことに気がつきはしなかった。
 日もすっかり暮れて由貴君が帰り、一人きりになった私は明かりを消して、ぎゅうっと枕を抱きしめる。今朝自宅から持ってきてもらった、一メートルくらいあるあざらしの抱き枕だ。つぶらな瞳がとってもキュート。名前はごまちゃんだ。そのごまちゃんの背中がくの字に折れ曲がって、震えてる。
「ちょっと、寒いな」
 強く抱きしめても震えが収まらない。
「クーラーが効きすぎてるや」
 もちろんクーラーなんかつけてはいない。
 負け惜しみみたいに言いながらごまちゃんを抱きしめる力をさらに込める。相手が人間だったら、背骨をへし折ってやるくらいに、力を込める。心なしかごまちゃんの顔にしわが入り、まるで苦しんでいるみたいだ。うう、ごめんよ。でも、泣かないようにするためには、こうするしかないのだ。
 雨の音が聞こえてきた。ざあざあと、勢いの強い雨だ。夕立なのかな。梅雨にはまだ早いんだけど。
 私はまばたきをするのを忘れて、ただ部屋の一点を見つめ続けてた。
 ざあざあという雨音が強くて、廊下の音は何も聞こえてこない。おかげで、人の気配が感じられない。一人きりになると、耳に障るかちかちという時計の針の音も聞こえない。それで、少しだけ安心する。
 ざあざあという音は止まない。
 どうやら今夜は、ちょっとだけ長い夜になりそうだ。


 X


 次の日も、由貴君はやって来てくれた。
 昨日とまったく変わらない時間。汗をいっぱいかいて、学校が終わるとすぐに、全力で駆けつけてくれた。
 嬉しい。泣きたくなるくらいに胸が切ないよ。
「どうしたの、その目の下のくま。ひょっとして、昨日は眠れなかった?」
「あ、うん。ちょっとね」
 結局、昨夜はずっと考え事をしてて、眠れなかった。
「あのかけるちゃんが眠れないって、やっぱりそんな――」
「どういう意味よ!」
 そんな由貴君に、枕をぶつけることしか出来ない。
 よっしゃ。今日はちゃんと命中させられた。思わずガッツポーズをとってしまう私。リハビリの効果はちゃんと出てるみたい……いや、由貴君が単純に心配してるだけなのはわかるんだけどね。本当に悪いと思っているんだけど、こればっかりはどうしようもない。
 由貴君はパイプ椅子に座り、買ってきただろうペットボトルに口をつける。
 私はごくりと唾を飲み込む。そして、ベッドに横になったまま、
「ねえ、由貴君。私を抱いてくれない?」
 と、今日の夕食を尋ねるように、まるで何でもない風に言った。
「え、かけるちゃんのことを抱きしめればいいの?」
「私と、寝て」
 私はそう言い、パジャマの胸ボタンを一つはずす。
「――!」
 ようやく私の言葉を理解した由貴君は、顔を真っ赤にして首をぶるぶると横に振る。ペットボトルは床の上に落ちて、中身のコカコーラがしゅわしゅわと泡をたてて広がっていく。
「そ、そ、それは。ダメだよ。それは、愛し合っている人同士じゃないと!」
「あら、私たちは愛し合っていないんだ」
 由貴君が慌てる姿が可愛くて、思わずくすくすと笑ってしまう。
「いや、そうじゃないんだけど。だって、俺たちはまだ、子供だし」
「私は、子供じゃないわ」
 私はそう言うと、パジャマの胸ボタンの二つ目をはずした。隙間から見える肌は、日の光に三年分も触れていなかったせいか、誰もが羨むほどに白く、宝石のように透明だった。健康的だった手足もすっかりと細くなり、ベリーショートの髪も毛もすっかり伸びきって腰元辺りまである。触れるだけでそのまま消えてしまいそうな儚さは、自分で言うのもなんだけど、どこか深窓の令嬢のようだった。
 死ぬほど恥ずかしいはずなのに、自然と三つ目のボタンに手をかける。すると、シャツはふぁさとはだけた。
「だ、だめだよ」
「どうして?」
「だって、その」
 口をもごもごとさせる由貴君。
「やっぱり、私に魅力はないのか。そんな、価値もないの」
「そんなことはない。かけるちゃんはとっても綺麗だ!」
「だったらどうして!」
「かけるちゃんこそ。どうして急に?」
「だって、私には」
 時間がないのだから。
 何かしたいことはないのか。
 一つだけ思いついたのは、俗っぽい上に、口に出すのをはばかられるくらいに恥ずかしいけど、愛に生きるってやつ。愛のためなら、命をかける価値があるんじゃないかな。
 昨夜、考えに考えて出した私の答えだ。
 それに、たった一日で考えたものじゃない。普通の人にとっては、一日かもしれないけれど、私にとっては一年かそれ以上の時間考え続けたものだった。
 自分が嫌になるくらい他に何も思いつかなかった。
 でも、私の中で一番確かなものだよ。
 由貴君が好き。
 そのことだけは自信を持って言えるよ。
 けど、
「ごめんなさい」
 私には謝ることしか出来ない。
 これは、私の身勝手に過ぎない。いくら、もうすぐ死ぬからといって、由貴君を困らせるような我がままを言っていいはずがないよね。
 私にとっては一年以上でも、由貴君にとってはたった一日に過ぎないんだから。
 由貴君は私に近づいて、そっと抱きしめてくれた。
「……ありがとう」
 そう、由貴君は言った。
「え?」
「てっきりかけるちゃんのことだから、俺にもう来るなって言うかと思ってた」
 ……確かに、そう思ってたの。
 由貴君と一緒にいたいって気持ちと裏腹に、そのことがずっと引っかかっていた。
 由貴君はとっても大切だ。
 だからこそ、色々と頭の中がぐっちゃぐっちゃのカレーライスみたいにかき混ぜられていたのだ。
「なら、俺は。かけるちゃんの思いに応えられるように、生涯愛し続ける」
「……私、もうすぐ死ぬんだよ」
「そんなのまだわからない」
「……私、由貴君に何もしてあげられないよ」
「そんなの関係あるもんか」
「……私、すぐにおばあちゃんになっちゃうんだよ。お花みたいにすぐ枯れちゃうんだよ。それでも、いいの?」
「……」
「ちょっと! 何でそこで黙るのよ!!」
「ごめん。想像したら、それはちょっと嫌だった」
「もう、どうしてそう正直なのよ!」
 私はさば折のつもりで抱きしめる力を強めるけれど、ただ単に思いっきり抱きついているようにしかならない。
 由貴君は、気づきもせずに、
「でも、それ以上に、俺はかけるちゃんが好きだから」
 なんて言った。
 嬉しすぎて泣きたくなるよ。
 ねえ、知ってるかな、由貴君。
 由貴君の正直さに私がどれだけ救われているのかって。きっと由貴君は気がついたりしないんだろうね。
 今の私は間違いなく幸せだった。
 きっとこれ以上ないってくらいに幸せだよ。
 でもね。
 この温もりは、すぐに失われてしまうんだ。手のひらですくった水のように、簡単にこぼれ落ちてしまうの。
 がちゃり、とドアが開いた。どうやら父さんがケーキの差し入れを持ってきてくれたようだった。
 父さんの笑顔が凍る。その上、何だか眼鏡が割れたようなぱきん、なんて音がした。
 えーと、私と由貴君は現在抱きしめ合っていて、その上、私にいたってはパジャマが思いっきりはだけてる。
 父さんは、顔をひきつらせ、こぶしをボキボキと鳴らしながら、小僧、貴様は一体何をしているんだ、とキスできるくらい由貴君に顔を近づけながら言う。由貴君も遅れて、ようやく今の状況を飲み込めたようだった。
「いや、これにはわけが!」
 どんなわけ?
 言い訳などに聞く耳を持たない、父さんは、由貴君の首根っこを掴んで連れ出してしまった。
 それから、何故だか、大きな音が廊下から聞こえてくる。間違いなく、由貴君と父さんが争っているんだろうけど、一体何をしているのやら。その後、大きな怒鳴り声が響き、騒ぎが収まった。母さんか、看護士のおばさんにでも怒られたんだろうな。
 かちかちと時計は回る。
 枕元に置かれてる目覚まし時計の秒針を押さえてみると、針の動きは止まった。
 本当の時間もこんな風に、簡単に止められたらいいのにな。
 だけど、電池を抜いたわけではないので、針の動きは完全に止まったわけじゃない。どくんと、心臓が脈打つようにかちかちと音をたてる。必死に抵抗してるみたいで、それは、時間は決して止まらないって主張してるようだった。


 Y


 次の日、私は早起きをした。今日、学校は休みなので、由貴君とデートをするのだ。
 たぶん、母さんが医者の先生に許可を貰ったんだろうな。父さんはすごい邪魔しただろうけど。
 折角のデートなのだから、弁当くらい作ってやろうと思い家に帰った。当然家でも料理なんかしたことはないけれど、家庭科とかでもとちったりしないから大丈夫なはず。もっぱらつまみ食い係だったような気がしないでもないけれど、そこのところはおいておいて。
 料理なんて難しいものを作らなければそうそう間違えるもんじゃないもの。料理本のままに作れば、問題はないのだ。
 で、結果はというと、ごめんなさい。なんというか、完全に料理ってものを舐めてました。
 料理っていうのは、爆発させたり、砂糖と塩を間違えたり、変な調味料を足さなくても、食べられないものって簡単に作れるものなのね。いやだって、中火とかいっても正確な火力なんかわからないじゃない? 馬鹿正直に、本に書かれている時間煮込むと水全部なくなっちゃうわよ! というか、玉子焼きって何であんなに技術がいるのよ。どう考えてもスクランブルエッグにしかならないじゃない! と喚いていたら、母さんに、日ごろ手伝っていないからよ、とおたまで頭を叩かれた。
 待ち合わせの時間も近づいたし、弁当を諦めようしたら、また母さんにおたまで叩かれた。食べ物を無駄にしちゃ駄目だってさ。私が膨れると、料理は愛情って言葉のとおり、好きな人が作ってくれたら、それだけで嬉しいもんよって言われた。横で父さんが、そうだ、かけるが作ったものなら、豚のえさで、お腹をどれだけ壊しても喜んで食べるなんて言う。それは、全然嬉しくないんですけど。父さんはさらに、母さんの最初の料理なんて本当に豚のえさにも劣る料理だった、と言おうとしたんだと思う。いつの間にか、床の上に転がってぴくぴくと痙攣していた。何が起こったのか私には見えなかった。
 とりあえずなんだかべちょべちょな弁当を鞄に入れて、由貴君の家に向かう。服は、今日のために母さんがわざわざ買ってきてくれた。ワンピースの上からツインニットを羽織るっていう大人しめの格好だ。
 折角だから化粧でもしてみようかな。今時中学生でも化粧をしてる子はいくらでもいるけれど、元々の子供っぽい性格のせいか私はしたことがなかった。せいぜいリップを塗るくらい。
 これも、母さんが教えてくれた。化粧をするとき、母さんはとても優しい顔をしていた。
 それに白いつばつきの帽子をかぶって出かけた。
 幸い今日は快晴だ。そろそろやって来る夏を感じさせる日の強さ。
 出かける場所は、いつも友達と遊びに行っていた町の中央だ。
 でも実は、由貴君とデートするのはこれが初めてだったりする。
 そりゃ、お互いの部屋に遊びに行ったりとかはするけれど、二人で出かけるというのが初めてなのだ。
 だって、その、そんな風に改まると恥ずかしいじゃない?
 友達に言わせれば部屋に行っているのに何を今さら、らしいけどさ。
「ねえねえ、私たちってどんな風に見えるかな?」
 駅前を歩きながら、恥ずかしさを紛らわせるようにもじもじと尋ねてみると、
「……少なくとも恋人同士には見えないと俺は思う」
 一メートルくらい離れたところを歩いている由貴君は、ぶすっとした顔で答えた。
「え、何で?」
「だって、こんな離れて歩いていたら、普通は進行方向が一緒なだけの人だよ! ほら、周りを見てみなよ」
 休日ということもあって、駅前は人でごっちゃごっちゃしている。家族連れの姿も見えるけど、多くのカップルが目に付いた。人の多さのせいか、そのカップルたちはお互いはぐれないように手を繋いでいるのが多い。
 由貴君は無言で立ち止まり、じーっと私の顔を見る。何が言いたいのか、手に取るようにわかってしまう。
「い、いやよ。そんなの。だって、恥ずかしいじゃない!」
 私は顔を赤くして、目で必死に抗議するも、由貴君は顔をつんとそらしやがった。こうなったら、てこでも蹴っても殴っても動かない。
「わかったわよ。繋げばいいんでしょ。繋げば」
 こうなれば自棄だと言わんばかりに、両手で由貴君の手をむんずと掴む。子犬のような見た目とは裏腹にごつごつと硬い由貴君の手。その手は少し汗ばんでいた。これでは、手を繋ぐというよりも、捕まえたって感じだ。
 それでも由貴君は、とっても嬉しそうに笑ってくれた。
 あれ、由貴じゃねえか、という言葉が私の背後から聞こえた。
「あ、秦君」
 偶然そこに居合わせたのはクラスメイトの上山秦だった。優しい由貴君とは全然タイプが違う坊主頭で口の悪いくそがきだ。それでも、由貴君の一番の友達らしい。私とは毎度のようにがみがみと噛み付き合っている。
 よりにもよって一番見られたくないヤツに見られてしまった。いや、まあ、遊ぶところが限られている町だし、こうやって知り合いに出会うのは珍しくもなんともないことで、だからこそ二人で出かけるのが恥ずかしかったわけで。私は、ひゅおおお、とかいう声にならない悲鳴を上げて、背筋をぴんしゃんと伸ばしてしまう。
「あれ、こんなところで何してんのー?」
 おかしな私を気にしないで、秦はへらへらと笑いながら言う。
「あ、うん。その」
 由貴君は困ったという感じに頬をかきながら、私を見る。思いっきり帽子を深くかぶっている私はぶるぶると首を振る。
「その子誰? 今井じゃねえみたいだけど」
 ちなみに今井っていうのは私のことだ。今井かける。
「よくわかんねえけど、今井にだけは見られないようにしろよな。お前がそんな綺麗な子と手を繋いでいるところなんか見たら、嫉妬のあまりに火を噴きながら机を振り回すなんてレベルじゃすまねえぞ。今井、もうすぐ学校に戻れるんだろ?」
 けたけたと笑いながら、待ち合わせがあるから、じゃな、と秦は行ってしまった。早々と人ごみにまぎれてしまい、その姿は見えなくなった。
 由貴君は気つかがわしげに、私を見る。
「まったく、あの馬鹿め。誰が嫉妬のあまりに机をふりまわすかっつーの」
 私は声を上げて笑った。
 もしも、私がかけるだっていうのを秦が知ったらどんな顔をするだろう。私なんかを褒めたと知ったら、悶絶してひっくり返ることだろう。その様子を想像すると、笑いが止められない。
「かけるちゃん?」
「私なら、大丈夫だよ」
 こういう風に、自分が歳をとっているのだ、というのを実感させられるのは確かに辛いよ。
 だけど、それをくどくどと悩んでいても、時間は進む。時計はかちかちと音をたてて回り続ける。
 私には、そんな時間はない。一分一秒だって惜しい。
 だから、そんなもの気づいちゃ駄目だよ。
 私は、地面から伸びてくる見えない手を振り払うように、由貴君の手をとった。それだけじゃなくて、腕を組み体をぴったりと触れさせる。Tシャツ越しに感じる確かな温かさは、私の心を落ち着ける。
「か、かけるちゃん」
 さすがにここまでするのは恥ずかしいのか、由貴君の声は上ずっている。
 確かに、町のど真ん中で腕を組んで歩いてるなんて、バカップルそのものだ。
「なーに?」
 私はとっても嬉しそうに尋ねると、由貴君はむうっと唸ってから押し黙った。
 どうやら、お互い覚悟が出来たようだ。
 私は由貴君を引っ張るように歩き出した。
 映画館に行き、ゾンビがばらばらになりまくるアクション物を見てすかっとして(由貴君は青くなっていた)、私の手作り弁当を中央の森林公園で仲良く食べて(由貴君は青くなっていた)、服屋さんに行って普段着ないような服を着てみたり(由貴君は赤くなっていた)。そんな風に過ごした。体はすぐにくたくたになったんだけど、休まず遊び続けた。特別に変わったことなんて何もしなかった。
 でも、とっても楽しかった。
 それ以外の言葉に出来ないくらい、楽しかった。
 明るい太陽の下だと、影がくっきり浮かぶみたいに、楽しい時間の後に待っているものが見えてしまいそう。
 由貴君が別れ際、
「また、デートしようね」
 と、言った。私はこくん、と頷いた。
 もう行くとこもすることも何もなくなるくらい、何度も何度も、デートしようね。


 Z


 それから、私は体調を崩して寝込んでしまった。やっぱり、昨日無理したのがたったのか。今の私にはただの風邪だってどんな病よりも重いものらしい。満足に動かない体っていうのが、こんなにも悔しかったのは生まれて初めてだった。
 一日が過ぎるのはとても早い。
 感覚的には一日だけで、季節が一回りしてまた同じ日に帰ってきている感じ。
 朝はリハビリをして、昼からは母さんと父さんと話をし、学校を終えた由貴君と話をする。
 特に何が出来なくても、その日は終わる。
 そんなんじゃ嫌だった。
 まっすぐ、まっすぐ走り続けていたい。百メートル走のときのように、後ろなんか振り返る余裕がないくらい全力で。私にまとわりつくものを蹴散らすくらい。
 でも、人生は百メートルなんかじゃ決してない。
 私の人生が他の人よりも短かったとしても、十秒やそこらで終わるものじゃないんだ。
 夜眠る前に、ふと鏡を覗いてしまったとき。
 由貴君と話をしていて、ついつい、私が死んだら葬式ってどうするのかな、なんて言ってしまったとき。
 そして、病院で元の私と同じくらいの歳の子を見てしまったとき。
 フルマラソンを全力疾走で駆け抜けようとしたって、そんなのは絶対に無理なわけで、途中ではあはあと息を切らしてペースダウンしてしまう。
 すると、ひんやりとした人の温かさを感じられないものが、ぴたっと肩や足首に触れるんだ。きっと、ストーカーに追われる人の気分ってこんな感じなんだなと思う。
 私は止まれない。だって、由貴君と一緒にいるって決めたんだから。だから、私は止まれない。絶対、止まれない。止まれないよ。止まっちゃ駄目なんだ!
 私は決して振り返らないように、とにかく色々やってみた。定番の編み物なんかもしてみたりした。
 これから夏が来るのに、と由貴君は笑いながら言う。
「由貴君なら夏だってマフラーをつけてくれるよね」
「うん、いいよ」
 まあ、どうせすぐに飽きるだろう、とでも思っていたんだろう。馬鹿め。そう思われたらやってやるのがこの私だというのを忘れているようだ。いや、正直、私もそう思っていたんだけど、案外出来るものだった。母さん曰く、私の教え方がうまいのよ、だそうだ。つくづく私って天邪鬼だわ。
 国語の教科書くらいしか読んだことのない本なんか読んでみた。とりあえず、世間で一番売れている本だ。内容を簡単にまとめると、病気の女の子が死ぬ話だった。ドラマなんかでよく見る内容だ。だけど、私は読んでいて胸が熱くなった。透き通った空気に響く音みたいだ。
 でも、同時に私とその子を重ねてしまう。
 私も死ぬとき、その子みたいに笑っていくことが出来るかな?
「かけるちゃんは、死なないよ」
 由貴君は力強く言った。私は出来る限り強く頷いた。
 だけど、意識しないようにすればするほど、考えてしまう。車に乗っているとき、交通事故の現場なんて見たくもないのに目を奪われてしまうみたい。


 ――どうして、笑って死ぬことが出来るのかな?


 そんな風に考える自分がつくづく嫌になる。
 私ってこんなに後ろ向きな性格だったのか。
 体調が良くなった頃、私はすでに母さんくらいの年齢になっていた。どうやら、歳をとる速度はまだまだ早くなっているみたい。
 歳をとった私は、母さんにとっても似ていて、つい、私たち姉妹みたいだねって漏らしてしまった。すると、口をきつく結んだ母さんの右目からつうっと、一筋だけど涙がこぼれた。
 母さんが泣くのを見るのは初めてだった。あの母さんが泣くなんて信じられなかった。世界がなくなってしまっても、母さんだけは絶対に泣かないと思ってた。それだけで、私は胸がいっぱいになってしまった。何も言えるはずがなかった。
 父さんは、かける、なんて名前つけてごめん、と言った。いつも、かけるなんて男の子っぽいと喚く私にむかって、いい名前だろとしきりに父さんは言っていたのに。
 由貴君は言う。かけるちゃんは、泣いても、良いんだよって。もっと、恨んでも良いんだって。言っている自分が泣きそうな顔をして。
 私は笑った。とびきりの笑顔。
 だって、そうするしかなかったんだ。
 これが、私の限界だった。もう、無理だった。 
 私はとうとう立ち止まってしまった。
 私は振り返ると、見えない腕がすごい勢いで迫ってきた。とんでもない数だった。今まで精一杯無理をした分だけ数が増えてるみたいだった。ほら、スピード出し過ぎた車って感じ。逃られるはずがなかった。
 一人きりで泣くのは良いの。だけど、文句を言うのだけは駄目だった。一度でも喚いたら、私はもう絶対に戻れない。
 本当は、本当のところはね。ずっと気づいていたんだ。
 精一杯生きたいなんていうのは、嫌な自分を隠すため。嘘っぱち。自分をがんばらせるための方便。
 もしも、私が、一度でも人を責めていたなら、ずっとずっと死ぬまで責め続けると思う。恨み続けると思う。
 自分の顔を鏡で見るたびに、何でって大声で叫びたかった。
 医者の先生を見るたびに、医者のくせに何で直してくれないのよってわめき散らしたかった。
 母さんや父さんに、どうしてこんな体なのって泣きながら訴えたかった。
 そんなの、絶対駄目だよね?
 だって、私は厳しくて強い母さんが好き。明るくて楽しい父さんが好き。由貴君が大好き。
 みんなを責めながら死にたくないよ。そんな嫌な感情のまま死にたくないよ。せめて、笑って死にたいよ。
 だけど、もう、無理だよう……。
 次の日、私は一度家に帰り、お金を何万円か盗み、二度と病院に帰ることはなかった。


 \


 私は最悪だ。
 結局、家族を裏切って、由貴君を裏切った。お金までいっぱい盗んだ。
 もう、いろんな意味で最悪だ。
 きっと病院では大騒ぎになっているだろう。行方不明の届けとか警察に出したのかな。一体私のことをどうやって説明するのかな。医者の先生が説明してくれるのかな。
 母さんはすごく怒っているだろうな。父さんはすごく泣いているかもしれない。由貴君は……。
 でも、今更戻るのなんて出来ないよね?
 私は行く当てもなく捨てられた子犬みたいにとぼとぼと歩く。
 そういえば、猫って死の間際になると、飼い主の元から離れて、一人でひっそりと死ぬって聞いたけど本当なのかな。猫も汚い自分を周りに見せたくないのかな。だったら、私みたいだ。
 どこをどう歩いたのか全くわからないまま、日が暮れてしまった。日が落ちるとまだまだ寒い。野宿なんかするのはまっぴらごめんなので、ビジネスホテルに泊まることにした。初めてこういうところを利用したからあたふたしちゃったけど、見た目だけはおばちゃんだから、何も疑われることなく泊まれた。中学生だったら無理だよね? 初めて歳をとったのに感謝をした瞬間だ。チェックインの名前は木原由貴にした。
 私は着替えもせずに、綺麗に整えられたベッドの上にぼすんと倒れこむ。そのまま、すぐに眠ってしまった。かちかちという部屋の壁にかけられた時計の音は気にならなかった。
 それからの私は、糸がぷちんって切れてしまったみたいになっていた。
 ただ、ぼんやりとしたまま一日が過ぎていく。だけど、それが苦しく感じたりしないの。わけがわかんない。
 人の感情って嫌なことに、プラスかマイナスしかないみたい。とんでもない幸せは、それと同じくらい強い恐怖を作り出すの。きっとその幸せを失うのが怖いんだね。
 でも、今の私には何もないの。ううん、罪悪感でいっぱい。
 変なの。罪悪感のほうが、幸せな時間よりも居心地がいいなんてさ。私ってMだったのかな。
 数日が過ぎると、私の髪の毛はすっかりと白くなりつやなんて何もなくなった。腕は枯れ木みたいになり、皮膚も乾燥してぱさぱさだ。近くのものが見えにくくもなった。
 バスや電車に乗ると、私と同じ年齢の子が席を譲ってくれるようになった。あはは。私が、同じ歳なんだよと知ったらびっくりするだろうな。本当に、本当に……。
 私は住んでいる町から出ていなかった。それでも別に見つかることはなかった。だって、私自身、鏡を見てもわからないんだ。他の誰がわかるっていうの?
 でも、私がこの町に残るのは、由貴君なら、私に気づいてくれるかもしれないって思っているからだった。
 遊ぶところを限定しない町はそんな狭いものじゃない。遊び場所が集中している中央にさえ寄りつかなければ、知り合いに会う可能性なんてほとんどなくなってしまう。
 最後の最後で由貴君に偶然出会えたら、由貴君が見つけてくれたなら、それは奇蹟みたいなもの。
 喉が渇いているときの水が最高に美味しく感じるみたいに、最後にそんなミラクルが起こったら、死ぬときに笑うことが出来るんじゃないかな。
 だから、由貴君。
 私を見つけて。
 いじっぱりで、かわいげがちっともなくて、我が儘な私だけど。
 いろんな物をなくしちゃった今の私が持てる願いなんて、そんなものしかなかったから。
 私はぼんやりとした調子で、町の東の通りを歩いてる。この日は雨が降っていた。予報では二十パーセントだったから、傘を持っていない人が多いようだ。今年は梅雨いり遅いみたいだしね。あわただしく駅に向かう姿が多い。
 私も傘を持っていない。さっきからずっと雨にうたれてる。体の感覚がもうない。まるで一日中バスに乗っていた感じだわ。もう、歩いているのかどうかも良くわからない。
 ばしゃばしゃと勢いよく水溜りを踏みつける音が聞こえて顔を上げた。
 六月も半ばになろうっていうのに、紺色のマフラーなんか首に巻いていた。私の作ったマフラーだ。
 どくん、と心臓がはねた。
 由貴君だ。
 一瞬だけ目があった。けど、由貴君は何も言わなかった。
「――」
 私は声を上げようとしたけど、喉がかすれてて何も言えなかった。もう言う資格なんか持っていないくせに叫ぼうとまでした。
 由貴君は、私の横を通りすがる。
 ああ、終わったな、と思う。ただ、由貴君を最後に見られて良かったと思った。それだけで、十分にミラクルだ。それに、由貴君がマフラーをつけてくれてて良かったと思った。それで、それで。
 心の内でほっと胸をなでおろす自分がいることに気づいてびっくりしながら、再び歩き出そうとする私の手がそっと後ろから掴まれた。
「あの、その……」
「あ、人を間違えました。かけるちゃんのおばあさんですか?」
「……あははは」
 由貴君があんまりわざとらしく言うので、私は笑ってしまう。だけど、力のない笑いだ。心の底から楽しかったのに、それが今の私の精一杯。
「やっと、捕まえた」
「由貴君、どうして?」
「俺が、かけるちゃんのことわからないとでも思う?」
「初めてのとき、普通に間違ったくせに」
 私はとっても嬉しいくせにそうとしかいえない。三つ子の魂ばばあまで。これは、何歳になっても変わらなさそうだ。
「そう言われると痛いね」
 由貴君は変わらずにそこにいる。ちょっとだけ痩せたかな。よく見えないや。だけど、私の編んだシンプルなマフラーをつけてくれてそこにいる。由貴君がいる。
 嬉しい。胸の奥まで響いて、心がふるえる。灰色だった世界を明るい色に変えてしまうくらいに。
 でもね。
 おかしいな。
 私はとっても、とっても満足してるはずなのに。神様のくれた奇蹟っていうのを噛みしめているはずなのに。
 私は――
「――ちゃん!」
 由貴君の声がよく聞こえない。耳が遠い。目がかすむ。
「……いやだよ」
 失った感覚を総動員させて、必死に由貴君の手を掴む。そうしないと由貴君がそこにいるのかもわかんない。
「……死にたくないよ。何で私が、死ななくちゃならないの。私、そんなに悪いことしたの?」
 私にはわからなかった。
 笑って死ぬってことがわからない。
 だって、笑うってことは幸せなんでしょ?
 どうして、幸せを失うのに笑っていられるの?
 私には全然わかんない。
 わかんないよ。
「いやだよう。嫌だ。怖いよう。お母さん助けて。お父さん助けて。由貴君助けてよう。死にたくないよう!」
 由貴君と一緒にいたいよう。
 いくつになっても、ずっとずっと一緒にいたいよう。由貴君がおじいちゃんになるまでずっと。
 後の声は言葉にもならなかった。ただの泣き声だった。最後の最後まで私は泣き続けた。


 ]


 これは、きっと夢なんだろう。
 すでに冷たくなった私は、由貴君に背負われて目を閉じてる。
「俺は最後まで君に追いつくことが出来なかった!」
 由貴君は唇を震わせる。
 由貴君は泣いていた。声をあげてわんわんと泣いていた。雨に散々うたれても、拳がぐっちゃぐっちゃの血まみれになっても、ブロックを殴るのを止めなかった。
 私は、そんなことはないよって言いたかった。
 由貴君と出会えたから、追いつかれちゃったから、私はあんなに死にたくなくなっちゃたんだよって。絶対に手放したくなかったんだよって。