目に映る光景は地獄だった。
崩れ去った城壁。町中に上がる火の手。そして、大勢の人々の死骸。
そんな死地の中を、旅人が好みそうないかにも頑丈な外套を身にまとった赤髪の少年が立っていた。まだ幼さを残しているものの、美貌といっても過言ではないその顔を歪める。
この様子では生き延びている者などいないだろう。それでもと、僅かな希望を胸に、誰か一人でも助かった人はいないかと思う少年は捜す。出来るだけ火の手が弱く損壊の少ない道を選ぶ。
半時ほど歩くと教会にたどり着いた。
教会は堅牢に造られていたのだろう。その形を崩すことなく残っていた。
しかし、中に足を踏み入れると、少年の表情は凍りついた。
まず目に入るのは、元が何の形をしていたのかわからない、ばらばらに砕かれた木の破片。それから鼻につく、むせるほどの血の匂い。そして、教会の壁という壁に、人々は磔にされていた。おそらく、非難してきた町の人々だろう。教会の堅固な造りはそのためのものなのだから。
剣、槍、獣の角。とにかく、突き立てられるものなら何でも構わないといった風だった。手に足に顔にとまるで子供がした乱雑な蝶の標本のようだ。
少年が壁へと近づくと、にちゃにちゃと足元から音がする。乾きかけた血が靴の裏へとひっつくのだ。
磔にされている人達の中には、女子供もある。いや、男たちは戦いに出ていたのだろう。ほとんどが女、子供だった。
その中の一つに近づいてみると、女性が男の子を庇うように、抱きしめているものがあった。おそらくは女性の子供なのだろう。必死で抱きしめているのが良くわかる。その女性と男の子をまとめて貫いている槍が、決してお互いを離さないといった風に見えるのが、悲しい。
「どうして……」
少年はこの世界に降りて、初めて言葉をもらした。
「おいおい、こっち来いよ。まだ、生き残りがいたぜ」
「お。本当じゃねえか。人の生き残りがまだいるな」
その言葉で少年は我に返り、入り口を見る。
そこには、豚をつぶしたような顔の化け物が二匹立っていた。背は成人の男性より僅かに低いが、そのぶん横に太い。鋼の鎧を身にまとい、手には重そうな鉛の棒を持っている。
「へへへ、もう全部ぶち殺してしまったかと思ったら、とんだ幸運だぜ」
化け物二匹は楽しそうに笑う。少年はうつむき、ふるふると震えた。
少年が恐ろしくて震えていると思った化け物たちは、ゆっくりと少年へと近づく。
「おい、独り占めはなしだぜ。一発一発順番だ」
「……どうして」
「どうしてだって?」
「そんなの決まってるだろ」
化け物の一匹が棒を思いっきり振り上げて答える。
「お前が人だからだよ!」
その言葉と共に、化け物は棒を叩き下ろす。しかし、その手には人を潰した時の肉の潰れた感触はまるでなく、硬い石を殴ったようだった。
「はれ?」
見ると、少年の姿はそこにはない。あるのは化け物の砕いた床の痕だけだ。
少年はすでに化け物から数歩離れた位置に立っていた。その手に、いつの間に抜かれたのか、新雪のような汚れを知らぬ真白い刀身の剣が握られている。
「てめえ。やる、気か。あれ?」
化け物は少年のほうを向いて、自分の背が妙に低くなっていることに気がつく。化け物は自分の体を見ると、胴より下がなかった。
「え、嘘」
化け物はそのまま絶命した。
「てめえ! 一体何しやがった」
残った化け物は慌てて棒を構えようとするが、前の化け物と同様、すでに鋼の鎧ごと胴体が真っ二つにされていた。
少年は、化け物たちの死骸を見下ろして、悔しそうに唇を噛み締め、
「どうして、間に合わなかったんだ」
と、呟いた。
少年は、いくつもの世界を救ってきた勇者だった。
しかし、この世界ではすでに人は滅びていた。
少年がこの世界に下りてきてから三日ほど町の中を探索したけれど、生き残った人は誰もいなかった。それでも、逃げ延びた人がいるかもしれない。そう思い、十日ほど町の周辺を探索したが、何十という化け物に襲われ、何百の人の死骸を見つけただけで、生きている人を見つけることは叶わなかった。
いつまでも同じ場所にいても仕方ない。ここで立ち止まっている間に、他の国が滅ぼされるかもしれない。そう判断し、町で見つけた地図を頼りに別の国へと向かった。神の加護のおかげで、字や言語などを理解することは出来ている。
地図で見る限り、少年の降りた場所は、一番大きな国の首都だった。
人が一番栄えている場所が魔物によって滅ぼされる。その意味を少年は、出来るだけ考えないようにした。
少年の行く国、行く町、行く村全て滅びていた。生きている人は一人も見つかりはしなかった。ただ、悲しみの痕だけが刻み付けられていた。
結局、二年もの時をかけて世界中を回り、全ての国がなくなっているのを少年は知った。
「僕はどうすればいいんだろう」
少年は川べりの石に座り、ぽつりとこぼした。水面は朝焼けの光を浴びて、きらきらと輝いている。
全ての国が滅んでしまっているのを知った上で、少年はまだ旅を続けている。もしかしたらどこかに逃げ延びている人がいるかもしれない。そんな、砂漠の中にある一欠片の金を探すような確率にすがっていた。
こんな時、ふと、前の世界に戻りたいな、と思ってしまう。でも、それは出来ない相談だ。
少年の生まれた世界で魔王を倒した後、勇者は英雄となった。けれども、その後は悲劇しか待っていなかった。魔王を倒すほどの力を持った存在。それを看過出来るほど、人は余裕のある生き物ではない。
内容は平凡な王権闘争だった。王の弟が少年の存在を恐れて起こされたものだった。その時の王がたいそう少年のことを気に入っていたのも理由だろう。王は、英雄を次の王へとしたいと考えていたのだから。
内乱の結果、その国の姫が亡くなった。白瑠璃の姫と呼ばれていた、その国を象徴とするとても美しい姫だった。
少年にとっては、同じ村で育った幼馴染だ。魔王に襲われたとき、生まれたばかりの姫だけを逃がし少年の住む辺境の村に預けられためである。
その村に同じ歳頃の子供がその二人しかいなかったため、二人はほとんど同じ時を過ごした。
父も母も早くに亡くした少年にとって、もっとも大切で、一番大好きだった少女。その人の死。それも、少年が原因で起こった事件だ。少年は深く絶望した。心は光の決して届かない闇の底へと落ちていった。
それを見ていた神は、少女の亡骸の傍らで、絶望の淵に沈む少年へと言う。
「その方を生き返らせてあげましょう」
その言葉に少年は目を輝かせた。それこそ、初めて日の光を見た者のようにだ。
けれども神は、ただし、と言葉を続けた。
「貴方は、この世界にいることは出来ません。歳をとることもありません。そして、その世界での名前も失ってしまいます。それでも、構いませんか?」
その問いに、少年は迷うことなく頷いた。
そうして、姫は生き返り、少年は名前を失った。
新たな世界でも少年は世界を救い、そして、新たに得た名前もそこで失った。そんなことをいくつも繰り返した。
意味はあるの、と問われても、少年は力強く頷くだろう。
好きな人ばかりではない。嫌な人のほうが多いかもしれない。どれだけの人が少年を利用しようとしたか、裏切ったかなどすでに少年自身数えていない。中には、人の手で妖精の国を滅ぼした世界もあった。それだけでなく、いざ魔王に殺されかけると少年に助けを必死で求めた。
だけど、どの世界にも、良い人はいたから。大好きな人が出来るから、少年は剣を振い続けた。
けれども、この世界には人がいない。良い人も悪い人も、大切な人も呪わしい人も誰一人としていない。いるのは、世を謳歌する魔物たちと、名前すらもらえない少年一人だけ。
単純に、人々が殺されたことに対する憤りだけで、剣を振えればどれだけ楽なのか。少年にそれは出来ない。少年がこの世界に降りたときのように、小さな子供たちの惨たらしい死体を見たときのことを思い出せば、頭がねじ切れそうなほどの怒りを覚える。
だけど、そういう感情で剣を振るっても力なんて出せないことを知っている。過去の悲しみを晴らすためでなく、新たな未来を紡ぐため。剣とは誰かを守るためにこそ振るうものなのだ。それだけは、少年の中で絶対に譲ることは出来ないものだ。
だから、少年は捜し続ける。良い人か悪い人かも分からない人を。
少年に剣を振るう理由がなくても、魔物は考慮したりしない。少年は毎日のように追われ、戦った。翼の生えた蛇。岩の体を持った鳥。少年の何倍もの大きさをした蜘蛛。
少年とて、伊達で幾たびの死線を潜り抜けてきたわけではない。どのような化け物に襲われたところで、後れを取ることはない。
その日も、林道を歩いているときに十以上の数の牛鬼に襲われたが、全て斬り伏せた。
少年は後味の悪さを感じながらも、剣を鞘に収め、その場に背を向けようとしたところ、常冬の冷気にも似た悪寒を感じ立ち止まる。
いつからそこにいたのか。林道の中央に、漆黒の髪と瞳、そして衣をまとった黒一色の美丈夫が立っていた。
「初めまして」
美しき青年は優しげな笑みを浮かべるが、少年はおさめたばかりの剣を思わず抜いてしまう。この青年が人とはとても思えなかった。人であるはずがない。人だとするにはあまりにも美しすぎる。
また、青年から感じる圧力は、その場にいるだけで息苦しさとおぞましさを覚えるほどだ。凍り付いてしまったかのように木々はざわめきを収めている。今そこで転がっている死骸などとは比較にならない。
「こちらは挨拶をしただけなのに、剣を突きつけてくるとは、随分と失礼な輩だな」
青年は口元を押さえて楽しそうに笑いながら言う。
「貴方は?」
「私か? そうだな、この世界の王とでも言えば良いのかな。そう、君の倒すべき存在だ」
生憎と、名前は長い時、呼ばれていないから忘れてしまったがね、と言う。
魔の王。青年に言われなくてもその位、少年はわかっていた。これほどの存在、他の世界の魔王たちと比べても抜きん出ている。剣を握る手が恐怖のために震えるのを押さえることが出来ない。
だが、どうしてだろうか。少年は心の奥底で、この相手に対しどことなく共感を覚えてしまう。
「そう構えるな。誰もこの場で今すぐとって食おうというつもりはない。楽しみは後にとっておく主義でね。だからただ、君の名前を聞きに来ただけだよ。世界を渡りし勇者よ」
――そうか。
少年が何故、魔の王に共感してしまったのか、すんなりと理解できてしまった。
「僕に名前はありません」
「ほう」
どういう意味かとは魔の王は問わない。その言葉だけで全てを理解したのか、ただ興味深げな瞳をする。
魔の王が何故名前を呼ばれないのか、少年の知るところではない。神をわざわざ名称で呼ぶことのないように、彼も魔物達からは王としか呼ばれなかったのだろうか。人の生などとは比べものにならないだろう生の長さだ。何百、何千、もしかしたらそれ以上の年月もの間、一度も名前を呼ばれなければ、自らの名を忘れてしまうこともあるのかもしれない。
「名も無き勇者か。なるほど」
魔の王はぽつりと呟き、瞳が鋭く細められる。そして、唇を吊り上げて凄惨な笑みを浮かべた。
「ますます君に興味を持ったよ。どうかな、私の部下にならないか? このまま惨たらしく殺してしまうには実に惜しい」
ならないか、と疑問の形をとっているものの、断れば即殺すだろう。瞳からこぼれ落ちる殺意を隠すつもりがまるでない。それが、闇の世界に君臨する者の本質。力により全てを奪いつくす者だ。
世界を凍り尽くしてしまいそうな視線を、少年はまっすぐに受ける。
「お断りします」
「何故だ?」
短い問いに、少年は沈黙を返す。
「守りたい人のいない君の行っている行為は殺戮だ。勿論、襲われたから生き延びるために戦う。それは生物として何ら間違ってはいないだろう。だが、そのようなこと君が望むものではあるまい? 君の剣はそういう風に振るわれるためのものではないのだからな」
「ええ。僕もそう思います」
自らの真白い剣と、手を下した牛鬼達の屍を見比べてから、少年は頷く。
確かに、魔物達からすれば、今の少年は、人にとっての魔王となんら変わるところはないだろう。
「それでは何故だ?」
魔の王は再び問う。
「僕と、僕の剣は人を守るためにあるからです」
「すでに人は死に絶えた。生き残っている人は君だけだ。その君が自分以外の何を守る。何のために戦う?」
少年は剣を構えたまま、目を閉じて言葉を探す。
「何故、あなたは戦うの?」
昔、白瑠璃の姫にも同じ質問をされたことがある。
「あなたを守るためです」
少年はそう思ったのだけど、同じ村で育った相手に、そんな言葉恥ずかしくて言えるはずがない。
「大切な人達を守りたいから」
だから、そうとしか言えなかった。だけど、少年は胸をしっかり張って言えた。
今でも胸を張って同じ言葉が言えるか?
言わなくてはならない。
自分の行いが正しいと言える自信などありはしない。きっと、魔の王の言うとおり、少年の行っていることは無意味な殺戮だと思う。
それでも、人が好きだから。生き残っている人がいるのを、信じることを止めることは出来ない。
少年は目を開く。
目の前に立つ魔の王の威圧感が、幾分かおさまっている。変わりに、その瞳には少年が何と答えるのだろうかという興味が浮かんでいる。
「僕は、今まで勇者や英雄と呼ばれてきたことがあります。だけど、決して善人なんかじゃありません。ただ、人が好きだから、守りたいだけです。だから、僕は人がすでに滅びたなんて言葉を信じることは出来ません。たとえ僅かな可能性でも、僕は生き残っている人がいるのを信じます。魔の王よ。貴方のお誘いには感謝いたします。ありがとうございました」
そう言い、少年は言葉のとおり頭を下げて、剣を握る手に力を込める。
しかし、すぐさま襲ってくると思いきや、魔の王は、そうか、と至極残念そうに呟いた。
「まあ、それも良かろう」
「僕を殺さないのですか?」
「先ほど言っただろう。私は、楽しみは出来る限り残しておく主義だからね。今この場で、ご馳走を全て平らげるような真似はしないさ」
そう言う魔の王は、片手で顔の半分を隠すように押さえている。そうしておかなければ、衝動を抑えられないのだろう。指の隙間から僅かにのぞく瞳には、狂気の色が満ち満ちている。少年は額から冷たい汗が流れるのを感じる。
「君こそ、私を殺さないのか? 万に一つでも人が生き残っていたならば、私は必ずそいつを殺すぞ。私を殺さなければ、人を守るとは言えないのではないのか?」
「今の僕では、まだ貴方に打ち勝つことが出来ませんから」
「冷静な判断と観察力だな」
魔の王は素直に称える言葉を告げる。
「ならば、一つだけ忠告しておいてやろう、殺戮者よ。君は必ず、悲惨な末路を迎えることになるだろう」
魔の王は黒い衣をひるがえし、去って行った。
それからの少年の行動は変わらない。魔の王と出会ってから一年の時が過ぎた今でも、ひたすらに人の生き残りを捜して旅を続けている。ただ、魔物からの襲撃の頻度と苛烈さは更に増し、十日もの間、一睡も出来ない状態が続いた。
少年は出来るだけ見つからぬよう心がけているのだが、世界そのものに見張られているのか、完全に逃げ切ることは敵わない。一度魔物に見つかり、戦いが始まると、その間に新たな魔物達が襲い掛かってくる。
ここら一帯に潜んでいた魔物を全て殺したのか。ようやく、戦いを終えた少年は剣を下ろし、深く息をついた。戦い始めた場所が、滅びた村だったにも関わらず、今少年が立っている場所は道のない森の奥深くだ。戦っている間に随分と移動してしまったようである。
振り返ると、魔物の死骸で道が出来ていた。その数は十や二十できくものじゃない。少年がこれまで歩んできた軌跡が血で濡れた木々の葉で刻銘に分かる。
自分が一体何匹もの魔物を殺してきたのか。これだけじゃない。この一年もの間に一体どれほどの数を殺してきたのか。そのことを考えると、少年は恐ろしくなる。
自分からは一度も手を出したことはない。襲いかかられるから仕方なく戦った。出来ることなら戦いたくなんてない。
けれども、魔物に襲われなくなる機会は一年前にあった。それを少年は拒否した。
あれから一年間、結局人を見つけることは出来ず、魔物の死体を積み上げただけだ。
「姫様。僕は、間違っていますか?」
少年の行動を間違っていると最初に言ったのは、他でもない姫自身だったことを思い出し、少年は苦笑いを浮かべた。
自分が何を間違っていると言われたのか。思い出そうとしたところ、視界の片隅に動く影を捉えた。
まだ、生き残りがいたのか。
最近では、魔物達も正攻法では敵わないと悟ったのか、時間差をおいたり奇襲をしかけてきたりする。
少年は剣を構え、影が動いたほうへと注意を向けた。
すると、そこにいたのは、見た目の年齢なら少年と同じくらいの歳頃の少女と、まだ十には届かない年齢の男の子だった。
少年は今自分の見ているものが何なのか理解出来なかった。くじけそうな心を騙すための幻を見ているのか、あるいは魔物による魔術によるものか。
少年は心を落ち着かせるために何度か深呼吸をする。そうして、冷静になったところで、改めて少女達を見る。
少女のほうは気の強そうな顔立ちをしており、少年のことを睨み付けるように見ている。一方の男の子は対称的に、気弱そうな顔をして、少女の背中に隠れるようにしていた。
間違いなく、人だった。魔術や幻ではない。
ずっと待ち望んでいたことなのに、いざ出会うと何と言葉をかければいいのか分からず、少年は困惑してしまう。ただ、人が生きていたことの喜びが大きすぎて、
「来ないで、化け物!」
少女の隠し持っていた短剣に気づくことが出来なかった。
少女の短剣は、少年の心臓を深く貫いた。
少年は、一歩、二歩と後ずさり、木を背にしてようやく止まる。
「……どう、して」
少年は自分の胸に突き立てられた短剣に触れて、気づいてしまった。少年の手は殺してきた魔物達の血で真っ赤に染まっていた。手だけではない。髪の毛はぼさぼさとなり、体中返り血で汚れている。
つまり、少年は化け物にしか見えないということ。
「この子は絶対に守るんだから!」
少女は男の子の体を抱いて、ぐっと力強く少年を睨む。
なんということだろうか。人を守ろうとした結果、人に殺されてしまう。
少年の体には神の祈りが施されているので、すぐさま死ぬことはない。けれども、これほどの致命傷、魔法による奇蹟を得られねば助かることはないだろう。少年も魔法を使うことは出来るけれど、魔法とは自身の生命力から生み出すものだ。このような状態で使ったところで、自らの命を余計に削るだけになるだろう。
少年の頭を魔の王の言葉が過ぎる。
『ならば、一つだけ忠告しておいてやろう、殺戮者よ。君は必ず、悲惨な末路を迎えることになるだろう』
その通りになってしまった。さすがに、このような結末は少年自身予想だに出来なかった。
血まみれの自分のことを思うと、こういうものか、と思ってしまう。殺戮者の末路など救われはしない。少年が自嘲気味に笑うと、口から血がこぼれる。
すると、がさがさと茂みが割れ、大蜥蜴の群れが少年らを囲むように現れた。
少年はちっと舌打ちをした。どうやら、先ほど少年を襲っていた魔物達の援軍のようだ。
「あれー。勇者以外にも人がいるぜー」
大蜥蜴は細長い舌をちろちろとさせながら言う。
「あー。ほんとだー。女と子供だー」
「あれれー。でも、勇者死にかけてねー」
「まー、どっちにしろ、殺すんだけどねー」
大蜥蜴達は巨体に似合わず、木々を軽快に駆け上る。そのままの勢いで跳ね回り、踏み台にされた木の枝がへし折れる音が響き渡る。
少年は迎え撃とうと、剣を握りなおそうとするが、力がまるで入らない。その上、血が滑り、手から剣を取り落とさないようにするのがやっとであった。腕だけじゃない。足も神経が壊死してしまったのか感覚がない。胸に突き立てられた短刀の灼熱の痛みだけが、今の少年の感じる確かなものだった。
その間に、大蜥蜴は弓の様に枝のしなりを利用し、勢いをつけて弾けた。狙いは少年ではなく、少女達。少女の甲高い悲鳴が上がる。大蜥蜴の爪が振り下ろされる。少女は男の子だけでも守ろうと、ぎゅっと抱きしめた。健気にも、その目を閉じることなく、しっかりと大蜥蜴を睨み付けている。
その瞬間、少年の中で、この世界に降りてきたときのことが重なった。教会にて、無惨にも磔にされていた親子。
足の感覚は全くないはずなのに、少年は自然と駆けていた。その速さは疾風をも上回る。これまで、幾千もの魔物を斬り伏せてきた剣。未だに汚れを知らず真白なままの刀身が、白い閃光となって振るわれた。
くるくると宙を回転して大蜥蜴の腕が飛ぶ。
少年の剣戟は一撃でとどまらず、返しの剣で大蜥蜴の首を刎ねた。返り血が少年の顔を汚す。
それを見た他の大蜥蜴達は冷静になったのか、一旦少年達から距離を取る。
やはり無理があったのだろう。少年は剣を大地へと突き刺して、かろうじてその場へと踏みとどまる。体中が新しい酸素を求めているが、酸素を循環させる器官が完全に潰されたせいで、口内は逆流する血で満ちており開くことが出来ない。
それでも、少年は少女達のほうを見る。
少女は先ほどと変わらず厳しい瞳を少年へと向けていた。
やはり、自分も化け物と変わらないのだなと自覚すると、少年は悲しくなった。大方、今の争いも獲物の奪い合いと思われているのだろう。
けれども、男の子は、恐る恐るだけど少年へと近づき、服の裾で少年の頬を拭った。
少年は驚きに目を見張る。
「ごめんなさい、お兄ちゃん。お姉ちゃんが」
男の子は少年の頬を拭きながら言う。今の大蜥蜴の返り血は拭えたが、すでに乾いている血は拭いても落ちない。そのため、ごしごしと乱暴にこすられ、正直なところ少し痛い。
だけど、少年の気持ちを温かくするには十分な行為だった。
「いいんだよ。お兄ちゃんも、こんな格好でいきなり現れてごめんね。怖がらせちゃっただろ?」
少年は口から血がこぼれない様に、左手の甲を口元に押し付けて、ゆっくりと言った。本当は頭を撫でてあげたかったけれど、右腕は体を支えるのでやっとなため諦める。
「うん」
男の子は素直に頷く。
「こういう時は、嘘でも怖くなかったよ、と言ってくれないと、お兄ちゃんは悲しむぞ」
「こわくなかったよ」
少年の言われたとおりに男の子は答える。それを見て、場違いにも笑ってしまいそうになるのを少年はかろうじて抑える。
「ありがとう」
少年が礼を言うと、男の子は笑った。少年も苦しさを押し殺して、笑い返す。
その様子を見ていた、少女も少年へと近づき頭を下げた。
「本当にごめんなさい。私、どうしようもないことをしてしまって。それなのに、助けて貰って」
敵意がなくなった変わりに、少女は今にも泣き出しそうなほどに瞳が潤んでいた。
その少女に、何と答えれば良いかと考えようとしたところ、体全体に悪寒を感じた。先ほどの大蜥蜴達ではない。このような極寒の気配の持ち主など、一年前にあった魔の王でしかありえない。
「ふん。まさか、人の生き残りが本当にいるとはな」
魔の王は一年前と何一つ変わらぬ容姿のままで、少年達と向かい合うように立っていた。ただ、一年前と異なるのはその様子が明らかに不快気だということ。
少女達も一目で理解してしまったのだろう。目の前に立つ青年は、人の姿をしているだけの全く別な存在であることに。
「ただの人が、我が万里眼から逃れ、今まで生き延びていたのは大したものだ。しかし、それもここで終わりだ」
魔の王の手には、一年前に見ることはなかった細身の黒い剣が握られている。光を吸収してから得られる黒色ではない。光そのものが完全に届いていないかのように見える。少年の持つ剣とはまるで異なるが、恐るべき魔剣であるには違いない。
震える少女達を庇うように、少年は魔の王の前と立つ。
「見せてもらったぞ、名も無き者よ。たいそう愉快な見世物だった」
「貴方は、僕が悲惨な末路を迎えると言った。それなのに、人が残っていることを知らなかったのですか?」
「私は、預言者ではないからな。未来など茫漠とした形でしか見えやしないさ。もっとも、先のことが全てわかること程つまらぬことはあるまい? 知っていたら、それも決して愉快なものではなかっただろうしな」
魔の王は少年の胸元を指差して笑う。少年の胸元には、少女の刺した短刀がそのままになっている。
「さて、その傷だが。私なら癒すことが出来るが」
魔の王は少年に剣を突きつけて問う。
「今一度聞こう。私の部下にならないか?」
「僕が貴方の部下になったら、彼女達はどうしますか?」
「むろん、今すぐに殺すさ」
魔の王は視線を男の子へと向ける。視線を浴びた男の子は泣くことはおろか、呼吸すらままならない。
「貴方は、最後まで楽しみは取っておく主義ではないのですか?」
少年はその視線から庇うように立ち位置を変える。
「たとえどんな美味な料理でも、時間がたつと味は落ちていくだろう? 折角のご馳走を台無しにするのは勿体無いではないか。私とて料理が腐るまで待つような無粋な真似はしないさ」
「そうですか」
少年は魔の王を睨みつけて、
「ならば、僕は貴方を倒すだけです」
「……それは、正気か?」
「何か、おかしなことでも?」
「万全な状態でも君は私には敵うまい。そのことは理解しているだろう。その上、そのような死に損ないの体で何が出来るというのだ」
魔の王には、少年が何故戦いを挑むのか全くわからないようだ。
戦ったところで絶対に勝てはしない。その上、守ろうとした人にすら殺されそうになっている。なのに、何故戦うのだろうか。
「僕も、前に言ったはずです。僕は人が好きだから守る。僕が剣を向ける理由はそれだけです」
「馬鹿か君は! その人にこそ、君は殺されかかっているのだぞ」
「彼女は、自分の弟を守ろうとしただけです。貴方に出来ますか? 自分の命を懸けて他人を守ることが。自分よりも強い者に挑むことが出来ますか?」
「……理解出来んな」
魔の王にはそれだけしか言えなかった。
もとより、全てにおいて頂点に君臨する者。それ故の魔の王だ。他者を守るということはもとより、命を懸ける必要があるものなどありはしない。
しかし、それは少年とて同様のはずなのだが。
「ようするに、君はどうあっても死にたいということだな」
諦めたのか、魔の王は深いため息をつく。それは心から残念がっているように見えた。
しかし、それも束の間。太陽の光を小さな雲遮ったのと同じ程度の僅かなとき。魔の王の瞳に決して燃え尽きることのない黒い炎が蘇る。
「良いだろう。掛かって来るがいい、名も無き者よ」
「行きます」
名前を持たぬ者の白き剣と、名前を忘れられた王の黒き剣がぶつかり合った。
少年と魔の王の戦いは苛烈さを極めた。
少年の白き剣が振るわれるたびに、魔の王が黒き剣を薙ぐたびに、森は焼き払われ元の形を失っていった。昔、賢者の住まう聖域と呼ばれていた森は、戦いが始まって数刻もしないうちに死地へと姿を変えてしまう。
少年と魔の王の戦い自体はすでについている。焼けた大地の上に少年は倒れ、魔の王が見下ろしていた。
当然の結果だ。仮に少年の体調が万全であったとしても、この結果が変わることはないだろう。戦う前からほとんど死んでいる者など、物の数にもなりはしない。そのはずだった。
「ふん」
魔の王はつまらなさげに鼻をならし、胸元に触れてみる。手のひらがべっとりと黒色の血で濡れていた。その傷は深く、いかな魔の王といえど致命傷だった。
「どういうことなのだ、これは?」
その呟きとともに、魔の王は血を吐き、膝をつく。
「王よ――」
空間がゆがみ、姿を現した魔族が魔の王の体を支え、そのまま空間のゆがみを辿り去っていった。
後に残されたのは少年一人。その少年の元に少女と男の子が駆け寄る。
「大丈夫ですか? しっかりしてください」
少女が少年の体を抱き起こすと、少年は僅かに瞳を開いた。
「……ひめ、さま。ぼくは」
焦点のまるであわない目。少年の目は抱きかかえてくれている少女の姿は映らない。かわりに、ずっと昔の風景が浮かんでくる。
時間がゆっくりと流れているような、のどかな村だ。草原は何処までも広がっており、牛や馬はゆったりと歩いている。空は果てしなく高く、そのまま吸い込まれてしまいそう。少年の生まれた村だ。懐かしすぎて胸が切なくなってしまう光景。
その中に、姫の姿もあった。宮廷で着ているような代物ではなく、村娘が着ているような簡素な物だ。彼女は元々この村で育ったのだ、そのような格好でも似合わないはずがない。
「姫様」
「あんたってば本当に馬鹿なんだから」
姫は呆れかえったと言わんばかりだ。格好に合わせてか、言葉遣いも村にいた頃に戻っている。そういえば、城へと連れて行かれたときに、一番困ったのは言葉遣いと言っていたのを思い出す。あれで本当に大丈夫なのか、とおそらく少女よりも少年のほうが心配していたことだろう。
「本当に、本当に馬鹿なんだから……」
「僕はそんなに馬鹿だったかな?」
「ええもう。大馬鹿よ! 信じられない馬鹿だわ。救いがたい馬鹿」
今の間だけで、五回も馬鹿と言われてしまう。
「どうして、あんたは戦うの。どうして、そんなになってまで戦うのよ!」
「大切な人達を守りたいから。大切な人が笑ってくれると、僕も嬉しいから」
「だからあんたは馬鹿なのよ。大切な人が笑ってくれるのは嬉しいわ。でもね。逆に、大切な人が、辛い目にあっているのを見ると、とっても悲しいのよ」
「そっか」
そのことを考えたことはなかった。自分さえがんばれば、それで良いと少年は思ってた。自分が傷つくことで、誰かが傷つく。
「でも、この世界では、僕のことを悲しんでくれる人なんて」
「たとえ、あんたの行く世界にあんたを心配してくれる人がいなくても、私はずっとあんたのことを想っているわよ、エリューゼ」
その言葉だけで、名前を呼んで貰えるだけで、どれだけ救われるのか。
「……ごめん。でも、ありがとう」
最後に姫の顔をその目に焼き付けて、少年はゆっくりと目を閉じた。
一命を取り留めた魔の王は、玉座に座りぼんやりと考える。
どうして、自分はあの少年と相打ちとなったのか。力の差は歴然だった。そのことによる油断なども勿論ない。
それでもあの少年は、黒き剣をへし折って、白き刃を魔の王に届かせた。
わからないことは他にもある。少年はどうして、あれほどの力を持っているにも関わらず、他者を守ることだけに力を振るうのか。
大切な人を守るため、と少年は言う。おかしな話だ。少年ほどの力があれば、大切な者以外全て排斥することも容易いだろう。
それともそれが、人、という存在なのだろうか。
今更、人という存在が気になるとは。滅ぼしてしまった後から気になるとは皮肉な話だ。
「王よ。あの生き延びている人はいかがなさいますか?」
「放っておけ」
「は、放っておけ、と?」
てっきり、殺せ、と簡潔な命がくだると思っていた魔族は思わず聞き返してしまう。
「そうだな。それでは言い直そう。あの者達に手を出した者がいたら、その者は煉獄の炎でその身を焼き尽くし、その魂は峭寒の大地にて永劫のときを過ごさせてやろう」
「そ、それは何故ですか?」
「忘れたのか? 私は楽しみは出来るだけ残しておく主義だということを」
魔の王は冷ややかに、その魔族を見る。そこには同族に対する同情などない。逆らうのならば、誰だろうと即座に殺す。そのことは、魔族とて理解している。
「は、その命、徹底させます」
魔族は一礼をして、その命を伝えるべく去っていった。
一人残った魔の王は、
「ふん。ただの、暇つぶしだ」
誰にともなく、そんなことを言った。