人殺しの子供

 

 彼女が転校してきたのは、二月の初めという時期だった。教壇の前に立ち、自信なさげに自己紹介する彼女の名前は中野雪。こんな中途半端な時期の転校理由は「家庭の事情」らしい。
 僕はぼんやりと両親が離婚でもしたんだろうな、なんて単純に考えていた。別にそれ以上のことは何も思わなくて、いつもと変わらずポケットの中に手を突っ込んでいた。
 彼女の席は僕の隣だった。席へと着く前に彼女はぺこりとお辞儀をしてきたけれど、僕は窓の外に顔を向けたまま気づかないふりをした。外との温度差のせいで、窓ガラスは曇っていた。
 その噂は、彼女が転校してきて一週間ほどたってから流れ始めた。
 彼女の転校の理由のことだ。どうやら、離婚とかじゃなく犯罪ということ。しかも、父親が人を殺し現在裁判の最中という話だ。彼女の父親は、決定的な証拠があるわりに、今でも殺していないと言っているとのこと。
 そういう噂はどこから零れてくるのだろうか。僅かでも知られたら、噂は瞬く間に輪郭を形作っていく。
 それは、ニュースでも連日話題になった事件だ。
 最初は通り魔殺人か、という事件だった。死体の親指を切り落とされたりと殺され方が異常だったたために、大きく取り上げられたのだ。
 とはいえ、事件自体は一年以上前の十二月十日におこったもの。しかも、二つも隣の県でおこったものだ。
 それなのに、何でそんな噂が流れたのだろうか。
 被害者の遺族が恨んでおり、どこまでも付回しているとか言われているけど、真相は闇の中。何にせよ、人の悪意への反応には感心する。
 配慮の足りない奴が、彼女に直接尋ねた。彼女はその言葉に、転校してきてからずっとしていたように、俯いたたまま身を縮みこませることしか出来なかった。それは、肯定の意味に他ならなかった。
 それからは、酷いという一言で片付けられる有様だった。ブリキの城から支柱を抜いたように、彼女の生活はあっさりと崩壊した。
 僕は事件のことをよく知っているけど、噂は明らかに有り得ないところまで拡張されていた。いや、噂だけならまだいいだろう。彼女に対して、陰湿な苛めが為されてた。画鋲なんて分かりやすいものから、口に出すのもはばかられる"見ているだけ"で気分が悪くなるようなことがされ続けてた。先生は気づかないふりをした。
 彼女は黙って何の抵抗もすることなく、耐え続けてた。教科書が破かれようと、制服が隠されようと、変わらずに俯いたまま身を縮みこませてた。
 そうすることが当たり前。そうされることが当たり前。


 人殺しの子供なんだから仕方ないだろう?


 何て嫌な雰囲気だろう。同じ教室にいるだけで、胃がきりきりと痛む思いがした。
 そんな光景は、見ている僕のほうが耐えられなかった。
 だから、授業中だというのに、僕は両手で思いっきり机を殴りつけた。
 みんなが一斉に僕を見る。あまりに突然のことだったために、先生ですらも注意することを忘れ僕を見ていた。だけど、彼女だけが変わらずに俯いたままだった。
「何で、そこまでするんだ。どうして、そこまでするんだ。人殺しの子供っていうのは、そんな苛められないといけないのか!」
 僕はありったけの想いを込めて叫んだ。
 切れた僕とは反対に、教室はしんと静まり返った。誰も何も言わない。かちかちと時計の秒針の音がよく響く。
 僕はそれ以上何も言えず、彼女のほうを見た。
 俯いたままの彼女は、
「……私が、殺したわけじゃないのに」
 ぽつりと呟くように言った。



 次の日、彼女は引っ越すことになったらしい。
 その日の放課後、帰り道の途中で彼女が僕を待っていた。
「どうして、もっと遠くに行かないの?」
 聞かずにはいられなかった言葉を尋ねてみる。
「一つの場所には、長いこといられないから。だから」
 何処に行っても変わらない。
 思えば、彼女が引っ越してきてからこれが初めての会話だった。
「あんな風に怒ってくれた人は初めてだったの。だから、ちゃんとお礼が言いたくて……ありがとう」
 それだけ言い、彼女は出会ったときと同じように、ぺこりとお辞儀をして去って行った。
 冬の終わりにやって来た彼女は、春の始まりに去って行った。
「僕は……」
 続きを言うことは決して出来ない。
 どうして、あんなに腹をたてていたのかなんて。
 これは、ただの偶然なんだろうか。それとも、僕に対する罰なんだろうか?
 まさか、彼女がこの学校に転校してくるなんて。
「ありがとう、なんて」
 そんな言葉、絶対に言ってはいけない。
 僕にだけは何があっても言ってはいけない。
 僕はポケットの中にある小さな骨を握り締めると、ずきずきと胸が痛むのを感じる。
 あの事件の、真犯人が僕だなんてことは、絶対に言えるはずがない。