ボタンを付け替えただけの学生服に袖を通し、僕はため息をついた。
今日から新しい中学へと通うわけだが、転校になれているとはいえこの日はいつも緊張する。しかも、五月の半ばという転校生にとって実に中途半端でやりにくい時期だから尚更だ。父が個人の電気技師なため、大手の工事にあわせて引っ越すのは仕方ないんだから、文句を言ってもしょうがないんだけどさ。
今日から僕が通うのは鶴岡中学校。田舎にある中学らしく一学年一クラスしかないらしい。まあ、大きな工場を新しく建てられるような場所なんてこんなものだ。
職員室で挨拶をすませると、先に教室に行くようにと言われた。二年とだけ書かれた教室へと向かうと、まだ誰も登校していなかった。時計を見ると七時半をさしている。
僕に割り当てられた席は窓際のようだ。席に座り、窓の外を見る。
野球部が朝練をしていた。広いグラウンドを十人くらいの部員が走っている。狭いグラウンドを大人数で使う都会とはまるで逆だな、と思っていると、
「僕にはまるで関係ないって顔をしてるね」
声をかけられてはっとした。
そちらを向くと、にこにこと笑った女の子が立っていた。くりくりとした瞳が可愛らしい子だ。
「君が転校生くんだね」
「あ、うん。僕は石岡」
「私の名前は野上春香。下から読んだら、かはるみがのだよ」
「いや、何で下から読む必要が」
今の下から読んだらはどんな意味があったんだ! しかも、地味に間違ってるし。脊髄反射で突っ込みを入れてしまうと、彼女は楽しそうに笑った。
「石岡くんって面白いね」
「いや、どう考えても面白いのは君のほうでしょ」
「オーケイ。ここは親切な私が、この学校について教えてあげましょう」
「こっちの言葉はスルーされた!」
彼女は英語の先生が優しいだ、片桐くんが格好良いだと教えてくれる。マシンガンじゃ足りない。これはライトニングトークだ。おかげで、登校初日にして何年も通った気分になってしまった。
すでに何人か登校してきているけれど、こちらの様子を伺うだけだ。普通はそうだろう。紹介される前の転校生に、いきなり話しかけてくる彼女が変わっているのだ。
その彼女は、そんな周りの様子には構わずに話してる。
「部活はそうだね。男子は野球部とテニス部。女子はテニス部とバレー部。人数少ないけど、結構強いんだよ。野球部なんて昨年は全国行ったしね」
そこで彼女は言葉を切り、真顔になった。
「石岡くんは部活に入るのかな」
「いや、僕は」
「どうして? 体育の成績がいつも二だから?」
「そうじゃな、て、何でそこまで知ってるんだ!」
とにかく、どうせ僕は半年もたたないうちにまた転校してしまうのだ。折角出来た友達とだってすぐに別れていく。それは、とても寂しい。
だったら、最初から作らない方がいい。無理して仲良くならない方がいい。そのほうが楽だ。
「でも、それってもったいなくない?」
簡単に言う彼女に、ちょっとだけかちんとくる。
いつもそうだ。こちらのことを知らない人はみんな同じ様に言う。
「私は短いからこそ、折角石岡くんに出会えたんだから仲良くしたいんだけど」
あいた口がふさがらないって言葉はこういうときに使うんだっけ?
とにかく、文句を言おうとした僕の口はあいただけで何も言えなかった。
タイミング良く先生が教室に入ってきて、みんな席に戻る。
「今日からこのクラスの仲間になる、石岡修司くんと野上遥香くんだ。二人とも前へ」
先生の言葉で今度こそ本当に、あいた口がふさがらない。
訳が分からないうちに僕は教壇の前に立っていた。
「二人とも、お父さんが大田自動車工場の工事の関係でやって来ている。短い間だけど仲良くしてやってくれ」
と、先生が分かりやすく説明してくれた。
言われてみれば、別に何も不思議な話ではない。僕の父みたいな技術者が一人だけのはずがないんだから。
「石岡くんは、転校は嫌い?」
席に戻るとき、彼女は耳元でそっと囁いた。
「え、と」
さっきまでの思考を思い出す。おそらく、僕と同じように転校を繰り返していたであろう彼女にむけて何を思っていたんだ。恥ずかしくなってとてもじゃないが答えられない。
「私は嫌いじゃないよ。だって、色んな制服が着れるもん」
「て、そんな理由なの!」
思わず突っ込みをいれてしまうと、みんなに笑われた。
全く。転校初日から、散々な目にあったものだ。
だけど、放課後に部活でも見学しようかなって気持ちになってしまうのだから本当に不思議だった。
「というよりも、何で野上さんはこの学校のことあんなに詳しいのさ」
「だって新しい学校って怖いから。出来るだけ調べておかないとね」
「いや、どうやって」
「ふふ。ひ・み・つ」
「……」
「あら、女の子は少しくらい秘密があったほうが魅力的でしょ?」
なんて、彼女は笑いながら言った。
ちなみに、十月の終わりに僕は転校したのだけど、その中学についてとんでもなく詳しい野上春香って子がクラスにいたのは別の話だ。