「喜ぶがいい、お主は神に選ばれたぞ」
いつものように、一人遅く残業を行っていると、唐突にこんなことを言われた。
「君は?」
ビジネスタワーには不釣合いな着物を着た美女だった。
普通なら訝しがるところを、彼は作業を止め、いたって真面目に聞き返す。
「私は神様だ。まあ、そんなことよりもだな」
選ばれた人間の願いを叶えないと、彼女は神の住む地に戻れないのだと一方的な理由を続ける。
その願いの数は三十二。
「三十二とは、随分と多いな」
「単純にお主の歳の数だ。まあ、お主ら人間は、やれ願い事を増やせだ、永久に叶え続けるようにしろだと言ってくるだろうから。これだけあれば満足だろう?」
「いや、結構だ」
彼はきっぱりと断った。
「な、何故だ?」
「私はそういう、ずるい真似は嫌いなんでね」
彼はにべもない返事をし、話はそれだけだと判断したのか、仕事の続きへ戻る。
「ま、待て。お主信じておらぬだろ。いいか、良く見るがいい」
そう言い、彼女はいくつか奇跡を見せてみせるが、彼はキーボードを叩くのをやめもしなかった。
彼女としては、こんな反応をされるのは予想だにしていない。
「く、ならば、願いを叶えたくなるまで、一緒にいてやろう」
その言葉には、さすがに驚いたのか、彼は眼を丸くして彼女を見る。
「何、人の一生など私にとっては大した時間ではない」
胸を張って言う彼女に、彼はそういう問題だろうかと、首を傾げるばかりだった。
彼女が彼の元に現れて一年が過ぎても、彼は一つも願い事をしなかった。
客先から理不尽に怒られた。部下の失敗で仕事に追い込まれたりもした。
しかし、彼は奇跡の力に頼る真似をせず、全て自分の力で行った。
「お主は大したやつだな」
彼女は逆に感心していた。
「例えるなら、飢えた獣の目の前にご馳走を並べているにも関わらず、食べないようなものだからのう」
「そう言われると、全然褒め言葉に聞こえないんだが」
「そういえば、お主に、妻や子供はおらぬのか?」
彼女は広い部屋を見回しながら尋ねた。
彼は2LDKのマンションで一人暮らしをしている。三十半ばという歳でお金に余裕があるとはいえ、都内では珍しいことだ。
「妻には逃げられたよ。子供はいない」
彼はつまらなそうに言う。
「ほほう。お主、浮気でもしたのか?」
「いや。単に、彼女にとって、私がただ頑固で真面目なだけの、つまらない男だったからだろう」
「そうか?」
彼女は何処か楽しそうに言う。
「お主は面白い男だぞ。少なくとも、願い事を叶えないでおくなど真似出来る者を私は知らぬ」
「……」
「しかし、願い事はして貰わぬと私も困るんだがのう」
彼はやれやれと思いつつ、
「じゃあ、コーヒーを淹れてくれ」
願い事を一つ頼んだ。
「おお、任せるがいい」
彼女はすたすたと台所へ向かい、すごすごと戻ってきた。
「すまぬが、どうやって淹れるのだ?」
「何だ、そんなことも知らないのか」
「悪かったな」
「何故胸を張りながら言う?」
結局、彼がコーヒーの淹れ方を教えて、ようやく出来上がる。
「ふ、どうだ」
「美味いな」
彼は素直な感想を口にした。
本当に自分が淹れたものよりも美味しい。
そうだろう、とふんぞり返る彼女を尻目に、彼はどうしてだろうと考える。
馬鹿らしい。誰かに淹れてもらったほうが美味しい。そんな単純なことも忘れてしまっていたのに、思わず笑いたくなってしまったのだった。
それから彼は、願い事を少しずつだがするようになった。といっても、奇跡の類ではなく、一緒に食事をしたりなど普通の人に頼むようなものだけだった。
けれど、願い事を一つ残して彼は病に倒れた。長年の無理が身体を蝕んでおり、病が発見された時にはすでに末期の状態だった。
「病を治してくれ、とは願わぬよな」
彼女とて、長い間彼と一緒にいたのだ。答えなどとうに分かりきっているが、自室のベッドの上に横になっている彼に尋ねた。
「勿論」
案の定、彼は頷いた。
「願いはあと一つだ。私が出来ることなら何でもいいぞ」
身寄りがなく、最後に看取る者のいない彼に対して、せめてもの言葉だった。
しかし、
「最後の願いは、叶っている」
と、彼は言った。
「何」
「どうやら私は、『君と一緒に過ごしていたい』と思っていたようだ。これが、最後の願い」
「……」
「月並みな言葉で申し訳ないが、すまなかった」
最期の願いのはずなのに、出てきたものは謝罪の言葉だった。
「お主は、本当に不器用な男よの」
彼女は大きくため息をつく。
「そんなものはとうに知っておる。だから、最期の願いを聞いておるのだ」
「え」
「何をおかしな顔をしておる。最初に言ったであろう。願い事は、お主の歳の数だと」
確かに、彼が彼女と出会い、一年の時は過ぎている。
「それにな。私は、お主と一緒におれて楽しかったぞ」
そう言い、彼女は笑いかけた。
「それなら」
それから間もなく、彼は息を引き取った。
孤独な最期だったはずなのだが、誰かに見取られたように、安らかな笑みを浮かべていた。