町へと魔物の大群が押し寄せてくる中で、ローズは頭を抱えていました。彼女の上官であるヒースが撤退しないと言ったからです。それだけでなく、魔物の大群に単身で立ち向かうとまで言い張る始末でした。
ヒースは英雄と呼ばれている存在です。人類最強や不敗の伝説も数知れません。
ですが、いくら強いとはいえ所詮は神ならぬ人の身に過ぎません。仲間もいないこの状況で、魔物の大群を倒せる筈がありませんでした。
「不敗の名が傷つくのをお恐れなのですか? それとも、勝てるとお思いなのですか?」
そのため、泊まっている宿にて、ローズはこのように根気強く説得を続けなければならなかったのです。
「えーとね、ちょっとこの花を見てくれる」
「花?」
ヒースは机の隅に置かれた花瓶を指さします。その花瓶には白色のプリムローズがさされていました。春の訪れを示す花を見て、ローズはもうそんな季節なのですね、と思います。
「君と同じ名前を持つその花に込められた言葉は、一度きりのもの。だからさ、敗北というのをどういうものか初めて知るのも悪くないんじゃないかな」
ようするに、負けるのは別に構わないと言っているのでしょう。
真面目な顔をして何を言うかと思えば――相手のつまらない冗談にローズは眉を思いっきりしかめます。
「愚かな」
今の言葉でローズは我慢の限界を超えたようでした。
「貴方はご自身の価値をまるで理解していない。貴方は人の希望なのですよ。そのことを少しは自覚してください!」
どん、と思いっきり机を叩いて、ローズは彼に詰め寄ります。その剣幕に怯えたのか、は、はいと英雄は縮こまってしまいます。
その様子だけを見れば、ただの気弱な青年にしか見えません。何でこんな人が英雄なんだと、ローズは本気で思います。
ヒースは怯えた様子で、衝撃で揺れている花瓶を再び指さします。
「こ、この花はね。町の子供に貰ったんだよ。英雄様がんばってねって。とっても素直そうで可愛い女の子だったな。あれは将来絶対美人にな――」
「それが何か?」
冷ややかな反応に、ヒースはこほんと咳払いを一つして言葉を続けます。
「町の皆は英雄がいることを知っているんだ。一応、不敗の英雄なんて呼ばれている僕がね、逃げ出したなんてほうがこの町だけじゃなく人にとっては絶望だろ。相手がいくら大群でもね」
「それは、そうですね」
その言葉にはローズも頷かざるを得ません。確かにその通りだからです。
不敗の英雄という肥大化した伝説は敗走を決して許してはくれないでしょう。
「だから、僕は勇気を示して戦わなくちゃならないと思うんだ。柄でもないけどね」
「そのためには、自身は死んでも構わないと?」
「そりゃ、死にたくはないよ。僕が恐がりなのは君が一番知っているだろ。ただ、逃げ出してこの町の人を見捨てたり、その後非難される勇気もないってだけだよ」
何て理不尽な話だと唇をとがらせて言う彼に、ローズは大きくため息をつきます。
「貴方は、愚かすぎます。英雄としても、人としても」
その言葉に、手厳しいね、とヒースは肩をすくめて見せました。
本当に、どうしてこんな人が英雄なんだろう。ローズは再び心の中で呟きます。
どこをどう見ても英雄のように高潔な意志を持たない、ひいき目に見てもちょっといい人と言うのがやっとなだけの人なのに。
「それじゃあ、もう行くよ。ローズは本国のほうへ宜しく頼むよ」
そんなことを思っていたら、剣を手に立ち上がるヒースの服の裾をローズは無意識のうちに握りしめていました。
「ローズ?」
「それは、私よりも大切なのでしょうか?」
ローズは俯いて言いました。言う唇が震えるのを自身にも感じます。
「その言葉はずるいよ」
ヒースは苦笑いを浮かべる他ありません。
そんなことはローズにだって分かっています。彼女自身こんな言葉は死んでも言いたくはありませんでした。
「言わせたのは、貴方だ」
でも、彼に死んで欲しくないために自然と口から出てしまったのです。
ヒースは困ったように頬をかいていましたが、ふと何か思いついたのか、花瓶の花を手にとって彼女の服の胸ポケットにさしました。
「この花を、君へ」
「え?」
ローズがその花へと気を取られた隙に、ヒースは彼女の手から離れて行ってしまいました。
最後に、ありがとうという言葉を残して。
・ ・ ・
戦いの結果、英雄は命を落としました。しかし、単身で援軍がくるほどの時間を稼ぎ、魔物との戦いには勝利して町も無事に守ることが出来ました。
これを勝利と呼ぶのか、敗北と呼ぶのかは歴史家が判断することでしょう。
ただ、彼の従者は、格好付け過ぎなだけですとだけ残したそうです。最後に残された花、初恋という花言葉を持つ白いプリムローズを両手で握りながら。