最初で最後のわらわたし

 

 皆さんは藁渡しという妖怪をご存知でしょうか。ええ、珍しい妖怪ですのでご存じないと思います。
 藁渡しは着物を着た小さい男の子の姿をしており、その手には藁を一房握っていることからそう呼ばれているのです。
 現在、藁渡しは大いに困っていました。
 妖怪の存在は人の知名度によって左右されます。
 そのため、ほぼ誰にも知られていない藁渡しはずっと一人ぼっちなのでした。それどころか今では自身の存在も危うくなっているのです。このままでは最初で最後の藁渡しとなってしまうでしょう。
 凄く怖くなった藁渡しは、人に自分の存在を知ってもらおうと決意しました。
 けれども、藁を一本握っているだけの自分に何が出来るのでしょう?
 存在の薄れてしまった藁渡しには自分の役割が思い出せません。
 自分がどういう存在なのか知りたくて仲間の妖怪に尋ねようと思うのですが、赤マントは発する奇声があまりに怖くて近寄れず、亜音速で駆け巡るジェットばあさんには追いつくことすら敵いません。
 仕方なく、本来なら近寄るのも恐れ多い天狗様へと尋ねました。
「主は溺れている人に向けて藁を差し出す妖怪だ。溺れる者に僅かな希望を与えるだけで握った瞬間に手放すという怪談に登場しておる。どうやら溺れる者は藁でも掴むという言葉が元となったようだな」
 その言葉に、藁渡しは大きなショックを受けました。自分の存在は思っていた以上に極悪だったようです。
 けれど、落ち込んでいても仕方ありません。このまま何もしないでいるともうすぐ消えてしまうのです。藁渡しはとりあえず海辺へと行ってみることにしました。
 海辺には釣りをしている人がぽつぽつといました。
 何気なく藁渡しが釣り人へ近づくと、何とその人は防波堤から海へと落ちてしまいます。
「あわわ」
 藁渡しが慌てて藁を向けると、その人の元までひゅるひゅると伸びました。溺れている人は無我夢中でその藁を掴みます。
 これで、手を離せば伝承通りです。
 ですが、藁渡しは良心の呵責からか手を離せませんでした。それどころか、釣り人を助けようとしてえいやと力の限り引っ張っります。
「あれ?」
 けれども、引っ張り負けた藁渡しも海へと落ちてしまいました。
 そして、釣り人は別の人達の手で、無事救出されました。

 日はすっかりと落ちてしまいました。ずぶ濡れのままの藁渡しは今のでがっくりと自信を失い、ついには声をあげて泣き出してしまいます。
「どうしたの? だいじょうぶ?」
 すると、藁渡しと同じ歳くらいの女の子に話しかけられました。
 一瞬、藁渡しは誰に話しているのかと周囲を見回してしまいます。
「へんなかっこうね」
 女の子は藁渡しと目を合わせて首を傾げます。
 存在が消えかかっている藁渡しに今まで誰も気づいてくれませんでした。ですが、この女の子は藁渡しが見えるようです。
 自分のことが認識される。藁渡しはそれだけで嬉しくなりました。
「こんな時間に君は何をしてるの?」
 泣きやんだ藁渡しは尋ねます。
 もう日は完全に落ちてしまっており、小さな女の子が一人で出歩いていて良い時間ではありません。
「おうちかえりたくないの。パパもママもおしごとでいつもおうちにだれもいないから」
 女の子も藁渡しと一緒で一人ぼっちが寂しかったのでしょう。今の言葉で我慢しきれなくなったのか、目に大粒の涙を浮かべました。藁渡しにも、寂しい気持ちは強く分かります。
 女の子に認識されたおかげか、藁渡しは一つ思い出したことがありました。
 溺れた人に掴ませるための藁には、人を引き寄せる力を持っているのです。
 この力を使えば女の子の家族を引っ張り、家へと帰してあげることが出来るでしょう。
 でも、溺れさせるという自分の存在意義と異なることをしたらどうなるのでしょうか?
 藁渡しは少し考えて決意します。
「大丈夫だよ。パパとママを帰ってこさせてあげる」
「ほんとう?」
「うん。僕に任せて」
 どうせ、このまま放っておいても遠からず消えてしまう身なのです。
 それなら女の子のためになったほうが良いと思いました。だってこの女の子は自分を初めて見てくれた人なのですから。
 藁を引っ張りながら女の子を家まで連れて行くと、ついていないはずの明かりがついています。カーテンの隙間からは男の人と女の人の姿が見えました。
「ほんとだ。パパとママだ!」
 女の子は目を輝かせて家まで駆け出しますが、一度立ち止まりました。
「あなたのおなまえは?」
「藁渡しだよ」
「わらわたし? へんなおなまえね。でも、ありがとう」
「いえいえ、どう致しまして」
 女の子はにぱっと笑ってから、家に入っていきました。
 これでまた、藁渡しは一人きりです。
 自分はもうすぐ消えてしまうでしょうか?
 それは分かりませんが、藁渡しはありがとうと言われたのはとても嬉しかったなとだけ思っていました。




 藁渡しと呼ばれていた妖怪はもういません。
 ですが、笑渡しという藁を握った小さな妖怪たちが、今日も何処かで小さな笑みを届けているようです。