旅をしていると、老人が一人なにやら難しい顔をして、ドアの前に座りボタンをずっと押していた。
「あの、何してるんですか?」
何か困っているのかと思い尋ねてみる。
「見て分からないのかい、お嬢ちゃん? パスワードを打っているんだよ」
「パスワード?」
老人の手元を見ると、八桁の数字を入力していた。どうやら0から9までの数字を入れていくもののようだ。
9870001の数字を打ち込み、エンターのボタンを押す。
ぴ、ぴ、ぴという音の後、エラーが表示された。
老人は手元にメモを取り、次に9870002の数字を入力する。また、エラーが表示された。
「これずっとやってるんですか?」
「ああ。もう、何年前になるかは忘れちまったがね。覚えとるのは絶対に開けなくちゃならないってことだけさ」
かかか、と老人は笑いながら言う。
「ああ。中からも決して開かないようになっとるし、数字も完全ランダムで選ばれるようになっておる。だから、ブルート-フォース攻撃しか通じないんじゃ」
「ブルートフォース?」
「00000000、00000001、00000002と一から全ての数字を打ち込んでいく方法のことさね」
パスワードの桁数は八桁。0から9までの数字を入れられるため丁度一億パターン存在することになる。
パスワードを打ち、反応を待つ。自分が入れた数字を更新する。このサイクルは大体ニ十秒くらいだ。
この作業を一日十八時間行うとしても、全ての数字を打ち込むためにはざっと八十五年以上は必要だ。
今の時点でも、00000000から打ち込んでいるとなると、もう八十年近く打ち込んでいることになる。
「ずっと、この場所でやってるって言いましたよね。食べ物とかどうしているの?」
「ほら、汚くなりすぎたのかわしの体からきのこが生えているだろ。それを食べているんだよ」
「ほんとだ、すごいなあ」
「水はそこの雨どいから伝わってくるのを飲んどる」
「誰かに襲われたりしないの?」
「こんな山奥まで人が来ること自体ないんじゃが、仮にここまで汚らしいと逆に関わりたくないんじゃろうよ」
「そうなんだ」
「実際襲ったとしても、なんのメリットもないしのう。それよりも、おじょうちゃんのほうこそ平気なのかい? 見たところ、一人きりみたいだし、そんな可愛らしいんだし」
「あはは、ありがと。でも、ボクは平気。なれてるもん」
「そうかい、そいつは良かった」
喋りながらも、ボタンを押す手と打ち込んだものを記録するのは止まらない。
「迷惑じゃなければ見てていい?」
何となく興味を持ってしまう。
ここまで長い年月をかけてまで開けようとしているものは単純にきになる。
それに、ボクにも時間なんていくらでもあるのだから。
「邪魔さえせんければ、構わんよ」
・ ・ ・
「りんご採ってきたからあげる。きのこばっかじゃ飽きてるでしょ」
「いや、遠慮しとくよ。きのこしか食べてなかったせいかそれ以外のものを受け付けなくなっちまってな」
「あ、そうなんだ」
なんだか申し訳ない気分になる。
「いいさ。気持ちだけでも嬉しいもんだ。わざわざ採りに行ってくれたのにすまんのう」
そんな会話をしながら、毎日が過ぎていく。
一度、建物の全貌を確認したけれど、苔に覆われていてよく分からない。恐らく、崩壊前の建物であるのには間違いがなさそうなのだけど、シェルターか何かに見える。
これほどの年月を掛けてまで開けた先に何があるんだろう?
すぐ傍に腰掛けて、毎日変わらずパスワードを入れている姿を見ていると、ふと思う。
これだけの数字をミスなく一つ飛ばしもなく打ち続けることが可能だろうか?
大体、50000000を越えてからは外れの確率のほうが低くなるはずだ。
それはパスワードを入れるのを、進めていけばよりいっそう減っていく。
本来ならばここまで外し続ける確率のほうが低いはず。
もしも、99999999の数字を入力したときに開かなかったら。
これほどまでの時間を掛けて、開けることすら出来なかったら。
想像すると、とても悲しい気持ちになる。
けれども、その心配は杞憂に終わった。
995886の数字を入れたとき、今までとは異なるがしゃんという反応がした。
どうやら、扉が無事開いたのだ。
部屋の中には特に素晴らしいものはなかった。やはり崩壊前に作られたただのシェルターにしか見えないし、特にめぼしいものなどない。
ただ、一つを除いては。
建物の中央に一つの白骨死体があった。その死体の着ている服はさほど痛みがなさそうで、女の子のものだ。
「ひょっとして」
ボクは唐突に悟ってしまった。
そういえば、最初に言っていた。中からは絶対に開けられないと。
そんなこと、一度中を見たことある人にしか出てこないのではないか。
だとすると、この老人は一度は中を見ているはずである。
では、中を知っているのに、どうしても入らなければならない理由とは何か。
建物の中に残されているのはたった一つの白骨死体。
想像出来るのは、恋人かもしくは家族か友人か。何にせよ恐らくは大切な人だったんだろう。何かしらの手違いで閉じ込めてしまったのではないだろうか。
だからこそ、何十年もの間、ずっと開こうとしていたのではないか。
どういう経緯で閉じ込められてしまったのかは分からないけれど、彼がここまでの人生をかけてまで開けようとした謎が解けた気がした。
そんな推測をたてると、必然的にあることに気付きボクは恐る恐る彼を見た。
00000000からではなく、99999999から始めれば、すぐに開いたということだ。つまり、この閉じ込められた人を助けることが出来たのかもしれない。
それは、どれほどの後悔なのだろうか。
上から始めるか、下から始めるか。そんな些細な二択の問題で。
彼は呆然とした様子で、その白骨死体を眺めていた。
あまりにも長い月日のせいか、泣くことも出来ないのだろうか。
いや、人が見ているから泣けないのかもしれない。
「それじゃあ、ボクはもう行きますね」
老人の好意に甘えてしまったけど、これ以上この場にいるのは野暮以外の何者でもないと判断しボクは老人に背を向けた。
「お嬢ちゃん?」
呼び止められて振り返る。
「この扉を開けてしまった、わしはこれからどうすればいいのだろう?」
「――ひょっとして」
最初に言っていた通り、本気で覚えていないのか。
本当に、扉を開けようとした目的を覚えていないのか?
確かに、最初に言っていた。もう、忘れちまったと。
外のことを全て忘れてしまい、文字通り扉を開けることだけが目的となってしまったのか。
「……扉を閉めれば、また初めから出来ますよ」
そう答えて、ボクは再び背を向ける。
だって、ボクにはそうとしか答えようがない。
ボクがその場から離れていくときに、背後からがちゃんという扉が閉まる音が聞こえた。