調和の中の不調和

 

 シュラは、困っていた。とてつもなく、困っていた。
 ここは、彼自身の守護する、ギリシア聖域内の磨羯宮。上には宝瓶宮、双魚宮、その二つのさらに先には教皇の間とアテナ神殿がある。アテナ神殿までの道には、黄道十二星座の名を冠した十二の宮、そしてそれぞれの宮を護る十二星座の聖衣を纏うことを許された黄金聖闘士と呼ばれる存在がいる。彼らは、普段から自分の宮を守護し、そこを動かずに神殿までの道を敵に侵害されぬように戦うことを使命と定められてきた。

 しかし。

「デスマスク、それでは塩が多すぎだ。味を濃くすればいいというものではないぞ」

「そういうお前は、味付け薄くしすぎるんだよ。いつも食った気がしねぇ」

 ……台所から聞こえてくる、二人の友人の賑やかなやりとりを、彼は何とも言えない気持ちで右から左に流すよう努めていた。

 243年ぶりに、彼らの崇める戦女神アテナと冥界の王ハーデスとの間に聖戦が起きてから、二年が経過していた。そのときに、シュラを初めとする聖域の聖闘士達のほとんどは死んだのだが、女神の祈りによって彼らは再びこの地上に蘇ることができたのだった。

 聖戦を経たあと、様々な点から聖域は変革を迎えつつある。それは、アテナがゆえあって十三年の間俗世で成長したことも影響しているだろうが、ほとんどの者はそのような変化を受け入れていた。たとえば、聖域内での私服の普及もその一つである。黄金聖闘士達の場合、各宮の行き来の自由化なども徐々に当たり前になりつつある。

 そういうわけで、今磨羯宮には、同じ黄金聖闘士である蟹座のデスマスク、魚座のアフロディーテがきているのだった。料理を作っているのは、シュラがつい先程聖闘士としての任務から帰還したから、慰労のためだと二人は言っていたが。

 聖域で黄金の聖衣を纏って、互いに十年以上のつきあいだからこそわかる。友人二人は、そんなに可愛い性格ではない。

「あっ!」

 アフロディーテが、小さく声を上げるのと。

 がらんがらんという、何かが石の床にぶつかるような音はほぼ同時だった。

「あーあ。何やってんだよ。一品駄目になったじゃねぇか」

「……っ」

 デスマスクの溜息混じりの言葉と、多分悔しそうにしているのだろうアフロディーテの、息を呑む音が聞こえる。何が起きたのか考えるまでもないが、掃除くらいは手伝わなければと、シュラは眉間にしわを寄せつつソファーから立ち上がった。

 しかし彼は、自分の行動をこの直後心底後悔することになった。

 台所には、特に目を引く三つのものが。

 一つ。床に盛大にぶちまけられたシチューと鍋。

 二つ。長身で、無造作に広がる短い銀を帯びた髪の青年、デスマスク。

 三つ。デスマスクに細い腕を取られているやたらと雰囲気のきらきらしい美貌の持ち主。

 最後は魚座のアフロディーテなのだが、彼は正真正銘男であるにもかかわらず、下手な女よりもものすごく美人だ。ついでにデスマスクも、荒削りだが整った顔立ちをしている。

 そんな二人が並んでいたら、違和感なく恋人同士に見えてしまうという声がたくさん挙がっていたりする。シュラは今までそんなことはまったく考えもしなかったのだが、このとき彼はそれを自分の目でいやというほど確かめることになってしまったのであった。

 シチューは作りかけだったのだろう。ということは、当然鍋は熱かったはず。アフロディーテはそれに驚いて鍋をひっくり返してしまった。先ほどここで起きたのは、そんなことだったのではないか。

 熱い、ということは、当然鍋に触って火傷をしたわけで……。

「デスマスク、見てなくていい。冷やせば治る」

「流水だな。蛇口開けろよ」

 じゃー。と、水が流れ始める。デスマスクはアフロディーテの手を取ったままその流れの中に入れ、アフロディーテもなぜかされるがままになっている。密着することになっている彼らはほとんど身長差もないのだが、どうにもこうにも、その様子に違和感を感じるのだ。

 いや、違和感がないことに違和感を感じるのだと、シュラはすぐに悟った。

 たとえるなら――不器用な妻に苦笑しつつ優しく手当てする夫。

「――っっっっっ!!!!」

 右手に、小宇宙が集まる。シュラは迷うことなく、己に宿る聖剣の力を解放した。

 刹那、磨羯宮の台所は崩壊した。




「何があったのだろうな……」

「……教皇とかサガにどうごまかすか……」

 突然のシュラの攻撃を、それでもちゃんとかわしていたのは、デスマスクもアフロディーテも最強の聖衣を纏う者だからだ。台所までは救えなかったが、ここはシュラのものなのでそれは問題ない。

 ともかく無事な区域に移動して、蟹座と魚座の青年達は額を付き合わせているのだった。アフロディーテは肩にかかった髪を背中に払いのけ、服のほこりを払うデスマスクを見上げていた。

 デスマスクは、その視線を受けて肩をすくめる。

「シュラの奴、どこ行きやがったんだろうな」

「上ではないだろう。……追いかけるか? このままここにいれば、私達が磨羯宮破壊の犯人にされるぞ」

「だな」

 意見の一致を見て、彼らはすぐに磨羯宮をあとにした。長い石段を下りていくと、人馬宮がある。年嵩の聖闘士は、彼らを認めると気さくに笑いかけてきた。

「今日はどうしたんだ? 喧嘩でもしたのか?」

「……アイオロス。デスマスクもさすがにそこまで子供ではないのですが」

「お前何さり気なく転嫁してんだよ」

 アイオロスは、幼い頃から何かと面倒を見てもらった、兄のような存在だ。特に、シュラは彼を尊敬していた。アフロディーテもデスマスクも、程度の差や感情の差異はあっても、射手座の青年を好いている。

「なあ、シュラはどんな様子だった? ついさっき通ったんだよな?」

「ああ。何やら狼狽えていたぞ。挨拶しようとしたが素通りされた」

 ……本気で混乱していたようだ。

 二人はアイオロスに別れを告げ、そのままさらに下へ向かった。次は天蠍宮、入り口で声をかけると、蠍座のミロが出てきて彼らを見るなり詰め寄ってきた。

「シュラに何をしたんだ?」

「『何があった』じゃないあたり、お前が普段俺らをどう思ってるかすげぇよくわかった」

 デスマスクはミロの頭を上から抑えつけ、ミロはその手を振り払おうともがき、アフロディーテは傍観していた。止めるのは面倒だったし、こんな二人のやりとりはいつものことだ。だからかまわずに、アフロディーテはアイオロスにもした質問を繰り返した。

「ミロ、シュラはまだ下へ行ったようだったか?」

「あ、ああ」

 デスマスクの手から逃れ、癖の強い金髪をばさばさとかきむしりながら、彼はうなずいた。

「何やらぶつぶつと独り言を言っていたぞ。聞き取れなかったがな」

「そうか。ありがとう」

 この勢いだと、多分一番下の白羊宮も突破したことだろう。そうは思ったが、これ以上ここにいてはミロに質問攻めにあいそうだったので、彼らはさらに下へと足を向けた。

 天秤宮は、黄金聖闘士の中で最年長の童虎が守護する宮だが、今は誰もいない。童虎は任務のために、フランスへ行っているのだ。

「やはり、ここも通過したようだな」

 がらんとした宮内を見回し、アフロディーテはつぶやいた。適当な柱に、背を預けて座り込む。疲れはしないが、立ちっぱなしでいたくもなかった。

「ほんとに何だったんだろうな、シュラの奴。せっかく帰ってきたんだから、奢らせてやろうと思ってたのによ」

「それがいやで逃走した方に賭けてもいい」

 デスマスクも、彼の右隣に同じように腰を下ろしてきた。

「しっかしよぉ」

「何だ?」

「俺らが三人そろうことって、やっぱ少ねぇよな」

「……そうだな」

 デスマスクとシュラと、アフロディーテ。アフロディーテは二人よりも一つ年下だが、年齢が近いために幼い頃は三人で行動することは多かった。それぞれに黄金聖衣を継承し、護る宮から離れられなくなっても、やはり何となく、つながりを完全に断つことはしたくないという思いがあった。

 結果的に、彼らは皆同じような信念を持つに至り、同じようにそれを貫いて……死を迎えた。その人生を、アフロディーテは決して悔やんだりなどしないし、二人もそうなのだろうという確信がある。

 ――再び同じ道を辿ることになっても、恐れも迷いも抱かないという、そんな確信が。

 けれど、それは。

「アフロディーテ」

 名前を呼ぶのと一緒に、隣の銀髪の男は突然、アフロディーテの長い金髪に顔を埋めてきた。一瞬露わになった首筋に感じた外気に驚くより先に、敏感なそこに強い熱を押し当てられて彼は思わず微かに身体を痙攣させてしまう。

「――っ、デスマスク。ここは天秤宮だぞ……!」

「しばらく誰もきやしねぇよ」

「そういう……っ、問題ではない……!」

 翻弄されそうになる自分をどうにか抑え、彼はデスマスクの顔を乱暴に押しのけた。「いてえ!」とかうめき声が聞こえてきたが、もちろん無視した。

 回数自体は少ないが、身体を重ねるようになってから、実はずいぶんになる。きっかけは、恐怖だった。人を、殺したことへの。そのあとは惰性かもしれないが、それでも一時の安らぎを得られるのは貴重だった。

 デスマスクの存在は、こういう理由もありアフロディーテの中で大きなものとなっているが、それを差し引いても彼は古なじみのことが好きだった。同じくらいに、シュラのこともだ。

 だから今日は、本当にシュラをねぎらいたかったのに。

「なぜシュラは、突然出て行ってしまったのだろうな?」

「んー、さぁな」

 押しのけられた形だった幼なじみは、身体の位置をずらして元のように座り直した。そして、アフロディーテの頭を抱き寄せて髪の中に指を潜らせてきた。

「夕食までに、戻ってくるといいな」

「戻るんじゃねぇ?」

「いい加減だな、君は」

 直に頭をなでる指が、止まって。すぐにまた動きを繰り返し始めた。

「今日戻ってこなくても、明日やり直せばいいだけだろ」

 くすり、とアフロディーテは喉を震わせた。明日、という響きが特別に思える。

「そうだな」

 今の自分たちは、「明日」と簡単に口にすることができるのだ。




 数時間後。

 シュラは、天秤宮の地上側の入り口から戻ってきた。しかし顔を合わせるなりシュラが再び聖剣を発動させそうになっていたので、デスマスクはやや大袈裟な表情でそれを押し留めた。口の前に指を一本立てて、「しーっ」とやる動作つきだ。

「……なんだ」

「起こすなよ」

 デスマスクは視線だけで自分の肩の辺りを示し、シュラは憮然とした顔つきだったものの、納得はして静かに近づいてきた。

 自分にもたれかかって穏やかな寝息を立てている、やたら美人の幼なじみの柔らかな金髪を、デスマスクはずっとなでている。ほとんど無意識だったのだが、なぜかシュラは鋭い目をさらに細めて自分を見下ろしてくる。

「何だよ?」

「……お前達……」

 絞り出すように、だが濁された言葉の内容を、デスマスクは一拍遅れて理解した。

「何だ、知らなかったのかお前?」

「………」

 シュラは、自分と違ってそういう方面には疎い疎いと思っていたが。デスマスクは危うく爆笑しそうになり、しばらく息を詰めてかろうじてこらえた。それでも身体は震えて、肩の上でアフロディーテの柔らかな金髪が揺れた。

「もうずっとだぜ? 気づけよ」

 言うと、さらにシュラは眉間にしわを寄せた。反応が面白いのでもっとからかってやりたい衝動にかられたが、今はやめておくことにする。これ以上やったら、また切り裂かれそうな気がする。

「っと。戻るなら戻ってていいぜ。俺も少ししたら、こいつ起こしていく」

「アフロディーテはどうしたんだ?」

「どうしたもこうしたも」

 さすがに、これは言うべきだろう。デスマスクはシュラにびしりと指を突きつけた。

「お前が帰ってくるからって、昨日一日かけていろいろ準備してたんだぜ、こいつ」

 シュラの目が、いつもよりも大きくなったことに、とりあえず彼は満足した。

「ったく、俺まで狩り出されてほとんど徹夜だったぜ。下ごしらえだってさせられたしな。んで、そのときになったらお前に綺麗さっぱり斬られたと」

「なぜ、そこまでして?」

 今度こそ、デスマスクは素直に感情を態度に表すことにした。すなわち、大きな溜息。

「……なんだ」

「お前な、鈍いにもほどがあるぞ。それともあれか、俺らの歓迎は受け取れねぇってのか?」

「そうは言っていない」

「言ってるだろ。想像すらできねぇって顔してるぜ」

 いったい、シュラの中で自分たちはどういう位置づけになっているのか。彼はばりばりと自分の銀髪をかきむしって、もう一度嘆息してみせた。

「俺らが三人そろうのって、昔からあんまりなかったし今もそんなにないだろ?」

「そう、だな」

「だから、そういうときは集まって騒ぐかって考えるのは、当たり前だろうが」

 シュラは、かなりの間沈黙していたが、待っているとやがて「そうか」とだけつぶやいた。

 そして、

「だったら、先ほどはすまなかったな。少しその……狼狽えた」

「それはこいつに言ってやれよ。埋め合わせ方法は自分で考えろ」

「わかった。では、あとでな」

 軽く右手を挙げて挨拶して。

 上への道を登っていく、古い友人を送り出す。

 その手で、アフロディーテの顔を覆う髪を、優しく払った。露わになる、白い頬。

「……つくづく、どいつもこいつも鈍いよな」

 アフロディーテを支える左の手を少しずらして、自分よりもずっと細いそれを取る。火傷していた。結果的には、シュラのために。

 思い出すと、胸がもやもやしてきた。

 だが。

 細心の注意を払って、デスマスクは間近の美貌に顔を寄せた。

 ――こんなことができる特権は、自分だけのもの。

 思ってから、青臭い嫉妬のようだと歪めた唇で、彼はそのままアフロディーテに口づけた。