メトロノーム

 

1.
 体育館に響き渡る、バスケットボールの跳躍音。固く閉ざされた空間の中に、テンポ良く響いていく。
 タン。タン。タン。
 タン。タン。タン。
 彼女の手のひらと、白線の床の上。オレンジ色のボールが、軽やかなリズムを奏でながら跳ねていく。
 それは、僕にとってメトロノームのようだった。同じ時を同じリズムで刻みながら、時には強く、或いは弱く、右へ左へ走っていく。
 長い後ろ髪を振り回し、真っ白な体操服を揺さぶりながらひた向きに走る彼女の姿。彼女の名前を知ったのは、姿を初めて見てから一月が経った頃だった。
 白線の引かれた床の上を、小柄な体が駆けていく。床を叩くバスケットボールの衝撃音に、時折混じる運動靴のグリップ音。その無音のBGMに耳を傾けながら、僕は毎日この体育館を訪れる。
 練習を続ける彼女の脇を通り過ぎ、僕は無言でステージ脇にピアノの元へと歩いていく。
 ゆっくりと黒椅子に腰をかけ、手元の鞄の鍵を開ける。数枚の楽譜を手に取って、白黒入り混じる鍵盤へと手をかけた。
 そうして、音を紡ぎだす。
 ベートーヴェン・ピアノソナタ。
 月光、第一楽章。




2.
 放課後になると、彼女は毎日この体育館に現れた。本条優花というその女子生徒は、いつも一人で黙々と走っていた。
 後ろ髪を揺らして走るその姿を、僕は何度も見た事がある。体育館に先に来るのは、僕だったり、彼女だったり。
 僕がピアノを弾き始めた後に、彼女が現れる事もよくあった。オレンジ色の床に響く、白い運動靴の駆ける音。
 始まったのは、何時からだろう。実はよく覚えていない。いつの間にか、何となく僕と彼女はそこに居た。
 来年で廃校が決まったこの学校の生徒数は、もう五十人にも満たない程度。寂れた、ほんの田舎町にある小さな中学。
 だから。この寂れた体育館の中にいるのは、いつも僕と彼女だった。
 バスケットに夢中になる、彼女が一人。ピアノに向き合う、僕が一人。
 夕方近く、夜遅くになるまでボールの音が聞こえてくる。その効果音を耳に刻み、僕は今日もまた月下に浮かぶ小舟の揺らぎを静かに弾く。
 ボールのリズムは、いつも正確とは限らない。時おりテンポを変え質を変え、時には早く、時には緩やかに。ドリブル、壁パス、ゴール目掛けてフリースロー。
 汗を流し胸元を揺らし、呼吸を時折荒げながら、それでも腕をふるい何かを目指して走っていた。投げていた。
 だから、僕も鍵盤に手をかける。指先で音を奏で、身体を使って強さと奥行き、そして空気を作り出す。
 夕暮れ前から、宵闇の始まるまで。僕は静かにピアノを引き、彼女はただボールを叩いていた。体育館のタイムリミットは、夕刻から夜までの小さな時間。
 そして月の刻が訪れると、僕は静かに鍵盤から手を離す。合わせた様に、彼女がボールを手に掴み。そして時おり、僕達は何気なく見詰め合った。
 誰もいない体育館。僕と彼女の距離は、ステージと反対側のゴール前。体育館の、端と端。
「白石君、だよね。名前」
「……本条さん、だっけ」
 小さな声は、誰もいない無骨な体育館ではよく響く。
「毎日、そこでピアノ、弾いてるのね」
「……君も、毎日そこで練習してるね、バスケ」
「……上手くなりたいから」
 彼女は軽く、タンとボールを床につく。そしてまた、彼女の手には大きめのボールを手元に掴んだ。
「音楽室で練習、しないの?」
「ステージにあるピアノの方が質がいいんだ。音楽室のよりね」
 僕がそう答えると、彼女はふぅんと興味無さそうに頷いて。数少ないバスケットボールを大事そうに仕舞いながら、体育館を後にした。




3.
 ベートーヴェン・ピアノソナタ。月光、第二楽章。
 穏やかな流れの第一楽章に代わり、それはリズミカルに踊る蝶のように。
 その音にあわせて、軽快な音と共にボールが跳ねる。
 僕が合わせているのだろうか。彼女があわせているのだろうか。体育館に響く二つの音が、互いへの合図のように刻まれる。
 ふっと息を吐いて、僅かに彼女の方へと視線を向けると。綺麗な夕日が彼女の後姿を照らしていた。一ふさの髪が跳ね、彼女の手元からフリースローが放たれる。
 あ、と思った。
 思った瞬間、僕の指が逸れて。ピアノから不協和音が響き渡った。
 彼女の投じたボールはゴール際にぶつかり、ネットを揺らす事無く床へと落ちる。
 タン、タン、タン。落ちたボールが転がっていく。
 自分の失敗にため息をつき、彼女はボールを拾いあげ。彼女は同じく、音を外した僕の方へと向いた。
 そうしてくすりと、二人で何気なく笑いあった。



4.
 楽譜をめくる。本当はもう捲らなくてもいいのだけれど、そうしないとつい彼女の方を見てしまいそうな気がした。
 白黒の鍵盤に向き合いながら、いつものように体育館で響く淡々とした音に耳を傾ける。彼女のリズムに合わせて、呼吸や拍動まで聞こえてきそう。
 流れているのは、ボールの音だけじゃない。彼女自身のリズムに合わせて、僕は曲を奏でていく。
 目を閉じても分かる気がした。彼女の足音。ボールのリズム。カーブを描いて走りこむドリブルから、流れるようなシュート――
「あっ……!」
 動きが、乱れた。視界の隅に、転がっていくオレンジ色の球が見える。
 その乱れに引き込まれそうになりながら、僕は楽譜を見つめて静かに曲を弾き終えた。月光、第二楽章。
 鍵盤から手を離し、彼女の方を向くと。彼女は薄く開いた目で、転がるボールを見つめていた。
「……あたし、才能ないのかな」
 彼女は誰に言った訳でもなく。でも、僕に話しかけたのだと思った。
 そんな事は無いよ、と僕は思う。彼女の姿を初めて見てから、もう二ヶ月が経っていた。彼女は、確実に上達していた。
 フリースローの成功率、八割から八割五分ぐらいになってるよ。走りも早くなってるし、そこから流れるように決めるゴールだって正確さを増している。機敏な動き、身体のリズム、その全て。
 ただ、君が気づいてないだけで。
 彼女は無言でボールを取る。そしてまた、ドリブルを始めた。
 ……今日は、ちょっと曲を変えようと思う。
 僕の得意曲、エリーゼのために。
 弾き始めてから、少しして。ちらりと、彼女がこちらを向いた気がした。



5.
 とある雨の日の事だった。
 本当の意味で成長しないのは、僕の方なのかもしれない。何度弾いても、同じところで間違える。そう思うときも、よくあった。
 月光、第三楽章。荒々しい嵐の如く奏でられるこの曲を、僕は必ず何処かでミスをする。
 それは調子の悪い時なんだと、言い切ってしまえばそれだけの事かもしれない。
 でも楽譜通りに弾く、それすら出来ないもどかしさ。時折躍起になって鍵盤に打ち込んで、それでもなお指が弾かれる。
 力が足りない。技術も足りない。
 それは、とても悔しい事。意固地になって叩きつけても、気持ちが乱れて落ち着かない。雨の音が、かき乱す。
「……はぁ」
 また指を弾いてしまった所で、僕は一度弾くのを止めてしまった。楽譜を閉じる。
 体育館の中にはそれでも、毎日のように一定のリズムが刻まれた。ボールの音。シューズの靴音。彼女の床を蹴りつける音――
 それをどこか遠くで聞きながら、僕はぼんやりと天井を見つめていた。
 彼女は上手になっている。僕は一体どうだろう――
 そんな事を考えていると。突然、頭にガツンと何かが飛んできた。
 ピアノの椅子の上で一瞬ふらつき、頭を振ってそっちを見る。ステージの上に、バスケットボールが転がっていた。
「ごめん。落とした」
 何食わぬ顔で、彼女は僕に投げつけたはずのボールを拾う。オレンジ色の小さなボール。
 そうして彼女は、僕を見つめて無意味なドリブルをゆっくりと始めた。
 タン、タン、タン。一定のリズムを刻み、ただ床に叩きつけるだけの行為。それは何の意味もなく、練習にもならないこと。
 それでも彼女は、透き通るような虹彩を僕に向けながらくり返す。何の練習にもならない、起立したままのドリブルを。
「どうかした?」
「……別に」
「じゃあ弾けば?」
 僕を見つめて、彼女はそれを続けていた。
 ただ淡々と。


 ため息をついて、僕は楽譜をもう一度開く。
 彼女の無意味なドリブルは、僕の鼓動と同じリズムを刻みながら跳ねていく。
「ちょっと、上手くなってるよね。この前より」
 ドリブルを辞めて振り返る間際、彼女はぽつりとそう呟いて走り出した。



6.
 それから一週間が経った頃。その日もまた、雨だった。
 外がいつも以上に暗かったその日、彼女は体育館に来なかった。朝から、学校に来なかった。
 その理由は今朝、聞いた。
 月光、第三楽章。今日も同じ曲を奏でながら、その日は本物のメトロノームを使ってみた。
 振り子のように触れる針と、時計の音のように響く音。それは極めて単調に、機械的で正確に、僕のリズムを崩していった。
 ……その日は、いつにも増して酷かった。普段以上に、僕の音楽は酷いノイズになっていた。
 思い切り弦を叩きつけたら、壊れた音が鳴り響いて。一番最下層の、太い弦がバチンと切れた。
 切れたピアノの前で。本物のメトロノームが、当たり前のように耳障りな音を立てて鳴っていく。
 リズムが、乱れる。
 外を眺めると、花壇に植えられた花が雨に打たれてしおれていた。
 翌日も、彼女は来なかった。




7.
 弦が治るまでの一週間は、音楽室を使って練習をさせてもらった。
 それでも、調子は戻らなかった。
 僕と彼女は、別に一緒に何かをやっていた訳でも無い。僕は一人でピアノを弾き、彼女は一人でボール相手に練習する。
 僕と彼女は、何かに向けて共闘していた訳でもない。競争していた訳でもない。無骨な体育館の中ですれ違い、たまに会話を交えるだけ。
 恋人でもなく、親友でもなく、ライバルでもない。ただ、同じ体育館という場所を共有しているだけの相手だった。
 だから僕は、彼女が交通事故に会って、暫く入院すると聞いたときも、ふぅん、と答えた。
 ――バスケが好きだった彼女の足が、完治するかは分からない。
 その話を聞いた時も。そうなんだ、とだけ答えた。
 生徒数も少ない教室の中、それは何気ない会話の一つのように、ごく自然な返事をした。


 ……でも、その日から。
 僕のリズムは、何故か消えた。



8.
 一週間が経って、僕はまたあの体育館に戻ってきた。白線の敷かれた床。天井を見上げると、いつもの無機質なな鉄筋が並んでいる。
 目を瞑る。瞼を開く。白線の上には誰もおらず、オレンジ色のボールは聞こえなかった。白い運動靴の走る音。ゴールネット下で、華麗に地を蹴るあの姿。
 天井を見つめると、錆びた鉄パイプが網目模様に組まれている。朽ちていく世界のように。
 ステージへと上がり、楽譜を開いてピアノの蓋に手をかける。
 一週間の間があったけど。今日もまた、ここでいつもの曲を弾こう。いつものように。
 そう思って、鍵盤に手を触れて。最初から、音を外した。
 ……白黒の板から視線を上げて、目の前に置かれたメトロノームを見つめてみる。
 黒いカバーの脇に置かれた、銀色のバーに錘をつけたその物体は。テンポを刻んだ小さな目盛りとその軸を揺らしながら、そっと僕に話しかけてきた。 
 ――私では、君のリズムを取れないよ。
 ステージの下へと視線を向ける。あのリズムは聞こえない。ただ吹き込む風の音と、静寂だけが体育館の中に佇んでいる。
 音の無い世界だけが、僕に何を失わせたのかを囁いてくれる。


 彼女はもう、戻ってこない。
 その事は、僕にとって凄く悲しい事なんだと、初めて知った。



9.
 それから、二週間が経った。彼女が退院したと聞いた。
 それでも、もう体育館には来ないだろうと思っていた。
 バスケの出来ない彼女にとって、体育館は苦痛以外の何でもない。そう思ったから。


 だから廊下で彼女とすれ違ったとき、僕と彼女は何も言わずに通りすぎた。
 彼女は松葉杖をついていた。両手と左足だけで一生懸命、右足を庇って歩いていた。包帯を巻き、見るからに痛々しく顔を歪めて歩いていた。
 ――僕が振り向いても、彼女は僕を見なかった。他の人の視線が痛いのか、何も言わずに通り過ぎていく。
 階段を昇る時も、彼女はどこか俯きがちに一歩ずつ歩いていた。埃臭い緑の手すりに掴まり昇るその姿は、まるで幽霊のように虚ろだった。
 そこには、あの時感じたリズムも。気概も、気勢も、体育館で見せる誇らしい後ろ姿も、何一つ見出せなかった。
 ……だから、僕はそのまま通り過ぎようとした。僕と彼女は、互いに元の知らない人同士に戻るだけ。たった、それだけの事。
 失ったんだと、僕は思った。彼女は諦めたんだと。
 そうして。僕は彼女に、背を向けようとした。もう、ただの他人同士だったから。
 ――だけど。
 視界の隅で一瞬、彼女の姿が揺れるのが見えた。松葉杖が震え、階段を昇る彼女の姿勢がぐらりと揺れ――



 気がついたら、僕は彼女の身体を支えていた。お姫様を抱えるように、後ろに倒れかけた彼女の姿を支えていた。
 掴んだ彼女の身体は、想像していたよりもずっと華奢だった。引き締まった体つきはそのままで、だけど身体全体は細く滑らかで。直に、彼女の温もりが伝わってきた。
 赤の他人を、咄嗟に助けたのは初めてだった。
 黒髪が垂れ、僕の腕に絡みつく。そうして露になった彼女の瞳に、僕は自然と引き込まれた。
 瞳の奥に灯っていたのは、今にも消えそうな小さな光。その奥には、太陽の如く燃え盛る炎が滾っていた。
 ――それは、僕が体育館で見ていた姿と同じ。ただ少し、消えかかっていただけで。
「ねえ」
 彼女が問う。僕の腕に抱かれたまま、僕の目を覗きこんで。
「……あたしの事。惨めに見える?」
 自虐的に語る彼女の言葉と共に返される、睨みつけたような顔つきは。その言葉と、全く違うことを語っていた。
 彼女の唇が、笑みを作る。どうなの? と。
 勘違いに気がついたのは、その時だった。彼女は、何も失ってなんかいなかった。
 言葉は違う。だけど、彼女の瞳はそう言ってる。
 だから、試してみようと思った。火にかけるのは、水になるか油になるか。
「きっと君がそう思うんなら、そうなのかもね。惨めだよ」
「……」
「負けるの?」
 僕の言葉に、彼女の赤い唇が小さく動く。
 ――案外言うじゃない、この野郎。
 と。
 聞こえない程に、僕だけに聞こえるように。彼女は口元だけで、そう言った。



10.
 次の日、僕が体育館を訪れると。
「遅いじゃない、今日は」
 いつものリズムが戻ってきた。松葉杖を片手でつき、壁際に寄りかかってドリブルしている彼女の姿。白線の上で、バスケットボールが小さく跳ねる。
 タン。タン。タン。
 タン。タン。タン。
「……何しに来たの?」
「暇つぶし。ボールに触ってないと、なんか感覚忘れそうだから」
 毎日聞いてた、このリズム。彼女の姿が、体育館に一つの空気を作っていく。二人で、一つ。
 くすりと笑って背を向けると、彼女がゆっくり歩いてきた。そのままステージ脇の階段に座り、ピアノに背を向け松葉杖を脇に置く。
 背を向けたまま、ボールを叩いた。単調なリズムを紡いでいく。僕だけのメトロノーム。
 ゆっくり、ピアノの蓋を開いていった。白の鍵盤に手をかける。
 そうして再び、流れる音を紡ぎだす。
 夕暮れの時から、宵闇の始まりまで。月の光、たゆたう小舟の嵐の夜。
 ベートーヴェン、ピアノ・ソナタ。
 月光、第三楽章――