「ありがとう」
言葉の後に繋がった唇に何かを感じることはなかった。ただ、視界がぼやける程度に彼女の顔が広がったというだけ。僕の頭を包む手のぬくもりも、彼女の鼻から洩れるささやかな空気の流れも、空っぽの心を通り過ぎるだけ。
そもそも僕は誉められるようなことはしていない。何もかも間に合わなかった。ただ、自分の望み通りに動いただけなのに。
「男の子とキスしたの、初めて」
顔を離してはっきりと見えた顔は、真っ赤に染まっていた。彼女の汚れることなんてなかった黒髪も、柔らかそうな肌も、星が収まっているような輝きを持っていた瞳も、僕が持っておらず憧れていた全てが紅に汚されている。これもまた、僕の罪なんだろう。
後ろを振り向くと、崩れ落ちた寺の残骸があった。まるで上から仏様の掌に押し潰されたかのように、中心からひしゃげている。僕らが腰掛けている境内も猫が乗っただけで崩壊してしまうだろう。そんな光景もまた、紅だった。
全てが紅に染まった世界。空も、その中で輝く星たちも、ぽっかりと存在する月さえも。僕が僕でいた時はちゃんと彩られていた世界は、もうどこにもないのだ。
僕の思っているよりも注意をそらしていたのか、彼女が僕を揺さぶった。
「消えちゃうの?」
不安そうに言う彼女を抱きしめる。それは人間が行っていたこと。怖れ、喜び、何かしら感情が強く揺れ動いた時に抱擁することで落ち着くらしい。形だけでも彼女を安心させてあげたかった。僕は今、人間の姿なのだから。
「暖かいよ」
胸の奥に滲む。彼女の呟きは熱を持って僕の身体を温めていく。何もない身体。空っぽの身体。人間の姿でしかない身体。
でも、彼女のおかげで仮初が真なる物へと変わる錯覚が生まれる。
「まさか。僕は……人間じゃないのに」
「人の肌なんて暖かいのは当たり前だよ。生きてるんだもの」
「だから、僕は――」
「私の言う暖かさはね」
少しだけ身体を離し、彼女は僕の耳元に口を寄せて囁く。
「あなたの心の温かさだよ」
心。
そんなものがあるはずはない。僕は空っぽなんだから。元々生き物でさえないのだから。何より、自分の目的を軽々と裏切るような駄目なやつなのだ。心などあるはずがない。
「考えてること分かるよ。でも、あなたは確かに生きてるもの。今、ここに。心も、あるんだよ」
彼女に抱かれて思い出したのは、丁寧に僕の身体を拭いてくれた彼女の家族だった。雑巾で何度も往復する彼女。柱についた傷を見ながら微笑んでいた彼女の母。一人でお堂に立ち、僕の存在を労ってくれた彼女の父。
僕が包んでいた、僕が守れなかった者達の思い出。
「あなたは私たちの敵を取ってくれた」
彼女の視線が崩壊した寺へと向けられたことで僕も引っ張られた。
逃げ遅れた犯人の腕が瓦礫の中から飛び出している。僕の身体に押し潰された犯人達の身体は恐らくバラバラになっているはずだ。
今、出ている右手も身体から分離している。押し潰している僕だからこそ分かる。彼女はまだ、あの手は犯人とともにあると思っているはずだ。
彼らの流した罪人の血が、僕の世界を染めてしまった。だから何もかも赤い。
悲しみ、憎悪、汚れた血の紅が僕を冒した。
「それこそが、あなたが心を持ってることだと思う。だから、あなたはこうして肉体を得たんだと私は思う」
その言葉が真実なのか。僕には分からない。けど。
こうして彼女の暖かさを感じることができるのなら、疑うことなんて必要ないのかもしれない。
でも僕は心を手に入れて、亡くす事の痛みを知った。
閃光のように、紅色の光が僕を打ち据えるんだ。
「私もお父さんもお母さんの後を追って消えるけど、最後に貴方にありがとうって言いたかったの」
「君ならきっと大丈夫」
上手く言葉に表すことが出来ない。痛みが口が開くのを遮る。それでも彼女を励ますことで、僕の紅色は薄まっていく。
もう彼女は生きることがないのに何が大丈夫なのか。それでも彼女は笑い、その姿を消していった。
「ありがとう」
また触れた唇はそう思った瞬間に消えてしまった。
「さようなら」
誰もいない世界に、少しだけ風が吹いた。
どうか彼女に安らかな眠りを。
理不尽に奪われた命に救いを。
あの星々が住む宙(そら)に、私の大切な人達の楽園がありますよう。
紅の月が空を穿つ。
最後に見た光景は、星の海を泳ぐ彼女達……家族の姿だった。