林檎のきもち

 

 最近、久保田陸十四歳は思う。
 強面の彼は自分が人に好かれることよりも、やや遠巻きにされるタイプの人間であることはよく分かっていた。だが、
「誰だ」
 階段の踊り場に座り込み、ぼうっと窓の外を見ていた陸が不意に振り向いて階下を見る。
 一瞬飛び上がらんばかりに動揺を見せた小さな黒い頭。壁の向こうに慌てて引っ込む時に、少しだけ顔を覗かせた三つ編み。
 立ち上がって追いかけようと思った時にはバタバタと廊下を走り去る音が聞こえ、陸は溜め息をつきながら再び腰を下ろす。
 南校舎の屋上に繋がるこの階段は進入禁止になっているため常に人気が無く、少し周囲から浮いている彼が昼寝の場所にするにはうってつけの場所であった。
 だが最近陸がここで寝ていると、いつも階下からじいっと誰かが見ているのである。
 いや、ここに居る時だけではない。廊下を歩いている時も下校している時も、視線を感じて振り向けば教室のドアの影、廊下や道の曲がり角や電柱の後ろに潜んだ謎の女子生徒が、まるで呪わんばかりの激しいガンをこちらに飛ばしているのだ。
 常に一定の距離を保っての観察であるらしく、こちらが気付いたことを察知した途端にもの凄い速さで逃げ去るので、陸は未だ後ろ姿しか見たことがない。
 元々クラスメイトの顔と名前すらちゃんと覚えていない彼であったから、その女子生徒が一体誰なのか検討もつかなかった。
「陸、お前そりゃ恋だよ、恋」
 何度かそんなことが続いた陸は、下校時に小学生の時からの友人である小池太一に一応相談してみる。
「鯉?」
「まさか中二にもなって、魚のコイとかベタなこと言うなよ?」
「……まさか」
 さすが付き合いが長いだけあって、鈍い陸の考えていることが太一には手に取るように分かるらしい。
 陸は小学生の時から大柄な体格で、今や身長百八十センチのビッグマンである。その友人太一は女子と同じくらいしか身長がなかったが、無口で無表情のでっかい陸に何の躊躇いも無く突込みやらボケをかます数少ない人間であった。
「やー、ついに『西中の狂戦士(バーサーカー)久保田』にも春が来たってことだな」
「その変なあだ名流してるのお前だろう、分かってるぞ」
 ただでさえ外観だけで恐れられ、親しくない人物からは勝手に不良カテゴリーに分類されてしまう陸である。
 そんな何世代も昔の番長みたいな変なあだ名を付けられた日には、恥ずかしい上に迷惑以外の何ものでもない。
 陸は大きな手の平で太一の脳天を掴むと、ここぞとばかりにぐいぐい締め上げてやった。
「うぉぉぉぉ、やめろオレが悪かった。でも別名があった方がカッコいいじゃん」
 ならばどうして自分に付けず陸に付けるのか。その微妙な男心理は同性の陸にも謎である。
 というか、そもそも「西中の狂戦士」のどこがカッコイイのか全く理解不能だし。
 陸が手を離してやると、太一は顔をくしゃくしゃにして笑った。
 そのバカっぽい笑顔を見ると「太一なら仕方ないかな」と思わせる不思議な力があり、表情の乏しい陸としては少しだけ羨ましいと思わざるを得ない。
「その女子、絶対陸のこと好きなんだって」
「そうとは思えない念波を感じる」
「念波?」
「怨念波だ」
「ばっかだな、それだけ惚れられてるってことだよ」
「……お前に聞いたオレがバカだった」
 何だとーと文句を言う太一を顔ごと遠くに押しやり、陸は夕日の中を歩きながら情報を整理する。
 どう考えてもあれは好意的な雰囲気では無かった。いや、世に言うストーカーとはそういうものなのだろうか?
「オレに勝負を挑んでいる……とか」
「あるかボケ!」
 間髪入れずの鋭い突込みが、秋風の吹く茜空に響いた帰り道であった。



 翌日、陸は昼放課に再び一人でいつもの階段の踊り場に居た。
 下から聞こえてくる喧騒も、ここでは随分ボリュームダウンされてうたた寝するにはちょうど良い。
 来たな。
 暫くするといつものように階段の下から挑むような視線が陸目掛けて登ってくる。横目でその姿を確認すると、階段の下でお下げ髪が隠れた壁からはみ出していた。彼女で間違いないようだ。
 ここから下まで階段二十五段。二段抜かしで駆け下りれば多分間に合うはずである……こけなければ。
 陸はいつもと同じ踊り場にはいたが、微妙に座る位置は違っている。窓際ではなく限り無く階段ギリギリのところに腰掛け、手すりをしっかりと掴んでいた。
 一連の動作は一瞬である。
 予備動作無しで一気に立ち上がり、怒涛のように陸は階段を駆け下りた。
 その姿は正に北欧神話にいう狂戦士の如く。
 当然下で覗き込んでいた女子生徒は、弾かれたように逃げ出す。
「太一!」
「おうさ!」
 階段下の廊下の両サイドには教室があり、少女の退路を塞ぐ為に陸は太一を潜ませていた。太一は教室のドアから飛び出し、両手を広げて廊下の真ん中に仁王立ちをする。
「オレの胸に飛び込んでこーい!」
 健全な男子である限り、太一の顔がにやけてしまうのは致し方無し。
 とりあえず作戦は成功したかに思われ、あっという間に上から駆け下りてきた陸が向かって左の廊下に飛び出した。
「太一?」
 長い廊下の先に見えるのは、猛烈な勢いで走り去って行く三つ編みの揺れる後ろ姿。
 嫌な予感がして陸が振り返ると、そこには虚しく両手を広げた太一が突っ立っていた。
「オレは左の教室に隠れてろって言ったよな」
「だから、こっちが左だろ?」
 階段の上から見て左は、下から見たら反対の右。打ち合わせの甘さが祟った痛恨のミスである。
 しかし今回はここで諦めるわけにはいかない。まだ敵は視認できる範囲にいる、追跡は可能だ。
 役立たずの太一は置き去りにして陸は走り出す。部活こそ入ってはいないが、彼は五十メートルを六秒台で走る脚力の持ち主である。
 前方を行く女子生徒はよく見れば思いの外小柄な感じで、長身の陸の歩幅の広さがあればすぐに追いつくかと思われた。
 長い直線がもう少しあれば良かったのだが、女子生徒は急カーブして階段を駆け下りてゆく。陸も同じ様に急カーブして階段に入り込もうとしたが、大きい車は急には止まれなかった。
 真っ直ぐ正面の壁に右手の平を付け、それでも足りなくて右足で壁を蹴る。
 鉄筋コンクリート建築の壁がかすかに揺れた。
 ドゴーンという大きな音が三階から下へ向けて鳴り響き、昼放課に談笑していた生徒達は何ごとかと教室から顔を覗かせる。
 すると彼らの目の前をまず小柄な女生徒が疾走して行き、その後を巨人の陸がすごい勢いで追い上げていくではないか。
「な、何だ?」
「追われてるんだろ」
「廊下で追いかけっこかよ」
「その割には鬼気迫ってねえ?」
「ええ、林檎ちゃんが大変!」
「誰だよ、林檎って」
「追いかけられてる女子だろ、確か二組のちっせえ奴」
「それにしても二人とも足速いねえ」
「林檎は陸上部だよ」
「へえ、でも何で走ってるんだ?」
「もしかして襲われてるとか?」
「大変だ、狂戦士久保田が女子を襲ってるぞ!」 
 この時、誰がどの発言をしたのかははっきりとしていない。ただ無責任に投げ込まれた言葉は、転がるうちに尾ひれが付いて事実とはどんどんかけ離れてゆくものなのである。
 陸は彼女を捕まえて問い質してみたかっただけなのだ、「何か用があるのか」と。
 たったそれだけのことなのに、陸は三階から二階に駆け降りて南校舎から北校舎への連絡通路を駆け抜けた。
 一階に下りたと思ったら今度は中庭の狭い通路を通らされて制服を埃だらけにし、そして今もまだ全力疾走をし続けている。
 おかしい、何かがおかしい。どうして自分はこんなにも必死に走り続けているんだろう。
 確かに追いかけ始めたのは陸自身であるが、苦しい呼吸で頭が真っ白になってくると自問自答せずにはいられない。
「それが青春なんだ、陸!」
 ランナーズ・ハイで脳が侵されたのか、太一の声がどこからともなく聞こえてきて無責任な言葉を投げかけた。
 こんな疲れるだけの青春などこっちから願い下げである。
 なかなか捕らえる事のできない三つ編みの後ろ姿を追いかけながら、陸は心の中で毒づいた。


 さすがに女子生徒の方が先にスタミナ切れになったようで、走るスピードが徐々に落ちてくる。
 最終的に中校舎の一階奥に追い詰めた陸は、後ろ姿のまま行き場を失ったお下げ姿にじりじりと近寄った。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
 お前は一体オレに何の用があるんだ。
 直訳すればそうなるはずだが、何ぶん走り通しで言葉になってくれず傍から見ればこの構図はちょっと危ない光景に見えたかもしれない。
 陸が無造作に細い手首を掴むと、女生徒は弾かれたように振り返った。
 見開かれた大きな黒い瞳、ぽってりとした可愛い唇。顔の造作は素直に可愛い区分に分けられると思われたが、陸の顔はそれを見ても疲労しきってバーサク化したままである。
「あ、あの」
 すると少女の白くて柔らかそうな頬が急激に赤く染まった。耳の先まで真っ赤になり、可愛らしい手の平で顔を覆うと手と顔の色のコントラストがはっきりする。
 どこか具合でも悪いのかと陸が顔をしかめたその瞬間、両腕を脇の下から挟んで誰かが少年を羽交い絞めにした。
「そこまでだ、久保田!」
「白昼堂々女子生徒を襲うとは何て奴だ!」
「は?」
「違うんです先生、これには沼より深い訳がぁぁぁ!」
 陸を捕まえに来た二人の体育系教師と、最後に聞こえてきたのは正真正銘太一の声であった。
 実は太一なりに必死で二人の後を追いかけていたらしく、先程のランナーズ・ハイと思っていた幻聴も本当の肉声だったらしい。
 フォローに使われた例えはいまいち分からなかったが、走っている最中の陸の心までもを読むとは実に侮れない男である。
 教師の一方的な誤認逮捕ではあったが、とりあえずこの場は収まるかに思われたその瞬間。
「いゃぁ、見ないでぇぇ!」
「ごふぉっ」
 一瞬の隙を突き、教師に羽交い絞めされた陸のボディー目掛けて赤面少女の蹴りがめり込んだ。
 後ろに注意を引かれ、しかもがら空きのボディーに会心の一撃を喰らった陸は堪らない。
 陸の腕を押さえていた教師もこれには驚き思わず手を離してしまう。
 膝を着き、崩れ落ちながら陸は確信した。
「そうか、やはりこいつはオレに勝負を挑んでいたのだ」と。
 疾走し続けた疲労もあって、立ち上がる気力も無く陸は床に倒れこんだ。
 太一は友の側に手と膝を着き、絶叫する。
「立て、立つんだジョォォォー!」
「誰だ、その外人……」
 倒れただけで意識を失っているわけでもない陸は、昔懐かしアニメ特集の番組は一度も見たことの無い子供であった。





「あ、あの本当にすみません。私二組の辻林檎っていいます」
 陸が横たわるベッドの脇で椅子に腰掛けていた女子生徒は、申し訳無さそうに眉毛を八の字にして下を向いていた。
 先程と変わっているのは、可愛い顔に掛けられた赤茶色の縁の眼鏡が増えていること。
 指で忙しなく眼鏡の位置を微調整するその仕草は、少女の心の動揺をそのまま表しているかのようであった。
 養護教諭はちょうど用事で席を外しているらしく、保健室の中に男女二人っきりの微妙な空気である。しかしそんなシチュエーションも陸の生来の鈍さにかかれば何のその。
「……勝敗はついた。女子の蹴りごときに耐えられなかったオレの負けだ」
「は?」
 林檎は驚いたように顔を上げると首を傾げる。
「お前、オレのこといつも睨んでただろう。覚えは無いが、よっぽどの恨みがあるんだと」
「あ、そそそれは違うんです、本当にすみません」
 恥ずかしそうに顔を手で覆いながら謝罪する林檎に、今度は陸の方が首を傾げた。
「あの、私ってちょっとしたことですぐに顔が真っ赤になっちゃううんです」
「はあ」
 それと睨むことがどう関係あるのか陸にはさっぱり分からなかったが、とりあえず相打ちだけ打って黙り込む。
 林檎の話によると、従来から赤面性がコンプレックスで悩んでいた彼女は、ある日どんなことがあってもポーカーフェイスを崩さない人物を構内で見かけた。それが陸だというのである。
「ちが……」
「いいえ、聞いて下さい!」
 陸の場合はポーカーフェイスなどという高度なものではなく、多少動揺してもそれが顔の筋肉に伝わりにくい体質なだけであった。だがそう言おうにも林檎の気迫に圧されて反論することができない。
 陸に興味を抱き、いつしか林檎は遠くから彼を観察することを始めた。
 徐々に観察距離を詰めていったは良いが、自分の眼鏡姿を見られたくなくて外してみたりもした。
「眼鏡をかけると何がダメなんだ?」
「う、あの、えと、その……」
「ちちち、ダメだなあ陸。そこはほら、乙女心ってやつだよ、乙女心」
 今までずっと潜んで話を聞いていたのか、いきなりベッドの足元の陰から太一が湧き出てくると会話に割り込んでくる。
 陸は慌てることなく枕を掴むと、太一の顔面目掛けて正確に投げつけた。
「ちょっと黙ってろ妖怪」
「親友に向かって何て言い草だーっ」
 そう言いつつも、太一は枕を置いてそそくさと保健室を出て行った。彼の行動は基本的に悪意は無いのである。
「あの、でも眼鏡取ると全然見えないわけじゃないし……少しぼやけちゃいますけど」
 視力の足りない分は努力でカバー。というわけで眼を凝らし、眉間に皺を寄せて一点集中して眺めていたのである。
 そうか、あの怨念波は呪いじゃ無かったのか……。
 神妙に頷きながら聞いている陸が何を考えているのか、林檎には想像もつかなかったことであろう。
 陸を観察したい。だが少し動揺しただけでも顔は真っ赤になるし、そんな顔は恥ずかしくて見られたくないから気付かれた途端に全速力で逃げ出す、の繰り返しであったらしい。
「一つだけ言えることは、辻がオレを観察した所で参考になることは一つも無いということだ」
「ええと、あの。それはそうなんですけど」
「じゃあ何だ」
 陸が真っ直ぐ林檎の目を見てそう尋ねる。
 先程までほのかに残った赤みでピンクだった少女の頬が、みるみる間に紅玉へと染まった。
 潤んだ黒い瞳とふっくらした紅色の頬。初めて間近に見る柔らかそうな物体を前に、ようやく少年の中の何かが化学反応を起こす。
 途端に、鉄面皮と言われ続けた陸の顔の表面に体中の血が集まって熱を発した。
 耳まで赤くなったのは生まれて初めての経験である。


「お、おう」
 何に対する返事というわけでもないが、とりあえず頷く。
 表情の乏しい狂戦士が林檎のきもちを初めて知った、記念すべき瞬間であった。