紅い瞳の殺人鬼

 

 空に輝く星々と月は一つの物語の終焉を照らすスポットライトのようだ。高鳴る心臓に反比例して心という名の水面はゆらめきをなくしていく。私の目の前に立つ寺は、一世一代の晴れ舞台には落ち着きすぎていた。でもそういうものなのかもしれない。何かを終えた後というのはどんなものでも喪失感はある。達成感の裏に寄り添うように。これからすることは今の雰囲気のままのほうがやりやすい。足音を立てずに本堂へと進む。今までの経験――といっても古いものだが――が正しければそこに彼がいる。空を見上げて口を微かに動かしている。
 屋根に昇ると、予想通りの彼がいた。月明かりが彼の周りだけに集まっているのだと錯覚してしまうほど、周囲の光景は目に入らない。数分は動かずに見ていたことだろう。その間ずっと、彼は自分を照らしている月を見つめていた。
「何か用かい?」
 言葉は時を動かす。凍れる時が壊れたことで、私は瓦で出来た足元を踏みしめながら、一歩ずつ彼の元へと歩み寄る。忘れることができない男の前へと。
「ようやく見つけた」
 腰に刺していたナイフを鞘から解き放つ。せいぜい私の二の腕までの長さのそれは、人を殺すことなんて知らない私には過ぎた武器だろう。どこまで殺しを生業にしているこの男に通用するか分からない。いや、冷静に考えて通用するはずがない。手の甲にかすり傷をつけられるならば僥倖だろう。
 それでも、止める気はない。私の中の疼きを止めるには、彼を殺すか私が死ぬかしかない。
「あなたを殺しに来たの」
 突き出した切っ先が震えている。私だけじゃなく、おそらく遠目から見ても分かるくらいに。刃が月明かりで眩く光り、目の中に飛び込んできた。その光さえ、震えていた。
「声は震えていないんだな」
 ゆっくりと立ち上がり、私を初めて視界に入れる。右目は昔と同じく、視力のない赤い眼球が収まり、左目は光を灯していない。最後に見た一年前には、まだ左には黒目がしっかりと残っていたのに。
「ああ、気配で分かるよ。驚いているかい? つい先日、仕事の最後でやられてしまってね。僕は視力がないんだ」
 それでも足取りに迷いはない。気配という言葉からして、全身で周りを知覚してるんだろうか?
 改めて自分との差を感じる。でも私の想いは前に出て行く。
「俺の手は何百人もの血で汚れている。一体お前は誰の仇を取るために来たのか。俺には判断できない」
 月明かりとは違う赤い光が、私を包み込む。切っ先から伝染した震えは全身を掴んでいたけれど、まだ心までは震わせることはない。
 まだ、私はこの剣を前に突き出せる。
「なら……誰の仇だなんていう必要はないわね」
 近寄ってくる男に、私も一歩だけ踏み込む。バランスの取れた瓦が少しだけずれる音。それは鍵を開けるときの音に似ていた。私の中にある恐怖という名の扉も鍵が解かれて開かれていく。
 足を一歩踏み込む。それは確かに鍵だったのかもしれない。鍵を開ける音が響く度に身体は軽くなり、前に足を出す早さも増していく。何十にも私の心を閉じ込めている扉が次々と開かれ、勇気と力を放出する。すぐに私と彼の距離は足一歩分まで縮まった。少し息が切れていたけれど、目の前の男に向かって呟く。
「ねえ。人を殺してきたあなたがこうして仏の加護を受けようとするのは、罪悪感のため?」
「仏? ……ああ。人を殺した時にはいつも、寺の上にいることまで君は知っているんだね」
 そのことをさして驚く必要を感じていないらしく、彼は笑う。そうだ。いつもいつも、人を殺し始めた一年前から彼はそうだった。場所を変えるだけで、必ず殺しの後は寺の屋根に上り月を見上げていた。そして何かを呟いていた。変わらない彼を思い、私も笑みにつられる。すると、急に笑みを消した。代わりに生まれていたのは、諦め。
「別に。人を殺した俺が神仏を足蹴にしている。それが心地よかったのさ」
 嘘だ。
 それは嘘だ。
 単純に彼は高いところが好きだったから、傍に適当な場所がなかったからだ。それに、寺はあくまで寺。神など住んではいない。住んでいるとするならば――
「まあいい。俺はもう十分生きた。この赤い瞳は多くの死を見取り、最後に自らの死は見ることがないまま、終わる」
 男は、両手を広げて心臓をさらけ出した。半歩だけ進んで、私のナイフの先が肌を押す。先ほどまでの震えとは違う嫌な感触が、私の腕にも伝わってきた。私が彼との差を埋めれば全てが終わる。
「自殺すればよかったのに」
「情けないことに、自分で死ぬのは怖いんだ」
 一年前の先。何年も何年も見続けてきた顔が、心の底からくるんだろう笑みに彩られていた。
「馬鹿な、人」
 月が作り出す私達の影が、一つに交わった。


 * * *


「馬鹿な人ね、兄さん」
 手についた紅を舐めながら、月を見上げた。兄だったモノから流れ落ちる鮮血が屋根を伝って地上へと流れていく。兄の魂は天に。血肉は地上に。二つに分かれた兄はもう再会することはないのだ。
 どこで道を踏み間違えたのか分からないけれど、きっと兄もそんな自分を終わらせたかったのだろう。最初から視力のなかった赤い右目だけじゃなく、残っていた左目も私が殺しに来る前に何らかの理由で失っていたようだから。
 そうでなければ、ただの小娘である私が殺せるはずもない。
「本当。馬鹿な人」
 こみ上げてくる。
「あはははははははは!」
 歓喜。
 兄はどこで道を間違えた? だって? そんなもの、最初からに決まっている。
 私がそうだから。私の中にあるこの殺人衝動が、兄が最初から壊れていた証拠。
 疼く。私の右目が。
 この、赤き眼球が。
 生まれつき同じ物を持つ私だからこそ分かる。
 この衝動は、呪いなのだ。
 共に得体の知れない瞳を持って生まれた双子だからこそ、こうなることは運命だったんだ。
 別に誰か大切な人を殺されたわけではない。私が殺したかったから、殺した。
 同じ時に生まれ、同じ時を生きた私達だから。一年前に両親を殺して裏の世界に姿を消した兄さんは、私の中にある。
 殺人鬼の赤い瞳が、ここにある。
「はぁ……。兄さん。安らかに眠ってくださいね」
 ナイフをゆっくりと兄から抜いて、昔見た漫画で見たように付着した血を舐める。濃い味に眩暈がしたけれど、とても酒に酔った感覚に似ている。兄の血に滑らないように屋根の上に腰を下ろして、月を見上げ続けた。はるか宇宙に浮かぶ月を。光によって見える虚像が浮かぶ空を。
 兄にはどんな風に見えていたのだろう。今の私のように見えていただろうか。
「紅い月。綺麗……」
 殺戮の勲章。真っ赤に煌く、人を惑わす魔性の月に導かれて。
 私もこれから、人を殺していくのだろう。誰かに殺されるまで。
「――――」
 自然と口から呟きが漏れる。結局、兄が何を口ずさんでいたのかは分からなかった。でも、もしかしたら今の私と同じことを呟いていたのではないか?
 歌でもない。詩でもない。ただ、一つの言葉を。自分のものではなくなったかのように動く唇は、私に言葉の意味を悟らせることはなかった。ただ、少しだけ切なくなった。
 どこかで意味を知っているはずだという思いがあったから。
「――――さ―。―め――さ―。ご――な――」
 少しだけ濡れた頬に風が当たって冷たかった。