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「――」
しとしと、という音が響いている。
それはとても静かな音。夜に吹く風のように心地の良い音。
それは、雨。
体を濡らす水滴の温度はとても冷たい。
黒い、闇色の世界。
明かりなんてない。
黒色と、濃い灰色の厚い雲で覆われたこの世界には光なんてない。見渡す限りビルの群れ。ビルにはただの一人の住民もなく入り口は全て閉鎖されている。ただの廃墟だ。人だけでなく、生き物すらも存在しない。
ここは夜よりも深く、冷たい。
「―璃」
ぼんやりと思った。
こんな寂しすぎる世界で、生きていく価値はあるのだろうか。
死んでから初めて思った。今までどうして、こんな風に思わなかったのか不思議なくらいだった。
この世界は暗すぎる。そして、一人きりでいるには寒すぎる。
全てを焼き尽くす黒い炎も温度はない。
ただ、大切なことだけを焼き尽くし、心が空っぽになっていく。
もう一度、自分自身に問いかける。
こんな世界で、生きていく価値はあるのか。
頷くことは出来なかった。
何か大切なことを忘れている気がしたが、思い出せない。
復讐、という単語が頭をよぎる。
けれど、どうでも良かった。自分を支えていたもののはずなのに、どうでも良く感じる。それこそが、死なんだということを今更のように自覚する。
――だけど、自分は本当に一人ぼっちだったろうか。
この果てのない世界。灰色と黒色の廃墟に、自分は一人きりで立っていただろうか。
こんな寒すぎる世界を一人きりで、歩んで来られただろうか。
「七璃」
その言葉で、目を開いた。七璃のことを覗き込んでいたここの葉の顔が瞳に映る。
「本当に、いつも泣いてばかりのやつだな」
「心配したんだから、当たり前でしょ!」
「まったく」
七璃は手を伸ばし、彼女の頭を撫でてやる。
「子供扱いしないでよ!」
彼女は顔を赤くして、そっぽを向いた。
その反応に満足し、七璃は自分の体を確認してみる。腹部には包帯が巻かれていて、左手の甲にもちゃんとした処置が為されていた。
あれから、どれくらいの時間がたったのだろう。ここの葉の体は大丈夫なんだろうか。
「あーと、体は平気か?」
七璃は何だか前と同じことを言ったような気がしながらも、尋ねる。
「うん。平気」
ここの葉は頬を紅潮させて頷いた。
「あの、そのね」
「あ、そう。そりゃ良かった」
どうやらあの薬は華南の言うとおり、ちゃんとした効果のあるワクチンだったようだ。
それだけ確認すると、それ以上ここの葉のことに構うことなく、七璃は自分の体の点検をする。左手のちゃんと握れるし、体を起こせるくらいには回復している――鋭い視線を感じて、無理矢理意識をそちらに戻された。
見ると、ここの葉は凄い形相で睨んでいる。これは、羅刹や修羅の類だ。
「ど、どうしたんだ?」
尋ねてみるも、ものすごいプレッシャーが返ってくるだけであった。
――俺、何かした?
ここの葉にワクチンをうってから、彼女が目を覚ましたところ以降の記憶が七璃にはどうにも思い出せない。倒れたこと自体は覚えているのだが、ひょっとするとその時に、何か彼女のへそを曲げるようなことをしてしまったのかもしれない。
「えーと、俺が倒れてどれくらいたったの?」
「丸一日くらいだよ」
「そんなもんか」
「そんなもんよ」
ここの葉の態度はひたすら冷たかった。そっぽを向いて唇を尖らしている。
「これ、ここの葉が処理してくれたんだな。完璧な手際だな。いつの間にこんな技術学んだんだ?」
とりあえず七璃はその見事な手際に感心しながら尋ねると。
「ううん。そのね」
ここの葉は言いにくそうにするが、すぐに、
「七璃が倒れてから三十分くらいして紀津月さんが来て、縫ったりとか包帯とかしていったの」
「華南が」
予想だにしない名前に、七璃は目を丸くしてしまう。
「何でまた……」
「よく、分からないんだけど。目を覚ましたら、この手紙を渡しておけって」
言われるまま、七璃はその手紙を受け取った。
『モルモットはモルモットらしく、おびえながら町の片隅で、せいぜい長生きすることね』
「……」
七璃は何てむかつく女なんだと心底思った。こんなことなら、あの部屋にあった絵でも持って行ってやればよかったと、後悔までする始末だった。
「あの野郎。散々人のこと好きとか愛してるとか言っていたくせに!」
「……へえ。そうなんだ」
七璃は何だか背筋が凍るような気がした。
その原因らしき存在に目を向けると、かなり強引にだが、笑っていた。こめかみのあたりがぴくぴくいっている。
「ねえ、なんて書いているの、それ?」
ここの葉は、華南の手紙を引ったくろうとする。七璃は慌てて、彼女に奪われないように遠のけた。
「何で隠すの」
「……いや、なんでだ?」
書かれていることがすこぶる腹の立つ内容であるが、言い返せないという情けないことが理由である。そんなことまで推察できるほど、ここの葉は達観してはいない。
七璃は曖昧な言葉で答えると、ここの葉は眉を思いっきり吊り上げる。
「見せなさい!」
「嫌だね」
七璃には彼女が何を怒っているのかは、さっぱりと分からないが、やはりここの葉をからかうことは楽しい。麻酔のせいかは分からないが、痛みはあまりないために、ひょいひょいと上手いこと手を動かして、ここの葉の魔手から逃れさせる。
そんなことをしながら、七璃は窓の外に目をやった。
開かれたカーテンの見える外の景色は黒色と灰色で、雨が降っている。
それはとても冷たい色の景色。
だけど、今だけはそんなに寒くなかった。