第六話

 

 ◆


 一番印象深い風景は、と尋ねられると私は迷わず、街角にある喫茶店の名前を挙げる。名前はシーサリア。何度か七璃と行ったことのある、喫茶店。センスのない七璃が知っている店とは思えない良い内装の喫茶店だ。
「どうして、こんな店知っているの?」
 私は疑問に思い、ついつい尋ねてしまった。何というか、七璃にはとても似合わない。
「ふん。いつもいつも俺のことセンスがないなんて言いやがって。これで、前言撤回だろ」
「……」
「な、何だよ。良い店だろ。ほら、あそこの壁に掛かっている絵なんて、店長の好きな画家さんのコピーで。ほら、何だっけ。草原の中にある家? ここのアットホームな雰囲気にぴったりで」
「……」
「分かったよ。たく」
 やっぱり。
 無言の圧力に屈した七璃はがしがしと頭をかいて白状した。どうやら彼の友達がバイトをしているから知ったらしい。私以外の女性の名前が出なくてほっとしている自分がいることに、私は気がついた。
 それから私は時間が出来たとき、この喫茶店によく寄るようになった。流れる音楽も何の曲かは知らないのだが、一つの楽器しか使われていないのかオルゴールにも似た単調な音色だというのに、自然と飽きない音楽もお気に入りの一つだ。目を閉じて耳を傾けているとそのまま眠ってしまえそうだ。ヒーリングミュージックというやつなのか。
 そして、他に大切なことはコーヒーの苦手な私でも、美味しいと思えるコーヒーが出されるのが魅力的だったということだ。普通のコーヒーなんて香りが良いだけで、飲むと口いっぱいに不快な味が拡がり、舌にしみ込んでしまうのかいつまでも苦みが残る。まるで泥水だ。こんなもの目覚まし以外の理由で飲むやつの気が全く知れない。また、子供っぽく見られるのは嫌なため、七璃の前では砂糖とミルクを入れるなんてことも出来ない。
「でもな」
 けれども、この店で出されるコーヒーにだけは七璃もミルクを入れていた。私もそれにならい七璃と同じようにミルクを入れてみる。濃い黒色の液体の表面に白い渦が出来て、飲み込まれた。ミルク一つしか入れていないのに、カップ一杯のコーヒーの液体の色そのものを、柔らかいクリーム色に変えてしまうのはいつ見ても不思議な光景だ。
 ミルクを入れたコーヒーは、コーヒーであってコーヒーとは似ても似つかぬ味になる。インスタントであろうが豆からひこうがそれは変わらない。ミルクを入れたらどれも同じ、口当たりの良いまろやかな味しかしない。本当に不思議。たった一つのミルクで全く別の味になるなんて。
 七璃がコーヒーを飲むのを見て、私もふうふうと吹きかけてカップを口に運ぶ。
 ……コーヒーの味がする。
 覚悟していたような苦さはまるでなかった。コーヒーの味も風味もまるで失われていないのに全然苦くない。
 すごく驚き顔を上げると、
「コーヒーが旨いのは本当だ」
 七璃は自慢げに笑いながら、そんな風に言っていた。
 奇跡のような豆のブレンドのバランスについて、七璃が色々言っていたことは全く覚えていないが、私がこの喫茶店を気に入るには十分すぎるほどの理由であった。
 難点といえば、コーヒーが味に見合う値段すること。ようするに高いことだ。普通の喫茶店に比べて一杯のコーヒーの値段が二倍ほどするのは、バイトの一つもしていない私には痛すぎる。
 だけど、運が良ければ七璃に会うことも出来る。それが私にとって数少ない楽しみの一つだ。そんな思いから、私は足繁くこの喫茶店に通ったものだ。
 ……私ってこんなにけなげだったのか。
 自分自身の行動なのにすごいびっくりだ。これでは本当に、恋をしているみたいじゃないか。
 ただ、一人でコーヒーを飲みながら彼のことを思い浮かべると、胸がきゅーっとした感じになる。楽しいわけではなく、かといって辛いわけでもない。こんな風な喜怒哀楽とは違う、説明できない感触を持つと、何となくだが恋をしている、と思えてくるから不思議だった。私は声を上げず、けたけたと笑ってしまった。
 でも、私にとって喫茶店の風景はそれだけじゃない。
 思い出したくもないけど、一番印象に残っている風景は。私が思い出してしまう風景は。
 その日も私は喫茶店を訪れていた。私が座る席は奥。途中にある人の大きさほどの観葉植物のおかげで、入り口の側からはこちらのことを見ることが出来ない。私は一人でいるときはその席に座り、ぼんやりと入り口を見ているのが好きだった。
 からんころんという鈴の音がした。入り口に目を向けると、七璃が入って来るのが見えた。
 私は立ち上がり声を掛けようとすると、長身の七璃の影にもう一人の姿が見えた。正確にはもう一人の影が見えただけだが。
 声が聞こえた。七璃の声と、女性の声だ。私は彼らに背中を向けることしか出来ない。幸い、彼らは私のことを気付いていないようであった。
 趣味は悪いと思っても、二人の様子を伺ってしまう。
 見なければ良かった、とこの時どれほど思っただろうか。相変わらず、女性のほうは影になって見えないが、七璃は笑っていたのだ。
 私には何も出来なかった。この瞬間何を思ったのか理解出来なかった。
 一番近いと思うのは、満員の電車の中で足を踏まれた時のような感じ。たった、それだけのことなのに、酷く腹が立ってしまう感じだ。しかも、どうしてそんなに腹が立つのか分からず、後になって振り返ってみてもやはり分からない。ただその瞬間だけ、殺してやる、とまで思ってしまう。
 けれども、そんな風に思うのは一瞬だけのこと。カメラのフラッシュにも満たない時間だ。膨らませた風船が破裂するような感じ。煙草の煙のように吹けばすぐに、空気の中に溶けて消えてしまう。そして五分もたったら、自分が腹を立てたことすらも思い出せなくなってしまうだろう。
 でも仮に、その瞬間だけを凍結させてしまったらどうなるのだろうか。
 臆病である私には何も出来ない。ただ沈黙して、その光景を見守ることしかできない。せめて、目を離すことさえ出来たらいいのに。そうすることすら怖くて、目を離せない。あはは、という笑い声が耳にこびり付いて離れない。
 臆病な人間は閉鎖することでしか、世界は保てない。
 隔絶する方法は見なかったことにするだけだ。自分自身でも見つけることの出来ない心の奥底に、深層心理と呼ばれる深い深い海の底に沈めてしまう。そう、記憶の箱にはしっかりと鍵をかけて、奥底へと沈めてしまう。
 でも、時々だけど思い出してしまうのだ。
 それは、眠りにつく前のまどろみの中であったり、ニュースを見ている時の空白の時。記憶のふたの僅かな隙間から、零れているのを見てしまう。そんなとき、私の目からはつうっと涙がつたってしまう。
 そのたびに、少しずつ自覚する。
 私は、このことが原因で七璃を恨んでいるのではないのか、ということを。
 私にとって、この喫茶店は原初風景なのだ。楽しい思い出も、悲しい思い出も、大切な思い出は全てその場所に詰まっている。


 ◆


 もう何人殺したのかなど、七璃は覚えてはない。
 今日も一人殺した。アウターだ。女性を犯そうとして誤って死に、逆恨みをしていた男性だった。はっきり言って屑だった。同情などすることもなく、殺した。アスファルトの上に、大輪の花のように血が広がっているのを見ても、何も感じはしない。
 セーフティをかけて銃をしまってから七璃は隣を向くと、街灯の下に青ざめた顔をした女性が立っていた。
「終わったぞ」
 七璃が告げると、彼女は一歩後ずさり、
「きゃあああ!」
 悲鳴を上げ、逃げ出してしまった。自分で依頼しておいて随分と失礼な話であった。
 けれども、こんなことはよくあることだ。
 彼女は人を殺すということが怖かったわけではない。二十年も生きていれば、殺人現場の一つや二つ嫌でも見てきたはずである。それなのに、彼女が悲鳴を上げて逃げ出したのは、七璃というアウター<化け物>のことが恐ろしかっただけのこと。
 元々七璃のところに来る人は、藁をも掴む状況でしかやってこないため、七璃のことがアウターかどうかなど半信半疑でやってくる。そして、アウターを殺すことによってアウターであると彼が化け物であることを確認するのだ。確認した後の反応は、今の女性がとったものが大半である。だからいちいち気にしていても仕方ないことだ。
 七璃は、自分が何人殺したか、思い出そうとしてみた。やはり、思い出せなかった。思い出せないということは、思い出したくもないのか元々覚えておく程の価値もないのか、どちらも正しいようで正しくないような気がする。
 男性の死体を見下ろしていると、ふと、ここの葉の顔が思い浮かんだ。悪人を殺すことは構わないという口ぶりとは裏腹の、酷く冷めた目で七璃のことを見るここの葉。人を殺すという行為を完全に軽蔑しきった目だった。今にして思えば、あのとき初めて人を殺すことが悪いこと、ということを自覚したのかもしれない。
 七璃は帰宅して、明かりを付けた。すっかりと片づけられてしまった部屋の輪郭が浮かび上がる。
「たく、ひれーな」
 七璃は思わず、呟いてしまった。足の踏み場があるというのはどうにも落ち着かない。今すぐにでも、ハンガーに掛けられている服と、本棚に詰め込まれてしまった本を床やソファの上にぶちまけたい衝動に駆られるが、今はそんなことをしている場合ではない。
 コンコンと形だけノックし、ここの葉の部屋のドアを開く。ベッドの上にここの葉は横たわっており、額に氷嚢がおいてあった。今は落ち着いているのか、頬に赤みが差しているだけで呼吸のほうは苦しく無さそうだ。すうすうと静かな寝息をたてている。七璃が氷嚢に触れると、すでに氷が溶けきってしまっていた。七璃はぬるくなった氷嚢を冷凍庫へと放り込み、タオルを濡らしてからここの葉の元に戻った。
「ここの葉」
 七璃は額にタオルをのせてあげた。
 ここの葉が倒れて三日間が過ぎた。結局あれから、彼女は一度も目を覚まさない。
 七璃は原因がまるで分からない。ただの風邪なのか、あるいは肺炎にでもかかったのか。初めは極度のストレスによる、体力の低下に伴う疲労からの睡眠だと思っていた。しかし、三日も目を覚まさないとなると話は違ってくる。漫画のように、理由もなく数日間も眠り続ける状況なんて起こりうるはずがない。何らかの原因があるはずだ。
 初めは寿命かと思ったが、幸いというべきか、それとも異なるようである。寿命の場合はこのように苦しむことはなく、眠ったまま息を引き取る。
「ち」
 七璃は、とりあえず顔の汗だけを拭ってやるが、すぐにまた浮かんでくる。
 ここの葉の具合は一向に良くなるように見えない。むしろ、衰弱のほうが著しく見える。市販の風邪薬を無理矢理飲ませたが焼け石に水だ。
 こういうときは、アウターであることが呪わしくて仕方ない。アウターである彼女は医師の診察など受けられるはずもない。
 ずき。ずきと、頭が割れるように痛みだした。そのあまりの不快さに、七璃は頭を押さえる。
「くそ!」
 七璃は壁を殴りつけた。苛々する。何にか。酷く臆病になっている自分自身にだ。
 待っているだけで、事態が好転しないことは十分に理解している。むしろ、悪化の一途をたどるだけである。
 それなのに、ぎりぎりになるまでは行動しない。
 ここの葉を助けられるのは、彼女しかいないことは明白だ。そのことが分かっているというにもかかわらず、動かないということは自分がおびえているからに他ならない。
 ……今更だけど、死んでしまうのが怖いのかしら?
 先日の彼女の言葉が蘇る。
「うるせえよ。くそ女が。二年前と同じように、研究室事爆破されたいのかよ」
 しかし、次に彼女と会ったとき、彼女のことを殺さずにいるか、七璃には自信はない。自分はここの葉のように強くはないのだ。
 その点に置いて、七璃はここの葉のことを尊敬の念を禁じ得ない。
 どれだけの精神力を持ってすれば、ここまで我慢することが出来るのだろう。どうして、こんなに間近にいるのに、ここの葉は七璃のことを殺さないでいることが出来るのだろう。自分など彼女の名前を口にするだけで、視界が真っ赤に染まり、血が沸騰する。意識は真っ白にはじけ、真っ黒な高波に飲み込まれてしまう。
 恨んでいるはずだ。憎んでいるはずだ。呪っているはずだ。嫌悪しているはずだ。軽蔑しているはずだ。
 深淵の深いところに心が置いてきぼりになっているはずなのだ。
 なのに、何故ここの葉は自分を殺さない。
 彼女が人を殺せるような人間でないことくらい、七璃にだって分かっている。けれども、それとこれとは話が別だ。この内に燃える黒炎はそんな次元の話ではない。道徳やモラル程度で抑えが効くようなものなのではないのだ。何十日も何百日も生き延びさせるほどの恨みは、濃度がまるで違う。初めて薬物をやった人と、重度の薬物中毒者を比べるようなものだ。
 七璃は頭を抑えたまま、ふらふらとした足取りで台所へと向かう。手に取ったのは小さめの包丁だった。大きさはハンドサイズ程度で、果物ナイフといったほうが近いのかもしれない。
 包丁を手に取った七璃は、左手の甲を思いっきり貫いた。
「ぐ――ふ――あぁ!」
 貫いたまま抜くことはなく、更に深く刺さるように右腕に力を込める。
「あ――かふ。……くぅ」
 血は溢れ、黒ずんだ液体は広がり、貫かれた左手だけでなく、包丁を握る右腕も、服の袖も黒く汚していく。ジャケットの袖は黒に近いため、目立たないのが幸いだなどと、こんな時ながらも思ってしまう自分のことを、七璃は笑いたくなる。どくん。どくんという、脈の音が妙に響いている。
 歯を食いしばった。冷や汗が止まらない。貫かれた傷に自らの感覚が全て集中してしまったかのようだ。
 まだ、抜かない。七璃は目を見開いたまま、広がっていく血液を睨んでる。


 ◆


 黄色か黒赤色の薔薇の一つでも買ってこようかと思ったが(黄色の薔薇の花言葉は薄れゆく愛、黒赤色の薔薇は死ぬまで憎しみます)、そんな皮肉が通じる相手ではないことを思い出し、七璃は結局手ぶらで名刺に記された研究所へと向かう。午前四時という深夜と呼べばいいのか、早朝と呼べばいいのかよく分からない時間に、開いている花屋など元々無いのだが。
 研究所は七璃のアパートから、徒歩二十分程度のところにあった。それにしても、国の最高の研究所がいきなり地方都市である、この町に建てられたのか。彼女の一存であるとは考えたくはなかった。
 他にそのような建物がないために、一目で分かった。白色のビルだ。天に突き抜けるようにして建っている。二十階建てほどであろう。都会ならただのビルとして埋没しそうだが、回りに比較となるような建物が何もないせいか、妙に高く見える。工場施設はないのか、広い敷地の中央にそのビル一つだけであった。
「魔女が働くには似合わねえな、たく」
 僻みにも似た七璃の呟きであった。
 入り口に近づくと、警備員が立っていた。まだ夜も明けていない時間帯だ。呼び止められるかと思ったら、別にそんなことはなかった。
 気にせずに矢印の向かう先の、中央に建つ研究棟へと向かった。途中の駐車場には一台も車は止まっていないようだ。
 中央のロビーにはいると明かりがついていた。受付には誰も座っていない。
 誰もいないのに、正面から入れるとは思っていなかったため、七璃はどことなく気が抜ける。こんな不用心でいいのだろうか、と思ってたところ、
「来てくれると思っていたわ」
 その声がロビーの中を響いた。
 端のほうに設けられた、喫煙スペースに紀津月華南は立っていた。いつも通りの野暮ったい黒縁眼鏡と白衣姿。唇にひかれた真っ赤なルージュ。
「こんばんは、それともお早うかしら。日も出ていない時間にお早うって言うのは何だか、変な気分ね」
 華南は煙草を押しつけてから、近づいてくる。
 七璃はその姿を前にしたとき、視界がホワイトアウトしかけてしまう。世界を焼き尽くす業火が思考を奪う。けれども僅かに遅れ、左手から伝わる電気信号によって伝わった激しい痛みが、脳を震わせ、何とか我に返させる。
「随分と遅くまで、先輩はいるんですね」
 そして、何とか喋れるようだ。ゆっくりと呼吸をし、散らばった意識を必死でかき集める。ともすれば、左手の痛みだけで意識を失いかねない。
「こんなところで、立ち話もなんだから。私の部屋に行きましょう」
 七璃は頷き、華南の後に続く。
 エレベーターはB3Fから22までのボタンがある。華南は22のボタンを押した。がくん、と少しだけ揺らし、エレベーターは上昇を開始する。
「随分と簡単に入れるものなんですね」
 七璃は先程の警備員のことを思い出して、尋ねた。
「警備員なんて、一応おいているだけの飾りだわ。ま、入れるのはロビーまでで、個別の部屋に入るには職員専用のカードが必要なんだけどね」
「なるほど。じゃあ、俺は先輩がいなかったら、ロビーまでで待ちぼうけというわけだったんですね」
「先輩じゃなくて、華南って呼んでくれないのかしら?」
「やめてくれません――」
 チン、という音がして七璃の言葉が遮られる。
 エレベーターの扉は開き、華南はさっさと行ってしまう。七璃は唇を噛み、その後を続いた。
 華南は廊下の突き当たりの扉の前に立ち止まり、胸ポケットから取り出したカードでロックを開く。
 黒色の大きなデスク。革張りのソファに、価値がありそうな絵画が壁に掛かっていた。どれくらいの価値があるのだろうか。絵画のことにはまるで無知な七璃にはさっぱり分からない。
「その画家この間殺されたし、イミテーションじゃないから、何千万じゃきかないんじゃないかしら。全然興味ないから、私もよく知らないんだけどね。欲しいなら持って帰っても良いわよ」
「いや、絵の良し悪しはイマイチよく分からないから、結構です」
 華南は客を相手にするためと思われるソファに腰掛けたため、七璃もその向かいに腰かける。
「それで、私に何の用なのかしら?」
「先輩に、看て欲しい人がいます」
 七璃は単刀直入に切り出した。下手な交渉をしている時間など、今の七璃にはない。
「あら、私に? 一体どうして、私に白羽の矢がたったのかしら?」
 七璃が焦っているのを感じてか、白々しい物言いだった。
「先輩にしか、看ることが出来ないからです」
 華南の年齢は二十六。華南は確かに学生時代から、常に成績はトップだった。しかし、そんなこと程度で、国の研究所の所長になどはなれはしない。
 もっと、簡単な理由。
 それは、彼女が国の抱える唯一のアウターに他ならないからである。アウターのことを研究をするには、同等の存在でなければならない。アウターでありつつ、ドクターの資格を持っている華南にしか、アウターの研究は行えはしない。七璃やここの葉のような延命のアウターを作り出す研究は。
「そっか。やっと、葛葉ここの葉ちゃんが倒れたんだ」
 その言葉で七璃は目を大きく見開く。
「先輩が、何かしていたんですか?」
 出来るだけ冷静に、七璃は問いかける。
 彼女は妖艶に笑い、
「ええ、そうよ。ようやく倒れたのね」
 と、言った。
 神経が氷のように鋭くなる。目の前の物体の息の根を止めること以外のことを、思考できない。左手の熱も今だけは気にすることも出来ない。
「これ」
 思考がはじける瞬間、七璃の視界に華南に握られた小さな褐色の薬ビンが見えた。彼女の指の動きに合わせるかのように、中に入った液体も波打つ。
「HX09―22っていうコードがふられている、まあウイルスね」
 華南は告げる。
「潜伏期間は一年くらい。発症した後のは症状はそうねえ、風邪と似たようなものかしら。勿論他の菌の働きを極めて弱くするから、風邪なんかよりも、よっぽど症状は重いと思うけどね。酷くなると眠ったまま目を覚まさなくなるかな」
 華南はそう言い、唇の端をわざとらしく吊り上げて笑った。
 どうやら、ここの葉が倒れたのはこのウイルスが原因であることは間違いが無さそうであった。
「何が、望みですか」
 七璃はあらゆる理性を総動員し、何とか尋ねる。
「先輩は、一体。何がしたいんですか」
 煙草でも吸って気を紛らわせたかったが、左手のどくんどくんという血流のような痛みが蘇り諦める。まるで、吸うなとここの葉に怒られてしまった気分になってしまう。
「そうねえ。特に考えてなかったかなあ」
「……」
「そうだ。そんな大学に入りたての時みたいな喋り方じゃなくって、付き合ってたときみたいに喋ってくれない。もっと前の、私のことを姉さんって呼んでいたときみたいでもいいけど」
 華南は良いことを思いついたとばかりに、両手をぽんと叩く。
 そして、その言葉で七璃は完全にきれた。
 椅子を蹴倒して、台を蹴飛ばして、華南を自由な右腕で首を掴み壁際に押しつける。
「――ふざけるな。こっちは真面目に!」
 握りつぶさんばかりの力を、右腕に込める。爪が皮膚を破り、つうっと二本の赤い線が流れる。
 ぱりん、と砕ける音がした。華南の手から零れた薬ビンが地面へと落ちたのだ。絨毯に広がる液体の色は赤。血をイメージしてしまう赤だ。
「……ふざけているのはどちらかしら?」
 無限大の熱量を持った怒りに対し、絶対零度の言葉が告げられる。
「二年前に私のところから逃げ出したくせに。国の進める長期延命アウターとしての数少ない成功例としての理由だけで処理されずに放置され、それどころか国の保護下の中でヒーローごっこなんかしている貴方が? この研究の責任者で、そんな愚行を許してあげているこの私が、何でわざわざお願いをしないといけないのかしら?」
 その言葉に、七璃は何の反論も出来なかった。
「それで、悪い悪いアウターと人を殺す、箱庭のヒーローは楽しかったかしら、七璃?」
 七璃は唇を噛んで、彼女の顔を睨み付ける。
 そんなことは、七璃とて分かり切っている。自分の命など、劣悪なこの女性が握っており、命令一つでその命がたやすく奪われることが分からないほど子供ではない。
「手、放してくれないかしら。いい加減苦しいんだけど」
 彼女の命令通り、七璃は手を放す。
 分子の動きを全て停止させる、冷えた手が七璃の頬に沿わされる。温度のまるでない冷たさは、まるで地獄の底から手を伸ばしている亡者のようだ。
「先輩は、何がしたいんだ」
 七璃は倒した椅子を戻し、力なく尋ねる。
 華南はその間に、コーヒーを二つ入れていた。
「そうねえ」
 そんなことを呟きながら、華南はコーヒーを口に運ぶ。
「七璃も飲んだら? インスタントで悪いけど。コーヒーは貴方が一番好きな飲み物でしょう」
「あいにくと喉は渇いていないんでいらない」
「コーヒーは一息つくための飲み物よ。それと、目を覚まさせるためかしらね」
「あんたの入れた物なんて飲みたくないと、はっきり言わないと分からないのか?」
 華南は不満そうに、唇を尖らせ残念ね、とだけ答えた。
「ねえ、七璃」
 その言葉はどこか昔を思わせる声音だった。
「人ってどうして、アウターになるんだと思う?」
 そして、その言葉はいつか聞いたもの。
 まだ世界は綺麗だなんて幻想を抱いていた時に聞いたものだ。
「俺はさ」
 七璃は俯いて目を閉じた。
 あの時の自分は何と答えただろうか。今となっては思い出せない。
「華南に騙されて、両親を殺されてさ。俺自身も、無茶苦茶されて殺された。殺されてからアウターになった後も、散々あんたには酷い目……なんて言葉じゃ片づけられねえくらい地獄を見せられた」
 あらかじめ用意していた言葉のように、スムーズに紡がれる。
 口にすると、その時の光景が鮮明に思い浮かんだ。
 左手の傷だけじゃなく、体中に刻まれた火傷の痕が沸騰したように熱くなる。内に燃える黒炎が勢いを増して、火傷の痕から外に零れていくようだ。
「そらね。俺はあんたを滅茶苦茶恨んだよ。絶対に殺してやる。殺すだけじゃ飽き足らない。俺をこんな目にあわせたことを絶対に後悔させて、俺が受けた何倍も、何千倍もの苦しみを与えてやる。俺の内で燃える黒い炎は、死んでもあんたを許さない。二年前にあんたのところから逃げ出したときは常にそんなことを考えていた。それだけを考えて生きていた」
「そのために、一年間アウターを、自分以外のアウターを殺していたの?」
「……ああ。完全に警備されたあんたを殺すためだけに、機会を窺いながら一年間アウターを殺す技術だけを学び続けた。復讐のためだけに生きるアウターなんてくだらないと思ってたし、練習のためには丁度いいしな。だけどさ。一年前にあいつと、ここの葉に出会ってしまったんだ」
 七璃は今、自分がどんな表情をしているか気になった。
「一年前。俺はあいつに殺されるのは当然のことだと思った。両親を殺したんだ。今まで俺がしていたことを考えれば、それが当たり前のことだ。だけどさ、俺を死ぬほど恨んでるくせにさ、殺さないんだ、あいつ」
 七璃がここの葉の両親を殺したのは華南の命令だ。実験に必要があるから殺せと言われた。だから、殺した。本当にそれだけの話。
「馬鹿ね」
「そう。あいつは馬鹿なんだよ。スゲー馬鹿だ。まじで意味がわかんねえ」
 七璃はけたけたと声を上げて笑った。
「あいつはさ。人を殺すってことが、最高に嫌いみたいだった。だから、死ぬほど憎んでいる俺のことも殺せないみたいだった」
「……そう」
「だから、俺が出来ることは、ここの葉に呪われ続けることだけだった。本当あいつ、嘘が下手なやつでさ。悪い人を殺しても仕方ない、みたいなこと言っておきながら、すげえ目で俺を睨むんだぜ」
 それは恐らく、人を殺したことを、自分の両親が殺されたことに重ねているのだろう。
「それからの貴方は、彼女のためにアウターを殺したっていうの?」
 七璃は笑う。全く持ってばかばかしい。
 人を呪うためだけの、復讐するためだけに生きるアウターのくせに何を言っているというんだろう。
「ああ、そうだ。俺が人を殺す限り、彼女は俺を呪い続けられるからな」
「それで、貴方は何が言いたいのかしら?」
「ひょっとしたらさ。そういうのも、ありなんじゃないのかって思えたんだろうな」
 贖罪の意志はある。
 七璃自身、ここの葉の両親を殺したということは後で知った。塾の生徒の両親という関係だけで、ただそれだけの理由で選ばれたこともだ。
 そして、ここの葉がアパートに尋ねてきたとき、華南の元に居たときの自分が何をしていたのかを、ようやく理解した。
 彼女は七璃と同じだ。七璃を殺すためだけのアウターだ。
 自分がしていたことを考えれば、ここの葉に自分は殺されなくてはならない。
 けれども。
「……貴方が何を言いたいのか、分からないわ」
「人がアウターになる理由さ。人に復讐するためだけじゃない。確かに生きる原動力は復讐心かもしれない。だけどこうやって、復讐せずに生きていけば、もう一度人生をやっていけるんじゃないかって思えたんだ」
 何を言っているんだろうな、と七璃は自分で言った言葉に、自分自身疑問に思う。
 こんな綺麗事を言うなんて、吐き気すら覚える。本の中では映える綺麗な言葉。それは現実という汚いものがあるからこそ、映えるもののはずだ。だから、綺麗事を現実に持ち込むことは、好きじゃないはずなのに。
 なのに、どうしてだか、そんな言葉が自然と出てきてしまった。
「つまり、貴方は」
「もう誰も信じない。何もいらない。あんた殺すこと以外、何も望まない。そう思っていたんだけどさ。どうしても、出来ちまうんだ。そんなもんよりも、大切なことっていうやつがさ。復讐なんかよりも、もっとずっと、大切なことがさ」
 どんな反応をされるのだろう、と思い七璃は顔を上げる。
 すると、華南は笑っていた。それは、酷く透明な笑みで、何よりも優しく、そして深いものだった。
 思いもしない反応だったため、七璃はどきっとしてしまう。
「そう……」
 華南はデスクから、一つの小瓶を取り出した。先程の薬ビンと同じ褐色だ。ラベルにふられたコードは先程と同じように英数字が並んである。
「……ワクチンよ。好きに使えば?」
 どういう心情の変化なのだろうか。七璃は警戒して、彼女のことを睨む。
「私も忙しいのよ。いらないって言うのなら、ここで叩き割って見せてもいいけど?」
 そう言い、華南はビンを高く掲げて見せた。
「それが、本物という証拠が何処にある」
「あら、あんなご高説を言った後だっていうのに、随分な言葉ねえ。一体どうすれば信じてくれるのかしら?」
「あんたがここの葉を生かす理由がない」
「それなら説明してあげるわ。七璃は私が何の研究をしているか知っているでしょ?」
「……ああ」
 そんなこと言われなくても、嫌というほど七璃は知っている。
 アウター存続時間を引き延ばすための研究、及び利用だ。
 彼女がアウターになっての第一の被験者が七璃なのだから。
「サンプルは多くなくてはだめでしょう? そんなに有限な物ではないしね」
 アウターの存続期間を任意によって延ばすことが出来るのなら、それはその国にとっての莫大な利益を生むことが出来るのは当たり前である。何処の国も競ってしていることだ。それが非人道的な物だとしても、何ら問題はない。
「あなた達は貴重な成功例だからね。意味もなく殺すには勿体ないわ」
 研究者らしいことを発言する華南。
「それにあなたに死なれたら、私も消えてしまうしね。それじゃあ、何の意味もない」
 ……これ以上会話している時間が惜しい。
 それに、ここで彼女を疑ったところで他に解決策などありはしないのだ。
 そう判断して七璃は彼女に近づいた。
「――ごめんなさい。やっぱり、ここで死んでくださる」
 ビンを渡されるの変わりに、鉛色の刃が腹部を貫いた。


 ◆ 


「ぐ――」
 衝撃で七璃は二歩後ずさってしまう。
 鉛色の刃を見て、七璃はようやく自分を刺したものがナイフだと理解した。
 そこに立つ白衣の研究者の顔を見ると、愕然とする恐怖に襲われる。彼女は先程の笑みを浮かべたままだった。
 七璃は壁により掛かりながら、左腕で傷口を押さえる。そして、右腕で何とか銃を構えた。
 これは殺意に動かされての行為ではなかった。原初の反応。恐怖感からくる、防衛の反応だ。
「……先輩は、どうして俺のことをそんなに憎んでいるんですか?」
 七璃の最初からの疑問だった。
「人が人を好きになるのに理由がないように、人が人を憎むのに理由はいらないわ。電車で足を踏まれたようなもんじゃないかしら?」
 吐き捨てるように華南は言う。そして、
「私ね、七璃のことが好きなの。愛しているわ」
 そう言った。
 彼女は変わらずに笑っている。なのに、凄く恐ろしい。とても優しく笑っているよう見えるのに、それは何かが抜け落ちてしまったから、そう感じるのかもしれない。
「七璃は知っているでしょ。私が殺された理由って」
 ――国の研究のためだけに華南は殺された。
 七璃は一度だけ、彼女がそんなことを言っていたことを思い出す。国の求めた研究者。別に、彼女だけがターゲットだったわけではないだろう。医師の資格を持つ者なら、誰でも良かったはず。そんな些細な出来事だ。
 でも、それならば、何故七璃のことを恨むのだろう。
 何故、そんな理不尽な理由で殺した奴らを恨まないのだろう。
 七璃にはまるで分からない。
「――私には貴方のことしか考えられない。私が殺されたとき、貴方のことしか思い出せない。貴方以外のことなんかどうでもいい」
 ナイフを持つ手をぶらんとたれさせて、一歩又一歩と近づいてくる。その様子はさながら幽鬼のようだ。
「大嫌いなコーヒーも飲んであげたのよ。貴方のお気に入りの、シーサリアで待っていてあげたりもしたわ」
 華南は微笑んだ。その笑みは酷く醜く、何よりも人間的であった。
 どくん、と胸の奥が脈打つのを七璃は感じた。
 七璃は銃を構えたままであったが、華南は構わずに抱きしめる。
 ――彼女の体はとても冷たかった。氷の彫刻にでも抱きしめられているようだ。
 華南にとても惹かれている自分がいることに、七璃は気がついた。彼女の醜い笑みも、氷のような冷たさも、歌の中にいるように気持ちいい。そして、そのまま酔ってしまえるような、甘美さも備えていた。
 これが、自分の一番正しい立ち位置であろうことを、七璃は理解する。
 明かりの差し込まない世界にて、恨みあう二人は狂ったように踊り続ける。そのまま、汚泥の中に沈み込む。
「だから、私のことだけを愛しなさい」
 ――心地の良い言葉だった。
「華南は、医者として人の診察をしているの?」
「忙しくて、そんなことしている暇はないわ。私が興味あるのは死んだ先にある、アウターだけよ」
「そうか」
 七璃は構えていた銃を降ろし、
「……俺は、あんたのことは嫌いだ。大嫌いだ」
 彼女のことを拒絶した。
 華南は声を上げて笑い出した。力が抜けたのか、ナイフを絨毯の上へと落とした。
「何で、かしら?」
 ――何で?
 そのための、返答ならもうしたはずだった。
 アウターだから、人を殺さなくてならない。愛しているから、一緒に狂わなければならい。そんな当たり前のこと、しなければならないこと――そんな物は、先ほどすでに拒絶した。
 彼の左手は傷口を押さえたままだ。腹部の傷だけでなく、左手の甲からも血が止まらなくなっている。酷く熱くて、もしかすると化膿しているかもしれなかった。感覚は鋭敏になり、今にも意識を失ってしまいそうである。
 右腕は逆に、冷え切っている。血液の循環が上手くいっていないのか、他の傷口が発熱しすぎて熱自体が足りなくなっているのかは判断がつかない。そのため、左手とは対称に感覚がなくなっている。見てから、銃を落としていることにようやく気がついた。
「きゃ!」
 七璃は華南の手に持った小瓶をむしり取ってから、どんっと突き飛ばした。
 そのまま、ふらふらとした足取りのまま出口へと向かう。
「待ちなさい……。お願いだから、待って。私、何でもするから。こんなことして、ごめんなさい。私、おかしかったの。こんな嫉妬にまみれたことなんてもうしないから!」
「先輩」
 七璃は立ち止まった。そして、振り返った。
 いつもの通りにこりともせず、不機嫌そうな顔のまま華南の姿を捕らえる。
 そこにはアウターがいた。
「先輩が何を思っているか、よくわかんねーけど。俺は、あの時の先輩のことが好きだった」
 そして七璃は、いつかの子供の頃を思い出す。
 あの時は、心からの憧れだった。
 七璃にとって、一番の自慢だった。
 そして、好きだった。
 大好きだった。
 それは、嘘ではない。
 ――でなければ、こんなにも強くは憎めない。
 それだけ言い、七璃は部屋を出た。


 ◆


「馬鹿みたいね」
 一人残された華南は力なく呟き、自分のデスクへと腰掛けた。ぎしりと音をたてるほど背もたれに体重をかけて、両手で顔を押さえる。
 あはは、という笑い声が聞こえた気がした。狂ったような笑い声だ。それなのに、まるで力が感じられない。
 何のことはない。それは自らの笑い声だ。負け犬の笑い声。
「何て、無様なんでしょう」
 そんなことは初めから知っているし、否定する気もない。嫉妬に狂った女性の醜さなど、鏡を見ればよく分かる。
 けど、殺されてアウターになってから思えたことは、七璃を苦しめること、ただそれだけだ。
「ま、馬鹿げたことの結末なんてこんなものよね」
 華南はさして悔しくも無さそうに、くすくすと笑った。
 それから、パソコンを立ち上げ、すさまじい速度でタイプしていく。一時間ほどで、一つのレポートが完成した。
「さて、そろそろ行かないと、あの単純君が死んじゃうかしらね」
 言いたいことだけ言われて、死ぬことを選ぶほど華南は殊勝な女性ではない。
 彼女は煙草をくわえて、窓際に立った。外はあいにくの雨模様だった。

      

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