さあ、手紙を書こう。
目の前に手紙をひろげ、大きく息を吐く。
頭に思い浮かべるのは、彼女の笑顔。一番僕が好きだったその笑顔。
そして、ボールペンを手に取った。
悪い夢から逃れるようにして、僕は目を覚ました。
「あー」
僕は何度か瞬きをすると、焦点が段々とあってくる。
目に映るのは一本の街灯。古びた感じのする見た目の通り、明かりがついたり消えたりとせわしない。
……見続けようと思うほどでもなければ、目をそらそうと思うほど不快な光景ではない。
僕はゆっくりと体を起こして、改めて辺りを見回してみる。
公園だ。
鉄棒やジャングルジムなどの設備のある公園ではない。木々の植えられている、散歩コースによく使われる自然公園である。
どうやら僕は公園のベンチの上で横になっていたようである。
――――あれ?
ゆっくりと回っていた僕の頭も段々とはっきりしてきて、おかしなことに気がつく。
僕はどうして公園のベンチの上なんかで、横になっていたのだろうか……。
思い返してみるが、どうにも思い出せない。
まあ、いいか。僕はとりあえずのびをしてみる。
思い出せないってことは、そんなに大したことじゃないってことだろう。おおかた散歩でもしている最中に気分でも悪くなって、ベンチの上にでも横になっていたんだ。そして、そのまま眠ってしまっただけ。体の丈夫ではない僕にはよくあることだ。
そんなことよりも、日はすでに落ちており、辺りはもうすっかり暗くなっていた。公園に備えられている時計に目をやってみると、すでに八時を回っている。
「やば――」
僕は慌てて立ち上がる。
こんな時間まで僕が外をうろついていたら、母さん達が心配してしまう。
「――?」
立ち上がった僕は、何だか妙な違和感を感じた。
体の感覚が鈍く、麻酔の後のような浮遊感。
まあ、寝起きの反応の悪さはこんなものだろう。僕はそんな言葉にならない違和感は放っておいて、帰路を急いだ。
家にたどり着いた。
玄関の明かりはすでに消えており、暗い。いつもなら僕が出かけている時は、帰ってくるまで電気を付けてくれているはずなのに。
そんなに遅い時間なのか。あるいは、出かけていることに気がついてもいないのか。
別に僕はやましいことをしておいたわけではないので、ためらうことなく玄関のドアに手をのばす。
……開かない?
いや、開かないのではない。何と表現したらよいのか。
手がドアノブに触れた瞬間に形が崩れ、ノブを通り越した瞬間にまた形が戻った。そんな風に僕は見えた。
「ふう……」
僕は大きくため息を吐いた。
どうやら、僕は相当疲れているらしい。
ドアノブの目測を誤るなんて、そんな。
僕は嘆息しながらもう一度、ドアノブに、確かに手をのばした。
そして、また透き通った。
今度は考える間などない。僕は反射的に何度も、何度も、ドアノブを掴もうと手をのばす。けれども、その手は全てドアノブを透き通るだけ。
訳が分からなかった。
僕が疲れているのか。それとも、自分の目がおかしいのか。まだ、寝ぼけているのか……。
僕は慌てて、縁側へと向かった。縁側なら、吹き抜けになっていて、ドアに触れることなく家の中に入ることが出来るからだ。
「よかった」
僕は安堵の吐息を漏らしながら、縁側へと上がる。
よっこいしょと、多少年寄りじみた声を上げながら、上がろうとしたところ、その動きを止めた。
靴を脱いだ感触がなかった。いや。足下に目を向けると、靴は脱げていなかった。
「あれ……」
焦げ茶色のスニーカーは、僕の足へしっかりと収まっている。
……僕は、さっきから一体何をそんなに慌てているのだろう。
さっきから異常なまでの違和感を僕は感じている。今、この違和感は一体何なんだろうか。
まるで言葉に出来ない何かが存在してるようだ。
ひんやりとした悪寒が背筋を走った。
僕は震える手で、スニーカーへと手をやる。
ずぶりとでもいう音でも聞こえてきそうなほど、僕の手は靴の中にめり込んでいた。
目測を誤っているとかそんなことは絶対にない。だって現に、今この瞬間。僕の手は映し出されたフォログラフィーのように、スニーカーと重なり合っているのだから。
目がおかしくなってしまった。目が狂ってしまった。
目をごしごしとこすり、ゆっくりと開く。しかし、目に映る光景はやはり何も変わらない。僕の指は、スニーカーと重なり合っている。
「な、何なんだよ、これ……」
自分でも自覚できるほど声が震えてた。
今更のように僕は気がつく。
歩いているときの地面を踏みしめている感覚。外の空気の肌を刺す冷たさも。体に触れているはずなのに、全く感触のない手の平も。こすったつもりでいた目の感触も……僕には何も伝わってきていない。何も、感じない……。
まるで、悪い夢を見ているみたいだ。
「そうか、夢……」
ぽつりとつぶやいた僕は、靴をはいたままふらふらと、家の中に上がった。
風邪をひいて熱が出たときのように、ぼうっとした頭のまま廊下を歩く。
家の中は薄暗く、かすかなテレビの音だけが居間の方から聞こえてきた。
ドアの隅から顔を覗かせると、父さんがソファに座ってテレビを見ていた。何故か、電気をつけていない。父さんはいつものようにむっつりと押し黙ってはいるのだが、その表情はどことなく、いつもよりも険しく見える。
テーブルの上には一本のウイスキーと、琥珀色の液体と氷が入ったグラスが置かれていた。
部屋の奥から、洗い物をしている音が聞こえてくる。おそらく、母さんが洗い物をしているのだろう。
「父さん、ただいま」
僕は帰宅の報告をするけれど、父さんは気付かなかったのか、こちらのほうを振り向きもしない。
「……父さん?」
もう一度呼びかけてみるけれど、父さんは姿勢を変えることもなく、テレビのほうを眺めてる。
テレビの音は小さく、決して聞こえないような音のはずじゃないのに。
「とう……さん?」
僕の帰りが遅かったから怒っているのだろうかと思い、呼びかける僕の声が逆に小さくなってしまう。
丁度、洗い物の音が止まった。
母さんがエプロンの裾で手を拭きながら、台所から姿を見せる。
「母さん」
僕は安堵したような声で、母さんを呼ぶ。
「あなた。もう、酒の飲み過ぎですよ」
グラスを口に運ぶ父さんを、母さんはたしなめる。こちらの呼び声には何の反応もせずに。
父さんも、母さんの言葉には無反応に、ことんと音をたててグラスを置く。
母さんは一つため息を吐いて、こちらのほうを見る。
「かあ――」
母さんはこちらのほうに歩いてきて、何事もなかったかのように行ってしまった。そこには何も存在しないように、僕の立っていたところを通り抜けて――
「母さん……母さん!!」
僕は近所迷惑とかそんなこと関係なしに、大声を張り上げる。
呼びかける声は空しく、虚空へと飲み込まれてしまったのか、母さんは無反応だった。
僕は慌てて母さんの後を追いかける。慌てすぎたせいで足がもつれる。何だか紐でも絡まっているようだ。
母さんは仏間に入って、電気を付けた。
仏壇にはは黒と金の模様の入った、一枚の写真が飾られてあった。
これは、遺影というやつだろう。
他の誰でもない、衛藤文也の――僕が、映っていた。
母さんは蝋燭に火を付けてから、一本線香を抜き取ってから火を付けた。
うっすらとした煙が上がる中、母さんは姿勢を正して、鐘を鳴らす。そして、両手をそろえて、仏壇に参った。
参る母さんの口からは、ぽつりと僕の名前を呼ぶ声がこぼれ落ちた。
「僕はここにいるよ、母さん」
けれども、物に触れることも出来なければ、話しかけることも叶わない。
それなら、一体僕は何なんだろう。
陳腐な発想だけど、幽霊って単語が頭に思い浮かんだ。
普段なら馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばしてしまうだろう。
けれども、その馬鹿馬鹿しい状況に僕はいる。
蝋燭の火が、静かに静かに揺れていた。
気がついたら僕は、自分の部屋で立ちつくしていた。
無意識のうちに戻ってきてしまったようだ。
ベッドと机があるだけの、モノトーン調で統一された僕の部屋。シンプルイズベストとはいうけれど、それもいきすぎるとただ寒々しく感じるだけだ。
いつもなら、感じもしないことだけど、今では何故だか余計にそう感じた。
僕は一つ息を吐く。
何をそんなに焦っているんだろう。
こんなもの夢にすぎない。
何も触れることが出来ないし、誰にも見てもらえることもない。
これのどこが、現実的なものだろうか。幽霊なんて嘘っぱちだ。
夢だと考える方が、まだ現実的だ。ご丁寧なことに、頬をつねろうにもつねることすら出来ないのだから。
それにしても、これからどうしよう。
どうせ夢なのだから、放っておけばいつかは目が覚めてしまうのだろうけど、ただ待っているというのは芸がないような気がする。
子供の頃は、自分が透明人間になれたらや、タイムトラベルが出来たらなんて考えたりしてみたりしてたけど、結局特に何も思い浮かばない。
夢の中でまで発想が貧困な自分自身を笑いたくなる。
特に何がしたいわけでもなく、特に何が出来るわけでもない。
もう一度僕は、自分の部屋を見渡してみる。
机の上には中学の時の卒業アルバムと教科書とノートしか並べられていない。
僕は元々暇だったら予習でもしておくか、といった考え方の人間だったせいで、要は無趣味ということだが、改めて見直してみると我が部屋ながら、その殺風景さに驚いてしまう。
結局やることも思いつかず僕は黙って、目が覚めるのを待とうとしたところ、がちゃりという音をたててドアが開いた。
そこには早見ちとせが立っていた。
早見ちとせは僕の幼なじみの女の子だ。
そして、僕が手紙を書いた相手。
僕の生まれた歳からずっと、隣の家に住んでいた。
ちとせは子供の頃から活発で、病弱で家の中に引きこもりがちな僕はいつも彼女に引っ張り回されたものだった。もちろん、僕は彼女と遊ぶのが嫌ではなく、僕の目にちとせの存在は、ふりそそぐ陽光のように眩しく映っていたものだ。
高校生になったちとせはまっすぐに成長し、目鼻立ちが整っていたために、男子生徒達からも人気があるようだった。
けれども、今僕の目の前に立っているちとせにはいつもの輝きなどはなく、瑞々しかった黒髪にも全くつやがない。
ちとせはゆっくりとした動作で、僕の立っている方を見る。
「ちとせ……」
僕は彼女のほうに手を差し出すも、ちとせは母さんと同じよう何事もなかったように、僕のことをすり抜けた。
差し出した手がふるふると震える。
どうしてだろう……こんなもの、夢にすぎないのに。今もの凄く胸が痛かった。
ちとせは無言のまま、机の上を片づけはじめる。といっても、教科書とノートだけしか並べられていない机には、片づけの必要などはなくて、彼女はただ教科書を抜き取っては、別の場所に差し込むだけだった。そんな行為にどんな意味があるのか。僕には分からなかった。
それからどれくらいの時間、ちとせはそんなことを行っていたのか。ようやく彼女は、教科書を抜き出す手を止めた。
「文也君……」
ちとせは僕の名前を呟くと、部屋を出て行った。
これが、たとえ夢だとしても、彼女の様子が気になる。
僕は衝動的にちとせの後を追った。
そのまま、家に帰るのかと思っていたけれど、ちとせは家に帰るわけでなく、そのまま彼女自身の家を通り過ぎてしまった。
それからどこに行くのかと思いきや、彼女が向かったのは、僕が先ほど目を覚ました公園だった。
ちとせは僕の倒れていたベンチへと向かい、腰掛ける。そして彼女は、自分が座っている場所の隣をそっと撫でた。
僕は目を鋭く細め、その様子を眺める。
体が弱くて人混みが苦手な僕が遊びに行ける場所は少なく、この公園によく来ていたことが思い出す。
そのベンチは僕たちがいつも座っていた場所のものだ。
気付くと、ベンチを撫でていた彼女の手は止まり、かわりにかたかたと震え始めていた。
「ちとせ?」
ちとせは体をくの字に折って、その口からは咳を切ったように、嗚咽が零れだしてくる。
僕は彼女の頬に手を触れようとして、その手を止めた。
……触れることも出来ない、僕のこんな行為、何の意味もない。
そして――
「文也君……どうして。どうして"死んじゃった"の」
彼女の言葉は、僕を凍り付かせた。
遺影を見たときよりも何よりも、その「死んじゃった」という言葉は、どんな刃物よりも鋭く僕のことを傷つける。
変だな。
こんなもの夢のはずなのに。現実ではないのに。どうしてこんなに、目が熱いんだろう……。
「こんばんは、幽霊さん」
そんな僕の背後から掛けられた声は、陽気なソプラノだった。
僕は電気ショックを受けたような勢いで、背後を振り返る。
そこには一人の女の人が片手を軽く振りながら、立っていた。
長くて黒いあでやかな髪の毛が印象的だったが、その肌は白く透き通っており、存在の希薄さを感じさせた。
「あ、あなたは、僕のことが見えるんですか」
僕の周りに誰もいないことを確認してから、尋ねた。ちとせはどうやら、僕が呆然としている間に帰ってしまったようだ。
「ええ、もちろん」
女の人は当然のことのように頷く。
僕は何と言ったらいいか分からずに、口をぱくぱくさせてしまう。
すると、女の人は僕を更に混乱させるようなことを口にする。
「そして、私も君と同じ幽霊さ」
強い風が吹いた。公園に落ちていた缶が、からからと大きな音を立てて転がっている中でも、女の人の髪の毛も服も決してなびくようなことはなかった。
「私の名前はカスミっていうの。君の名前は?」
「僕は、衛藤文也っていいます」
僕は馬鹿正直に返事をしながら、出来るだけ冷静にこの状況を考える。
カスミさんのあまりにも陽気な声が、よけいに非現実さを醸しだし、今のこの状況の違和感を増させていた。
「これは、夢じゃないんですか」
こんなこと問うこと自体が間違っているかもしれない。現実にこんなことを尋ねたら、おかしい人と思われるかもしれない。
けれども僕は、問わずにはいられなかった。
「……さあ。それはどうかしらね」
カスミさんは肯定とも否定ともとらえられる言葉を口にした。
彼女の口ぶりは、逆に僕に問い返してきている感じがする。
「しかし、君は覚えていないのかい。自分が死んだときのことを?」
カスミさんは片手を首に添えながら、僕に尋ねてくる。
「はい」
僕は唾を飲み込んで、頷いた。
「私も長いこと幽霊なんてやっているせいで、色んな子を見てきたけれど。君くらいの子で、自分の死因を覚えていないのは珍しいよ」
カスミさんはふむ、と不思議そうに首を傾げて見せる。
僕はとりあえず公園で目が覚めてからのこと、それから何があったのかをカスミさんに刻銘に説明した。
初めて会った人に、こんなことを話すなんて普段の僕からは考えられないことだ。たったこれだけの時間、誰にも話しかけることの出来ないことがよほど堪えたのか。
カスミさんは、僕のおかしな話に反論することもなく、何度も頷いてくれた。
説明を終えた僕に、カスミさんは、
「……こんなことを君に言っても良いのか、私には判断がつかないが」
頭を掻くそぶりをして、少しだけ言い淀む。
「お願いします」
正直もう僕はうんざりだった。
これが夢にせよ、何にせよ。訳が分からなさすぎる。
このさい何でも良いから、納得のいく説明が欲しかった。
「それなら、ついて来なさい」
カスミさんは僕に背を向けて、公園の外へと向かった。
僕もその後につづく。
カスミさんの月明かりに照らされた後ろ姿は白く、一瞬だけ霞んで見えたような気がした。
僕はカスミさんの隣を歩いてる。
カスミさんは幽霊とは思えないほど饒舌で、学校は、部活は、趣味はとたたみかけるように話しかけてくる。それに対して、僕は生返事を返すことしか出来なかった。
先ほどが特別なだけで、相手から話しかけられでもしない限り、僕から女の人に話しかけるようなことは慣れていない。だからこういう場合、少しばかり人見知りしてしまうのだ。
「私は暇人でね。いつも、暇つぶしがてら町の中を散歩しているのだが」
カスミさんはそう言って、歩みを止めた。
そこは、僕が学校へ行くまでにある小さな交差点だった。
「三日ほど前の夕方くらいにね、この場所で事故があったみたいなんだ」
確かにカスミさんの言った先には、ガードレールにへこんでいる部分があった。よほど凄い速度だったのか、ぐにゃりと、大きくへこんでいる。
「私が来たのは、すでに事故の後だったのだがね。現場のほうを見たとき、救急車に一人の男の子が運ばれているところだった」
ガードレールだけじゃなく、すぐそばの電柱のコンクリートも抉れていた。それだけで、この事故が大きな物であったかがわかる。その電柱の根元には真新しい、小さな花束が置かれてた。
そして、アスファルトは黒ずんだ染みが広がっている。
「その男の子というのは、言わなくても分かるだろう?」
そう言って、カスミさんは僕の顔を見る。
「それが、僕っていうわけですか……」
僕は瞼を閉じる。
「……そうだ」
僕がそのまま黙り込んでしまうと、カスミさんはぽんと軽く手を叩いた。
「君の未練は一体何なのかな?」
カスミさんは片指をたてながら、唐突にそんなことを尋ねてきた。
「未練、ですか……」
僕が聞き返すと、カスミさんの手にはいつの間にか一本のボールペンが握られていた。
「それは?」
そのボールペンは、所々黒いすすがこびりついている。
「これが、私の未練だ」
カスミさんはそう言ってボールペンを持つ手を動かすして電柱を叩いて見せた。すると、こつんという音がした。
僕の目に映るのは不思議な光景だった。
カスミさんの腕は電柱に重なって輪郭が薄れているせいで、ボールペンが勝手に中空に浮いているように見える。
いや、それよりも……。
「そのボールペン。まさか、実態があるんですか?」
ボールペンは電柱にぶつかってこつん、という音を立てたのだ。
それは、今の僕みたいに実態がなかったら出来ないこと。
「幽霊にはね、誰にでも一つだけ触れることが出来る物があるらしい。いや、現世にその存在をつなぎ止めている物が、なのかな……」
「どういう……」
「こういうことさ」
カスミさんは、無造作にこちらのほうに向けてボールペンを放る。
僕は受け取ろうとするも、ボールペンは僕の手をすり抜けて地面へと落ちてしまった。
「このボールペンは私にしか触れられないってこと。そして」
カスミさんはボールペンを拾いながら、
「君にも、君にしか触れることが出来る物があるっていうこと」
僕はその言葉に大きく目を見開いてしまう。
「ま、実際ところ、どうなっているのかは良くわかんないんだけどね」
カスミさんはそう言って、肩をすくめて見せた。
考えるまでもなかった。そんな物は僕の中では、一つしかない。
僕は自分の家へ全力で駆けだしていた。一刻も早く、確認がしたかったから。
僕は自分の部屋に飛び込んで、首を振って辺りを探す。
記憶を遡ってみると、あれは鞄に入れたままのはず。
鞄は机の横に立てかけられていた。
僕はそっと鞄に手をのばす。指先が鞄の中にめり込んで、僕の指の形が崩れる。
拒絶感を感じるこの感触を押し殺し、そのまま無理矢理鞄の中に押し込んでいく。
すると、指先が何かに触れた感触を感じた。
僕は指先を動かし、しっかりとそれを掴む。
確かに感じる感触を確かめながら、僕は手の中に握りしめた物を鞄の中から引っ張り出した。
僕の手の中には、乱暴に鞄から取りだしたせいでしわくちゃになった、一通の手紙があった。
『貴方のことがずっと好きでした。衛藤文也より』
小心者で携帯電話なんて便利な物を持っていない僕にとって、思いを伝えるには最良の方法。
それが、自分の用件の一文だけが書かれただけという、何ともシンプルなラブレターだ。
僕は机の上に広げた手紙を見て、少しだけ笑うことが出来た。
「全く。もっと、気の利いた文の一つでも書けないもんかね……」
飾った言葉。遠回しな言葉。長々しい言葉。冗談めいた言葉。
何度も何度も書き直しても、結局納得がいかず、落ち着いたのはこんな一文。
こんな簡単な文を書くために、僕は何十枚も紙を無駄にし、どれくらい膨大な時間頭を悩ませていたのか。
僕はつうっと手紙の文面を指でなぞった。
少しだけ冷たい。忘れかけていた物に触れているという感触を指先に感じる。
「……あ」
身を切るような冷や水をぶっかけられたように、頭の中が急速に冷えていく。
「……はは」
僕の口から、乾いた声が零れてくる。
笑い声は力を増して、狂ったような哄笑となっていく。
いや、それなら僕はとっくの昔に狂っていたのだろう。
幽霊なんて、そんな馬鹿げた……。