部屋の窓からは、柔らかな朝日が差し込んできおり、小鳥のさえずる音が聞こえてきた。
 時計に目をやると、七時半を示している。どうやら朝になってしまったようだ。
「学校……」
 ぽつりと呟き、僕は部屋を出た。
 階段を降りて、居間の隣を通る。意識して居間のほうを見ないようにして、縁側から外へ出る。それから玄関へと向かった。
 隣の家からドアが閉じる音がして、そちらのほうを見る。丁度ちとせも家を出たようだった。
 彼女は僕の家のほうにやって来てから、呼び鈴を押そうとして、その手の動きを止めた。
 ちとせは唇をきつく結び、そのまま僕に背を向けて学校へと向かっていった。
「ちとせ……」
 彼女の顔色は青白く、昨日よりも更に憔悴しているように見えた。眠れていないのだろうか。
 僕も学校へと向かうべく、ちとせの後を追った。


 いつもと異なる通学路を、ちとせは歩く。
 今ちとせが歩いている道は、学校へいくのに遠回りだ。
 彼女の横を、車が一台通るたび、ちとせはびくりと反応しているようだった。
 ……それを見て、僕は一つのことに思い至った。
 いつもの通学路には、あのゆがんだガードレール、崩れた電柱それに綺麗な花束が目に入る。
 好んでみたい物ではないだろう。僕としても、出来れば二度と見たくなかった。


 学校へ着き、僕はちとせと同じ教室の中に入る。
 僕とちとせは同じクラスだ。
 時間は早いためにまだ人は少なく、席に着いている生徒達の数もまばら。
 そのためということもないだろうが、僕の目には嫌でも目に入る物があった。
 僕の机にある、いくつもの花が入った白い花瓶。
「本当に花って、置かれるものなんだ」
 僕は出来る限り花瓶を見ないように、ちとせのほうに目を向ける。
 彼女は彼女で、とても痛ましい様子だった。
 それはまるで、限界以上に引き絞られた弦のように、触れれば即座に切れてしまいそうな危うさを感じられる。
 それは、周りのクラスメイト達も分かっているのか、ちとせには挨拶を交わすくらいで、それ以上は誰も彼女に話しかけようとしない。
 僕は目のやり場に困って、仕方なく黒板へと目を向けた。
 日直のところには、今日の日付が書かれてる。
 十二月十二日。
 ……カスミさんの話だと、僕が死んだのは三日前。
 頭の中を整理するためにも、その日のことを思い返す。
 いつもと変わらない目覚め。
 いつもと変わらない朝食の風景。
 いつもと変わらないニュース。
 いつもと違ったのは、鞄に入っている一通の手紙。
 そしてまた、いつもと同じように玄関のチャイムの音が家の中に響く。
 おはよう。
 玄関のドアを開くと、そこには朝日を背景に、軽やかな笑みを浮かべたちとせが立っている。
 僕は挨拶をかえして、一緒に学校に向かう。
 話しかけてくる彼女に、僕は相づちを返すだけで、鼓動は早鐘のように打ち続けてる。
 ねえねえ、文也君。今日の数学の宿題やったー?
 ん。やったけど。ちとせ、今日もやってないの?
 うん。昨日ちょっと徹夜しちゃってね。
 別に良いけど。たまには、自分でしないと授業について行けなくなるよ。
 もう。わかってるって。そんな、先生みたいなこと言わないで。今度おごってあげるから、ね。
 そんな風に話している僕の内心は、いつこの手紙を渡そうか。そんなことばかり思ってる。
 靴箱の中に入れておく。それとも机。鞄の中とか?
 手紙を読んだ、ちとせはどんな反応をするのかな。
 友達にしか思えない。返事をしてもらえない。笑い飛ばされる。それとも……。
 色んな想像が浮かんでは、水泡のように消えていく。
 思考は輪にかかり、やがてマイナスのほうへばかり進んでく。
 どうせ、僕が告白しても無理に決まってる。
 だって、ちとせは誰からも好かれる女の子で。
 一方の僕は、趣味はと尋ねられたら、数学の予習なんて答えることしか出来ないつまらない人間で。
 僕と彼女では不釣り合い。
 きっとちとせには僕なんかとは別に好きな人がいるだろう。
 でも、やっぱり……。
 思考はずっと同じところを回り続けてる。
 授業の終わりを告げるチャイムの音が鳴り響き、その時すでにちとせの姿なく、僕は慌てて後を追い――――


 現実のチャイムの音が鳴り響く。
 すでに教室の席は一つを除き、埋められていた。
 それからすぐに、ドアが開き先生が出席簿を片手に教室の中に入ってくる。
 そして、出席がとられ、授業が始められる。
 いつもと変わらない授業風景。人が一人いなくなっても回り続ける普遍的な日常。


 時間は進む。
 時計の針はくるくると、その歯車を止めることなく回り続けてる。
 授業はすでに終わり、教室には紅い西日が差し込んでいた。
 放課後の喧噪。
 僕は窓際に立って、グラウンドに広がる風景を見下ろした。
 野球部の描く白球の軌跡。グラウンドを走るサッカー部。
 透明の硝子が示すのは、現実と非現実の境界線だ。
 僕が指先を差し出すと、何の音もなく指先の半分は硝子を通り抜けた。
 がらっというドアが開く音がして、僕は振り返る。
 花瓶を持ったちとせが教室に戻ってきた。花瓶の水を換えてくれていたのだろう。
 ちとせは花瓶を僕の机の上に置き、そのまま椅子を引いて、僕の席に座った。
 能面のように表情のないちとせの顔からは何を思っているのか、僕には全く想像出来ない。
 時計の針はすでに五時を指していた。
 彼女はまだ帰らないのだろうか。
 僕が疑問に思っていると、また、ドアが開く音がした。そこには一人の男子生徒が立っている。
「……圭」
 僕のよく知る彼は、ちとせの後ろに立って、
「早見さん」
 彼女の名字を呼んだ。
 けれども、ちとせは返事をしないどころか、圭のほうを振り向きもしない。
「早見さん」
 圭はもう一度、ちとせの名字を呼んで、彼女の肩を優しく叩いた。
「ど、どうしたの加藤君」
 ちとせは慌てて振り返って、取り繕ったような笑みを浮かべる。
 圭もそのことに気付いたのか、若干眉をひそめたが、そのことについては特に何も言わなかった。
「うん、ちょっと忘れ物をね」
 圭はそう言って、最初から持っていたシャープペンシルをちとせに見せてあげた。
「早見さんこそ。こんな時間まで何をしてたの?」
「え……と。その」
 やっていたことは明白であろうに、ちとせは何故だか言い淀んだ。
 圭は、息を一つはいて、時計に目を向ける。
「もう、こんな時間か。早見さんも、もう帰るでしょ?」
 彼は持っていたシャープペンシルを鞄の中に入れながら、言う。
「ええ、そうね。私ももう帰るわ」
「それなら、一緒に帰ろう」
 圭の言葉にちとせは頷く。
 教室には一人、影すらない僕だけが残っていた。


 圭と僕は友人の中では一番仲の良い間柄だった関係だ。
 基本的に物腰柔らかな圭は、同姓の僕から見ても好感の持てる存在であり、ちとせとも友達である。
 その二人が会話をしている後ろを、僕は歩いてる。
 僕の耳にはいるのは、とりとめのない会話。学校の友達のこと。授業のこと。明日になったら思い出すことも出来ないようなもの。
「私こっちだから」
 別れ際、圭はちとせのほうを見て、
「……ねえ、早見さん。明日、暇かな?」
 そんなことを言った。
 僕は驚きに目を何度か瞬かせた。
 ちとせも立ち止まって圭を見る。
 圭は気恥ずかしかったのか、頭を指先でかきながら、
「明日土曜日だから、町に欲しい物があるんだ。良かったら、付き合ってくれないかな」
 取り繕うように言う。
 ちとせは、少しだけ悩んでから、こくりと小さく頷いた。


 次の日。
 駅の前の噴水のある広場。
 圭は待ち合わせの、三十分前にやって来ていた。
 その隅の電柱に寄りかかるようにして、周りを何度も確認をしながら、腕時計を確認している。
 時間よりも少しだけ遅れて、ちとせはやってくる。
 ちとせは、白いコートに、焦げ茶色のフレアスカート。顔には化粧が施されており、昨日とは雰囲気がまるで違う。こんな、彼女を見たのは僕は初めてだった。
 ちとせは、ごめんね遅れて、と言う。
 圭は、ううん、今来たところだから、とおきまりの言葉を使う。
 それから、二人は連れだって歩き出す。
 まずは、町に買い物に行って、圭の欲しがっていたCDを買った。
 それから昼食の時間になったので、喫茶店で昼食を食べる。そしてまだ時間が早かったので、二人は映画館によった。
 客席はあまり混んでおらず、二人は中央よりやや後ろくらいのところの席に座る。
 僕もどこかに座ろうかと思ったが、自分の体のことを思い出して、客席の一番後ろを陣取ることにした。
 映画の内容は、とある少年と少女の少しだけ淡い恋愛の物語だった。劇中に織りなされるのは、客の目を惹く適度な事件。大きすぎず、それでも目をひかれてしまうストーリー。
 べたべたしすぎた感じのないささやかなエピローグは、見る者に暖かな余韻を感じさせてくれる。
 僕は基本的に恋愛映画なんて見ないけど、こういう内容なら好感が持てた。
 ちとせ達のほうに目を向けると、僕の目にはちとせの笑顔が映った。


 すでに、時刻は五時をすぎていた。
 日が陰りだした町の中で、二人はあの公園へ。
 ちとせが寄りたいと言ったのだ。
「今日はありがとう。楽しかったわ」
 ベンチに座ったちとせは、圭に礼を言う。
「ううん、こっちこそ。買い物に付き合ってくれてありがとう」
 圭は首を横に振った。
「……早見さんは、まだ帰らないの?」
 立ったままの圭は、ちとせに尋ねる。
「……うん」
 ちとせは俯きながら、答えた。
 そのまま何も言わなくなってしまったちとせを、圭は黙ったまま見つめている。
 それから圭は何を思ったのか、乱暴にちとせの腕を握りしめた。そして驚き、顔をあげるちとせの唇に無理矢理自分の唇を押しつける。
 ちとせは驚きに目を見開くだけで、呆然となすがままにされていた。
 どれくらいの間、そうしていたのだろうか。
 時間の感覚が歪み、一秒が無限とも思える長さにも感じられる。
 風が止み、木々のざわめきの音もない。
 圭は、ゆっくりと顔を離す。
「え、その、あ……」
 パニックを起こしているのか、ちとせは自身でも何を言っているかわからないであろうことを口にする。
「早見さんのことが好きなんだ」
 そんな彼女に追い打ちを掛けるかのような、圭の突然の告白。
「そんなこと。突然言われても、私……」
「突然じゃないよ!! 僕は以前からずっと早見さんのことが好きだったんだ」
「でも、私……」
 ちとせは困ったような曖昧な笑みを浮かべる。
 圭は、ぐっと唇を噛んで、ちとせの両肩を掴み、
「――――もう、文也はいないんだよ」
 辺りの温度が一気に下がったような気がした。
 その言葉が引き金になったのか、ちとせの両目から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちていく。
 圭は、そんな彼女を見て、一瞬口をつぐむが、
「こんな君を見るのは辛いんだ。きっと、死んだ文也だって、そう思っているはずだよ」
「それでも、私は!!」
 ちとせは、どんと圭の体を突き飛ばし、泣きはらした顔のまま走り去ってしまった。
 残された圭は、
「……そんな、つもりじゃなかったのに」
 大きく息を吐いてから、公園を出て行った。


 公園に残ったのは、僕一人。
 いや、幽霊にすぎない僕は一人なんて数え方には当てはまらないのだろうか。
 そして、
「こんばんは、文也君」
 僕の後ろには、僕と同じような存在の人が立っている。
「……見てたんですね」
 僕は振り返りもせずに、それだけ言った。
「ん、まあ、ね」
 カスミさんは、ばつが悪そうな返答を返してくれる。
 僕は一つ息を吐いて、振り返る。
 今更そんなことを責めるつもりなんて僕にはない。
 立場で言うなら、ずっと一部始終を見ていた僕だって同じようなものだ。
「大丈夫かい?」
「……はい。何とか」
 僕は、言葉の通り何とか頷く。
「そうか。けれども、君。もの凄い顔をしてるよ」
 そう言ってカスミさんは、僕の顔を指差す。
 凄い顔と言われても、僕自身が今どんな表情をしているかなんて確認のしようがない。
「僕はですね。さっきのちとせっていう女の子のことが、好きだったんです」
「ちとせ……さっきの早見ちゃんのことだね」
 僕はこくりと頷く。
「そして、僕は死んでしまってる」
 カスミさんは、もう一度頷いてくれる。
「それで、ですね。僕はずっと思ってたんです。ドラマって、よく人が死ぬじゃないですか」
「うん、そうだね」
「残された人は、とても可哀想だなって。そして、そんなシーンを見るたびに泣いて……」
 頭の中には、最近話題になったドラマの内容が思い浮かぶ。それは、男子校生徒と一人の女子高生のお話。人付き合いの上手い男子校生徒と女子高生はふとしたことで、知り合い。それで恋をした。
 でも、女の子が物語の途中で、事故で死んでしまった。
 ドラマの構成は、最初の半分はその女の子との恋愛で、後半は周りの人みんなに励まされて、彼が立ち直っていくお話だった。
 僕は何を言っているのだろうか。
「残された人は、みんなに励まされて、亡くなった人もきっとそれを望んでいるって……」
 けれども、僕は――――

「全然――そんなこと、思えなかった!!」

 ちとせが泣いているのを見るのは僕は辛かった。
 ちとせの苦しそうな姿を見るのも僕は辛かった。
 でも――――それだけだった。
 ちとせと圭。二人で歩いているのを見るのは僕は嫌だった。
 彼女の笑顔が、自分以外の誰かに向けられるのを見ると、胸が張り裂けそうな思いさえした。どす黒い殺意を圭には覚えた。
 笑いがこみ上げてくる気分だ。
 きっと、今僕に刃物を持たせたら、圭をためらうことなく殺すことが出来るだろう。
 これほどの狂気を自分が持っているなんて、今まで知らなかった。知りたくもなかった。
 どす黒い感情は、とぐろをまいて僕の体をむしばんでいく。
 狂気という感情は、愛などの綺麗な感情に比べて果てのないことを、この時僕は知った。


「……私の話でも、聞いてくれるかな?」
 カスミさんは、そのまま押し黙った僕に優しく話しかけてくれる。
 僕は頷いた。
「まあ、良くある話だよ。私が死んだ日は、そうだね。本当に何でもない、夕食前の夕べのことだったよ」
 話慣れているのか、カスミさんはどこか歌うようにして、話し始めた。
「私は夕食の準備を終えて、雅人君の帰りを待っていたときのことだ。呼び鈴が鳴ってね、私は彼が帰ってきたと思って、玄関に向かった」
 雅人君というのは、カスミさんの旦那さんの名前なのだろうか。
 話の邪魔をするわけにはいかないと思った僕は、想像することしか出来なかった。
「しかし、玄関のドアを開いたら、立っていたのは見知らぬ男だったよ。私も浮かれていたのかな。私は何のきもなしにドアを開いたんだ。まあ、セールスに来ただけななら別に何も問題はないのだが、その男は手に一本の木刀を持っていてね。私は抵抗するまもなく、その木刀で気絶させられた後――――レイプされた」
 カスミさんの語る内容は、あまりにも衝撃的すぎて、僕は言葉を失う。
 カスミさんの手にはどこから取りだしたのか、いつぞやのペンが握られていた。
「目を覚ました私は必死で抵抗しようと思ってね、その時握りしめたのがこのペンだった、というわけさ。けれども、犯人は何を思っていたのか家に火まで付けてくれてね。それが原因で私達は死んでしまった」
 これのどこが良くある話なのか……。
 僕はこんなことを、普通に話すカスミさんの正気を疑ってしまう。
 しかし、話はそれだけでは終わらなかった。
「この事件はね、強盗殺人として扱われたけれど、周囲の人の反応は冷たいものでね。私が、不倫をしていてその相手と心中した、なんて噂が流れてたのさ。犯人も一緒に死んでしまったせいで、犯行の本当の目的なんて誰にも分からない。死人に口なしっていう、いい例かもしれないね」
 全く、良い迷惑だ。と言う言葉とともにその話は締めくくられた。
 それは、あまりにも酷すぎる話だった。
 死んだ後、そんな話をされるのはどんな気分だったんだろうか。
 自分の存在を否定され、言い訳することも叶わない。
 僕には何も言えない。言える言葉なんて何一つとしてない。
 何となく、カスミさんのどこか陽気なしゃべり方の奥にある暗さを、僕はようやくかいま見た気がした。
「だからかな。君みたいな子を、放っておけないのは」
 カスミさんは、ボールペンを器用に指先で回してみせる。
「君の未練は手紙なんだろう。書き足したい言葉があったら、私にいつでも言ってくれ。いつでも私が、書いてあげよう」
 カスミさんはそう言って、優しく微笑んだ。
「カスミさんは……」
「……何かな?」
「死んでから、旦那さんに会いましたか?」
 僕の問いに、カスミさんは首を横に振った。
「そうですか」
「……偉そうなことを言って悪かったね。そう、私はただ、怖いだけさ」
「いや、そんな……」
「だから私は見続けている。覚めることのない、この夢を」


 別れを告げることの出来る僕。
 別れを告げることすら出来ないカスミさん。
 どちらが幸せで、どちらが不幸せか。
 いや、どちらのほうがまだましか、だろう。
 別れを告げることが出来るだけ、僕のほうがまだましかと思うかも知れない。
 けれども、別れを告げることすら出来なかったら。完全に嫌われさえすれば、まだ諦めることが出来るんじゃないだろうか。
 僅かな救いという物は、時として残酷なまでの期待を抱かせる。
 決して叶うはずのない、一縷願いという物を。


 結局僕は、同じような日々を送ってる。
 朝になって、ちとせと学校へ行き、それで公園によって家に帰る。
 その単純なサイクルをこなしていた。
 日に日にやつれていくちとせを、僕は見ていることしか出来ない。
 教室では、心配そうにする圭の姿が目に入っていた。


 それからまた、何日か過ぎた放課後。
 ちとせはいつものように、花瓶の水を変えており、教室の中に一人残っていた。
 そして、膝元の上に鞄を置いて僕の席に座っているのだが、今日は随分と遅い。
 時計の針はもう、六時を指そうとしていた。
 すでに日は沈み、教室は暗くなっている。
 どうしたのだろうかと思って、ちとせに近づくと、彼女の様子のおかしさに、僕はぎょっとする。
 ちとせの顔にはあまりに表情がなかった。
 その澄みすぎた横顔は、何かの決心のようなものを感じさせる。
 ちとせはゆっくりとした動作で鞄を開き、タオルで巻いた物を取りだした。
 すとんと巻かれたタオルが床へと落ちる。
 ちとせの手に握られていたのは、鈍い光を発する、一本の包丁だった。
 そんなもので何を。
 考えるまでもない。
 料理以外の目的で使われる包丁の用途なんて――
 ちとせは、震える手で包丁を自分の手首へと押し当てて、

 一本の紅い線がひかれた。

 手首からとめどなく血があふれ、地面へと凄い勢いでしたたり落ちる。
 ちとせは、変わらない澄んだ表情で、ぼんやりとその光景を眺めてた。
「何をやっているんだ!!」
 教室の中に突然響いたのは、圭の声だった。
 圭はすごい形相をしてちとせに近づき、その手首を握りしめる。
 ちとせは緩慢な動作で、圭のほうを見て、
「あ、加藤君」
 等と奇妙なほどに明るい間の抜けた声を上げる。
 圭はきっと目をむいて、ちとせの頬を叩いた。
「どうして、こんな馬鹿なことを!!」
 怒る圭の言葉は、彼女の顔を見た瞬間に飲み込まれた。
 泣いているわけではない。
 笑っているのだ。
 それはさながら、壊れた人形のように、かたかたと。
「は、早見さん……」
 圭は、今の怒りはどこにいったのか。呆然とちとせの様子を眺めることしかできない。
「だって。仕方がないじゃない。私が文也君を殺したんだから――」
 ……え?
 ちとせが僕を、殺した?
 僕には、ちとせの言ったことが全く理解出来なかった。
 ちとせは、気を失ってしまい、僕の机ごと地面へと倒れてしまった。
 花瓶が割れて、中の水が床の上に広がっていく。
 紅い血と、透明な水が重なって、紅く透明に混ざり合う。
 ばしゃっと地面にたまった血がはねて、彼女の髪を濡らしてた。


 この時、僕は何を思ったんだろうか。
 ちとせが手首を切ったのを見て、それで――――安堵した。
 ちとせが死にさえすれば、僕と同じになれる。
 ちとせが死にさえすれば、他の誰に取られることもない。
 ……つくづく自分が嫌になる。
 けれども、この思いは決壊したダムのように止まることがない。
 自分は無力で何も出来ず、ただ、このさびしい現実を見せつけられるだけ。
 僕の置かれたこんな状況に、一体どんな意味があるというのか。
 彼女が苦しんでいく様を見ていくためか。
 彼女が僕以外の他の誰かと幸せになっていく様を見ていくためか。
 どちらも、僕は願えない。
 僕は、まだ手紙を渡してすらいない。始まってすらいないのに。
 それなのに――
 一つだけ分かった。
 死んだ人が残った人の幸せを願うのは、結局何を願ってもどうしようもないからだ、ということが。


 ちとせはあれから、救急車で病院に運ばれた。
 幸い命に別状は無かったが、極度の疲労と栄養不足のため、体のあちこちの機能が低下していた。そのため、そのまま当分の間、入院させられることなったようだ。
 深夜の病院。
 波打った白いカーテンの隙間から、月の光が病室には差し込んでいる。
 匂いのない病院という物は、どこか妙な感じだ。
 窓の方を向いていた僕の後ろから、ばさっというシーツのめくれる音がした。
 振り返ると、ちとせが立ち上がって部屋を出て行くところだった。
「ちとせ?」
 トイレにでも行くのかと思いきや、ちとせはそのまま病院の外へと出て行った。
 僕は眉をひそめ、彼女の後を追った。


 満点の星々のなかに、ぽっかりと月が一つ浮いている。
 都会の空とは違う、明るく澄みきった夜空。
 その元をゆらゆらと、ちとせの足取りは夢遊病患者のようにおぼつかない。
 彼女の着ている服は白い入院患者用の服だ。
 それ以外に上から何も羽織っていない。
 寒くないのだろうか。元のちとせは寒がりで、着ぶくれするぐらい服を着ていた。そんな様子を笑うのが僕の日課だったのに。
 彼女の血色のない頬は、透明なほど透き通っており、彼女の存在そのものがかしいでいる感じがした。
 しかし、月明かりに照らされて、伸びる影は彼女がちゃんといることを表している。
 影すらない僕とは違う。
 彼女は幽霊なんかじゃない……。


 たどり着いた先は、いつもの公園だった。
 一本の街灯の下には、二つのベンチが置かれてる。
 ちとせはいつも座っているほうのベンチに座り、僕も背中合わせとなるように腰掛けた。
 このベンチには思い出が多すぎる。
 人気がなく、生えている木々のおかげせいで、このベンチの存在は見つかりにくかった。
 だから、学校に行くのが嫌だと言ったとき。お父さん達に思いっきり叱られたとき。僕と喧嘩をしたとき。そんなときは必ず、ちとせはいつもこのベンチにやって来て、座ってた。
 そして、そんな彼女を笑顔で迎えに行くのが僕の役目だった。
 僕だけの……役目だった。
「ねえ、文也君……」
 その言葉に、僕はびくんと反応してしまう。
「あなたは今、何をしているの?」
 これは、ただの独白だ。
 決して届くことのない者へ対しての。
「ここにいるよ」
 僕はここにいる。
 決して届くことのない者からの、決して届くことのない者への返事。
「ごめんね、文也君……」
 ちとせの口からは謝罪の言葉が漏らされる。
 声とともに出された吐息は白い。
「そんなに謝らないでよ。らしくないじゃないか」
 そう。本当にらしくない。
 僕の記憶にあるちとせは、いじっぱりで、笑顔が眩しくて、こんな殊勝な彼女じゃない。やることがないからといって、休日も家に引きこもって数学の予習なんてしようとしている僕を、何のようもないのに無理矢理外に引っ張り出していたような、もっと僕のことをぐいぐいと引っ張ってくれる女の子のはずなのに。
「うん。そうだね。らしくないね」
 ちとせはこくりと、頷いた。
 吹く風が、公園の木々をかさかさと揺らし、彼女は自分の髪の毛を押さえる。
 枯れ葉がそのまま風に乗り、ふわりと宙に舞い上がった。
「ねえ、文也君」
 彼女は言う。
「ん、何?」
 僕は問う。
「私この間ね。デートしたんだ、加藤君と……」
 彼女は笑う。
「うん。知ってる」
 僕は頷く。
「……あなたは、人混みが苦手だからって、一緒に来るのは、いつもこの公園だったよね」
 彼女も頷く。
「そうだね。いつも、僕たちはこの公園で遊んでいたね」
 僕はまた頷く。
「本当はね。私は町とか行きたかったんだ。文也君と、町で買い物をして、喫茶店でコーヒーでも飲んで、映画を見て泣いて、それで……」
 彼女は笑う。
 僕も笑う。
「そうなんだ。だったら、言ってくれたらよかったのに」
「うん。そうだよ。言おうと思っていたのよ。あなたの誕生日に、マフラーを渡してから、言おうと思ってた。それなのに…………」
 彼女は――
 僕は――


 交わることのない言葉達。
 僕たちの、お互いの声はすでに届かない。

      

[ Back : Next : NovelTop ]