病院の朝は早い。朝の六時前くらいからは活動が始まっている。
看護師さんたちは朝の検査をしたり、朝食を運んだりと仕事は山積みだ。
そして、ちとせは病室のベッドの上で、眠っていた。
寝息の音もなく、ただ静かに眠っている。すっかりと細くなってしまった手には点滴がうたれていた。恐らく栄養剤かなにかだろう。ぽたぽたと色のない液体が落ち続けてる。
白いベッド。白いカーテン。白いちとせ。
「…………」
僕は一度だけ振り返ってから病室を出る。
もう、学校の時間だ。
ぼんやりしていたせいか、不覚にもいつもの通学路を通ってしまった。
僕の目に嫌でも入る、崩れた電柱と歪んだガードレール。
そして、添えられている前と変わらない花……いや、前に見たときよりも増えているように見えた。
僕は一旦立ち止まって、この様子を凝視する。
こんな事故の現場を見ても、何の感情もわいてこない。
……あの時、一体何があったんだろうか。
僕はどうして、跳ねられたりしたんだろう。
向こう側に高い塀があり、少しだけ視界の悪い交差点だ。
けれども、ちゃんと信号機もあるし、僕が昇降口を出た頃はまだ日も落ちていないためにそこまで見えにくくはないはずだ。
あの日の記憶は学校の昇降口を出た瞬間から、眠りに落ちる瞬間のように覚えていない。
この場所で事故はあった。それだけは間違いはないはずなのに……。
僕がその光景を眺めていると、花々の上にまた新しい花束が重ねられる。
一体誰が、と顔を横に向けると、そこには圭が片膝をつけて座っていた。
手には鞄、姿は学生服なので、学校へ行く途中なのだろう。
「文也……」
通学時間には早いため人通りは少なく、圭は独り言を漏らす。
「僕のことを君と重ねているのを知っていながら、早見さんを誘ってしまったよ。ごめんな……」
彼の言葉は深く、確かな形を持って空気の中に霧散する。
……うん。そんなことは知っている。
ちとせが、圭を通して僕のことを見ていたことを。
僕がちとせのことが好きなことを知っていたから、圭はずっとその気持ちを黙っていたことも。
「でもな。文也、お前はずるいよ……飛び出した早見さんをかばって死ぬなんて、格好良すぎる」
え。
僕が、ちとせをかばって――――死んだ?
僕は自分の両手をまじまじと見つめる。
僕の、この手が、ちとせを、救った……。
そんなこと。まるで覚えていない。
「もう、時間だ」
圭は膝をはたいて立ち上がり、鞄を肩にかけ直した。
圭は最後に、それは……。
圭が立ち去った後も、僕は呆然とその場で立ちつくす。
圭が最後に呟いた言葉。それは、本当に、悪かった。でも……死んでしまった君は無敵だよ。
確かにそうかもしれない。
思い出は形がうつろいやすく、輪郭をどんどん失っていくものだ。悪い物も、良い物も人の記憶のなかで少しずつ少しずつ、美しくなっていくだろう。
死んでしまった僕に対する記憶は、これ以上増えることはない。
良い思い出は美しく、悪い思い出は美しくなっていってしまうのだ。
僕は唇を噛みしめる。
そうだ。僕がちとせに残したのは、決して溶けることない呪縛。
彼女のために死んだ僕……彼女のせいで死んだ僕に対する罪悪感は彼女をずっとむしばみ続けていくだろう。
僕はそれが嬉しいのか。いや、そんなはずがない。そんなはずが……。
ちとせに苦しんで欲しい。でも、その気持ちと同じくらい、ちとせには笑っていて欲しい。
「――!!」
今更のように気がついた。
今、何を思っていた?
僕は背後を振り返る。
当然そこには誰もいない。
道路を何台かの車が通っていっているだけだ。
僕の息が荒くなり、体ががたがたと震え始める。
「…………あ」
震えを押さえようと自分自身を抱きしめようとするも、それすら出来ない。
僕は駆け出していた。
顔も上げず、あてもなく。自分にこびりついた汚濁を振り払うように。
僕は異常だ。
圭がちとせを誘ったのは、自分の為じゃなく、落ち込んでいる彼女をただ元気づけようとしてあげただけなのに。
それなのに僕は、ちとせが僕のことを忘れないのが嬉しい。
ちとせが、そのことに束縛されて、苦しんでいるのが嬉しい。
ちとせが苦しんで嬉しい。
ちとせが苦しんで嬉しい。
ちとせが…………。
こんな僕がどの面を下げて、ちとせに会えるのか。
こんな最低な自分など、初めから彼女と会う資格なんて持ってなどいなかったのだ。
気付けば視界が歪んでた。
……ああ。
僕はやっと気がついた。
僕は今、泣いていたんだということを。
「文也君」
僕が呆然と歩いていると、頭上から声を掛けられた。
「……カスミさん」
僕は緩慢な動作で、声をかけてきた主を見た。
カスミさんは塀の上に座り、こちらに向けて手を振っていたりする。
「ふふ、手紙に書いて欲しいことでも決めてきたのかな?」
「……いえ」
僕は首を横に振る。
正直なところカスミさんに言われるまで、手紙のことをすら忘れていた。
「まあ、焦ることはないさ。時間はまあ、いくらでもあるのだからね」
そう言って、カスミさんはひょいっと塀から飛び降りる。着地した音はない。
「カスミさんは、僕の他にも幽霊をいっぱい見てきたんですよね」
「いっぱいとは言えないけど、何人かは見てきたね」
「……どんな、人がいましたか?」
僕は今まで気になっていたことを尋ねると、カスミさんは小首を傾げた。
「どんな、とは?」
「……僕の他には、どんな未練の人がいたんですか」
カスミさんは人差し指をこめかみにあてて、思い返すように口にする。
「……色々いたよ。ビデオカメラ、カセットテープ。動かなくなったバイク。それからスコップなんてね」
「スコップですか」
僕が思わず笑ってしまう。瞬間、カスミさんの鋭い視線が僕を射抜いた。
「そのスコップの持ち主は、君なんかよりもずっと幼い、幼稚園の子供だった」
「それは……」
「毎日毎日、誰もいない砂場でスコップを動かしていた。自分が死んでいることも分からずに、お母さんが迎えに来ることを信じている。そんな子を君は笑うのかい?」
「……ごめんなさい」
「……いや、私も言い過ぎた。いかんね、歳を取ると説教くさくなってしまう」
カスミさんは頭をふった。
「いえ、僕の方が浅慮でした」
僕は頭を下げる。たとえ自分がひどい現状にいるからって、他の人を笑っていい道理なんて無い。それに、小さな子を笑うなんて最低にもほどがある。
「……ここは、どこですか?」
話題を変えるためと、何も考えずに、歩き続けていたせいで僕が今どこを歩いているのか分からないため、そんなことを尋ねる。
ただ、二、三日は当てもなく歩き続けたことだけは覚えているが。僕には見覚えのない場所だ。隣町くらいには来てしまったのかも知れない。
「ここかい、ここは……」
カスミさんは、目を細めて、
「元、私の家さ」
と、言った。
言われてやっと気付く。
塀だけがあるだけで、中は更地になっている。よく見ると、隣の家の塀が黒ずんでいていた。
ここは間違いなく、カスミさんの家だった。
「いつも、ここにいるんですね?」
僕がカスミさんに尋ねると、彼女は首を振って、
「いや、今日は特別なんだ」
と、言葉短く頷いた。
「私が死んでから、ここに来るのは初めてだよ」
カスミさんの言葉に僕は首を傾げる。
「……今日はね。丁度、八年目なんだ。あの日から」
「今日が――ですか」
八年……それは、あまりにも長すぎる時間の様な気がした。
十六年しか生きていない僕の人生の半分に当たる時間。
僕の物差しで測ることがおかしいのか、八年なんて時間はあっさりと過ぎる物なのか……僕には想像することしかできなかった。
気付けば、この更地を見ている男の人が立っていた。
黒いスーツを着ており、まだ若い。おそらく三十はいっていないであろう。男の人は銀色の縁の眼鏡ごしに、どこか遠くを見るようにしてこの更地のほうを見ていた。
まさか、と僕は思ってカスミさんの方を見る。
「ご明察。彼が私の旦那さんさ」
カスミさんはそう言って、肩をすくめて見せた。
僕にはそれ以上何を言うことも出来ず、カスミさんと……確か前の時に言っていた、雅人さんを見比べてしまう。
「あの……カスミさんは、一体何歳なんですか?」
僕が恐る恐る尋ねると、カスミさんはむ、と顔をしかめる。
「君は随分と失礼なことを聞いてくれるね」
「す、すみません」
さすがに失礼だったか、と思って僕は反射的に頭を下げる。
「君は、もう少し場の空気を読む練習が必要だね。けど……」
そう言って、カスミさんは不敵な笑みを浮かべた。
「君は私のことを何歳くらいに見えるかな?」
「えーと……」
問われて、改めてカスミさんの姿を見直してみる。
相変わらずの艶やかな黒髪に、透き通るように透明な白い肌。切れ長の瞳にはどこか、無邪気なところがまじっているために年齢がわからない。
性格のほうも、良く喋り幼い感じがするものの、たまに見せる達観した様子のせいで余計にわからなくなってしまう。
そういえば、幽霊っていうのは成長するんだろうか。とりあえず、今の質問とは関係ないので保留しておく。
「三十歳くらいですか?」
結局よく分からなかったために当てずっぽうに、僕は答える。
すると、カスミさんはまた眉をしかめて、
「君は、場を読むほかに、お世辞の一つでも学んだほうがよさそうだね」
等と言われてしまった。
「私はまだ、二十二だ。全く最近の若い者は」
そういう言葉遣いのせいで、歳が上に見えるんですよ……とは、さすがに言わなかった。
すると、カスミさんの顔が突然真面目な物になる。
雅人さんは、皮の財布を取りだしてそこから一枚の写真を取りだした。
雅人さんの見るその写真には、カスミさんが写っていた。その隣には、今よりも随分と若い雅人さんが写っている。カスミさんは今と全く変わらぬ容姿で微笑みを浮かべていていた。
今の雅人さんの顔は、優しさと愁いに満ちている。
僕がカスミさんのほうを見ると、カスミさんは顔をそらして、雅人さんの様子を見ていなかった。
「カスミさん……」
僕が呼びかけると同時に、雅人さんは写真を財布の中に収め、立ち去って行くところだった。
「あの、カスミさん。追わなくていいんですか?」
カスミさんは目を閉じており、僕の言葉には何の反応もしてくれない。
「カスミさんってば!!」
僕は再度、声を張り上げるようにしてカスミさんに呼びかける。
「……いいんだよ」
カスミさんは、ゆっくりと目を開いて、
「別にいい」
「どうして!!」
どうして……誤解を解くチャンスなのに。
追って、カスミさんのボールペンを使えば、きっと上手くいくはずなのに。
「そのボールペンは、誤解を解くためのものじゃないんですか!!」
僕がそう言うと、カスミさんは僕の方を見た。
彼女の黒色の瞳は深く、引き込まれてしまいそうになってしまう。
「これは、君にあげるよ」
そう言って無造作に放られたのは、一本の黒ずんだボールペン。
僕はとっさに受け取ってしまった。
「え、あれ?」
どうして、僕がこのボールペンに触れることが出来るのか。
「十年……か」
ふふ、とカスミさんはさも面白そうに笑った。
「十年?」
「あの馬鹿め。あんな言葉、覚えているなんてな」
僕にはカスミさんが何を言いたいのかさっぱり分からない。
でも、カスミさんは、絡まっていた紐が解けてしまったときのように、さっぱりしているように見えた。
「大人には大人の別れ方があるものさ」
カスミさんは、そう言った後、微笑んだ。
「雅人君はあの写真を持っていてくれた。私には、それだけで十分だ」
「待ってください」
そのまま僕に背を向けるカスミさんに手をのばそうとして、それで止めた。
僕は何でカスミさんを呼び止めているのか……。
「どうして、どうして……」
僕は何が言いたいのか。
自分でも訳が分からないために、どうして、という言葉を呪詛のように繰り返し、呟いてしまう。
情けない。悔しい。自分の惨めさが本当に嫌になる。
自分は同じ歳の高校生の中では大人びていると思っていた。
でも、これじゃあ聞き分けのないただの子供だ。
「カスミさん……」
カスミさんは僕の肩に手を置いて、
「文也君」
そのまま僕を優しく抱きしめてくれてから、
「……私のことを語るのは簡単だ。けれどもそうじゃないだろう」
紡がれるのは、優しい言葉。
「君の気持ちは君だけの物だよ。そして、早見ちゃんのものだ」
……抱きしめられた感触はないけれど、カスミさんの暖かさは痛いほど僕に伝わってきた。
「……どうして、そんなに僕に優しくしてくれるんですか」
カスミさんの顔をしっかりと見て尋ねた。
「子供がいたら、君くらいの年齢だろうと思ってね」
笑おうと思った。だって、カスミさんは笑っているのだから。
「さすがに、それは、ないでしょう」
男の僕も、笑わなくちゃならない。
なのに……僕は、涙が出そうだった。
カスミさんは、僕の頭にぽんと手を載せて、
「大丈夫だよ。君は良い子だ。それは私が保証する」
……僕の手の中には、一枚の手紙と一本のボールペン。
「カスミさん……」
僕よりもずっと酷い状態だったのに、とても優しい女の人。
僕は自分のことが恥ずかしく思える。
自分のことばかり考えて、周りに八つ当たりばかりして。
あれからずっと考えていた。
何で僕はここに幽霊となって、存在してるのか。
僕の未練が、手紙なのか。
きっと僕がしなければならないことは、ちとせに謝罪の言葉を書くことだ。
僕にしか、ちとせの呪縛を解くことが出来ないのだから。
そう思えるようになった僕は、少しは成長しているのでしょうか?
ちとせ……。
僕はあの日、交通事故で死んでしまいました。
ちとせは、僕が君のせいで死んだことを、悔やんでいるけれど、全然気にしないで。
君を助けられたことが、僕は嬉しい。それは僕の本心だ。
それよりも、ごめん。
僕のせいで、君を追いつめて。
本当に、ごめん。
君とは歩む道は、別々になったけど、僕はいつも君のことを思っているよ。
だから、ごめん。
ごめん。ごめん。ごめん。ごめん、ごめん、ごめんごめんごめん…………。
そう書かれた紙が、目の前には置かれてる。
僕の手紙とは違う、練習用に目についた紙の一面が、ごめんなさいと言う言葉で埋め尽くされていく。
一度書かれた場所を上から更に書き殴る。どんどん書き殴る。
「……あ」
我に返った僕は、とっさにボールペンを投げ捨ててしまう。
白い紙は、ほぼ黒く塗りつぶされていた。
……黒い炎は汚くも、まだ燃えている。
消えることなく、心の隅でじりじりと。じりじりと。
「ちとせ……」
机の上に突っ伏して、ほろりとその名前がこぼれ落ちた。
会いたい。
会いたいよ。ちとせに会いたい……。
こんな気持ちになったのは初めてだった。
ちとせの存在は僕にとってあまりに身近かすぎる存在で、彼女と会えることが当たり前で、それがいつまでも続く物なんだと信じて疑わなかった。
手紙を書くということで、そのことがくっきりと浮かび上がる。
僕は死んでいて、彼女はこれからを生きていく。
僕は放り投げたボールペンを拾って、握りしめる。
……本当に神様は残酷だ。
僕は結局手紙を書くことが出来ないままに、夜の町を歩く。
手紙を書くことを諦めて、ただ逃げてしまってる。
自分の唯一出来ることからも目をそらして、悲劇のヒーローみたいなことを思っている様は、きっとすごい滑稽な物に見えるだろう。自分でもそう思う。
町の至る所が煌びやかに飾り付けられており、幸せそうによりそって歩くカップルが多い。それと、耳慣れた音楽がずっと響いていた。
「そっか」
町の中央にある、大きな木の下で僕は呟く。
そうか。もう今日はクリスマスイブだった。どうにも、異常なことが多すぎたせいで、僕の時間の感覚がおかしくなっているようだ。
今年のクリスマスは雪が降るのかな。
僕が空を眺めると、ぼんやりと頭の中に昨年のことが思い出される。
その時の、朝の天気予報では、雪が降るでしょうと天気予報士のお姉さんが言っていた。
僕の住んでいるところは冬でもあまり雪が降る場所じゃない。だから、ちとせはそれを凄く楽しみにしていたようで、僕の部屋に押しかけてきてずっと窓の外を見ていたんだ。結局夜が更けても雪は降らなくて、彼女は残念そうに帰って行ってしまった。
そして、その二日後に雪が降ったのだ。
あの時のちとせの怒った顔といったら、本当に子供そのもので、僕は横で肩をすくめてしまったものだ。
「ちとせ……」
ちとせを最後に見てから、随分と時間がたってしまったような気がした。
彼女はもう退院したのだろうか……。
クリスマスを病室で過ごすなんて、あまりにも可哀想すぎる。
病院に行こうかと、思って思いとどまる。
手紙をまだ書いてすらいない僕は、彼女のことを見る資格なんか無い。
でも……。
同じくらいの重さの物をのせた天秤のように、僕の心は安定しない。
結局自分の中で妥協点を新しく作り出す。
……ちとせが病院にいなければいい。
それだけを、確認しようと思って僕は病院の方に足を向けた。
面会時間ぎりぎりにプラスしてクリスマスイブのせいか、病院の中は人でごった返していた。
ちとせの病室にはいると、彼女はベッドの上に身を起こして、何かを編んでいた。
ひさしぶりに見る彼女の顔色は前に比べると随分と良くなっているようだ。
彼女が編んでいる物はどうやらマフラーのようだった。
僕は意外な気がした。ちとせがマフラーを編んでる姿なんて、初めて見たからだ。言っては悪いかも知れないが、彼女は不器用で料理を作ることすらもまれである。
けれども、ベージュ色のマフラーは少し形がいびつながらも、ほとんど出来上がっているように見えた。
そして、その隣に圭が座っている。
「それは?」
「これはね。文也君の誕生日プレゼントなの」
ちとせはゆっくりとだが、マフラーを編む手を止めない。
圭は、眉をひそめる。
「文也の誕生日って……」
「うん。十二月九日」
事故にあった日が僕の誕生日。
だからこそ僕は、あの日告白しようと思っていたのだ。
学校の帰り道のいつもの公園で、僕は手紙を渡そうと思っていたのに、ちとせは急いで帰ってしまった。だから、僕は慌てて彼女の後を追ったのだ。
そして、交通事故にあったらしい。
僕の記憶は、学校を飛び出した時点で途切れてる。
結局僕には何も思い出すことが出来ない。
「私って、不器用だから……」
ちとせはそう言って、圭にマフラーを差し出す。
「文也君の誕生日に間に合わせようと思って、一月も前に編み始めたのに、編み終わらないの」
彼女はクリスマスプレゼントになっちゃったけどね、と笑いながら言った。
「でも、文也君の誕生日に間に合わそうと思って。急いで帰って、完成させようとして、それで赤信号なのに……」
飛び出して、僕が彼女を助けようとして、跳ねられたってこと。
だから、なんだ。
頭の中でパズルの最後のピースがはまったような気がした。
圭は何と言えばよいのかわからないのか、頭をかきながら横を向く。
「加藤君。私ね、ずっと考えていたんだ。私はこれからどうしたらいいんだろうって……」
「それは……」
圭は何かを言おうとしたが、結局やめてしまう。
「ずっと、その責任を感じて生きて行くべきなのかな、それとも……」
「いや、文也はきっと。君が苦しんでいる姿なんて見たくないはずだ!!」
圭は病院の中ということを、忘れているかのような大声を上げる。
「早見さんが、幸せになることを……」
じゃないと、君のことを助けたりするもんか――
そこまでは言わなかったけど、圭の顔を見ていたら彼の言いたことは、僕にはどうしてだか手に取るように分かってしまった。
「ううん。それは、生きてる人の言葉だよ」
ちとせは圭とは対照的に、静かに首を横に振る。
「私がね。もしも死んでいたならね。文也君が別の女の人と歩いているを見るのは、とっても嫌だと思う。だって――」
……私は文也君のことが好きなんだから。
……僕は、今何を思ったんだろう。
胸の中に生まれた、この感情のことが自分でもよく分からなかった。
「私は、最低の女の子だね」
そう言うちとせの顔は、聖母のようにおだやかで、今までで僕が見てきた中で一番美しく感じた。
「それじゃあ早見さんはずっと、一人で苦しんでいかないといけないのかい……」
「ううん。違うよ。きっと時間って残酷で、いつかは私も文也君以外の人を好きになってしまうと思う」
ちとせは、でもね、と言葉を続ける。
「私はまだ文也君が好きで、これからもきっと好きなままでいるよ」
他に好きな人が出来たとしても、私が文也君のことを好きだというのはきっと変わらない……。
僕は目を閉じて、瞳に感じるものを必死でこらえる。
僕はやっと、自分が存在する理由が分かったような気がした。
ただ、ちとせのこの言葉が聞きたかった。
たったそれだけのこと。
そして、僕は……
「カスミさん……」
カスミさんと、雅人さん。
カスミさんは大人の別れと、言っていた。
それが、僕には何の意味を持っていたのかはわからない。
けれども、カスミさんが僕に言いたかったことはよく分かる。
さあ、手紙を書こう。
目の前に手紙をひろげ、大きく息を吐く。
頭に思い浮かべるのは、ちとせの笑顔。一番僕が好きだったその笑顔。
そして、カスミさんのボールペンを手に取った。
たった五つの文字。
相も変わらず、シンプルな言葉。
僕はボールペンに力を込めて、五つの文字を描いてく。
けれども、最後の文字はかすれて映る。
どうやら、インクが切れてしまったようだ。前の別の紙に練習したときに、インクを使いすぎてしまっていたのか。
別に構わない。
もとより、僕にこれ以上伝えたい言葉などありはしない。
役目を終えたボールペンを、机の上に置き、窓の外を見る。硝子越しに、雪がふっているのが見えた。
彼女は微かな寝息を立てて、眠ってる。
久方ぶりに眠れているのか、その顔は安らかだ。
彼女の手には、出来上がったのかマフラーが握られている。
手紙をテーブルの上に置き、そのマフラーにそっと手をのばす。
「メリー、クリスマス……」
差し込む朝日に照らされて、彼女は目を開く。
手に握られた物に気づき、慌てて身を起こす。
テーブルの上には、見知らぬ手紙。
彼女は封を切り、その手紙を読む。
そして、むせび泣く。