五
白色の天井は古さのせいか少し黒ずんでいた。ベッドの周りをしきるカーテンも少し黄ばんでいる。部屋の温度は暖房がついているのにも関わらず、少し肌寒い。そして、私は腕に点滴をうたれている状態でベッドの上で横になっている。シャツの袖から先の手首は、ボクサーのグローブのように包帯がぐるぐるとまかれて膨らんでおり、自分で指先を動かすことは出来ない。頭にも包帯が巻かれており、右足はギブスで固定されている。麻酔の後遺症なのか痛みはほとんど感じられず、ぬるま湯にでも浸かっているような感じだ。
あれから一週間が過ぎた。ほとんど錯乱状態だった私には、鏡を割った直後のことは、怪我のせいで病院に入院させられたことくらいしか覚えていない。私は結局親の不倫問題に振り回されて、ノイローゼ気味になっていたということで落ち着いた。それと、父さんと母さんは私のせいでめでたく離婚することになった。私と姉さんの親権はたぶん母さんが貰うことになるんだろうって聞いた。ただ、私の場合はお腹を母さんに蹴られていたのがばれたせいで、どうなるのかは分からないんだけど。
そして、私はおばあちゃんのことを思い出していた。
すごく鮮明に思い出せる。おばあちゃんの家の縁側でのことだ。柔和な表情を浮かべているおばあちゃんのごつごつとした手で、頭をそっと撫でてくれた感触が今でも感じられるような気がする。もう、あの手で撫でて貰えることがないんだと思うと気分が深く沈んでしまう。どうしても、もう一度頭を撫でてもらいたいと思ってしまう。一度考え出すと止まらなくなってしまい、胸がぎゅうっと締め付けられた。
がちゃと病室のドアが開く音がした。どうせ看護師による定期検診だろうと思って、私は天井を見つめたままそちらを見向きもしない。
「ひなちゃん」
意外な来訪者だった。
「……志野君?」
私は体を起こしてそちらを向くと、志野君だった。学校帰りなのか学生服にマフラーを巻いただけのいつもと変わらない格好だ。
「こんなところに来てどうしたの? 私って一応面会謝絶になっているんだけど」
私は笑顔で応対すると、志野君は眉をしかめた。
「どうしたのって、ひなちゃんが入院して心配だからお見舞いに来たんだけど、面会謝絶とかなっているからびっくりした。意識不明の重体なんだと思って、見つからないように忍び込んだんだ」
「それはドラマの見過ぎだよ」
はははって笑って誤魔化した。
「はははじゃないよ。クラスのみんなもひなちゃんのこと心配してたんだよ」
「私を心配?」
クラスに私の心配をするような人はいただろうか。私なんていなくなっても、喜ばれこそすれ心配なんてして貰えるとは思えなかった。
「うん。言葉は悪いけど、人って基本的に可哀想と思われる状況の人には同情するからね。死人に鞭を打つような真似は出来ないっていうか。とにかく、ひなちゃんが変なことしなければ、この間までみたいにやっかまれなくてすむと思うよ。もともといじめまで発展してなかったんだし」
志野君は置かれているパイプイスに座った。
「それで、ひなちゃん。どうして、病院の屋上から飛び降りたりなんかしたの?」
「……どうして、それを?」
「ひなちゃんの部屋が分からなかったから、ナースセンターに聞きに行ったときに偶然話しをしてるのを聞いたんだ。病室を抜け出して、屋上のフェンスに登ってから飛び降りたって」
「飛び降りてなんかないよ。落っこちただけだもの」
「一緒だよ!」
「そんな大声を出すと、看護師さんが来るよ」
抑揚もなく諫める私の言葉に、志野君は浮かせた腰を元に戻した。
「ごめんね。真面目に答えると、自殺が目的以外で命綱もなしに飛び降りる人なんていないと私は思うな」
私が病院の屋上から落っこちたのは昨日のことだ。私は確かに自分を殺そうと思った。
両手の使えない今の自分に出来る方法を色々考えたけど、飛び降りることと舌を噛み切ることくらいしか思いつかなかった。怖い思いと、痛い思いするのならどちらがいいかと考えて、私は前者のほうがまだ出来ると思ったからだ。
病室を抜け出した私は屋上のフェンスを越えた。手が上手く使えないから大変だった。けど、下を見た瞬間、あまりの怖さに力が抜けてそのまま落ちてしまったのだ……よりにも寄って木の上なんかに。その時に、右足の骨が折れてしまった。良く助かったなあって思う反面、酷い間が抜けてしまったような気がする。
結局、私の自殺は失敗して、怪我をしてなかった足の骨も折れたことで自分一人では身動き一つ取れなくなった私は、ベッドの上で横たわっていることしか出来ない。面会謝絶の札と、怪我を無意味に増やしたことに対する冷たい非難と一緒に。もう一度痛みを我慢して病室を抜け出すほどの根性も、舌を噛み切るほどの度胸も私にはなかったようだ。
「私もね、自殺なんて良くないことだって、分かってるよ」
「だったら何で、そんなこと」
「分かっているって言ってるでしょ。でもね……」
私は布団に顔を押しつける。
「ごめんね、志野君。帰ってくれないかな。私は誰とも話したくないの」
私だって自殺をするなんて嫌だ。痛そうだし、何よりもとっても怖い。高いところにいることなんかの何倍も何十倍も恐ろしい。
「いつもそう。何を苦しんでいるか僕に分からないかもしれない。それに、そんな風に耐えることが出来るのは凄いのかもしれない。けど、言わなくて分かって貰おうなんて虫が良すぎる。そんなの、目先のことから逃げてるだけだよ」
「言いたいこと言ってくれるわね……志野君には分からないわ。一番大好きな人に二度も殺されそうになった私の気持ちなんて分かるはずがない。分かってたまるもんか!」
ついかっとなって志野君に言い返してしまった。
「どういう、こと?」
志野君の驚く顔を見て、暗い感情が沸々と湧いてくるのを感じる。
「志野君は覚えてないかなあ。私が高所恐怖症になったわけ」
「幼稚園の時に滑り台から落ちたことが原因だっけ?」
「姉さんに突き落とされたことが原因よ!」
幼い頃からずっと、私の中で姉さんが一番だった。母さんよりも父さんよりも、姉さんが大好きで、姉さんの言うことは全部正しいと思ってた。
その姉さんに突き落とされた。優しい姉さんに拒絶されて、突き落とされたのだ。
姉さんに嫌われるほど、私は最低の人間なのだ。幼い自分の心の奥底に、ナイフで文字が刻まれる。
「それに、姉さんが言ったんだ。私はつまらない人間なんだから。私が死んでも誰も悲しまないって!」
「嘘だ! 秋乃姉さんがそんなこと言うはずがないよ。だって」
志野君はポケットから携帯電話を取り出して、私に突きつける。姉さんからのメールがいっぱいだ。そして、私のことを心配する言葉が表示されている。
「ひなちゃんが本当に死んでしまってもいいのなら、こんなにひなちゃんを心配するメールなんて来るはずがないじゃないか」
私は震える手で何とか携帯を受け取った。大して重さもないはずなのに、鉛のように重く感じた。書かれている文字の一つ一つが重さを持っているようだ。
「姉さん……」
途端にワタシのイメージが壊れていくのを感じる。
それと同時に思うことがある。プライドの高い母さんと、優しい母さんはどちらが本当の母さんかということだ。優しい母さんは、周りに合わせているだけで本当の自分ではないと言われるのかもしれない。だけど、それは本当にそうなんだろうかって思う。プライドの高い母さんが真摯に願って作られた自分なら、優しい母さんだって本物なんじゃないのかって。だから、優しい母さんも母さんには間違いないんじゃないかって。
それなら、ワタシはどうなんだろう。
ワタシも私の一部ということにならないだろうか。姉さんのようにイメージされていたワタシ。自分の嫌なことを押しつけるために作り出したワタシ。けれども、ワタシは私の想像の産物でしかないらしい。そのワタシに死にたいって言われた。死んでって言われた。
だったら、姉さんは関係なく、それこそが私の望んでいること何じゃないのだろうかと、心の深く奥底の湖に水滴が一滴ぴちゃんと落ちる。
「僕はひなちゃんが死んだらとっても悲しい」
志野君はぽつりと呟いた。
「どうして?」
「好きな子が死んで悲しくない人はいないよ」
「……そうなんだ」
「酷いよひなちゃん。これでも勇気出して言ったのに」
「だって、信じられないもの」
私は布団に顔を埋めたまま、そっけなく答える。
「それなら僕が一体なんて言えば、ひなちゃんは信じてくれるの?」
「私はどうすれば志野君の言葉を信じることが出来るの。志野君が嘘をついてないってどうやったら分かるの。そんな方法があるなら教えてよ」
私には人の嘘が分からない。何を思っているのかまるで自信が持てない。だって私は、"私自身"にすら嘘をつかれるのだから。そんな私が、一体どうやって信じろっていうの。
「そんな方法あるわけないよ。誰だって、自分以外の人が言っている言葉の本心なんて分かりはしない。出来ることなんて、こう思って言ってるんだろうなあって自分で判断するしかない。でも、考えたって相手の本心なんて分からないことだって多いよ」
「だったら」
「だから、信じたいんじゃないの?」
「え――」
「分からないからこそ、人の言った言葉を信じたいんじゃないのかな」
私は顔をはっと上げてしまう。
「ど、どうしたの?」
がつん、と頭を殴られたような気がした。
今まで私は、良い方と悪い方の二つを聞かされた場合、一度も良い方を選んだことはなかった。そうすることしか知らなかった。そうすることしか出来なかった。期待して悪い方になることが怖かった。私は明けることのない夜の間、ずっと思っていた。
そういう生き方も、そこまで悪いものとは思わない。最初から悲観していれば、傷つくことはないし、ささやかな幸せくらいは掴むことが出来ると思う。おばあちゃんのことを思い出さなければ、ベッドの上で胸が痛い思いをしなくてすむ。閉ざされた楽園の中では、決して傷つくことはないのだから。
でも、私は知ってしまった。おばあちゃんの死んだ痛みと、おばあちゃんとの大切な思い出。一度無くしたものが戻ったおかげで気がついた。痛みや悲しみから逃げることで、もっと大事なものを無くすことがあるんだって知ってしまった。山のように送られるメールの温かさってものも知ってしまった。
だから、私は逃げるっていう選択肢以外を、初めて選んでみたいと思った。
「私も――」
けれども信じてみたい、という言葉が出てこなかった。喉に何かが詰まったように、言葉を言うのを拒絶する。
自分の勇気のなさがつくづく呪ましい。こんな風にしか出来ない自分のことが本当に――
『ばいばい、雛乃。がんばってね』
不意にワタシの最後の言葉が蘇る。
砕ける瞬間、ワタシはにっこりと微笑み、手を軽く振っていた。
そもそも、ワタシが本当に死を願っているのなら、何も言わなければいいだけの話だ。私の体は、母さんの度重なる折檻のせいで、肋の骨が折れている。命に別状はないけれど、これ以上蹴られると折れた骨が内臓を傷つけて死んでしまうかもしれなかった。でも、痛みから逃げていた私には、決してそのことに気付かない。
それなのに、あんなことを口にして、ワタシは私にわざわざ殺された。放っておけば死ぬ可能性が高いのに、鏡を砕かれた。逆の言い方をすれば、口に出したから、私はワタシを殺して人格を取り戻し、痛みが戻ったために助かった。
ぽろぽろと目から溢れてくる。私は今とても醜い顔をしているだろう。
私は何て愚かなんだろうか。生きて、という声が確かに聞こえていたのに、私は耳を塞いでた。死にたくない、と言っている声をずっと無視し続けていた。自分の声なのに聞こえない振りをしていた。
胸の奥が熱くなる。自分の意思が、生き返った川の流れのように、深く沈めた底から押し出されてくる。
「仕方ないわね。志野君の言葉も信じてあげていいわ……!」
私はそれだけ何とか言った。
それからまた、布団に顔を埋めて十五分くらい泣き続けた。
「大丈夫?」
ようやく落ち着いた私に、志野君は黙って待ってくれていた。優しい気遣いと思うけど、泣いているところを見ているなんて趣味が悪い。涙は女の武器とか言うけれど、鼻水は武器とはどう綺麗に解釈してもなり得ない。おかげで、私は泣きやんだ今でも顔を上げることが出来ない。
「……どうして、私が好きなの?」
私は鼻をすすり、自分の顔が見られないように、横目で志野君の様子を窺いながら尋ねてみる。
「えーと、いつもすましているくせに、結構間が抜けてたり。高いところが苦手なくせにすごく無理して強がったりとか」
「それって、褒めているつもり?」
「そうじゃなくて、うーんと」
志野君は何だか顔を俯かせて髪の毛をがしがしとかく。
「たまに無防備に笑ってるときがあって、そのときの顔がとっても可愛いというか……」
ぼそぼそと尻つぼみになりながら志野君は言う。何だか頬が赤くなっているようだ。
そんな志野君を見ていて、ぷっと吹き出してしまった。けたけたと声を上げて笑ってしまった。何だか久々に肩から力が抜けた気がした。
「大野さん、一体どうしたのって、君は何。大野さんは、面会謝絶中なんですよ!」
「あ、え。ひなちゃん」
私の大きな笑い声のせいか、看護師の人が病室にやって来て、志野君は病室からつまみ出された。私に助けを求めるように視線を送ってくる志野君を、私は笑い声で見送る。私の泣き顔を見たのとマヌケとか言った罰だ。ナースセンターでくどくどと叱られるといい。婦長さんのしつこさはマムシの比ではないともっぱらの評判だ。
笑っている私を見て、看護師さんは不思議そうに首を傾げていた。
「あー、お腹すいたなあ」
私はうーんとのびをしてみる。今日は久しぶりに、よく眠れそうだ。
エピローグ
次の日、姉さんが帰国して私のところにまっすぐやって来た。
私が自殺未遂なんかしたことを知られたから怒られるのかと思ったら、大泣きされてしまった。その反応はまったく予想出来ていなかったので、私まで一緒になって泣いてしまった。
泣きやんでから滑り台のことを尋ねると、
「飛んできた野球ボールに気付いて、慌てて押したら、雛乃ったらそのまま落ちてしまったの。ごめんね」
……まあ、そういうこともあるかもしれない。
きっと姉さんは、私がそのことでずっと悩んでいたなんて夢にも思わないだろう。
二月ほど入院して、私がまた学校に行けるようになった頃、すでに桜が芽吹き始めてた。
一月ほど前に父さんと母さんは正式に離婚して、私は結局母さんのほうに引き取られた。私が母さんが良いと主張したからだ。今は私と一緒にカウンセリングを受けている。
名字は母さんの性である、牧本という名字になった。よりにも寄って志野君と同じ名字だ。一月たって牧本雛乃という名前もようやく馴染んできたような気がするけど、テストの時とかまだまだうっかり間違えてしまいそうだ。
私は制服に着替えて、寝癖がついてないか新しくなった洗面台の鏡で確認する。
ふと、鏡の面に手を伸ばす。鏡には指紋の後が残るだけだった。
あれから、何度か鏡に話しかけてみたけれど、ワタシは決して返事をしてくれることはなかった。あの鏡を割ったとき、私に痛みが戻ったときに、ワタシは私の心の奥底へと戻ってしまったのだろう。出来ればそうであって欲しい。
ピンポーン、と玄関のほうからから呼び鈴が鳴る音が聞こえた。志野君だろうか。携帯電話で時間を確認すると七時をさしている。彼がいつもアパートに来る時間だ。
「それじゃあ、行ってくるね」
私は鏡に一度だけ微笑みかけて、洗面所を後にした。
<了>