四
あれから一週間くらい過ぎた。
別に思っていたほど大したことはない。いつも話している友達と口が聞きにくくなっているのは、屋上の件のせいだろうし、志野君とは時々目が合うけど、何か言いたそうな顔をするだけで話しかけてきたりはしない。おかげで、今では教室にいる間、授業中に先生からあてられるまで口を開いた記憶はない。今のところ嫌がらせのようなことはされていないのが幸いだ。むしろ、気を許していない相手と会話をしなくてもすむ、ということにほっとしているのが今の状態である。
嫌がらせといえば、母さんの私に対する暴力が酷くなった。毎日毎日、お腹を思いっきり蹴られた。その後、いつも母さんは泣いて後悔する。涙を流しながら、私に懺悔する。だから母さんに、私はそれ以上何も言えない。
――そして、その母さんが倒れた。
心因性の、ようはストレスによる免疫力の低下からくる体の不調らしい。
私がアパートに帰ると、母さんは自分の部屋で眠っているようだった。すうすうと寝息をたてている。
布団からはみ出している手にふと目がとまる。噛みすぎたせいなのか、歪なほどに爪はゆがみ、ささくれだっていた。母さんがどんな思いで爪を噛んでいるのか私には分からない。
元々母さんは、美しい黒髪の似合う綺麗な人だ。若い頃は周囲の男性からいつももてはやされていて、相手に苦労したことはないって聞いたことがある。
けれど、そんなことは長くは続かない。三十という歳が近づくにつれ、女優なんかじゃない母さんから人は次第に離れていく。その事実が母さんを焦らせた。焦りは態度として現れてしまい、余計に人は離れていく。けれど、事実を認められるほど柔軟なはずもなくて、結果、周りに誰もいなくなっていた。母さんはようやく認めた。そこまでならないと、事実を受け入れられなかったのだ。
結局母さんは見合いで、父さんと出会うことになった。今までの全てが否定されてしまった母さんに出来るのは、出来の良さそうな皮をかぶることだけであった。
しかも、その行動が演技ではなく、本心から思いこもうと努力した。しすぎてしまった。
本来の自分を零として、新しい自分を一とする。良い妻である自分。良い母でないといけない自分。それはまるで、ワタシを作り上げた私みたいだ。結局母さんは良い自分という外枠を作ったが、やはり以前のプライドの高い自分を完全になくすことは出来なかったのだけど。
私がその手をぎゅっと握ると、母さんは目を覚ました。
「雛乃?」
「ただいま」
「お帰りなさい。ごめんなさいね、迷惑をかけて」
「ううん、平気。そんなことよりも、母さんは早く良くなってね」
私の言葉に母さんは笑ってくれた。
私は夕食の準備をする前に洗面所に行き、ワタシに呼びかける。
「母さん、大丈夫かなあ」
「良くはないでしょうね。雛乃気付いてる? 母さんまた手首細くなってたわよ。まるで骸骨みたいに」
「え、本当?」
「ええ」
全然気がつかなかった。
元々やせぎすの母さんが、前よりも痩せているなんて。私は自分の手首をとってみる。枯れ枝のように細い。どこかにぶつけたらすぐにでもへし折れてしまいそうだ。母さんの手首は、この手首よりも細いっていうのか。
「ねえ、母さんってストレスが原因で倒れているのよね」
ワタシは言った。
「お医者さんはそう言っていたね」
「ストレスの原因ってお父さんなのよね。だったら、その原因を取り除けばいいんじゃないかしら」
父さんは、今日も朝早くから会社に行っている。きっと、今日も日付が変わるまで帰ってこないのだろう。
「何が言いたいの?」
「父さんの浮気の現場を押さえましょう。そうしないと、母さんがいい加減にへばっちゃうわ」
ワタシの突然の提案に驚いた。けれども少しだけ考えて、それしか方法がなさそうだと思い、私はこくりと頷いた。
次の日、初めて学校をさぼった。父さんの浮気現場を押さえるためだ。
まず私は駅のトイレで服を着替え、使い捨てのカメラを買った。それから、小さい頃に一度だけ行った記憶を頼りに父さんの会社へと行く。
駅から出ると、ぽつぽつと雨が降り出した。水滴が雪の化粧を剥がしていっているのを見ると、夢から覚めたような気がして何だか寂しい。
背の高いビルが並ぶ中、角のところにあるビルで足を止めた。入り口の看板に、父さんの勤めている企業の名前があるのを確認する。七階から十階までのスペースのようだ。私みたいなのが入ってもつまみ出されないかなあって思いながら、恐る恐るビルの中へと入った。
一階は社員の休憩に使われるためかコーヒー屋やファーストフードの店がいくつか並んでおり、ホールにも多くのイスとテーブルがあり、中央には噴水なんて物がある。人の出入り自体は激しいけれど、そちらのほうはまだすいている。私は寒空の下待たなくてよさそうなことにほっとして、エレベーターを見ることが出来る席に座った。一まとまりとなっているのが幸いだった。
時計に目をやると、午前十時をさしている。私は手鏡を取り出して、ぺたんとテーブルの上にうつぶせになった。
「どうして、父さんは浮気なんてするのかな」
私はいつものように小声でワタシに尋ねる。道行く人たちはみんなそれぞれ忙しそうだから、私のことなんて見てないだろう。見られたとしても携帯電話にでも話しかけているようにしか見えないに違いない。
「そうね。臆病で気が弱いから、かしら」
「臆病だから?」
「ええ」
「臆病だと何で浮気をするの?」
すると、ワタシはくすくすと笑った。
「気が弱いから押しにも弱いのよ」
「え、え?」
「もう。父さんはさ、ありていに言えば苦労の知らないお坊ちゃんじゃない。結婚も見合いだし。その父さんから声を掛けるなんて考えられないじゃない。だから、どこの誰かに迫られているんでしょうね。父さん見た目良いし」
「……だったら、断ればいいのに」
前に、ぼそりと母さんが、男は四十過ぎても寄ってくる女がいるからいいわね、と何の感情も込めずに呟いていたのを思い出してしまう。
「初めは断ってたんじゃないのかな。でも、やんわりとしか断れきれず、相手の女性のペースに泥沼のようにずぶずぶとはまっているのかも」
「そうなんだ。私だったら結婚している人が相手なんて嫌だな」
「普通は嫌よ」
ワタシはけたけたと笑う。私は普通という言葉にどことなく安心感を感じてしまった。
私はそんな会話をしながら、時間が過ぎるのを待った。
時計の針が午後六時を回った頃に父さんがエレベーターから降りてきた。父さんは四十を少し超えているはずなのに、三十代半ばくらいに見える。たれ目がちな瞳に、眼鏡というのは優しそうな雰囲気に見えるけど、ワタシの言う通りどことなく気が弱そうに思えてしまう。エレベーターから父さんと一緒に降りてきた人たちの中には女の人はいない。
父さんは私に気付いた様子もなく、駅のほうに向かう。私は後をこっそりとつけた。駅に入る。事前に千円の切符を買っていたので、私は遅れることなく父さんの後に続く。
父さんは三つ目くらいの駅で降りた。折角高い券を買ったのに、勿体ない。この余ったお金って返して貰えないんだろうか。
「駅員さんに言えば返して貰えるんじゃない?」
……そんなことしてたら、父さんを見失ってしまう。
さよなら、私の千円札。私は別れを惜しむように両手を揃えた。
「……父さん見失うわよ」
そうだった。私には千円札の喪に服している暇などなかった。ちょっと目を離した隙に父さんの背中は、人混みの中随分離れてしまっている。私は慌てて父さんの後を追いかけた。
駅を出た父さんは、通りにあるレストランに入った。入り口からしてとても高そうな作りになっており、私には全く縁がなさそうな場所だ。
今日一日何も口にしていないことを思い出し、お腹がすいたような気がした。お腹をさすると、きゅうぅなんていう恥ずかしい音をたてる。けれども我慢して、父さんが入った入り口以外に出入り口がないことを確認して、少しだけ離れた場所で入り口を見張る。
途中携帯のバイブレーションが着信を告げる。母さんからだった。もう八時近いのにアパートに帰ってこないから心配してかけてきたのだろう。けれども、上手い弁明の言葉なんてないから、自然に切れるまで放っておいた。
父さんは一時間ほどで出てきた。入るときには連れていなかった、女の人を連れている。
女の人の年齢は二十代半ばくらいだろうか。髪はボブカットで、目と鼻は小さめな感じだ。化粧はしているようだがほんの少しといった風で、付けている装飾品は左耳にピアスが一つ。着ているブラウンのコートも含め全体的に地味めな感じだ。
何となく意外な気がした。浮気とかそういう関係なんだから、もっと派手な人かと思っていたからだ。まだ、この人が父さんの浮気相手と決まったわけじゃないのだけど。
「そうかしら? ああいう人のほうが遊びじゃなくて一途っていうか、思いこみとか激しそうに思えるけど。そもそも相手の遊びが上手ければ、ワタシたちに気付かれるような下手な付き合い方なんてしないでしょ」
「じゃあ、真面目な浮気なのか」
「真面目な浮気って……」
ワタシは大きく息をついた。
父さんたちは通りを三十分ほど入り組んだ道を歩いた。駅の周辺地から外れ、人の数はほとんどなくなっている。幸い雨がまだ降っており、怪しいことをせずに傘で顔を隠せるのは助かった。
父さんたちは、ちょっと凝った作りになっている綺麗な建物の前で足を止めた。目をこらしてみると、入り口に出ている小さな看板に、休憩、宿泊の料金が書かれていた。
……どうやら間違いないようだ。
私はポケットから使い捨てカメラを取り出して父さんたちに向ける。
けれども、指はぷるぷると震えるだけで、シャッターを切れなかった。今見ている光景が信じられなかった。父さんが浮気をしているって思っていても、本当は何にも分かっていなかったのだ。
「父さん!」
だから私は、大声で呼び止めた。
父さんと女の人は愕然とした顔でこちらを見る。
「ひ、雛乃!」
父さんが私に手を伸ばしてくる。私は父さんの気弱そうな表情しか見たことない。だから、父さんの見開かれた目は凄く恐ろしかった。
捕まったら殺される。本気でそう思った。だから、私は脇目もふらずに逃げた。雨に濡れるのにもかかわらず傘を投げ捨てて、鏡を握りしめてから全力で逃げた。
「そこの細い道を右に曲がって、まっすぐ行くの」
「はあ、はあ。わかった……」
私はワタシの誘導する通り右に曲がる。ばしゃ、ばしゃと水たまりを踏みつける。ジーンズの裾に水がしみ込んでくる。
「雛乃、後ろ!」
「……はあ、はあ」
私は走る足を止めずに後ろを向くと、父さんが追いかけてきていた。血走った目で私を睨んでる。私を捕まえるべく手が伸びてくる。父さんの目が怖い。蛇のようにぬるりと体にからみついて、私の目も捕らわれてしまったような感じがした。
走っていたら急な段差に足を取られる。いや、階段だった。体が宙に浮いた感触。ふわっと感覚が引き延ばされる。
「あ――」
間抜けな声を上げたあと、体がコンクリートに思いっきり叩きつけられる感触。鏡が砕ける音と、ぐしゃっていう何かが潰れるような音がした。
視界が白黒に点滅する。フラッシュの強烈なシャッターを連続的にきられているような感じだ。
意識がもうろうとする中で、何だか前に似たようなことがあったのを思い出してしまう。そうだ。あの、滑り台。私のことを見下ろしているのは、姉さんだった。滑り台の上から姉さんが、私を見下ろしていた……。
目を開くと、そこは見慣れた自分の部屋だった。
あれからどうなったんだろう。私が体を起こすと、ドアの向こうから怒鳴り声が聞こえてきた。その声には、母さんだけでなく、父さんの声も混じっている。きっとあそこから父さんが私を連れ帰ったんだろうけど、そのことに対することだろう。
「……やだ」
あの時の追ってきた父さんの顔を思い浮かべると、とてもじゃないが近づけない。私は出来るだけ音をたてないよう自分の部屋を出て、洗面所へと向かった。
「ね、ねえ」
私が小声で呼びかけると、ワタシは大きく肩を竦めて、
「残念。死ななかったのね。上手く誘導したつもりだったんだけどねえ。やっぱり階段から落ちたくらいじゃ、人ってそう簡単に死なないのかしら」
世間話でもするかのような気軽さでそんな言葉を口にした。
「え?」
「言葉の通りよ。ワタシは雛乃に死んで欲しかったの」
ワタシはにこりと微笑みながら言葉を続ける。
「当たり前のことよね。あなたがワタシのことをどう思っているかは知らないけど、ワタシはあなたみたいな子が一番大嫌いだから」
「……何で、どうして?」
「本当は――ワタシが生まれた原因はね、あなたが、おばあちゃんが死んだことを認めたくなかったからなの。元々多重人格障害には、現代的多重人格障害と古典的多重人格障害の二種類があって、現代的多重人格障害が主に性的障害による発症。古典的多重人格障害は、好きな人を失った悲しみから逃げるためのもの。あなたにとって、人の死はおばあちゃんが初めて。元々読書にしても何しても、悲しいって思うことから逃げていたあなたは悲しみ方なんて分からない。だから、ワタシを作り出して押しつけることにした。おばあちゃんに関して、あなたはもうほとんど思い出せないでしょう?」
確かに、ワタシに言われるままに、私は頭を両手で押さえておばあちゃんのことを思い出そうとしてみるけれど、思い出せなかった。おばあちゃんの手の感触どころか、おばあちゃんの顔すら思い出せないという事実に愕然としてしまう。
ワタシはたたみ掛けるように言葉を続ける。
「そしてね、雛乃。そのことで味をしめたあなたは、体に感じる痛みを全部ワタシに押し付けることにした。画鋲が刺さっていても、金網に頭をぶつけても、母さんにいくら蹴られても……その痛みは全部ワタシに押しつけていた。今だって、あなたは動いているけど、肋骨の骨は折れているし、腕の骨にもひびがいっぱい入っていて、本来ならまともに動くことも困難なのに」
「そんな」
「次にあなたは、人と関わりを持つことから逃げた。志野君もちゃんと確認もせずに逃げた。痛みがない……ワタシに押しつけていることを良いことに、暴力を振るう母さんを説得することからも逃げた。反論されたら怖いものね。傷ついてしまうものね。だからあなたは、自分の心だけは絶対傷つかないように逃げた。逃げ続けた。次はどこに逃げるの。ねえ、雛乃。これ以上あなたはどこに逃げたい?」
語るワタシに表情はない。
「これ以上は死ぬしか、ないわよね。あなたがワタシのこと少しでも好意を持っていてくれるなら、お願い死んで、ね。すごく痛いの。毎日毎日母さんに何の抵抗もなく蹴られ続けて苦しいの。生きているのが辛いの」
ワタシに暗い笑みが浮かんだ。この暗い笑みが、私が浮かべているのか、ワタシが浮かべているのか私には分からない。
「だって、あなたはつまらない人間なんだから。あなたが死んでも誰も悲しまない。だって、あなたは独りぼっちなんだもの。気味が悪くて、生きている価値がなくて、うすのろで、頭が悪く、恩知らずで――」
「ああああぁぁ!」
私はそれ以上の言葉に耐えきれず、洗面台の鏡を思いっきり殴りつけた。
「――――、雛乃。――――てね」
――パリィンという、世界が崩れるような音がして鏡は砕けた。
最後の呪いの言葉は、残念ながら聞き取れなかった。
「痛い……」
砕けた鏡の破片。大きい物から小さい物まで手の平中に突き刺さり、切り裂かれてる。
私は手の平を呆然と見つめ、
「痛いよう」
そんな呟きを漏らした。
指の皮がべろんとめくれ、指先の肉は今にも落ちてしまいそうにぷらぷらと揺れている。手の平はあふれ出る血で真っ赤に染まる。川の流れのように勢いよくしたたり落ちる血によって、突き刺さった鏡の欠片のいくつかは押し流される。地面には赤い水たまりを作っていく。鏡の破片が血の池にぷかぷかと浮かんでる。大きな鏡の破片には私の顔が映ってる。
「痛いよう。痛いよう」
痛いなんてものじゃない。鏡が突き刺さっている手の平だけじゃなく、お腹も、頭も、マグマの胎動のように、ぐつぐつと煮えたぎったものが吹き出してきたようだ。このまま気が狂ってしまいそう。
ばたばたという音が聞こえてくる。雛乃、と私の名前を呼ぶ声が聞こえてくる。
全部が遠く聞こえる。
誰。誰が呼んでいるの?
差しのばされている手は誰の手?
「痛いよう痛いよう痛いよう痛いよう痛いよう…………」