一


 彼の話をしよう。
 彼と言っても、別に私とは彼氏彼女の関係じゃない。ただのクラスメイトだ。
 彼の名前は水瀬浩太くん。テニス部に入っており、背は男子の中では低い方。子供みたいに良く笑ってたのを覚えている。
 始まりは、たぶん、些細なことだったんだろう。夏服へと衣替えをしたばかりの時だったから、高校一年の六月頃だと思う。
 世界史の教師が黒板を書く手を止めて、説明を始めるのに合わせて、私はシャープペンシルを置いた。
 つまらないなと思い、ふと隣の席を見てみる。隣の席の水瀬くんはかりかりとシャープペンシルを走らせていた。端から見れば真面目に、板書を写しているように見える。けれども、彼は顔を上げず、黒板を一切見ずにノートへと書きつづっていた。あれでは、板書なんて写せない。
 一体、何を書いているんだろう?
 普通に考えれば、次に提出の宿題だろう。でも、この日は別に宿題なんて出ていない。
 いや、それよりも先生の視線が、水瀬くんに向けられているのに私は気づいた。彼が内職作業をしているのに、どうやら先生も気づいているらしかった。
 先生が見ているのを、水瀬くんに教えてあげたほうがいいんだろうか。けれども、先生が見ている手前、隣の席からじゃ教えられない。
 結局、授業の間は教えてあげることが出来ずに、チャイムが鳴る。私はほっと胸をなで下ろした。幸い、先生は睨むだけで、授業を中断してしかりつけるような真似はしなかった。
「あの、水瀬くん」
 授業が終わり、私は水瀬くんに声を掛けた。授業中と変わらずノートとにらめっこをしていた彼は、ん、と顔を上げてこちらを見る。
「あれ。何、坂下さん?」
 彼はちょっと驚いたのか目を丸くして、私を見る。
 同じクラスなのに、私から彼に話しかけたのは初めてだった。私から声をかけた人なんて、このクラスにはほとんどいないのだから、驚かれても仕方ないのかもしれない。
「あの、さっきの授業中。水瀬くんのこと、先生ずっと睨んでたよ」
「え、本当。僕寝てなかったのに?」
 水瀬くんは驚いた声をあげるので、私はついくすくすと笑ってしまった。
「ほら、先生が板書していないときも一生懸命ノートとってたから、内職しているって思われたんだと思う」
「あ、そっか。なるほど。そこは考えつかなかったなあ」
 納得したのか、水瀬くんはしきりに頷いている。
「あの、あんなに一生懸命何を書いていたの?」
「え?」
「ううん、何でもない」
 聞き返され、私は首を振ってそのまま俯いてしまう。
 いつもこうなってしまう。私は聞きたいことが聞けない。私にすれば、今水瀬くんに声を掛けたのだって、随分と勇気を振り絞ったくらいだ。別に、そこまで聞きたいことじゃないから構わない。本当は聞きたいくせに、そんな風に思い直す自分が嫌になる。
「あのさ。坂下さんって、どんな本読むの?」
 本を読む、ではなかった。どうやら水瀬くんにとっては、私のようにいつも黙って、端の方で座っているタイプのイメージは本好きなんだろう。そんなものかもしれない。これで、眼鏡でもかけていたら完璧なんだろうけど、私はこれでも目は良い方なのだ。教室で本なんて読んでないんだけどな、と内心で苦笑してしまう。
「どんなのって。普通に感動の話が好きだけど」
「そうなんだ。どんな話?」
 そう尋ねられると、少し考えてしまう。
 私はどんな物語が好きだったろうか。
 私は、誰でも知っているような有名な作品を二つあげる。正直な話、その二つ以外読んだ小説のことを覚えていなかったから、名前をあげただけだった。流行のものを言って内容を聞かれたらとても困る。
「ふーん。そっかあ」
 水瀬くんはふんふんと頷いている。質問の意図は分からなかったけど、どうやら彼は納得してくれたようで、それ以上特には何かを聞かれるようなことはなかった。
 別に私としては、このやりとり事態はそんなに意識してたわけじゃない。彼に言われなかったら、思い出しもしない程度のやりとりだったろう。
 それから少し時間が過ぎて、期末考査が終わった日だから七月七日だったと思う。
 ホームルームが終わり、クラスメイトが全員出て行くのを、私は地蔵のように身を固くして待っていた。帰るときに人と会うのが苦手だから、ついてしまった癖だ。教室に残って宿題をする人がいるときは、私も宿題をして時間をつぶしていた。
 この日は、テスト明けのせいもあってか、皆どこか浮かれた様子で帰っていく。
 誰もいなくなった教室で、私は目を閉じてぼんやりと座っていた。誰もない教室というのは何処か独特の雰囲気がある。戸締まりさえしてしまえば、部活中の生徒たちの掛け声なども聞こえてこない。吹奏楽部が演奏を始めるまで得られる僅かな時間だけど、時計の秒針の音さえ聞こえそうな静寂は居心地が良かった。
 トランペットか何か分からない、ぼうんぼうんといういつもの調整音が聞こえてきたので、私は鞄を手に教室を出た。
 靴箱につくと、その少し先に水瀬くんが立っているのが見えた。小石を蹴飛ばしたり、頭をかいたりして少し落ち着きがない様子だ。誰かを待っているのだろうか。
 私は、靴箱から靴を取り出して、その場で履かずに裏へと回る。クラスメイトと近くをすれ違ったとき、さよならと言わないといけないのが嫌だ。挨拶をして無視も変な反応もされたくはない。
 外に出るとむわっとした熱気に私は顔をしかめた。靴箱がなまじひんやりとしているから、その温度差に目が回る思いがした。水瀬くんに気づかないふりを装いそのまま校門へと向かう。
 すると、私のことに気がついたのか、水瀬くんは凄い勢いで走ってきて、
「坂下さん!」
「え?」
「偶然だね。今帰り?」
 さすがの私でも、こんな偶然ありえないことくらい分かる。
 どうやら、彼が待っていたのは私のようだった。
「私に、何か用?」
 私は身が強ばっていくのを感じながら尋ねた。
「あー、うん。その」
 水瀬くんは言いにくそうに、顔をそらして頬をかく。
「あのさ、坂下さん。今時間ある?」
「特に用はないけど」
 ひょっとして何か頼まれごとだろうか。高校に入ってから少ないけれど、私はこんな性格なので、頼まれごとをされるのはままあることだ。本当は面倒くさいし嫌だけど、頼まれごとをされると昔から断れない。
 嫌な汗がじっとりと流れる。
「じゃあ、その。小説を読んでくれないかな」
「え?」
「僕小説書いているんだ。それで、完成したんだけど、読んでくれる人がいなくってさ。読んでくれると、嬉しいんだけど」
 目をしばたいてしまう。
 水瀬くんのような人が小説を書いているというのは、意外と言っては失礼なのかもしれない。
 でも、それは別に今時珍しいことではない。ブログが発達し、パソコンや携帯電話から日記を書いている人も増えている。その延長で小説を書いているのも当たり前らしい。パソコンや携帯電話を持っていない私には無縁なんだけど。
「それは別に、いいんだけど」
「本当。ありがとう!」
 水瀬くんは私の両手をぎゅっと握りしめ、本当に嬉しそうに笑った。
 私は、どうして私に頼むのって聞こうとしたのに、顔が赤くなってしまいそれどころではなかった。これはきっと私じゃなくたって、言えなくなると思う。
 結局、帰り道のファミリーレストランで読むことになった。私としては、帰って一人で読みたかったのだけど、そのままの流れでそうなったからだ。
 どうして、人の言葉を断ることが出来ないのだろう。私には自分の意思がないのだろうか。
 ファミリーレストランにつくと、昼時の良い時間帯のせいか、客席は結構埋まっていた。私は思わず、クラスメイトがいないか探してしまう。どうやらいないようだった。水瀬君は首を傾げて、入り口で立ちつくしてしまう私を見る。
「どうしたの?」
「ううん。別に」
 私がほっとするのとは対照的に、水瀬くんはさっさと空いている席へと向かう。
 日替わりランチとドリンクバーを頼むと、水瀬くんは早速鞄から大学ノートを取り出した。どうやら彼の描いた物語は手書きらしい。
「はい」
 差し出されたノートを受け取って開いたのはいいのだけど、彼はじーっと食い入るように私を見る。
「あの」
「どうしたの、やっぱり面白くなかった?」
「いや、そうじゃなくって。その、そんなに見られると、ちょっと」
 読みづらい。
 そもそも、ノートを開いただけなんだからそんなはずない。ひょっとして、私が知らないだけで、ノートを開いただけで面白くないと分かる人が、世の中にはいるのだろうか?
「あ、ごめん。そうだよね。でも、面白くなかったら、いつでも読むの止めていいからね」
 彼はそう言って納得してくれた。けれども、私がノートを開き読み始めると、彼はすることがないのか、窓の外を見てみたり、空っぽになったコーヒーを口に運んだりと落ち着きがない。
 コーヒーを飲み過ぎたのか、ちょっとトイレにと彼が席を立つと、私は安堵の息を漏らしてしまった。
 人と一緒にいるだけで緊張してしまうのに、それが男の子なら尚更だ。緊張を通り越して、息苦しさまで感じてしまう。
 急いで読んだほうがいいなとは思うのだけど、なにぶん文章を読み慣れていないので、早く読もうとすると頭に入ってこない。国語のテストじゃないのだから、内容だけ掴めればいいのかもしれないけれど、それではあまりにも失礼だろう。
 それに、読んだ以上感想を言わないといけない。
 思っていた以上に、字が綺麗で驚いた。難しい漢字が手で書けるのが凄いと思う。
 我ながら、酷い感想だ。というよりも、そもそも内容にすら触れていないじゃないか。小学生の読書感想文だってこんなこと書きやしないだろう。
 結局とろとろと読んでいると、数ページしか読み進めていないのに日替わりランチが運ばれてきた。
 一度読むのを中断して、食事をすることにした。
 どうだった、と水瀬くんに聞かれるだろう。まさか、まだ三ページしか読んでいませんとは言いづらい。しかも、感想が字が丸っこくて可愛いだとかなら尚更だ。
 けれども水瀬くんは私のさっきの言葉を気にしてか、食事中も終始無言だった。
 私は、味が分からなくなるくらい緊張してる。どうして、引き受けちゃったんだろうなとすでに後悔を始めていた。
 結局一言も口をきかずに、食事を終えて、また読書に取りかかる。
 物語の内容は、幽霊の少年の話だった。ラブレターを書いて、それを幼なじみの少女へと手渡す前に、事故で死んでしまった少年。彼が触れることが出来るのは、最後に書いた手紙だけだった。だけど、その手紙を届けることも出来ずに町中を彷徨っていたところ、別の幽霊へと出会う。その女性は、ボールペンにのみ触れることが出来る幽霊だった。女性は言う。伝えたい言葉があれば付け加えてあげるよと。けれども、彼には伝えるべき言葉が見つからない。女性はいつまででも待っているよと優しい顔をして言ってくれた。
 彼は夜になると、近所の公園へと足を運んだ。公園のベンチには幼なじみが座っていた。彼はその隣に座る。彼女は彼へと呼びかけるような独り言を零した。彼は相づちをうち、言葉を返す。彼女もその言葉にぽつぽつと答える。また彼は返す。一見繋がっているように見える会話は少しずつずれていく。どれほど近くても、どれほど分かり合っていても、お互いの言葉はすでに届かない。はっきりとした形にしなければ届かないのだ。彼は手紙を届けることを決意する。手紙に書いて貰うのは、たった五つの文字。
 彼女が朝目を覚ますと、枕元にはしわくちゃになった手紙が一つ。それを読み、彼女はむせび泣く。
 私は物語を読み終えて、ノートを閉じた。なんて感想を言えばいいんだろう、と思いながら目の前に座る水瀬くんを見る。
「はい」
 ちょっと照れた感じで彼は言い、ハンカチを差し出していた。最初その行動の意味が分からず、そのハンカチをぼんやりと見てしまう。
 まさか。
 気づいた私は慌てて目元を拭った。自覚が全くなかったけれど、目元はしっかりと濡れていた。私は制服の袖で、擦りつけるようにして拭いさる。恥ずかしくって、顔を上げていられない。
「ありがとう」
 水瀬くんはハンカチを引っ込めて言う。感想どころでなくなってしまった私は、こくんと何度も頷くことしか出来なかった。
「あの、どうして私に作品を? 水瀬君なら読んでくれる人いっぱいいるよね」
 今の衝撃で言おうとしていた感想がうやむやになってしまった私は、俯いたままスカートの裾をぎゅっと握りしめて尋ねた。
「いや、小説書いているのは誰にも言ってないから」
 どうしてだろう。やっぱり恥ずかしかったりするんだろうか。
「だって、むかつくじゃんか」
「え」
「こっちは真面目に書いているのに、笑われたらさ」
 彼は唇を尖らせて言う。
「物語がつまらないって言われるのは我慢できるけど、僕が書いたからって理由だけで笑われるのはなー」
「どういうこと?」
「ほら、普通の小説ならさ。読んでいる時に、面白い面白くないとか意外に、小説を書いた人のことなんてそんなに考えたりしないでしょ。でも、僕のことを知っているやつが読んだら、嫌でも、作中の言葉で僕を連想してしまうよね。好きですとか愛しているとかそういうのを、うわ、あいつこんなこと真顔で書いてるよとか想像してしまうだろうしさー。まあ、僕も藤沢がアイラブユーアイニーヂューとか小説で書いてたら笑っちゃうだろし、仕方ないんだけど」
 水瀬くんはまくし立てるように早口で言った。
 だったら、どうして水瀬くんは私に読ませたんだろう。私は知り合いですらないということなんだろうか。
「でも、坂下さんはそんなことで馬鹿にする人じゃないと思ってたんだ。読んで貰えて、ほんとによかった」
 はっと顔を上げてしまう。水瀬くんは無邪気な顔でえへへって感じに笑ってた。
 思わず、ずるいって言いたかった。でも、言わなくて良かった。何がずるいのか自分でも分からなかった。
 ファミリーレストランを出て、彼と別れてから、私はあ、と声を上げてしまった。
 結局一言も、作品について言っていなかったことに今更気がついたからだ。
 私は慌てて、振り返るけれど、彼の自転車姿はすでに遠くなっている。
 別に明日学校で会うんだし、その時に言えばいっかと思い、そのまま帰宅した。
 次の日、教室に入ると、高倉望さんがお早うと声をかけてきた。私はぼそぼそとした声でお早うと返した。高倉さんは女子グループのリーダーっぽい感じだ。ショートボブに濃いめの眉は、体育会系らしいきりっとした雰囲気を与える。高倉さんのようにはきはきとした人は、男性でも女性でも苦手だ。
「そういえば、坂下さん、あいつの小説読んだんだって?」
 一瞬何のことか分からなかったけど、小説という言葉でぴんと来るものは一つだけしかない。
 だから、私はこくんと頷いた。
「そっかあ。へー」
 私が頷くと、高倉さんはにんまりと笑った。
「高倉さんは、水瀬くんの小説を読んだことあるの?」
 彼女は水瀬くんと近所に住んでいて、小学校以前の付き合いだって聞いている。高倉さんなら、水瀬くんが小説を書いているのを知っていても不思議ではない。
「まっさか! 無理無理。私が読んだら絶対笑っちゃうもん」
 高倉さんは舌を出して否定した。嫌みにならないその仕草が何となく羨ましい。
「良かったら、また読んであげてね。あいつ本当に喜んでいたからさ」
 そう言い、高倉さんは自分の席に戻って行った。
 一人になった私は、高倉さんの言葉を反芻する。
 本当かな。本当だったら、ちょっと嬉しい。そのせいか、自分の席に着いた私は時計の針と、教室の入口をちらちらと伺ってしまう。
 水瀬くんは、同じテニス部の秋月くんと藤沢くんと一緒に教室に入ってくる。教室の隅に座る私に声が聞こえるくらいの大きな声で、今日の部活どうするー、曽根崎これねーらしいぜ、とか話をしていた。別に私に話しかけてくることはなかった。
 授業が始まり、私はぼんやりと水瀬くんを見る。席替えをして前の方の席となった彼はシャープペンシルを動かしてた。背中越しでも、彼が何をしているのかわかる。きっと、小説を書いているんだろう。
 それを確認すると、私は胸を押さえ、無理やり授業に意識を戻した。

      

[ Back : Next : NovelTop ]