二


 そのまま、水瀬くんと何の話もしないまま夏休みを迎えた。
 私のように、友達もいなくて趣味もない帰宅部の夏休みというのは本当に暇だ。受験を終えたばかりの身としては、やらなくちゃいけないのは宿題くらいなもので、一歩も家から出ない日も珍しくはなかった。母からは苔がむしそうな生活ねって言われた。初めの頃は、外に出かけなさいとか色々言われたけれど、半ばを過ぎた頃には諦めたようだった。
 ベッドに寝ころんだまま、ぼんやりと天井を眺めたり、読み飽きた漫画を読み直したりして夏休みを過ごしていた。何でとろけそうなほど暑いのに、外へと出なくちゃいけないんだろう。アイスクリームのように溶けてしまえるのなら、外に出ても良いとは思うけど。
 灼けたアスファルトの上に、広がるアイスクリーム。どろりと溶けたアイスクリームに群がる蟻。その姿には何となく憧れる。
 私にだって、友達くらいいた。それもとびきり仲の良かった子が一人。かずちゃんとは小学校からの友達だ。中学校までずっとずっと同じクラスだった。
 彼女の方が私よりも成績は良かった。私は、一人ぼっちになるのが嫌だから、彼女と同じ高校に行きたかった。だから、自分の身の丈に合わないくらい勉強して、今の高校に合格した。合格確実だったはずの彼女は、受験に落ちて別の高校へと通っている。どうやら、私に成績で追いつかれていくのがもの凄いストレスになっていたらしい。勿論、そんな事実、直接聞けるはずがない。後になって母が彼女の母から聞いた話だ。彼女とは、合格発表の会場で別れて以来会っていない。そして、私は行きたい理由のなくなってしまった高校に一人通っている。
 とぅるるという電話の音で我にかえった。
 二回三回コールがなっても、誰も電話に出る気配がない。そういえば、今家にいるのは私だけだ。休みが長く続くと曜日感覚がなくなってしまう。
 私は慌てて、電話を取った。
「もしもし。あの、坂下さんのお宅でしょうか?」
「は、はい、そうですけど」
「あ、ひょっとして、坂下さん。僕僕、分かる?」
 電話口から聞こえる声はくぐもっていて、相手が若い男性ということくらいしか分からない。
「ごめんなさい。あの、どちら様でしょうか」
「水瀬なんだけど。同じクラスの」
「水瀬くん。どうしたの?」
「あの、さ。今日とか時間あったりしない? いや、明日でも明後日でもいいんだけどさ」
「別に、時間はあるけど」
 時間なら、母から苔がむすと言われるくらいには有り余っている。
「ほんと。じゃあさ。また、小説を読んでくれない。新しいのを書いたんだ。あ、嫌じゃなければでいいんだけど」
「うん。いいよ」
 私は自分でも驚くぐらい、自然と頷いてしまった。
 午後三時に、前小説を読んだファミリーレストランで約束してから、電話を切った。時計を見ると二時過ぎを示してる。髪を整えて、服を着替えて出れば丁度良いくらいの時間だ。
 私が約束の場所につくと、ファミリーレストランの入口の傍に水瀬くんは立っていた。小さいプリントが入っただけの白いティーシャツにジーンズとシンプルな格好だ。夏休みに入る前よりも日に焼けたのか肌が健康的に黒くなっている。家にばかりいて、夏だというのに一切焼けていない私とは対照的だ。水瀬くんは私を見ると、にぱっと笑った。
「良かった、坂下さん。来てくれたんだ」
「うん。水瀬くんこそ、部活はどうしたの?」
「テニスは基本的に午前中で終わりだからさ。夏だから、一日もたないんだよ」
 そんな会話をしながら、空調の効いた店内に入り端の席へとつく。
「面白くなかったら、途中で読むの止めていいから」
 水瀬くんは前と同じことを言い、小説の書かれたノートを手渡す。以前と同じように落ち着きのない様子だったけど、邪魔にならぬよう黙って待っていてくれた。
 それは、人の過去を喰らう化物が存在する世界の話だ。
 その化物は、ドレスを身にまとい、西洋のお人形さんのように可愛らしい少女の容姿をしていた。その、真紅の瞳が怪しく輝いているのが特徴的らしい。
「貴方の過去。値段(カチ)はいくら?」
 この言葉とともに、甘美な過去に誘われて化物は現れる。
 そして化物は語られた過去を文字通りに喰らい、その価値に見合ったほんの僅かな奇跡を残す。
 過去を忘れるわけじゃない。覚えている人も、残した物も何一つ残らない。今の自分はそのままに、その過去だけがぽっかりと無くなるということだ。
 周りは変わり、それでも自分は変わらない。それは、とても歪なことなのに、それでも人は願ってしまう。あの時、ああしていればと。大なり小なり、必ず一度は抱くことだろう。
 この物語の主人公の少年もそんな一人だった。
 大切な過去を忘れ、最愛の人とすれ違っても何も感じない。運命の人も、出会わなければ、きっかけがなければ、ただの他人に過ぎない。
 そうなるのが分かっていても、それを選んでしまった少年を思うと、胸の奥からこみ上げてくるものを感じた。
 相手が願っていたものを踏みにじっていたのを知らないことを思うと、自然と涙が溢れてくる。
「これって、実は有名な話をモデルにしたんだ。坂下さん知ってる?」
 私が泣き止むのを律儀に待ってくれてから、水瀬君はネタ晴らしをしてくれた。私は思い当たらなかったので、首を振った。
「そうなんだ。こういうのって女の子のほうが知ってそうなんだけどな」
 ごめんなさい、と私が謝ると、水瀬くんは慌てた様子で手を振った。
「いや、ぜんぜんいいんだけどさ。この過去を喰らう化物ってやつなんだけど、実際にいるって話をよく言われているんだよ。テレビとかで、よく特番に組まれたりしてたりするし」
「でも、本当に過去を喰らうんなら、会ったこと自体覚えているはずがないから、実際にいるかどうか確認出来ないんじゃ?」
 なんとも可愛らしさの欠片もないことを言う私に、水瀬くんはうんうんと真面目に頷いてくれる。
「僕もそう思う。でも、実際に会えたのがわかるはずがないのに、忘れ去られないってことが大切なんだと思う。それだけ多くの人がいるように望んでるってことだし」
 水瀬くんはそう言うと、ブラックなコーヒーを口に運び、苦、と顔をしかめた。どうやら、水瀬くんはあまりコーヒーが得意じゃないみたいだ。でも、前に小説を読んだときも、確かコーヒーのブラックを飲んでいたような気がするのだけど。
 私が不思議そうに見ているのに気がつくと、水瀬くんが教えてくれる。
「小説を書く人は、コーヒーをブラックで飲まないといけないんだよ」
「そうなんだ。大変だね」
「うん」
 小説を書くのは大変だなと思いつつ、私はミルクをたっぷりと入れた紅茶を口にした。風味はほとんどないけれど、まろやかなミルクの味わいが口の中に広がる。
「坂下さんはさ。もしも、こんな化物がいたら、どんな過去を食べてもらう?」
「私は」
 何気ない口調で尋ねられ、私は詰まってしまう。
 もしも、過去をなくせるのなら、私はどの過去をなくしたいだろう。
 一番に思い浮かぶのは、やっぱり高校とかずちゃんのことだ。もしも、私が今の高校を目指さなければ、かずちゃんは私の高校に通っていたのだろうか。そして、私は元の志望校に通っていたのだろうか。
 しかし、過去を喰らわれた人は、過去を失うだけで、今の自分はそのままらしい。それなら、私は目指してもいないのに、今の高校に通っているということなんだろう。自分自身でも理由が分からないのに、行く予定にもなかった高校に通っているなんてとても気味の悪い話だと思う。そのうえ、もしもかずちゃんが受験に失敗していて、別の高校に通っていたなら。
 だけど、かずちゃんと一緒の高校に通えるのなら、それほど嬉しいことはない。
「私、は」
 でも、それだけじゃない。
 高校に入ってからのこと、それ以前のこと。後悔していないことなんか、私には何一つとしてない。
 いつも、いつも思ってる。あの時、ああしていれば良かったって。何でしなかったんだって、心の中でいつも感じてる。
「私は全部、全部なくして欲しい」
 赤ん坊が生まれたときに泣くのは、この世に生まれてきたことに対する抗議らしい。そんな思いにも似た感情が、搾り出させるように今の言葉を言わせた。
 本当は凄く友達が欲しい。みんなと一緒に話したいし、遊びにも行きたい。かずちゃんとだって仲直りしたい。
 そう思うのなら、言えばいい。
 自分で何一つ行動していないくせに、何かを望むのなんて間違っている。そんなの分かってる。分かってるけど、どうしても言えない。
 前に、満員電車の中で椅子に座っていたときのことだ。私の目の前にきつそうな顔をして、つり革を掴んでいる高齢者の方がいた。私は何とか勇気を出して、席を譲りますと、その人に言ってみた。
「結構です」
 その結果、怒った顔をして私は睨みつけられた。
 席を立つことも出来なかった私は、そのまま俯くしかなかった。隣に座っていた子の、いい子ぶっちゃって、とくすくす笑っていた声が、今でも耳から離れない。
 そんな風に、良いことをしようとしても怒られるのだ。
 だから、凄く怖い。炎を本能で恐れる獣のように、ただ、どうしようもなく怖い。私にはどうして、他の人が怖くないのか分からない。
 そして、嫌いなのは臆病な自分だけじゃない。
 自分が悪いのを分かっているにも関わらず、どうして、誰も私の友達になってくれる人がいないのと思ってしまう自分がいること。
 私に話しかけて欲しい。遊びに誘って欲しい。
 何で私に話しかけてくれないの。どうして私を遊びに誘ってくれないの。
 そんな風に周りのせいとしか考えられない、私が一番大嫌いだ。
 いつもと同じように、人の視線から逃れるために私は俯く。ゆらゆら揺れる紅茶の水面に、私の顔が映ってる。その顔は、また泣き出してしまいそうなほどゆがんでる。
「坂下さん」
「ごめんなさい、その」
 戸惑った顔をする水瀬くんから、逃げるように私は席を立った。
 何で、あんなこと言ってしまったんだろう。どうして、逃げ出してしまうんだろう。
 何で、どうして。私はその言葉しか知らないのだろうか。誰も、あんな質問に真面目な答えなんて望んでいやしないのくらい、私だって分かってるのに。
 私はそのまま家へと逃げ帰り、服が皺になるのもかまわず布団に突っ伏した。何かに顔を押し付けておかないと、また変なことを口走ってしまいそうな気がしてしまう。スポーツはトレーニングを怠るとすぐに鈍ってしまうらしいけど、まさか、喋るのも怠っていると下手になるなんて思いもしなかった。自分が口にする言葉全て間違っている気がした。
 夏休み明けに、私はどんな顔をして水瀬くんに会えばいいのだろう。水瀬くんにどんな顔で見られるのだろう。
 今から、夏休み明けに水瀬くんに会うのがとても憂鬱になってしまう。
 そんなことがあったせいで、夏休みの残りは、前半以上に何もせずに過ごした。けれども、時間が出来るだけ遅く過ぎるようにしたところで、時間の歩みは決して止まらない。
 始業式の日を迎え、私は母に体調が悪いって言ってみたけど、はいはいと軽くあしらわれてしまう。休みぼけも大概にしなさい。小学生じゃないんだからと呆れた顔して言われながらも、念のために体温計で熱を測ってみる。ぐっと脇に力を込めてみるが、体温計はいたって平熱を示し落胆した。
 夏休みが終わったばかりの学校は、何処となく活力が足りない。長期の休みの終わりにプラスして、九月の初めなんていう、真夏と大差ない暑さも輪にかけているようだ。塾や予備校のクーラーに慣れきってしまった人たちには、さぞかし堪えるだろう。
 教室に入ると、すでに水瀬くんは登校しており、秋月くんの机に座って話をしてる。水瀬くんと目が合うと、私は心臓に杭を打たれたようにどきりとしてしまった。蛇に睨まれた蛙のように、私は教室のドアを開けたままの姿勢で硬直してしまう。
「どしたの、浩太?」
「あ、いや。別に」
 秋月くんに尋ねられ、水瀬くんがそちらの方に向き直す。水瀬くんの視線が外れると、金縛りが解けたように身体が軽くなるのを感じた。私はその隙をついて、こそこそと自分の席に向かう。高倉さんのおはよという挨拶に軽く返して、席に着いた。
 始業式とホームルームは十一時過ぎに終わり、今日はそのまま終了だ。新学期になっても、私はいつもと変わらず地蔵のように固まって、みんなが帰宅するのを待った。ただ、今日はとても暑かったからか、座って待っていると頭の中がぼんやりとしてきた。昨夜も緊張のせいであまり眠れなかったため、目を閉じるとそのまま眠ってしまった。
 息苦しさを感じて目を覚ますと、すでに日が翳り始めてた。さすがに驚き、教室の時計を見てみると六時近くを示してる。我ながら良く眠ったものだと嘆息してしまう。
 押さえすぎて赤くなっているであろう額をさすりながら、鞄を片手に教室を出た。廊下の先からは、吹奏楽部の演奏している音楽が聞こえてる。そのせいで、お腹が減ってきたため、足早に靴箱へと向かった。
 靴箱につくと、私はぎょっとしてしまう。靴箱を背に、座り込んでいた男子がいたからだ。
「水瀬くん」
 私は思わず、その座り込んでいる男子の名前を呼んでしまった。
「ん、あ。坂下さん。おはよー」
 水瀬くんはまぶたをこすりながら、ゆっくりと顔を上げる。
「こんなところで、何をやってるの?」
「うん。坂下さんを待っていたんだ」
「どうして?」
「小説、書き終わったから。読んで欲しくって」
「何で、私に?」
「坂下さんに、読んで欲しいから」
 水瀬くんはそれじゃダメっていう風に、可愛らしく首をかしげた。
 少しだけ間をおいて、私はうんと頷いた。

      

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