三


 それから、水瀬君くん私に一つの小説を書き終えるたび読ませてくれた。
 人の記憶から忘れられ続ける呪いをかけられた少年の話。恋人の命の半分を使い、彼が生きている時間とは永遠に違えてしまった少女の話。
 それらの物語を読むたびに、私は泣いてしまった。
 でも、私たちはクラスで話をしたりしない。冬に入り、雪が散り始めても、私と水瀬くんは物語を読むだけの関係に変わりなかった。彼が、小説を出すとき、面白くなかったら、いつでも読むの止めていいからね、というのも変わらない。
 それでも、いつものファミリーレストランで小説を読み終わったとき、ほんの少しだけ話をした。お互いの誕生日とか、そんな本当にたわいもない話。主に、水瀬くんが喋っていて、私は相槌をうっていただけだけど。
 今まで、書いた小説ってどうしてるのと尋ねると、インターネット上で発表しているんだと教えてくれた。どうやら、水瀬くんは小説のサイトを持っているらしい。私はなんていう名前のサイトなのと聞いてみると、水瀬くんはブラックのコーヒーを飲みながら沈黙してしまう。
 私は仕方なく外を見る。雪の降り始めた天気の中、通りを行く人たちは背を丸めて、足早に過ぎ去っていく。風がないため、雪はしんしんと静かに降っている。店内は暖房が効きすぎているので、アイスティーにしていたのだが、何だか急に寒くなった気がしてしまう。
「だって、恥ずかしいじゃんか」
 ようやく、水瀬くんは口を開いた。
「何が、恥ずかしいの?」
 今だって、私に書いた小説を読ませているのに。
「いや、そのサイトには日記とかも書いてるからさ」
「でも、インターネット上に載せてるのって、読んで欲しいってことじゃないの?」
 私らしくなく、しつこく尋ねてみるけど、水瀬くんは頑なに教えてくれなかった。
「だって、日記って、小説と違って本当にただの僕の思ったことじゃん。そんなの見せるのは恥ずかしいし。そんなことよりもさ。坂下さんって、携帯持ってないの?」
 水瀬くんは話を逸らすように尋ねてくる。
「うん。携帯は親が駄目って言うから」
 水瀬くんは何でだか、感心するようにへーって言う。
「そうなんだ。買う予定とかないの?」
「今のところは」
 本当のところ、母は携帯電話を買ってくれると言っている。でも、私は携帯電話なんて欲しくない。
 だって、分かりきっているから。鳴るはずがないのに、何か着信はないかと期待してしまう自分がいるのに。携帯電話を忘れ、急いで家に帰って確認してみるけれど、何の着信も入っていない。変わらぬ待ち受け画面がそこに待っている。そんな、何でもないことに酷く傷ついてしまう自分が、如実に想像出来てしまう。
 だから、私は携帯電話なんて欲しくない。
「じゃあさ、もしも買ったら番号教えてね」
「うん」
 それなのに、そんな言葉一つで、携帯電話が欲しいと思ってしまっている自分がいた。
 家に帰り、コートをハンガーにかけながら、台所で料理中の母に携帯電話が欲しいとお願いしてみる。
「あら、どうしたの、急に」
「別に、理由なんてないけど。今時みんな持ってるから」
「ひょっとして、小鳥にも友達が出来たのかしら?」
 まるで小学生に対しての物言いだ。でも、私の場合何も間違っていないのだから、全然笑えない。
 言われて、考えてみる。水瀬くんは友達なんだろうか。友達に厳密な定義なんてないとは思うけど、友達というのとは少し違うと思う。友達っていうのは小説を読むだけじゃなくて、普通に話したり、遊んだりともう少し気安い関係だろう。
 だから、私はううん、そんなんじゃないと首を横に振った。
「じゃあ、どうして欲しくなったの?」
 母は料理をする手を止めてから、こちらを見る。
「別に」
「なに、好きな子でも出来たの?」
「そ、そんなんじゃないよ!」
 私は思わず声を荒げてしまった。母は目を丸くして私を見る。私はもう一度、そんなんじゃないと自分に言い聞かせるように言った。母は、仕方のない子ねってため息をついた。
 母がそんなことを言うから、次の日から、私の視線は水瀬くんの姿を追ってしまう。
 クラスメイトの男子と大騒ぎをしている姿。高倉さんに、男子うるさいと怒られ、しゅんと小さくなっている姿。そして、授業中でもかまわずに、小説を書いている姿。不真面目な態度のはずなのに、他の何よりも真剣な瞳を。
 教室の隅で、水瀬くんを見ていると、胸の奥がずきんと鈍くうずいた。心が叫びをあげている。どうして、クラスでも私に声を掛けてくれないのって思ってる。
 何て分かりやすいんだろうと自分でも思う。そして、何て単純なんだろうと思った。餌をあげただけで、懐いてくれる子犬よりも単純だ。
 私は、水瀬くんが好き。
 そのことを自覚すると、私は声を上げて泣きたくなった。意識してしまうと、今まで曖昧だったものが、しっかりと輪郭を持った痛みへと変わった。
 はじめ、この痛みは自信のなさの現れなんだと思ってた。私なんかが、上手くいくはずがない。私には魅力的なところも可愛らしいところも何一つない。容姿だけじゃなく、心の中も煤みたいに汚れてて、真っ黒なへどろのように粘着質だ。私には、何一つとして良いところのない。そういう風にしか自分を思えないのが、何よりの証拠だ。そんな私を、一体誰が好きになると言うんだろう。
 だから、私は強く思うようにした。私には友達がいなくて、水瀬くんとは唯一少しだけでも話せるから好きだと思ってしまったのだと。支柱に寄りかかる柱のように、こんな感情はただの依存で、好きだと勘違いしてしまっているだけなんだ。
 けれど、諦めようと強く思うほど、胸が更に痛んだ。気持ち悪くて、吐きそうになってしまった。いつまでたっても、痛みは収まりそうになかった。まるで、諦めたくないと必死で抗議しているようだった。
 そんな中でも私の視線は、自然と水瀬くんを追ってしまう。たまに目が合うと、水瀬くんは子供っぽく笑ってくれた。
 教室で一人きりになると、両手で顔を押さえて泣いてしまった。諦めるなんて出来ない。諦めたくない。
 でも、私はその想いを伝える術を何一つとして知らない。かずちゃんのときに、大事なものを取り零してしまっても追いかけなかった代償だった。
 私に出来ることは何があるだろう。私には物語を作れないけれど、水瀬くんの書いた小説を読める。なら、水瀬くんの書いた小説を読むだけじゃなくて、ちゃんとした感想を言えるようになりたい。そうすれば、私でも胸を張って話すことが出来るかもしれない。私はいつしかそう思うようになっていた。
 そんなの、何の意味もないことかもしれない。自己がなく依存しているだけなのかもしれない。でも、何もせずに逃げ出すのはしたくなかった。
 私は彼の本以外の読書を始めた。放課後、教室に無意味と残らず図書館へと行き、名著と呼ばれているものを読んでみた。司書の先生に聞き、国語の教科書に載っているような小難しいものじゃなく、最近人気のあったり、映画化されたような面白い作品を教えてもらった。春休みになっても、学校の図書館に通っていた。
 読書の好きな人が図書館を好きな理由が分かる。ただ静かな場所ってだけじゃない。映画館や遊園地といったように、場所自体に特有の雰囲気が形成されていた。そのため、足繁に通っても何の苦にもならない。無人の教室なんかよりも、ずっと居心地が良かった。
 でも、私はどれだけ面白い作品を読んでも泣けはしなかった。プロの作家、その中でも上手い人が書いているのだ。アマチュアの彼とは文章や構成の技術、知識の深さなど比べ物にならない。特に、実際には口にすることのない難しい言葉を、川の流れのようにするすると読み進めさせる表現など、水瀬くんにはまるで出来ないだろう。
 それなのに、どうして泣けないんだろう。文句なしに、面白いと思うのに。心の内側で響く言葉には感動するのに。
 思い当たる理由は一つしかなかった。
 色々な物語を読んでいくうえで、読書という行為に私は慣れてしまったのだ。
 そう結論付けたとき、恐ろしくなって、読んでいた本を閉じてしまった。
 もしも、次に水瀬くんの作品を読んだとき、私は泣けるだろうか。泣けないかもしれない。いや、多分泣けないだろう。
 幼い頃に、よく晴れた空を見上げると、目を細めて、なんて綺麗なんだろうと感じていた。両手いっぱい広げても、収まりきらない大きさに、透明に近い鮮やかな青色。飲み込まれてしまいそうな気さえした。
 今では、そんな風に決して思わない。そこにあるのが当たり前の、よく晴れた空を見たところで、今更心が揺り動かされたりはしない。ただ、晴れてるなとしか思わなくなっている。そういうことだ。
 もしも、水瀬くんの作品を読んで泣けなかったら、どうなるんだろう。彼は、もう私に小説を読ませなくなるかもしれない。いや、多分そうなるだろう。
 そうしたら、私は。
 私は本を棚へと戻し、図書館の窓から外を見る。ここからじゃ、テニス部のコートは見えないけれど、水瀬くんは部活の最中だろう。代わりに、桜の花びらがひらひらと舞っている姿が目に入る。桜がどうしてあんなに美しく見えるのか。命短く散る花だから、とつい最近読んだ本に書いていたのを思い出す。
「あ、やっぱりいたんだ」
 背後からの言葉に、私はどきりとしてしまう。振り向かなくたって分かる。前に電話がかかって来たとき、名前を聞かなければ分からなかったのが、随分と昔のように思えてしまう。
「水瀬くん」
 水瀬くんが私に声を掛ける理由なんて、一つきりだ。私は水瀬くんに背を向けたまま、息を呑む。水瀬くんが次の言葉を発するまでの、ほんの僅かな時間がとても長く感じる。どくん、と鼓動の音だけが早まっていく。
「その、坂下さん。あの、小説書き終わったんだけど、今日時間とかある?」
「ごめんなさい。今日は、ちょっと、その用事があって」
 やっぱり、と思う前に、私は断りの言葉を告げていた。
「そ、そうなんだ」
「本当に、ごめんなさい」
「いや、別にいいよ。そんな謝らないでよ」
 慌てた様子の水瀬くんに、頭を下げたまま、私はもう一度ごめんなさいと謝った。
 図書館で水瀬くんと別れ、家へと帰っているとき、頭の中が罪悪感と後悔でいっぱいだった。あんなに、逃げたくないと思っていたのに、また逃げてしまった。私が欲しかったのは、こんな断る勇気なんかじゃ決してないのに、水瀬くんの作品を読むのがたまらなく怖かった。勇気がまるで出なかった。簡単に人は変われないという事実が、私を打ちのめす。散っていく桜のように、私自身も消えてしまいたい。
 家に帰ると、母から携帯電話を差し出された。私はきょとんとした顔で受け取る。
「ほら、だって小鳥。前に携帯欲しいって言ってたでしょ」
 母の言葉で、そういえば前にお願いしたのを思い出す。
「今日はあなたの誕生日じゃない」
 そっか、なんてぼんやり呟くだけの私に、ちゃんとケーキも用意してるわよって、母は呆れたように言う。
「もー、高かったんだから、もう少し喜びなさいよ。それにしても、今時の携帯電話ってあんなに高いのねー、私知らなかったわ。新規なら安いって栗滝さん言ってたのにねえ。やっぱりメーカーによって違うのかしら」
「ありがとう」
 私は頷きながら、貰った携帯電話を見てみる。携帯電話はピンク色の卵みたいな形をしている。私の小さめな手にすっぽりと収まるくらいの大きさだ。
 突然、じりりりんと電話が鳴り、私はびっくりした。携帯電話が鳴ったのかと思ったけど、家の電話だった。母が慌てて電話に出る。
「はい。坂下ですが、はい、おります、はい。少々、お待ちください」
 母は、受話器の口を押さえて、私を見る。
 ひょっとして、水瀬くん?
「小鳥、高倉さんから電話よ」
「高倉さん?」
 意外な人物からの電話に首を傾げながら、母から受話器を受け取る。
「もしもし、坂下ですが」
「あ、坂下さん。わたし、高倉なんだけど」
「はい」
「あのね、その」
 いつもはきはきと話す高倉さんにしては、珍しく言い淀む。どうやら、良くない知らせであるのだけは確かなようで、私は受話器を握る手に力を込めて身構える。
「え?」
 それなのに、私には高倉さんが今何を言ったのか、理解出来なかった。もう一度、高倉さんは言葉を繰り返す。
 水瀬くんが交通事故に遭った。頭を強く打ち、意識不明の重体のようだ。現在、如月緊急病院で手術中らしい。
 高倉さんが話している間、私は、うん、うんと相槌をうっていただけだった。
 私は電話を切ると、いてもたってもいられず家を飛び出した。母が、何か言っていた気がするけど、全く聞いていない。私が行っても何も出来ないとか何も考えられなかった。
 如月緊急病院につくと、受付のロビーに座る高倉さんの姿を見つけた。高倉さんは私の姿を認めると、力のない笑みを浮かべる。
「坂下さん」
「高倉さん。その、水瀬くんは?」
「まだ、手術中」
「そう、だよね」
 家族でもないのに勢いで来てしまっただけの私は、どうすれば良いのか分からず、その場に立ち尽くしてしまう。
「座る?」
 そんな私に、高倉さんが助け舟を出してくれる。私はその言葉に従い、彼女の隣に座った。
「なんか、話によるとさ。この事故、浩太が赤信号のところを飛び出しちゃったみたい」
「え?」
「いや、別に自殺とかそんなんじゃないんだけどさ。何だか、ぼうっとしてたみたい。浩太、連日徹夜で小説書いてたみたいだから、それが理由かも」
 私は制服の胸元を強く握る。さっき図書館で水瀬くんと会ったのに、全然気づかなかった。
 ううん、気づくはずがない。だって、私は水瀬くんを見るのが怖くて、あの時は一度も顔を見ていないんだから。
「どうして、そんな無理して?」
 私の呟きに、高倉さんはぐっと下唇を強く噛んだ。どきりとする。ひょっとして、私はまた何か怒らせるようなことを口にしたのか。
「今日は、坂下さんの誕生日でしょ。だから、浩太は今日までに小説を書き終えたかったんじゃない」
 病院の中というのを考慮してか、声を荒げたりしなかったものの、高倉さんは私を鋭く睨みつけながら言った。
 それだけで、私の身体は竦んでしまう。相手の怒りが正しいとか間違っているとかそんなの全然関係なく、怒りというものがただ恐ろしい。
 しかし、高倉さんははっとしたように目を開いた。
「その、本当なら信号無視した、馬鹿浩太を責めなくちゃならないのにさ。私ったら、何坂下さん責めてるんだろ。まじで最悪」
 高倉さんは頭をがしがしと乱暴かきながら、ごめんって謝る。
 私はおそるおそる高倉さんの横顔を伺うと、下唇を強く噛んだまま、本当に辛そうな顔をしていた。そんなの当たり前だ。高倉さんは私なんかよりもずっと水瀬くんと仲がいいんだ。高倉さんは私よりも、ずっとずっと水瀬くんを心配してるだろう。
「ううん、別に」
 それなのに、私はそんな言葉しか言えない。励ましの言葉とか、慰めの言葉とか色々思い浮かぶけど、結局口には出来ない。
 お互い俯いて、それきり口を閉ざしてしまう。
 ロビーに満ちているざわざわとした喧騒や、揺らめく景色が何処か遠くに感じる。その癖視界には、時計の針などの細かいものだけが明瞭に映るのだから、不思議なものだった。時間が遅くなったり止まったりと、まっすぐに進んでいる気がしなくなる。おかげで、今いる場所も何だか現実感が薄いくなってしまい、まるで雲の上にでも座っているようだ。
 視界のやり場に困り、ロビーに備え付けになっているテレビに自然と止まる。
 テレビはドラマをやっていた。院内ということもあってか、音量は小さく何を喋っているのか聞こえない。
 画面では、女の人が雨の降る夜の公園で一人泣いている。そして、その背後に、ドレスを身にまとい、お人形さんのように可愛らしい少女が立っていた。
 何となく、既視感を覚える姿だった。それは、一体何だったろう。
 場面がゆらりと動き、少女の顔がアップに映る。
 少女の紅い瞳と目が合ったような気がして、ぞくりと鳥肌がたった。
 少女はくすりと笑い、ゆっくりと唇を動かす。
「坂下さん」
 高倉さんがぽつりと尋ねてくれたおかげで、私は我にかえった。
「う、うん」
「どうしたの?」
「あ、今のドラマ」
 私が言うと、高倉さんもテレビを見る。
「ああ、『How much is your past?』だね。懐かしいな」
「え」
「坂下さん、知らない? ほら、辛い過去を食べるお話だよ。有名じゃない」
 高倉さんの言葉でようやく、思い出す。そうだ。水瀬くんの小説にもあったお話だ。
 私はもう一度テレビに目を向けたら、すでに場面が変わっていて、すでにあの少女の姿はなかった。
「坂下さん、制服姿だね。今日、学校行ってたの?」
「うん。私、図書館に行ってたから」
「ふうん、そうなんだ。浩太の言ってた通りだね。あいつも今日、図書館に行くって言ってたけど、会った?」
「うん」
「じゃあさ。浩太の書いた、小説は読んだ?」
 ここで、読んでいないって言ったら、高倉さんにどういう反応をされるだろう。どうして、読まなかったのって責められるに違いない。怖い。嫌だ。責められたくない。わざわざ焼けた石に触れるような真似はしたくない。
 だから、読んだって言わなくちゃいけない。高倉さんは水瀬くんの小説を読んだことはないって言っていた。もし、内容を聞かれても一つ前に読んだものを答えればいい。絶対にばれたりしないはずだ。
「ううん。読んでない」
 なのに、私は首を横に振っていた。
「どうして? ひょっとして、浩太、小説読んでって言わなかったとか」
「ううん」
「じゃあ、何で?」
 高倉さんは怒るでもない、真摯な視線を私に向ける。
「私は」
 続きの言葉が出てこずに、喉元で詰まってしまう。
 何で、どうして。私がいつも思っている言葉にも関わらず、答えが上手く出てこない。
「私は、水瀬くんの書く、小説が好きなんだけど、あ、読むのがで、それで、もしも、次読んだとき面白いって言えなかったらって思って、そうじゃなくって、泣けなかったらって、それで、水瀬くんがもう小説を読ませてくれなくなるんじゃないかって思って、そうなるのがとても怖くて、どうしても読むって言えなくて、だって私なんて」
 頭の中で全然まとまらず、しどろもどろになってしまい、何を言っているのか良く分からなくなる。私自身、何が言いたいのか分からない。出口のない迷路を走っているみたいになってしまう。恥ずかしくて、頬が熱い。
「そーなんだ」
 けれども、高倉さんは笑った。あははって声を上げて笑うので、ロビーにいた人や受付の人みんなが高倉さんを見る。
 私もびっくりして、高倉さんを見てしまうけど、高倉さんは気にした様子はなさそうだった。
「坂下さんって、偉いんだね」
 そして、突然そんなことを言う。
「え?」
「私は思ったことすぐ口に出しちゃうからさ。坂下さんみたく、相手のことをそこまで真剣に考えれないよ」
 高倉さんは、うーんと伸びをしながら言う。
 相手のことを真剣に考えている。そういう風に、言われたのは初めてだった。
「ちょっと、そんなにまじまじと見ないでよ。照れるじゃない」
「あ、その、ごめんなさい」
「冗談よ、冗談。もう、坂下さんったら可愛いわね」
 反射的に謝ってしまう私に、高倉さんはばしばしと私の肩を叩く。勢いが強くて、私は少しむせてしまった。
「でも、私なんて」
 別に、相手のことを考えているわけじゃない。
 悪口を言われたくないから。責められたくないから。笑われたくないから。馬鹿にされたくないから。
 ただ単に、私は自分が傷つきたくないだけだから。
 だって、私なんて。
「坂下さんってさー。自分自身のこと、嫌いなわけ?」
 心を見透かしたような高倉さんの言葉は、ずぶりとナイフのように深いところへ突き刺さった。
「どうして?」
 尋ねる言葉は自然と震えてしまう。
「だってさっきから、『私なんて』ってよく言ってるよ」
「だって、私な」
 言われた傍から言ってしまいそうになり、口元を慌てて押さえると、ほらって高倉さんは笑った。
「ごめんごめん。別に責めてるわけじゃないんだけどさ。でも、私は坂下さんのこと良く知らないんだけど、そういうのってあんまり良くないと思うよ」
 高倉さんは自分で言うように、思ったことをずばずばと言ってくる。その高倉さんに、私は腹が立ってきた。私を何にも知らない癖に、どうしてそんなことが言えるの。
「だって、私なんて」
 結局、私はこの言葉しか言えない。本当に私は嫌な子だ。
 今みたいな言葉、聞いている方からすれば、気分を悪くするのは分かりきっているのに。
 じゃあ、どうすればいいんだろう。分からずに、私はまた自分を責める。思考がまるで進まずに繰り返し続ける。螺旋のようにくるくると回りながら下へ落ちていく。結局、私は何も変わらない。変われない。どこをどう思っても、どんな風に考えても、掃除中の汚れのように嫌な部分だけが目に止まり、自分の良いところ一つ見つけられない。
 高倉さんは肩をすくめて、椅子に立てかけていた横においてあった鞄から、一冊のノートを取り出して、私に差し出した。
 何の変哲もない大学ノート。だけど、ぴんとくるものがある。
「これは」
「私、初めてあいつの書いた小説読んだんだけどさ、やっぱ恥ずかしくってまともに読めなかったわ。もう、読んでると背中痒くって痒くって」
 そのノートに意識が行過ぎていたせいで、高倉さんの言葉が耳にまるで入ってこなかった。
 すると、高倉さんはくすりと笑い、
「これ、読みたい?」
 と、尋ねてくる。
 私はためらいがちにだけど、頷いた。
「あら。でも、坂下さん。浩太の書いた小説、読むのが怖いんでしょ。泣けないかもしれないのが嫌なんでしょ。だったら、読まないほうがいいんじゃない?」
「読みたい」
「坂下さん?」
「水瀬くんが書いた小説を読みたい。お願い、読ませて」
 挑みかかるように高倉さんを見つめて、私はお願いする。
 初めから冗談で言っていたのだろう。高倉さんは、はい、と優しくノートを差し出してくれる。私は受け取ると、手放したくなくて胸に抱え込むように、ぎゅっと強く握り締めた。
「浩太の手術まだ終わりそうにないし、もう遅いから、坂下さんは帰ったほうが良いわね」
 高倉さんは外を見ながら言う。すでに病院の受付には私たちしか残っておらず、日はすっかりと落ちている。
「それなら、高倉さんだって」
「私は浩太のおばさんたちと帰るからさ。ね」
「でも」
 駄々をこねる子供のように抗議する私を、あやすように諭される。
「終わったら、連絡するからさ。ごめんね、いきなり呼び出したりしちゃって」
「ううん。それは全然構わないよ」
 本当は帰りたくはないけれど、これ以上ここにいても迷惑をかけるだけだろう。私はしぶしぶと頷く。
「そうだ、坂下さんって携帯持ってないの? 持ってたら、番号とアドレス教えて」
「私は」
 持っていないと言う前に、今日買ってもらったばかりなのを思い出す。ポケットから携帯電話を取り出しみるけど、初めて触れるものだから、一体何処を押せばいいのかすら分からない。えーと、えーとと慌てる姿を見られて、高倉さんに笑われてしまう。結局、電話帳の登録は、赤外線通信とかよく分からなかったので高倉さんに全部してもらった。高倉さんが、私の番号が一番で悪いわねって笑いながら言ってた。
「あ、そうだ。坂下さん」
 席を立ったところで、高倉さんに呼び止められる。
「坂下さんってさ、浩太の小説サイトの名前知らないでしょ?」
「うん」
「月花流水で、検索してみて。一番最初に見つかるらしいから」
「げっか、りゅうすい?」
 どういう字を書くのか分からずに、聞き返してしまう。
「月の花に流れる水だって。何でそんな名前かは知らないけどね。大方格好良いと思ってんじゃない」
 月花流水。どういう意味かは分からないけど、音の響きが綺麗な名前だと思う。
「ありがとう」
「あの馬鹿、坂下さんには必死で隠してたみたいだからね。私たちをこんな心配させた罰よ、罰」
 お礼を言うと、高倉さんは大きくため息をついた。
 家に帰る途中、私は空を見上げて、何となく月の姿を探してみた。けれども、街灯の明かりに照らされた空は厚い雲がかかっており、月は見つからない。ぽつぽつと頬に水滴が落ちてくる。そのまま雨足は勢いをつけて強くなる。私はぼんやりと立ち尽くして、月を探した。いくら探しても、雨に打たれて散っていく桜しか見えなかった。
 そして、今更のように手に持っている物を思い出す。
 小説が書かれたノートは雨に濡れて、よれよれになっているのを見て、私は心臓が止まりそうな思いがした。
 私は雨から庇うように、両手でノートを抱きしめて、急いで家へと帰った。
 家に帰りつくと、母はびしょ濡れの私に驚き、ぱたぱたとタオルを持ってくる。私はよほど酷い顔色をしてたんだろう。母から、大丈夫なのともの凄く心配されてしまう。けれども、私はうんと頷くことしか出来なかった。
「一体、どうしたの?」
 水瀬君の交通事故について話すと、母も顔を青くした。
 私は服だけ着替えて、夕ご飯も食べずに自分の部屋に戻る。
 雨に濡れてよれよれになってしまった小説のノートを、そっと破れないように開いた。幸い、ノートの中身はシャープペンシルで書かれていたおかげで、滲んで読めなくなっていたりはしない。私はほっとして、思わず泣きそうになってしまった。

      

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