四


 彼女と初めて会ったのは、高校に入学して、同じクラスだったときだった。
 最初に彼女を見たときの印象は何もなかった。しいて言うなら、女子の中では背が少し小さい、大人しめの子というくらいだ。授業が始まり、少したってもその印象は変わらず、むしろ最初に持った大人しめの子という印象を深くしただけだった。
 その頃の僕は、部活をどうしようかというので頭がいっぱいだったから、そこまでクラスのことを注意深く見ていたわけじゃない。
 中学のときはテニスをやっていたので、高校でもテニス部に入ろうと思っていたのだけど、僕は中学から趣味で小説を書いている。そのため、文芸部にも興味があった。
 散々迷ったすえ、僕はテニス部に入った。スポーツは一人じゃ出来ないけれど、小説は一人でも書けるというのが一番の理由だ。
 でも代わりに、中学のときから変わらず、僕の書いた小説を読んでくれる人はいなかった。部活は楽しいし、秋月達は面白くて好きだけど、僕の書いた小説なんて読んでくれやしない。というよりも、笑われるのが落ちだろう。体育会系のストレートさは好きだけど、やっぱり笑われるのは気に入らない。
 書いた小説はインターネット上で発表しており、それなりに感想はもらっているけれど、それでも、もっと感想をもらいたい。しかも、知っている人に読んでもらいたい。長い間小説を書いていると、次第にその欲求が強くなるのを感じていた。
 部活の奴らは話にならない。次に唯一僕が小説を書いていることを知っている、望が思い浮かぶけどこれも却下だ。小説を書いていると知られただけで、机をばしばしと叩きながら笑われたの思い出すと腹が立って仕方ない。あとは、両親に言っても無駄だろう。
 次にクラスメイトの顔を思い浮かべる。誰か、読んでくれそうな人はいないだろうか。
 不意に、彼女の顔が浮かんだ。
 彼女なら、頼んだら読んでくれそうな気がする。お願いすれば断らなそうだし、周りに言いふらしたりしなさそうだ。何よりも、小説を書いているのを笑われなさそうだし。
 書き終えた小説を持って、彼女に小説を読んでくれないかと頼んでみる。彼女は戸惑った様子だったけれど頷いてくれた。
 でも、頼んでから僕はようやく気がつく。
 僕の書いた小説が全くつまらなかったらどうしよう、と。誰かに読んでもらいたい、その意識が強くなりすぎていて、その考えに全く至らなかった。
 僕は馬鹿なんじゃないだろうか。何を調子に乗っていたんだと、彼女に小説を読んでもらっている最中は、審判を告げられる直前の罪人のような気持ちで、終始緊張し続けていた。
 でも、僕の書いた小説を読んで彼女は泣いていた。
 そんな反応予想もしていなかった。せいぜい良くて、面白かったよ。凄いね。そんなお世辞を含んだ言葉を貰える程度だと思ってた。
 でも、彼女は泣いていた。僕の書いた小説を読んで、泣いてくれた。
 泣いている彼女の顔を見たとき、心臓を鷲づかみにされたような衝撃が胸の奥に走るのを僕は感じた。
 僕はこのとき、初めて彼女をもっと知りたいと思った。
 彼女にもっともっと、僕の書いた小説を読んで貰いたいと思った。
 次の日、教室で彼女と会っても、僕は何も話しかけられなかった。普通におはようって声を掛ければいいんだけど、どう話しかければ良いのか分からない。小説を読ませる前は、挨拶くらいはしていたと思うのに、何で出来なくなったのか不思議で仕方なかった。彼女を見ると、不意にあのときの泣き顔を思い出してしまい、そうすると口がまるで開かないのだ。
 そして、彼女のほうも、僕に話しかけてきたりはしなかった。
 話し掛けられない以上、僕に出来るのは、書いた小説を彼女に読ませることだけだ。
 そう決意すると、早いもので、次の小説を書くべくシャープペンシルを強く握り締めた。
 もしかしたら、次の小説は彼女に泣いて貰えないかもしれない。それどころか、つまらないと思われ幻滅されるかもしれない。別に、新しい小説を読ませなくても、今のままなら、彼女に面白い小説を書く人と思われたままでいられるじゃないか。
 そんな思いが頭をよぎり、小説を書く手が止まることがいっぱいあった。 
 でも、彼女に小説を読んで貰いたい。
 その一心で、小説を書き上げることが出来た。
 何とか書き終えた小説を彼女に読んでもらうと、彼女はまた泣いてくれた。
 嬉しいと思うのと同時に、怖くなった。次に書くものは面白くないかもしれない。彼女の期待が大きくなり、それに応えられないかもしれない。そんな不安に捕らわれてしまう。
 僕はそんな思いを振り払うため、彼女に書いた小説の話を振ってみた。
 彼女は言った。
 全部、無くして欲しい、と。
 悲痛な顔をして、彼女は叫ぶように言った。
 どうやら、彼女は自分自身が嫌いらしい。みんなと話したい。明るく振舞いたい。そういう風に思っているのに、全然出来ない。自分の良いところが何一つ分からない。そんな自分が大嫌いで、消えてしまいたいと思っているようだった。
 そんな言葉を口にする彼女を見たとき、僕の胸はずきりと痛んだ。そして、僕には何も言えなかった。
 彼女がファミリーレストランを去った後も、僕はしばらく席を立つことが出来なかった。
 僕は、悪いことをしたんだろうか。
 彼女の席に置かれたままのノートを手に取ってみる。
 皮肉にも、このノートに書かれているのは、過去を喰らう化物のお話だ。自分で言うのもなんだけど、あまりにも有名すぎる題材。といっても、彼女は知らなかったんだけど。
 もしも、過去を喰らう化物がいたら、彼女の過去を食べてくれたなら。
 馬鹿馬鹿しい考えに、僕は首を振る。
 いくら僕が小説を書いているとはいえ、そんな存在信じちゃいない。どれだけ有名だろうが、都市伝説だろうが、いないものはいないのだ。いもしないものに頼ろうとしているなんてどうにかしてる。
 だけど、そのくらい、その場の僕は何も出来なかった。
 帰宅してからも、考える。
 僕に一体、何が出来るだろう。
 悔しいけれど、僕には小説を書くことしか出来なかった。
 それからも、彼女は僕の書いた小説を読んでくれた。
 でも、彼女を見るたびに思ってしまう。
 確かに、自分のネガティブなところが好きな人なんていないだろう。それよりも、明るく振舞えた方が良いに決まってる。
 でも、それだけが人の良いところじゃないと思う。
 どうやったら彼女は自分の良いところに気づけるだろう。どうしたら、彼女が自分自身を嫌いと思わずにいてくれるだろう。
 小説の中では奇麗事や、励ましの言葉なんていっぱい書いているくせに、まるで分からない。彼女を前にしたら言葉なんて出てきやしない。
 でも、これだけは知って欲しいんだ。
 彼女にとってみれば、どうでもいいことかもしれないけど。
 僕がどれだけ嬉しかったか。僕の小説を読んでくれたのがどれだけ嬉しかったか。泣いてくれたことがどれだけ嬉しかったか。僕の書いた物語が、心に響いてくれたのがどれだけ嬉しいか。
 だから僕は、何度だって伝えたいんだ。
 ありがとうって。



 私は自分自身が本当に嫌いだった。暗い自分が嫌だった。上手く喋れない自分が嫌だった。その癖に周りのせいにばかりする自分が嫌だった。
 自分には何一つ良いところがあるとは思えなかった。そういう風にしか思えない自分は最低だと思ってた。
 世界中のどんな酷い人よりも、私は私が嫌いだった。
 水瀬くんは、小説を面白くないと思われるのを怖がっていた。それでも、苦しい思いをして小説を書き終えてから、私に読ませてくれた。私は、そんな水瀬くんの気持ちなんて何も考えず、怖いから逃げただけだった。小説を人に読ませるほうが断然怖いなんてもの考えもしなかった。
 それなのに、水瀬くんはそんな私に、ありがとうって。
 濡れたノートの上にぽたっと水滴が落ちる。胸の内が凄く熱い。唇を思いっきり噛むけれど、ふるふると震えが止まらない。
 ごめんなさいと声に出して謝りたいのに、口を開けない。ごめんなさい、という言葉が間違っているみたいだ。
 では、この感情はなんていうものなんだろう。
 こんな気持ちになったことなんてないから、まるで分からない。
 ただ、涙が溢れて止まらない。
「ありがとう」
 握り締めたノートの最後の一文が、自然と口に出る。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう」
 震えたままの唇から、ありがとう、という言葉を何度も口にしてしまう。壊れたレコーダーのように、繰り返してしまう。
 そうだ。
 それは、ごめんなさい、なんて言葉じゃ決してない。
 私の方こそ、水瀬くんにありがとうって伝えたい。今すぐに、何度だって伝えたいよ。
 ポケットからじりりりぃんという音が響く。遅れて、それが携帯電話の音だと気がつき、私は慌てて取り出した。予想通り高倉さんからだった。
「もしもし、坂下です」
「あ、わたし、わたし」
 電話に出ると、高倉さんは疲れきった声で、手術の結果を教えてくれた。
 水瀬くんは一命を取り留めたらしい。
「良かった」
 本当に、良かった。
 高倉さんの言葉に、安心しきってしまった私は全身から力が抜けて、ぽろりと携帯電話を落としてしまった。
 そう、安心しきっていたというのに。
 手術が終わった日から、二月が過ぎた。春休みが終わり、授業は変わらずに始まっている。
 授業中にふと後ろを振り返ると、空いている席が目に入る。一番後ろの端の席。授業が始まってから、一度も埋まったことがない席だ。
 この教室に水瀬くんはいない。
「折角、同じクラスになれたのに」
 思わず、呟いてしまった言葉に胸が締め付けられる思いがしてしまった。
 手術が終わり一月が過ぎて、ようやく私は水瀬くんに会うことが出来た。
 ベッドの上で横になっている水瀬君の頭には、髪の毛が全然見えないくらいの包帯が巻かれている。
 手術の結果は、一命を取り留めたという点では成功だった。
 でも、未だに水瀬くんは目を覚まさなかった。
 どうやら、手術中に心停止を起こしてしまったのが原因のようだった。
 目を覚ましても、どこかしらの異常が出るかもしれない。最悪、このまま目を覚まさないこともありえるようだ。
 私は水瀬くんの枕元に座り、彼の頬をそっと撫でてみる。すでに治ってしまったのだろうか。そんな大事故だったのが嘘だと思えるくらい、顔には傷がなく、綺麗なままだった。
 こうして見ると、端から見ていると、水瀬くんはただ眠っているだけにしか見えない。
 このまま、目を覚まさないかもしれないなんて思えない。
 起きて、と肩を叩けば今にも目を覚ましてくれそうだ。
「ずるいよ」
 ぽつりと零してしまう。
 自分は、ありがとうって伝えるだけ伝えるなんて。
 私にだって、ありがとうと伝えさせて欲しいのに。
 私は、点滴のために布団から出ている水瀬くんの手をそっと握る。水瀬くんの手の平の皮はごつごつとしてて少し堅かった。今更だけど、改めて水瀬くんはテニス部なんだなって実感する。
 私は水瀬くんがテニスをしている姿を見たことがないのだ。こんなことになるのなら、見に行っておけば良かったと思う。いや、水瀬くんが良くなったときに、絶対に見に行こう。
「ありがとう」
 その言葉が水瀬くんに届いてくれるように、ぎゅっと手を握る力を込めた。
 お願いだから、早く、目を覚まして。
 ちゃんと、水瀬君にありがとうと言いたいのだから。
 授業が終わり、家へと帰ると、水瀬君の小説サイトを思い出す。私は着替えてから父の部屋へと行き、パソコンを立ち上げる。それで、検索サイトを開き、高倉さんに教わった月花流水という言葉を打ち込む。
 すると、検索のトップにその名前が表示された。
 そのサイトを開くと、白い背景に黒色の丸が浮かんでいる。サイトの名前に月が入っているから、この黒丸は月を現しているのだろうか。コンテンツを見てみると、はじめにから始まり、自己紹介、小説のページが並んでいる。どうやら間違いないらしい。
 小説を読んでみると、時間を忘れるくらいにとても面白かった。
 でも、今まで水瀬くんに読ませて貰っていたものとはまるで作風が違う。今まで読ませて貰った作品が感動系ならば、ここのサイトにある話は、いわゆるインディージョーンズ系の大冒険的やボーイミーツガール的な少年漫画的なものばかりだった。
 ひょっとして、来るサイトを間違ったのだろうか。バックして検索画面に戻ってみるけれど、他は漢字表記しかされていない、おそらくは中国のサイトばかりだった。日本のサイトもいくつかはあるけれど、小説のサイトはここだけである。やはり、間違ってないようだ。
 でも、考えてみると、水瀬くんの普段の性格を考えるなら、こういう作品のほうが彼らしい作品と思う。今まで私が読ませて貰った作品よりも書きなれている感じもした。
 自己紹介のページがあったので開いてみると、彼の好きな作品などについて書かれていた。やはり、活劇系などの男の子が好きそうなものが書かれていた。そして、ハッピーエンドが大好きで、バッドエンドは苦手とも。
 じゃあ、どうして。
 今まで私に読ませてくれた作品は、一体なんだったんだろう。水瀬くんの好みには遠い、ハッピーエンドではないものが多かったのは何でなんだろう。
『あのさ。坂下さんって、どんな本読むの?』
『どんなのって。普通に感動の話が好きだけど』
 唐突に、以前に交わした何気ないやりとりが脳裏をよぎる。
「そっか」
 どうりで、水瀬君がサイトを教えてくれないわけだ。
 何が、相手のことをよく考えて言葉を発しているだろう。
 私の軽はずみな発言のせいで、水瀬くんは苦手な小説を書いていたなんて。
 書いた小説を、どれだけ人に読ませるのが怖いのか私は知った。
 当然、相手の好みの作品を描くようにするのは、何も不思議なことじゃない。
 水瀬くんが好きではない小説を書いていたのは、私のせいだったんだ。
 そして、そのときだ。


「貴方の過去、値段(カチ)はいくら?」


 りん、と鈴が鳴ったような声に私は振り返る。
 そこには、可憐なドレスを身にまとった可愛らしい少女が、紅い目を細め、無邪気な笑みを浮かべて立っていた。

      

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