第一章

 

 ――まただ。また、この感覚。
 シオンは浮かび上がってくる感情を抑え込み、目の前に立つ男に意識を戻す。
 長身の男。色にむらがある茶色の髪の毛を逆立てており、耳と鼻にいくつかのシルバーのピアスをつけている。
 男は敵愾心をむき出しに、シオンを睨み付けていた。それもそのはず。立っている男の傍らには男と同じような容姿をした男達が四人倒れている。いずれもシオンが素手で叩き伏せた物だ。
「どうする。逃げるかい? 今なら見逃してやるよ」
 赤いウインドブレーカーのポケットから手を出して、けたけたと笑う。
「くそ。このガキ!!」
 男は眼を向き、ポケットから折りたたみのナイフを取り出す。
 町の光の届かぬ裏通り。ここには男の凶行をとがめる者はいない。しかし、
 ――まるで遅いな。
 男がナイフを引き抜くと同時に、シオンの足がその腕を蹴り上げる。
「ぐ……」
 腕から離れたナイフは、アスファルトの上を滑っていく。男は腕を押さえながら、ナイフの滑る軌跡に目を取られる。
 次の瞬間には、シオンの拳が男の鳩尾に突き刺さっていた。
 男は短い悲鳴を上げる。それから膝をつき、そのまま前屈みとなって倒れた。
「一丁上がりっと」
 ぱんぱんと服に付いた埃を払い、辺りを見回す。
 男達に無理矢理誘われていた女の子達の姿はすでに無い。シオンが争っている間に逃げてしまったようである。
 シオンは頭をかき、
「あーあ。今日も無駄足か」
 つまらなそうに呟いて、ため息を吐いた。


 †


 夜道を歩くシオンは、通りかかったコンビニへと立ち寄る。
「いらっしゃ……。何だ、シオンか」
「よ、良平。バイトごくろうさん」
 店内に入り、コンビニの店員須藤良平に、軽い挨拶を返す。
 良平とシオンはクラスメイトである。身長百五十六センチのシオンと比べ、良平は頭二つ分高い。髭などを生やしているわけではないのだが、彼の持っている雰囲気はどこか古臭く、言うなれば武人のようなイメージを感じさせる。童顔のシオンと並ぶと、それが顕著にあらわれる。
 良平は作業をしていた手を止め、時計を見る。
「こんな時間にどうした?」
 深夜二時。健全な高校生ならすでに眠りについている時間帯だ。
「喉が渇いたから、ジュースを買いに来ただけだよ」
 先ほどまで行っていたことなど微塵も感じさせず、いけしゃあしゃあと答える。
「そうか? それならいいんだがな」
 良平はそうとだけ言い、また作業へと戻る。深夜のコンビニは人が来ないことを前提としているために、何かと仕事が多いのだ。雑誌やら何やらが詰まった段ボールが二つほど床の上に並べられている。
 邪魔してはまずいなと思い、素直に目的の物を物色する。ペットボトルを一本持ち、レジへと持って行く。
「辻斬りも大概にしておけよ」
 良平も素知らぬ顔で言う。
「そんなこと言われてもなあ。あいつらが嫌がる女の子を誘っていたんだぜ」
 答えてから、あ、と口を押さえる。
「……あんまり調子に乗っていると、いつか本当に刺されるぞ」
 良平はため息をつきながら、差し出されたペットボトルを受け取ってからシールを貼る。
「だって、ああいう輩――て、ちゃんと袋に入れてくれよ」
 許可も取らずにシールだけですまそうとする良平の動きを、すかさずブロックする。
「ち。環境に優しくない奴め」
 結局良平はぶつくさ文句を言いつつも、ちゃんとビニール袋へと入れてくれた。
「じゃ。また明日学校で」
 ビニール片手にクラスメイトに別れを告げて、コンビニを出る。それからうーんとのびをして、夜空を見上げた。
 五月の月夜。月は白雲がかかりつつも、尚明るく地を照らしている。
 春の終わりを告げると同時に、これから迎える夏の予感を感じさせる生暖かい風が頬を撫でた。
 夜もすでに遅く、明日は普通に学校がある。けれどもシオンには、自宅に帰る前に寄らなければならないところがあった。
 コンビニから自宅の途中にある公園で足を止める。
 錆びたチェーンのブランコと、ジャングルジム。それから、砂場と鉄棒と公園という場所に必須な用具を兼ね備えている。中央には噴水が置かれており、その周りで円を描くように花畑が敷き詰められていた。花畑には紫色のツツジが咲いている。きっと六月になればあじさいが芽吹くことだろう。
 そして、花壇の周りにはシオンと同じ名の雑草が花を咲かしてる。
 春紫苑。
 控えめな白い花弁を持つ雑草が、シオンの名前だ。春が名字で、紫苑が名前だ。音の響きが良いために、シオンは自分の名前を今では結構気に入っている。
 いつもならいるはずの鳩たちの姿もなく、事件のせいで人の姿もない公園は静まりかえっている。
 少しの間躊躇し、公園の中に足を踏み入れる。そのまま公園のベンチに座り、コンビニで買ったジュースのキャップをひねった。プシュ、と音をたてて炭酸が抜ける。
 口に運ぼうとしたとき、目の前が光りシオンは顔を上げた。
「――え」
 何かどころではない。圧倒的な光量に、目を開いているのがやっとなほどである。
 そのまばゆい程の光に包まれて、空から少女が落ちてくる。
 いや、落下ではない。少女の体は水に沈むときのように、緩やかに緩やかに舞い降りてくる。
 まるで映画のラピュタを思わせるようなシーンに、眩しさにもかかわらず目を見開いてしまう。少女の髪型が、今時少なくなってしまった三つ編みなのも関係しているかもしれない。
 けれど映画と同じなのはそこまでであった。少女の背に、輪郭が曖昧な銀色の翼のような物が生えていた。
「……これは」
 普通、人の背に翼など生えていない。
 混乱するシオンであったが、落ちてきている少女のことをそのままにしておく訳にもいかず、慌てて掛けより少女の体を抱き留めてやる。少女の体に触れると、銀色の翼は空気と混ざり合うようにして消え去ってしまった。
 見間違いだったのだろうか。そう思うのと同時に、手の平に嫌な感触を感じた。
「おい。あんた、大丈夫かよ!」
 赤黒く、粘着性のある液体。手の平はべっとりと血で濡れている。
 大声で呼びかける。その声が届いたのか、少女はうっすらと目を開き、シオンを見る。
「あなたは……」
 何故だか酷く辛そうで、悲しそうな表情だった。その潤ませた黒曜石の瞳に、引き込まれるように見入ってしまう。
「……え?」
 聞き返すも返事はなく、少女はそのまま完全に気を失ってしまった。


 †


 結局混乱した頭のまま、少女を家へと連れ帰ることにした。気を失った少女をそのまま置いておく訳にはいかないと判断したからだ。幸いなことにシオンは現在一人暮らしのために、文句をいうような輩は存在はしない。
 父は他の町に飛ばされてしまったし、母もそれについて行った。姉も就職が決まったときに、この家を出て行ってしまったため滅多には帰ってこない。
 とりあえず家へとたどり着くと、彼女を自分のベッドへと運び、横へと寝かしつけた。それから、どこから出血しているのかを確認する。
 傷自体はかすり傷といった物で、先ほどの出血量ほどは大した物ではないようである。しかも、すでに血も止まっているし、呼吸も別段苦しそうな物ではなく穏やかなものだ。
 このまま寝かせているだけで大丈夫そうである。
「ふう。よかった……」
 シオンはようやく一息をつき、少女の寝顔を覗いてみる。
 美しく流れるような漆黒の髪(寝かしつけるときに束ねていた髪の毛をほどいた)。肌はきめ細かく、太陽光を拒否したような独特な透明感を宿らせている。それと、女性特有の小さく細い体。
 ……眠っている相手をじろじろと観察するのはさすがにはばかれるな。
 一人勝手に気恥ずかしくなって顔を背けた。
 少女が無事なのを見て安心すると、途端に眠気が戻ってくる。すでに、時計の針は三時を回っていた。
「さてと。俺も寝るとするかな」
 ふぁー、と大きく欠伸をする。ベッドはふさがってしまったので、父の部屋のベッドで眠ることにした。
 疲れあるいは訳の分からない現実に対しての逃避なのか、横になった途端ぐっすりとよく眠ることが出来た。
 ――――それで、眠りすぎた。
 直感的に薄ら寒いものを感じ、シオンは勢いよく体をおこした。ちく、ちくと無機質な音を刻む時計の針は、十一時を示している。
 完全に遅刻である。
「何て、お約束な」
 呆れ気味に呟く。それを言うなら、時間ぎりぎりに起きて、慌てて学校へと走っていくのだろうが、この際そんな微妙な差違はシオンにとってはどうでもいいことである。
 自分に呆れながらも、慌ててテーブルの上に放っていた制服を着て家を飛び出した。何か大事なことを忘れているような気がしたけれど、そちらに思考を回す余裕が今のシオンにはなかった。今から全力で向かえば、ぎりぎり四限目の終わりには間に合うはずである。
 鞄を片手に、全力疾走で学校へと向かった。


 †


 シオンの通う蒼城は、どこにでもある普通の進学校である。強い部活動もあるのだが、県立のためにその年、その年によって強い部は異なってくる。現在強い部活動は、弓道部と剣道部である。
 慌てて、二―Aの教室に駆け込むと教室には誰もいなかった。
「集団ボイコット?」
 そんなはずはない。
「て、今日の四限目は体育か」
 机の上の乱雑に脱ぎ散らされている男子の制服を見てから思い出す。
 女子は体育館でバレーで、男子がグラウンドでソフトボールだ。人から見られないように、裏門から入ってきたので気がつかなかったのだ。
「あちゃー。しまったなあ」
 さっさと体操服へ着替えて、グラウンドへと向かった。
 体育の教官はシオンのクラスの担任でもある須藤沙紀だ。須藤という名字から分かるように、良平の姉である。
 短めに切りそろえられた黒い髪と、吊り上げられた目元から気の強さが伺える。
 今も目を吊り上げて、遅れてグラウンドにやってきたシオンに近づいて――
 ばちーん。
 と、シオンのことを思いっきりひっぱたたいた。
「なーに、遅刻してんのよ、あんたは」
「すみませぬ」
 シオンが素直に謝ると、沙紀はすぐさま吊り上げた目を緩めてから、
「ま、いーわ」
 ばしばしとシオンの肩を叩き、あっさりと遅刻の件を許してくれた。
 この切り替えの早さは並ではない。このおかげで彼女は生徒達から人気があるのだ。
「ちょうどいいわ。そのまま打席に入っちゃいなさい」
 沙紀はバッターボックスの方を指さす。そちらを向くと、タイミング良く打席に入っているバッターが三振したところであった。
「よっしゃ。任せな」
 三振した生徒からバットを受け取り、そのままバッターボックスに入る。マウンドに立っているのは良平であった。
 とんとんとバットで地面を叩きグリップを握る。そのまま構えて、目を閉じ、息を吐く。
「さ、いくぜ!」
 気合いを入れて、目を開いたのと同時に――
 どすん。
 ボールはすでに放られていた。
「ストラーイク」
 審判をしているクラスメイトが腕を縦に振り上げる。
「やろう」
「いつまでもやっているのが悪い」
 良平は涼しい顔をしてぴしゃりと言い切る。
「おもしれー。やってやろうじゃねえか」
 シオンは目を細めて、バットを握る手に力を込める。鋭く細められた瞳と同様に、集中力も弓矢の弦のように引き絞られていく。
 もう一度投げられるは下投げのボール。体育のソフトボールの割には山鳴りにならない、速い球。けれどもそんな球、シオンには止まって見える。
 足を踏み込み、その球にあわせるようにスイングする。
 こぎみよい音が鳴った。
 ボールは大きく弧を描き、外野の頭を越えて上空へ。白球は青い空へと吸い込まれていく。
「へ。悪いな」
 文句なしのホームラン。シオンはバットを放って、悠々とベースを回る。
「はいはい。もういいよ。おつかれさん。さ、授業終わるから集まってー」
 沙紀がぱんぱんと手を叩きながら言ったため、ホームに生還することはなかった。
 授業を終わる挨拶をして、教室に戻ろうと歩き出した瞬間、首根っこを後ろから掴まれた。
「片づけ。シオンがやっといて」
 沙紀は輝かしい笑顔で言い放った。
「えー、何で俺が……。すみません。ごめんなさい。不祥シオン。是非とも片づけさせていただきとうございます」
 たいそう卑屈になりながら頭を下げる。目は口ほどに物を言うという言葉通り、あんた遅刻したんじゃなかったっけ、と言っているのがよく分かった。読心術が無くても嫌というくらいに。
「あの。これ、俺一人で?」
 恐る恐るといった感じに尋ねると、
「ええ」
「…………」
 一部訂正。この先生は切り替えが早い。例外を除き。
「はあ」
 一人グラウンドに残されたシオンは、ため息をついた。この量をどうすればいいねんといった意味を込めて。
 乱雑に詰められたかごには溢れんばかりのグローブが詰め込められている。さらにはバットまでも無理矢理突き立てられていて、何だかおかしなオブジェを想像させられる。
 タイトル、にょっきにょき。
「さて、片づけるか」
 頭に浮かんだ極めて駄目な名前を振り払った。
 すると呆れ果てた様子の良平が、シオンの元へと戻ってくる。
「見てて、あんまり不憫だったからな」
 そう言い、良平は肩をすくめて見せた。何て良い奴なんだ、と心の中で泣きながら、良平に抱きついてみる。しかし、暑苦しいとあっさりと引きはがされた。
「まあ冗談はともかくとして、さっさと片づけることにするか」
 バットの入ったかごの片側を持つ。良平はその反対側を持ち上げた。
「良平ってよく遅刻しないよなあ」
 運んでいる最中に驚嘆の意を込めて呟く。高校生の深夜バイトは禁止されているというにもかかわらず、別れた後もまだバイトが続いていたはずだ。だから眠った時間はシオンよりも遅いこととなる。
「別に。大したことはない」
 何の気もなく良平は答える。
「昨日何時間くらい寝たの?」
「三時間くらいだ」
「眠くないの?」
「別に」
 これで本当に授業中も全く眠らないのが、良平の凄いところである。鉄人の字は伊達ではない。一部の噂では、休日にまとめて睡眠を取っているとかいないとか言われているが、真偽の程は定かではない。
「お前はあれからすぐに家に帰ったのか?」
 良平の何気ない言葉に、言葉を詰まらせてしまう。けれども良平になら言ってもいいかと思い直し、昨日あったことを話すことにした。
「あれからいつもの公園に寄ったんだけど、女の子が空から降ってきてたんだ」
「……は?」
 良平は何を言っているのか理解できずに、睨み付けるようにシオンの顔を見る。
 シオン自身唐突であることが否めない気がしたが、いかんせんこうとしか言いようがなかった。
「わかった。それで、その子をお前は一体どうしたんだ?」
 無言のまま見つめると、良平はこめかみに指をつき、肩をすくめてみせる。信じてくれたというよりも、そういうことがあったという前提で話を聞いてくれるようだ。
「その子は、降ってきてからすぐに気を失ってしまったんだ。だから、そのまま家に連れて帰った」
 シオンの言葉に良平は、鋭く目を細める。
「何故連れて帰った?」
「何故って、その女の子……怪我してたからな。そのまま放っておけるはずがないじゃん」
「なら尚更だ。何故、警察なり救急車なりを呼ばない」
 良平は目だけではなく、語気まで鋭くする。シオンは目をそらしてしまう。
「まだ、姫花のことを気にしているのか?」
 良平の言葉が胸を刺す。奥底に沈めたはずなのに、痛みが蘇る。
「あれは、お前が悪い訳じゃない」
「そんなことはない!」
 思わず、大声を張り上げてしまう。
「そんなことは、ないんだよ……」
 続いて出された言葉は、力を失っていく。
 半年前、あの場所に一緒にいたのだ。あの時、自分が姫花と一緒にいたのだ。
 そのまま黙ってしまったシオンに、良平は諦めたように頭をかいた。
「しかし、何があったかは分からないが、そんな状態の女の子を一人残しているのは危なくないか?」
「――――!」
 良平の言葉を聞き終える前に、駆けだしていた。
「おい、シオン!!」
「わりぃ、良平。沙紀さんには上手いこと言っといてくれ」
 良平の方を振り返りもせずに、自宅へと駆けだす。耳の奥をちりちりと、何か焼けるような音が鳴っているような気がした。
 そして、残された良平はというと。
「この量の荷物を、一人でどうしろと?」
 地面へとぶちまけられたグローブなどを見ながら呟いた。


 †


 シオンは体操服のまま、家へとたどり着く。
 あのまま直接帰ってきたので、当然鍵など持っていない。玄関の植木鉢の下に置いてある合い鍵を取り出して、ドアに差し込む。
「開いてる」
 鍵は開いていた。ドアを開き、乱暴に靴を脱ぎ散らかして、一直線に自分の部屋へと向かう。
 部屋の中に入ると、そこには昨夜の少女の姿がなかった。
「落ち着け」
 シオンは自分を律するための言葉を告げる。さらに大きく深呼吸を繰り返す。
 焦ったところで良い結果など生まれはしない。そのことは、シオン自身が一番よく身にしみている。
 とりあえず家の中をくまなく探してみるが、彼女の姿は見あたらない。もう一度部屋へと戻り、自分のベッドを調べてみる。
 シーツはめくれているが、ベッドには争われたような形跡はない。これは、彼女が目を覚ましたと考える方が自然であろう。
 しかも、シオンが出かけていた時間はほんの一時間ほど。さらには、こんな昼時という時間帯。これは自分で何処かに出かけたと考える方が自然という物である。
 その確認のために玄関へと戻る。彼女が履いていた靴はなかった。
「……全く」
 机の上に置いていた携帯だけを掴み、家を飛び出した。


 †


「はあ、はあ……。くそ、何処に行ったんだ」
 町の雑踏の中でシオンは一人毒づく。
 すでに日は傾き始めていた。建ち並ぶビルの硝子に反射し、町並みを赤く染め上げており、スーツ姿の人達の姿も多く見え始めている。どうやら随分と長い間、探し続けていたようだ。
「まさか、丸一日かけて、見つからないとはね……」
 シオンの住む青葉台はそこまで広い町ではない。若者は毎日遊ぶところに頭を悩ませているのが現状だ。しかし、人一人を捜し出せるほどには狭いわけではなかった。
 シオンはいるかどうかも分からない人一人を捜し出すことの困難さと、携帯電話という文明の利器の便利さを深く噛みしめる。
 焦燥が胸を焼く。
「本当に、何処に」


 ――シオン。


「……あ」
 焼き付いてしまった鮮明なイメージがシオンを掴んではなさい。
 恐怖感とは少し違う。頭の中をよぎるのは、真っ白な物――空白な物なのだ。
 時間がゆっくりと流れていくような……。
 トゥルルル……。
 携帯電話の鳴り響く音に、シオンは我に返る。
「もしもし」
『俺だ』
「良平」
 時計に目をやる。時刻は六時を過ぎていた。部活も丁度終わった時刻だ。おそらく部活が終わるまで学校の規則通り、携帯の電源を律儀に切っていたのだろう。
 しかし今のシオンは、良平に構っている時間がない。
「悪い。悪いけど今忙し……」
『お前の言っていた女の子はどうした?』
「……行方不明なんだ。それで、今探してる」
 答えつつも、携帯を握りしめたまま首を振って辺りを探る。雑踏の中には少女の姿は見あたらない。
『公園には行ったか?』
 良平は少しだけ沈黙し、そう言った。
「公園。何で?」
『最初に出会ったのは公園なんだろ』
 無理はするなよ。そう言い、そのまま電話を切られた。
 切られた携帯をぼんやりと眺めてしまう。
「わかったよ」
 やがて決意したように携帯を閉じ、良平の言ったとおり公園へと走る。
 シオンが公園に辿り着いた頃には、すでに日は完全に落ちていた。公園の中を照らすのは数本の街灯のみである。
 空が霞む、薄明かりの中。噴水の目の前で一人の少女が舞い踊る。見間違うはずもない。昨夜の少女だ。
 しかし、背中には翼などなく、普通の女の子にしか見えない。人混みの中に紛れれば、シオンには見つけることが出来ないであろう。
 そんな少女の姿に、シオンは見とれてしまった。
 舞う彼女の瞳は閉じられており、表情がない。けれども、それが逆に――
 シオンは声を掛けようとしたが、喉の奥に何かが詰まってしまったように声が出なかった。ただ、彼女のことをぼんやりとした様子で眺める。
 少女は動きを止め、シオンの方へと向く。
「あなたは、ここに来ると思いました」
「それは、どういう……」
 彼女から話しかけてきたおかげで、呪縛から解き放たれたように、聞き返す。
「私の名前はユウと申します」
 ユウと名乗った少女はシオンの問いには答えずに、自分の名前を名乗る。
「俺の名前は、シオン。春紫苑だ」
 質問したいことが山ほどあるが、相手が名乗っているのに自分が名乗らないのは失礼に当たると思い、自分の名を名乗る。
「シオン。春紫苑ですか。良い名前ですね」
 ユウは手の甲を口元に添え、透明な笑みを浮かべる。
「あの」
 シオンが再び尋ねようと口を開いたとき、公園の中央でばさばさと黒い鴉達が羽ばたくのが目に入る。鴉達はそのまま夜の闇の中に姿を消していった。
「え――」
 ――何で、こんなに鴉が。
 シオンは先ほどまでは間違いなくいなかった鴉たちに、注意が取られてしまう。視線は自然と鴉達が飛び立った中心へと向ける。
 そこには一人の男が立っていた。
 背格好は学生服を着たどこにでもいる普通な高校生といったもの。髪は目にかからない程度の黒髪で、かけている黒縁の眼鏡もこれといって特徴を持たない。
 しかし、眼鏡の奥にある瞳の色は人としてありえない赤色。それは美しいと思えるほどに澄んでいた。まるで全てを見透かすかのようなその瞳は、普通の高校生とは似てもにつかない。
 男の瞳と重なるだけで、シオンは息苦しい思いをする。
 男はシオンのことを一瞥しただけで、すぐに目を離す。それから形だけの笑みを浮かべ、ユウの方を向く。ユウは涼しい顔をしたまま、男の顔を見据えていた。
「ようやく見つけたぞ。神の花嫁よ……」
「バールベリト。まさか、あなたほどの方が来ているというのは、正直予想外です」
 バールベリトというのが男の名らしい。しかし、男の険悪な雰囲気のせいで、シオンには仲の良い友人同士にはとても見えない。
「この間のように逃がしたりはせんぞ」
 バールベリトは腕を振り上げると、その行為に連動するかのように、地面に落ちていた石が大小問わず宙に浮く。
「な――」
 驚愕するシオンをよそに、バールベリトの腕は振り下ろされる。
 すると、宙に浮かぶ石は放たれた弾丸のように、まっすぐユウへと襲いかかる。
「離れてなさい!」
 状況がさっぱり飲み込めないシオンに対し、ユウは一喝して、地面を蹴る。
 瞬間。そこには何もなかったかのようにユウの姿がかき消えた。後には、えぐられたアスファルトだけが残される。
 ユウはその速力、疾風を持ってしてバールベリトめがけて走る。襲いかかる弾丸とかした石を全て叩き落とし、バールベリトに肉薄する。
 刹那の攻防。次にシオンの目に映った光景は、バールベリトの眼鏡が砕けて飛び、ユウの服の肩口が裂けているところだった。
 互いに無表情のまま次の動作へと移行する。
 バールベリトは接近戦を不利と悟り、ユウから距離を取るように背後に飛び、先ほどと同じように石の雨をユウに降らす。
「無駄です!!」
 ユウは左手一本で石をはじき飛ばした。
 その間バールベリトは壇上に立つ指揮者のように、空に指を走らせる。
 石は宙を浮かび、またしてもユウを襲う。
「だから、こんなも――」
 ユウの動きが止まる。
 見ると、ユウの足下を雑草が絡んでいた。アスファルトを割って急激に伸びる雑草がユウの体を束縛し、捕らえた。
「これは!」
 シオンは最初に立っていた場所から一歩も動けずに、ただ事の成り行きを見ているだけであった。
 不思議と恐怖感はなかった。まるで映画のワンシーンを見ているくらいの、どこか遠くの物を見ているような錯覚を覚える。
「やめろ」
 一歩踏み出す。手を伸ばす。
 シオンの目に映っているのは、目の前の光景ではない。
 この感触。ほんの少し前。この公園で……。
 ユウは力任せに雑草を引きちぎるが、もう遅い。
 先ほどと同じように襲いかかる石の弾丸。先ほどと異なるのはユウがその弾丸を避けられないということ。
 全弾くらったユウは二歩後ずさる。
 間髪を入れぬ四撃目。刃のような弾丸は次々とユウの体に突き刺さる。鮮血が舞った。
「てめえぇ!」
 シオンは駆け出しだしていた。
 頭に血が上っていて、考えなどは何もない。あえて理由を付けるのなら、女の子がやられているというこんな状況は。こんな状況だけは、許すわけにはいかない。
 バールベリトは目線だけをシオンに向ける。
「消えろ」
 バールベリトはユウに向けていた腕をシオンへと向ける。浮かんでいる石も狙いを変える。
「は!」
 シオンは苦もなく、石の弾丸を避ける。確かに石の速度は銃弾を思わせる速さである。
 でも、それだけである。
 たとえいくら速かろうと、まっすぐに飛んでくるだけの物、体を反らすだけで当たりはしない。
「何だと」
 避けられるとは思っていなかったのか、バールベリトは声を上げる。
「女の子を――」
 シオンは一足でバールベリトの懐まで踏み込み、
「いじめてんじゃねえ!」
 横面を思いっきりぶん殴った。勢いのつきすぎた反動のため、シオンはたたらを踏んでしまう。バールベリトも体勢を崩し、後ずさる。
 バールベリトは口元を拭いつつ、今度こそシオンに顔を向けて、片手をあげた。
 空に浮かぶのは石ではなく、ベンチやくずかごなど公園に置かれてある大きな物だ。
「おいおい。まじっすか」
「消えろ」
 一言そう命じると、石と同様シオンめがけて放たれる。
「ちょ……待」
 先ほどと変わらぬ速度。考える間などはなく、咄嗟に飛び退いて避けた。
 シオンの元居た場所にくずかごはぶつかり、中に入っていた空き缶やごみくずが空中にばらまかれる。衝撃が大きすぎたのか、くずかごは完全にひしゃげてしまいもはや使い物になりそうにない。
「冗談きついぜ」
 あんな物に当たれば致命傷だ。その事実がシオンの頭の熱を冷ます。
「やるじゃないか」
 バールベリトはどこか感心したような声を上げる。
 背筋が泡立つ。今のがぶつかれば怪我などではすまない。それなのに今の言葉は。
 シオンはバールベリトの顔を睨み付けた。彼の顔は、飾りのような笑みが張り付いたままになっている。
 何の躊躇もない。人を殺すことを、このバールベリトという男は。
 狂気や暴走などとは訳が違う。邪魔だから。ただそれだけのことがこの男にとって殺すことの理由になるのだ。子供が蟻を潰すように、花を摘み取るように。
 指先の震えが、腕へと移り、全身へと伝染する。
 ありえない。理解できない。でも、知っている。
 このような恐怖の感覚は、前にもここで……。
 バールベリトの唇がつり上がる。直後、シオンの視界はベンチに埋められた。
「――う」
 震える体のまま、地面を転がりシオンは避ける。
 立ちあがる間も無く、矢継ぎ早に襲いかかってくる。
 電柱。街灯。植木。襲いかかる物は、段々とエスカレートしていく。電柱は噴水へと突き刺さり、街灯はショートしたのか火花を散らし、木は逆さまを向いてアスファルトに穴を開けていた。
 衝撃が大気を震わせる。風は吹いていないはずなのに、木々がざわめく。
 戦う等という次元の問題ではない。
 先ほどの一撃は相手が油断していたから当たっただけのこと。先ほどまでのバールベリトの攻撃が狩人が獣を追い払うための物であったなら、今の攻撃は獣を仕留めるための物。決して近づくような真似など叶うはずもなく、ただ無様に逃げ回ることしかできない。
「遊びは終わりだ」
「何?」
 シオンが後ずさると、がしゃっとフェンスにぶつかる。気付けばフェンス際まで追い込まれていたのだ。そして、目の前に浮かぶのは三つのベンチ。シオンを囲うように浮いている。逃げ道は――ない。
 逃げることに精一杯で、自分が今どこに立っているかまでは気が回らなかったのだ。おびえた獣を追いつめるために逃げ道を誘導する。まさしく狩りの基本。
 迫るベンチ。
「なめんなよ!!」
 震えを押さえつけるためにシオンは叫ぶ。そして、飛んでくるベンチに向けて駆け出す。
 抜けられるとしたらこの一点。ベンチが交差する前の僅かな隙間。その間隙目がけてシオンは飛び込む。
 肩口に重い感触が響く。ベンチの足にぶつけたのだろう。鈍く痛むが、直撃を免れることが出来た。
「はあ……はあ」
 ――喜んでばかりもいられない。早く、立って逃げないと。
「終わりだ」
 何の感情も込められていない声が響く。
 シオンが顔を上げると、目の前が真っ黒に染められる。
 シオンには近すぎて分からなかった。それが自動車であるということに。
「――――!!」
 言葉にならない。
 この瞬間のシオンに理解できるのは確実な死。
 頭の中で咄嗟に自分が何をすればいいのか何も思い浮かばない。ただ、時間の感覚だけが少しだけ引き延ばされる。
 細切れの像が浮かぶ。
 白色の風が吹く。その様は疾風よりも速く、シオンの目の前を吹き抜ける。
 直後、自動車は真横にはじけ飛んだ。
 その一閃。小さく、細い腕によって。
 地面へと叩きつけられた自動車は、ガソリンに引火したのか爆炎を巻き上げる。
 ユウとバールベリトは、ごうごうと燃える自動車を間に挟み、再び対峙する。燃え上がる炎は形を変え、お互いを照らし出す。
 バールベリトは無言のままユウを睨み付けた後、突然頭を苦しそうに押さえた。
「時間切れか。命拾いしたな、花嫁。次こそはその命、貰い受ける」
 それだけ言い残し、バールベリトは闇の中に身を溶かすように、公園から去っていった。
 遠くに立っているシオンからは、バールベリトの表情までは伺うことは出来なかった。しかし、瞳の色が黒くなっているように見えたような気がした。
 シオンは立ちあがってユウを見ると、ふわりと体が傾いた。倒れ込むユウの体を、シオンは昨夜と同じように抱きかかえてやる。ユウは目を閉じて、軽い寝息を立てている。
 それから、サイレンの音が聞こえてきた。
 シオンが公園を見ると、木々はへし折れていて、アスファルトの地面には電柱の砕けた破片が散っている。噴水も中心の円柱に街灯が突き刺さっており、溢れた水は地面を濡らしていた。そして、元の色が何色だったのかも分からなくなった自動車は、今も火をあげて燃えている。
 まるで局所的な爆撃でもされた跡のようである。おそらく音の方も大きく、警察がもしくは消防関係が呼ばれるのは当然のことといえるだろう。
 シオンは警察が到着する前に、ユウを抱きかかえたまま公園を後にした。


 †


 ユウを自分のベッドの上に横に寝せ、シオンは枕元に座る。
 今すぐ起こしたい衝動を何とか抑え込んで、辛抱強く待つ。彼女の来ている白い服は肩口が大きく裂け、他にも多々の穴が生まれている。そして、元々の白い生地に赤い染みが大きく広がっている。しかし、傷口は血の量の割にはやはり少ない。服の隙間から見える肌にも傷が残っているように見えなかった。
「君は一体」
 シオンはぽつりと呟くと、ユウはゆっくりと目を開いた。
「ここは」
「俺の部屋だよ」
 シオンがそう答えると、ユウは身を起こす。
「何故、私を助けてくれたのですか?」
 ユウは助けてくれた礼を言うわけでもなく、まっすぐにシオンの目を見据えて尋ねる。
「女の子が虐められていたら、助けるのは当然のことだろ」
 当たり前といった口調ではっきりという。
 ユウは目を丸くして、
「私が、女の子?」
 酷く驚いたといった風に自分を指さす。シオンにしてみれば何と反応すれば良いのか分からずに、曖昧に笑う。
 しかし、そんな表情はすぐにただし、ユウの両肩を掴む。
「君は一体何者なんだ。それに、さっきのやつ――」
 声まで大きくなってしまう。
「あなたは……」
 ユウは戸惑ったように顔を横に背けた。
「あ、ごめん」
 シオンは掴んでいた肩を離す。ユウは横を向いたまま、一つ大きく息を吐いた。それは少しの間、考え込むようなそぶりに見える。
「私はアンヘル。聖書における天使と呼ばれる存在です」
 ユウは横を向いたままでそう言った。
「そして、先ほどの方はバールベリト。彼はリザリア……悪魔ですね」
 天使と悪魔。何とも分かりやすいファンタジーの言葉が出てきた物である。そして、全く実感の伴わない言葉。シオンはぽりぽりと頭をかく。
 しかし、彼女と出会ったときに見た銀色の翼。あれは天使なればこその物だったのかもしれない。
「まあ、この際呼び方はどうでも良いでしょう。どちらでも呼びやすい方で呼んでください」
「わかった。それで、君は何であいつと?」
 とりあえず、話を進めるべくユウに話の続きを促す。
「シオンは何でこの世界があるかは当然知りませんよね。そこから説明しましょう」
 ユウは体勢をただして、シオンの正面へと座り直した。
「それは遠い創世の時の話です」
 ユウは語り始める。
「その全ての始まりの時。その時にはすでに"神"と呼ばれているものは存在していました」
「むぅ」
 天使、悪魔に続き、神の存在。話の事が大きくなっていくのだけ実感する。
「彼の者は人が込めた言葉の通り、全ての物を持ち合わせていました。ただし、ただ一つのことを除いて」
「始まり……?」
 シオンが答えると、ユウはこくりと頷く。
「そうです。彼の者には始まりという記憶のみが唯一欠落していたのです。だから――」
 ユウは鋭く目を細め、ひんやりと空気が張りつめられる。
「それだけを求めた」
 ユウはここで言葉を句切って息を吐いた。
「そもそもそれ以外の物は全て満たされていたのです。一体それ以外の何を求めればよいのでしょう。故に、彼の者とは始まりの探求者でしかなかったのです」
 シオンは眉をしかめる。
「それで、一体どういう関連性なのさ」
 一向に話が見えてこず、小難しいユウの話に答えを求める。彼は子供なのだ。
「わかりました。神が天使を作り、人を作り、一部の天使がそれを気に入らなくて反逆したからです」
 首を傾げる。何か結論づけられたようであるが、さっぱり分からない。
「だから?」
「すみません。もう少ししっかりと説明します。我慢して聞いてください」
 ユウは子供を諭すように口調だ。さっぱり話が見えなかった以上、素直に頷くしかない。
「始まりの探求者たる彼の者は、自分によく似た思考を持つ存在、人を創造しました。何故か、新たな始まりという物を創造することにより、彼らがどのような結論を出すのかを観察しているのです」
 続きの言葉を言おうとしたユウのお腹が、ぐぅという音をたてた。
「…………」
 しばし沈黙。ユウは自分の腹部をなでた後、
「お腹がすきましたね」
 真顔で口にした。


 †


 台所に立つシオン。片手に包丁。可愛らしいエプロン姿。
 さて何を作るかな、とシオンは息を吐く。
 ちらりと後ろを振り向いてみると、ユウは今の椅子に腰掛け食い入るようにテレビを見つめている。彼女曰く、情報を五感からでしか得ることが出来ないということに慣れていないので、とのこと。いまいちどういう事か分からないシオンであった。
「ま。あーだ、こうだ言っても。いきなり料理の腕が上がるわけじゃないしな」
 いくら女の子に食べさせるからといって、格好付けて作れもしない料理に挑戦すると失敗するのだ。一人暮らしをしているからといって、シオンは料理が上手いわけではない。作れる料理は野菜炒めとカレーくらいの物だ。
「ここで必要なのは、精一杯作ったていうことさ」
 誰に対しての言い訳なのかはともかくとして、シオンは腕まくりをして料理に取りかかることにした。
 まな板を洗い、野菜の皮を剥く。冷蔵庫から取り出したのはニンジンとキャベツと豚肉。フライパンに油をひいて、野菜をその中にいれる。それを強火で三十分加熱する。
 そして、出来上がった品物は当然真っ黒だった。
 敗因は背後を振り返りすぎて、野菜がこげてしまったこと。明らかに焼きすぎである。結局、シオンはもう一度野菜炒めを作り直した。
 そのままつつがなく食事を終え、テーブルの上には食後のコーヒーとチョコレートのクッキーが並べられる。春家の食事の貧相なのは本人が十分理解しているので、せめて食後のコーヒーぐらいはと、常にお茶菓子が準備されているのだ。
「それで、さっきの話の続きだけど」
 シオンが話を促すと、ユウはクッキーを食べる手を止めた。
「どこまで話しましたっけ」
「えーと、さっきの話じゃ。人については触れていたけど、天使と悪魔については何も触れられていなかったんだけど」
「そうですね。天使という存在は、人の世界を創造する時に作られた、言うなれば神の駒というわけですよ」
 シオンは不快な物を感じたが、何も言わなかった。
「自らの不遇を呪った天使。人よりも彼の者に愛されたいと思った天使。そうやって妬み、彼の者に反旗を翻した天使達のことを堕天使。悪魔と言われているのです。これは、聖書に記されていることですね。あ、クッキーを食べても良いですか?」
「あ、うん」
 そう言いクッキーに手を伸ばすユウを尻目に、シオンはコーヒーにも手を付けずに考え込む。
「それなら、悪魔の目的って?」
「人間の堕落と崩壊。及び、妨害する天使の排除です」
「それで、ユウの……。天使の役目は」
「この人間界に入り込んでいる悪魔の排除です」
 ユウの返答でシオンは目を閉じる。
 正直なところシオンは天使だ、悪魔だ言われても未だに信じることは出来ない。あれほどの光景を見ても、時間がたってしまった今となってしまうと、薄れてしまうのだ。
 それに話が壮大すぎる。世界の創世や、神と言われてもイメージすることなど出来るはずもない。
 それでも――
 数秒黙考して、目を開く。ユウはクッキーに伸ばしかけた手を止め、シオンの方を見る。
「じゃあ、あんたはさ。あいつと。また、バールベリトと戦うの?」
 ユウは頷いた。
「それなら――俺も手伝わせてくれないか」
 シオンにとってはそれだけが大事なことであった。
 天使や悪魔。そのことを信じることは出来なくても、先程のあの男のことだけははっきりと覚えている。
「何故ですか」
 シオンの提案に、ユウは間髪を入れずに問い返す。
「あいつは……あいつだけは!」
 ユウはコーヒーを口に運んでから、もう一度尋ねる。
「あなたは怖くないのですか? 先ほど見たでしょう。あなたの目から見たら超常現象の数々を」
「それでもだ!!」
 シオンはテーブルを両手で叩きつけながら言う。
 コーヒーカップは倒れて、テーブルの上に黒い液体が広がっていく。
 怖くないと言ったら嘘になる。
 一歩間違えれば死ぬところだったのだ。あのような超常現象。思い出すだけで、今でも指先の震えが止まらない。
 それでも記憶の奥に刻まれた、半年前の、あの公園にいた闇。
 人の形をした闇。
 今日の公園で、確かにあの感触を感じた。底冷えするあの空気。深い深い、悪意とも異なる害意。
 あの、半年前の闇にとてもよく似ているあの気配。
 この半年。それだけを探してきた。
 それだけを探してきたのだ。
 姫花を、あのようにした――
 睨み付けるようにするシオンを、ユウは見据える。
 数秒間、無言のまま時間は流れていく。
「……わかりました」
 やがてユウは表情を緩め、くすりと笑った。
「シオンに手伝って貰えると、とても嬉しいです」


 †


 ユウは服を着替えた後ベッドへと腰掛ける。服はシオンの姉の物だ。
 ひゅんひゅんと、何か風を切る音が聞こえて来た。何の音だろうと思い、ユウは立ちあがって音を確認しに行く。どうやら、庭のようである。
 そこにはしゃにむに木刀を振るうシオンの姿があった。
 ユウは目を細めて彼の動きを観察する。
 一本一本の素振りに無駄が無く、洗練されている。一日やそこらで得られる動きではない。
 シオンは素振りを終えたのか、木刀を置いて大きく息を吐いた。
「これからのための訓練でも行っていたのですか?」
「いや。これは毎日の習慣。最低でも千本は振っておかないとね。気持ち悪くて眠れないんだ」
 シオンは何故か気恥ずかしそうに答える。
「そうなんですか」
 ユウはシオンのことを見直す。彼は見た目よりも遙かにまじめで、堅実な性格のようである。
「しかし、こんなの。あんな化け物には付け焼き刃にもならないな」
 シオンは木刀を持ち直して悔しそうに呟く。
「大丈夫です」
 そんなシオンにユウは微笑みかける。
「シオンには力があります。だから、私たちが力を合わせればバールベリトにだって勝つことが出来ます」
 ユウがはっきりと言い切るので、シオンは目を丸くしてユウの顔を覗く。
「本当に?」
「ええ、それに」
 ユウはくすりといたずらっぽく笑い、
「天使は嘘をつきません。シオンはそう習いませんでしたか?」
 そう言った。

      

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