シオンには子供の頃、好きだった本がある。タイトルは『騎士と姫君』。百ページ程の短い本である。元々読書などしないシオンでも、この本だけは何度も何度も読んだ記憶がある。
内容は、タイトルの示すように、一人の騎士と姫の話である。騎士は誰よりも強く、誰よりも誠実であった。姫は誰よりも気高く、誰よりも優しかった。幾度となく、困難に巻き込まれる姫を守り続ける騎士。泣き言を一つも言わずに守り続けた騎士。
子供だったシオンはそんな騎士にとても憧れた。それは大きくなった今でも心に残っていることである。そして今でも、女の子を守ることは当然であると信じ切っている。
†
「んー」
「お早うございます」
シオンが目を開くと、挨拶が交わされる。
「おはようー」
頭がはっきりせずに目をこすりながら、挨拶を返す。窓の外を見ると、すでに日は高く真上近くまで昇っており、強い日差しがさしていた。
ぱちぱちと、何度か瞬きをして枕元に座っているユウを見る。
「おはようユウ。今何時かな?」
今度ははっきりと挨拶をし、時間を尋ねる。
「時計の針は十一時半を示していますが」
「……ふむ」
ゆっくりと自分の置かれている立場を認識し、
「完璧な遅刻じゃねえか!」
着ていた布団を蹴飛ばして勢いよく起きあがった。すると、体中に電気ショックが流れたような痛みが走る。
「無理はいけません。昨日あれほどやられていたのですから」
「そういえば、昨日って」
ここでようやく昨夜のことを思い出す。
「あの後、どうなったんだ?」
シオンが思い出せるのは、神の剣と呼ばれる物を砕いたところまでである。
「はい。その後、私が荒井直人さんをぶっ飛ばしておきました」
「……ぶっ飛ばしたって」
「あの方は自分の意志で、シオンをぼこぼこのずたぼろのべこべこにしていましたからね。そのぐらいの仕置きは必要です」
ユウは事実を見たままの事実をそのまま告げる。
――ぼこぼこのずたぼろのべこべこって。
実際シオン自身は結局荒井直人のことを、一発も殴ることは敵わなかったことから言い返すことが出来ない。あんなに自信たっぷりでいったのに、良い恥さらしだ。
しかし、そんな荒井直人もユウにぶっ飛ばされたという。ユウは冗談をまったく言わないから、ぶっ飛ばしたという以上本当にぶっ飛ばしたのであろう。しかも、忘れてはいけないのは彼女は天使であるということだ。しかも、シオンよりも細い腕で、飛んでくる車一台を弾き飛ばす程の力を持った……。
心の中で荒井直人の冥福を祈っておくことにした。
「そういえばさ、今自分の意志って言ったけど」
先ほどのユウの言葉で気になることがあったので、尋ねてみる。
「悪魔に取り憑かれた人間って、自分の意志を無くすんじゃないの?」
昨日は気付かなかったが、改めて考えると、昨日戦った荒井直人は人の荒井直人のままであった。自分の力を誇示しようとしただけで、バールベリトの時のように別の何かに意識を乗っ取られているようには見えなかった。
「そうですね。あの方にも確かに悪魔は取り憑いていました。しかし、低級の悪魔は人の体を操るほどの力は持っていないのです。その身を操っているときは、その方の瞳の色は紅くなります」
言われて、バールベリトの瞳の色が紅かったことを思い出す。操られているという状態は、あのような状態を指しているのだろう。
「それはともかくとして」
思考を現実へと引き戻す。学校はどうしよう……。
数秒間考えた末、
「とりあえず、昼ご飯を食べるか」
そういう結論を出しておいた。
†
昼ご飯を食べた後、一応シオンは学校へと行った。とりあえず沙紀にだけは見つからないようにこそこそと放課後まで過ごす。帰りのホームルームの時に会うのだから、引き延ばし行為は無意味なのだが、伸ばさずにはいられない年頃なのだ。
ホームルーム時も、下を向いて出来るだけ目立たず、穏便に事を運ぶ努力だけはする。そして、帰りの挨拶をされ、教室の後ろのドアからこっそり脱出を試みるシオン。その目の前に、沙紀は立っていた。
「こんにちは。沙紀さん。今日も綺麗ですね」
下を向いたままそんなことを言っておく。
「そう。ありがと」
沙紀はくすくすと笑う。いや、笑い続けている。
そして、沙紀が笑い始めて一分。未だに笑いやめない。シオンは恐る恐る、顔を上げると、そこには鬼がいた。人の皮をかぶった鬼が。
「…………」
「で、何か言いたいことはある?」
とりあえず、思い浮かんだことを頭の中でシュミレーションしてみることにした。
ケース1
「沙紀さん。実は色々あって説明しづらいんだけど、第二倉庫を溜まり場にしているワイルドファングっていう族がいて、その元リーダーである金城直也を倒した、荒井直人が――」
「長い!!」
殺人パンチが脳天へと炸裂した。
ケース2
「言い訳するつもりはない」
「じゃあ、死ね!!」
殺人キックが脳天へと炸裂した。
ケース3
「先生。バスケがしたいです……」
殺人チョップが脳天へと炸裂した。
そして、結論は――――
†
「おー、いて」
シオンは頭をさすりながら、持った竹箒で安土を掃く。結局今回押しつけられた仕事は弓道場の部活前の準備である。自分が弓道部の顧問だからといって、職権乱用である。準備と言っても安土に水をまいてから掃き上げた後、的を立てるだけなので比較的楽な罰だと言えよう。
今回は良平の助けも借りず、ささっと準備を終える。
シオンが引っ込むと、道場には良平の姿が見えた。すでに袴姿に着替えており両脇に弓矢を携えている。良平の凛としたイメージによく似合っていた。
その姿を見送ってから帰ろうと、弓道場に背中を向けると、
「紫苑先輩」
声を掛けられたので振り返る。そこには袴姿の女の子が立っていた。
「よ。澄。今から部活か?」
「はい」
澄はこくん、と大きく頷く。
美住澄はシオンの一つ下の後輩だ。身長がシオンよりも低く、アーモンド色した瞳と天然のものによるブラウンの髪の毛が印象的である。中学時代から姫花と仲が良かったため、シオンとも面識があるのだ。
「あ、あのですね。先輩。その……」
どこか自信なさげにおどおどとした様子で、澄は話しかける。
「はい。えーと、少し気になる噂を聞いたんですけど」
「噂?」
「は、はい。最近先輩が女性の方と同棲してるって……」
思わずシオンは苦笑いを浮かべてしまう。そんな噂が流れているとは思いもしていなかったからだ。
――原因は。あれしかないだろうなあ。
先ほど自分を小突き回していた人の顔を思い浮かべながら、ため息をつく。本人は噂を流しているつもりはないのだろうけど、大声で言いながらシオンを小突き回しているので、筒抜けなのだ。
「……って。噂があるんですけど。先輩。そんなの嘘ですよね」
「あー」
最初誤魔化そうかと思ったが、澄のあまりにも真剣な様子に、嘘をつくことに気をひかせる。
「実はそれ、本当なんだ」
澄になら話しても良いかなと思い、頷いた。彼女なら、周りに言いふらす心配もないし、信頼をすることが出来る。澄はそういう子だ。
「――え」
「ちょっとした、事情がある子でね。澄も下手に言いふらさないでくれよな」
澄の様子にはまるで気付かず、気軽にそんなことを言う。
「せ、先輩……」
噂をすれば何とやら。三つ編みの女の子が、校門のあたりを行ったりきたりとうろうろしている。
「わり、澄。俺帰るな。部活がんばれよ」
シオンは片手を振り、そのまま行ってしまった。
†
「先輩……」
澄はシオンの後ろ姿をじっと見つめている。その様子は、どこか思い詰めているように見え、危うい雰囲気を漂わせてる。
シオンは身長が小さいながらも、女子生徒から人気がある。容姿は整っているし、運動神経は言わずもがなだ。
そんなシオンのそばには常に一人の女性がいた。白雪姫花である。
二人は付き合っているわけではなかったが、端から見ると付き合っていると何ら変わりない付き合い方を二人はしていた。だから、シオンに声をかける人はいなかった。
半年前の事故。その時、シオンは三日間だけ学校を休んだ。
再び登校してきたシオンは普段と全く変わらぬシオンだった。いつものように笑い、いつものように怒る。本当に変わらぬシオンだった。一つのことを除いて。
シオンを元気づけようと、女子生徒達は彼に話しかけたりもした。
結局、シオンの隣にいることが許されたのは、白雪姫花ただ一人であることを改めて知らされるだけであった。
そんな中で、澄もシオンに好意を寄せている一人である。
いや、好意と言うよりも憧れに近い感情であった。
いじめには理由は無いという言葉がある。それは、どんな些細なことでもいじめの理由になり得るということであろう。しかし、いじめられる人はやはりいじめられるし、いじめられない人はいじめられることはない。澄のように、天然のブラウンの髪の毛などはいつでも、いじめの些細な理由に留まらず、一番の対象たりえるのだろう。
中学一年の時だ。それは良くある光景。上級生に校舎の隅に呼び出された澄。
その現場に丁度通りかかったシオンが、だっせぇ真似はすんなよな、と上級生達に向けて言い放ったのだ。
その次の日、澄の代わりにシオンが呼び出されたのだ。そのことを聞いた澄は、慌ててその現場に向かったときには、すでにシオンは戻ってきているところだった。
尋ねる澄に、シオンは素知らぬそぶりで答えた。しかし、頬には赤いあざがあり、何があったかは明白である。
素敵な先輩だと思った。とても素敵な先輩だと、心の底から思った。
だから、今まで自分の思いは我慢できていたのだ。
大好きな白雪先輩となら。素敵な白雪先輩となら。
だけど、何故、あんな人と?
シオンはユウを見つけ、楽しそうに笑いながら並んで歩いていた。その様子を、眺めていた澄の耳元に、一つの音が響く。『妬ましいでしょう』と。
†
静かな部屋。元々静かな病院の中で、更に静かなこの部屋だ。時の流れが止まってしまった一室。
姫花の部屋に立つシオン。
運の悪いことに姫花の両親は事故にあってから、海外への転勤が決まってしまった。両親は、姫花を自分たちが赴任する近くの病院に移動させようとしていたのだが、シオンが近くにいたい、とお願いしたのだ。
部屋の空気を入れ換えるため、窓硝子を開いた。
柔らかな風がふわりと、部屋の中を吹き、姫花の髪とシーツがゆらゆらと少しだけなびく。止まった時間が少しだけ流れる。
「あれから、もう半年も過ぎたんだな」
やることがなくなったシオンは、パイプ椅子に腰掛けてぼんやりと呟く。
言うシオンにはそのことの実感は全くない。時間の流れを感じるのは季節の変化だけで、そのことがシオンに変化をもたらしてなどいない。姫花が時間を止めてしまったように、シオンもまた時を止めてしまってる。
見ると、花瓶にさされたエーデルワイスは風に吹かれ、揺れている。
姫花がエーデルワイスを好きなのは、映画『サウンドオブミュージック』の影響である。
『わたしは、マリアみたいな先生になれたらいいな』
それが彼女の口癖であった。
マリア先生と言われてシオンが最初に想像してしまうのが、沙紀であった。
『えーと、沙紀さんみたいになりたいの?』
『あはは。唄って踊れる沙紀さんだ』
シオンの感想に嬉しそうに姫花は答える。唄って踊る沙紀を想像し、シオンも笑う。
『あ、いけないんだ。今度笑ったこと沙紀さんに伝えてやるー』
『何言ってんだよ。だって、沙紀さんだぜ。津軽海峡冬景色をハイテンションで唄っている姿しか思い浮かばねえって』
そういうと、姫花はけたけたと笑った。
その様子はまるで悪意無く、見ている者を心地よくする。それはシオンも例外ではない。
しかし、彼女は結婚式のシーンまでしか見たことが無く、最後まで見たことがない。何度見直しても結婚式のシーンが終わると、停止のボタンを押してしまうのだ。何で最後まで見ないのと尋ねると、『……だって、あのシーン以降は必要ないからね』と、曖昧な顔をして答えた。
ひょっとすると、バッドエンドだと思っているのかと思いきや、そんなこともないようである。最後のシーンが好きなシオンからすれば、よく分からない話である。
しかし、花瓶にさされたエーデルワイスの時間も、ドライ処理をしているために止まってしまっていた。
――時間が流れたら、この痛みも消えてしまう。
現実が、この痛みを忘れ去らしてしまう。
シオンにはそのことが恐ろしかった。
姫花がいない現実に慣れることが。
けれども――
部屋の入り口に立っているユウを見る。
時間は確かに流れてる。永遠に同じ場所になどは立っていられない。
シオンには好きな本がある。騎士と姫君という名の本が。信念を持った騎士は、気高き姫を守りきった。ただ一人の姫を守りきった。もしも、騎士が姫を守れなかったなら、その騎士は一体どうするのだろうか。大切な者を守れなかった者、騎士を目指していた者はどうすればいいのだろうか。
シオンには未だにわからない。
†
病院から出てくるシオンとユウの姿を、遠くから見据えている影がある。
その場所は廃ビルの屋上。元々高地に位置するそのビルの屋上は、青葉台の町全体を見渡すことが出来る。
「先輩……」
すでに町には夕焼けがさしており、風も冷たくなっている。強い風が吹き、スカートをはためかせた。少女はスカートの乱れを正すこともなく、ただ二人を見据えてる。布に包まれた二メートルほどの棒と、黒い筒をがたがたと震わせて。
†
次の日。シオンは朝から学校に行き、ユウは家の中に残される。
悪魔に関する情報も無い以上、特にするべき事もないユウは椅子に座り、本をぱらぱらと読んでいた。本のタイトルは騎士と姫君。随分と読み込まれた物であることは、表紙の汚れや、ページのよれ方から見て取れる。
最後のページをくろうとしたとき、居間のほうから電話の音が鳴り響いた。携帯の音ではない。家に備え付けてある、電話の方だ。
時代に取り残されたような、黒電話。その受話器をユウは持ち上げる。
「もしもし」
『あ、あの……。どちら様でしょうか』
「私はユウと申しますが」
問いにユウが正直に答えると、電話の主はそのまま沈黙してしまった。ユウはそのまま受話器を持ったままの姿勢で待つ。
『その。ここは、春さんのお宅ですよね』
「はい。そうですが。どちら様でしょうか?」
ユウはマニュアル通り尋ねてみる。
『すみません。あの、どんな事情があるのかは知りませんけど。せ、先輩から離れてくれませんか』
「何故です?」
『先輩に必要なのは貴方なんかじゃない!!』
電話越しに響く怒声。ユウは思わず受話器を耳から遠ざけてしまった。それから、ユウは手に持っている本を見てしまう。
「そうかもしれません。でも、シオンは――私にとって必要な人です」
『――――!』
はっと息を飲む音が聞こえた。
「そして、大事な人だから、離れることは出来ません」
ユウははっきりと言い切ると、つーつーと電話が切られた。
受話器を戻すと、窓硝子が割れる音が響く。直後ユウの目の前の壁が穿たれた。
「……これは」
ユウは壁を調べると、一本の黒い矢が突き刺さっていた。
†
シオンは外を見ながら、大きな欠伸をする。ここ数日間、色々ありすぎたせいで、授業中という平穏な時間は気が抜けてしまう。このまま眠ってしまいそうな勢いだ。
しかし、意識が落ちる前に四限目の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
「んー」
シオンは教科書とノートを机に戻して、立ちあがる。弁当など持ってきていないわけだから、購買部でパンでも買おうと思い、廊下に出ると沙紀が待っていた。
「あれ沙紀さん、どうしたの?」
今まで授業があったのか、沙紀は首にホイッスルをかけており、ジャージ姿のままだ。
「ねえシオン。澄ちゃんのこと知らない?」
沙紀の言葉にシオンは首を傾げる。
「澄って、何かあったの?」
「んー。いやね、澄ちゃんが昨日から家に帰ってないらしいのよ。それに学校にも来てないし」
沙紀は困ったという風に頭を抱えた。
少なからず驚く。澄はシオンと異なり、真面目な生徒で学校を無断欠席するようなことはしたことはない。
「でも、ま。一日だけだしねー。澄ちゃんだってそういうことしたい年頃でしょー」
と、思っていたら沙紀はからからと笑いだし、がっくりと肩を落とす。
「だったら、何で俺に聞くのかなあ」
「だって、シオンだしねえ……」
沙紀は含みを持たせた視線を、ちらちらとシオンに向ける。
――どういう意味でしょうね。全く。
「全く。どっかのちびは毎日のように学校をさぼるし、矢は道場から盗まれるし、ストレスで肌が荒れるわ、こりゃ」
「ストレスなんて、まるきりないくせに」
ぼそっと呟いたはずなのに、すぱーんと景気よく頭をはたかれるシオンであった。
†
白い風が住宅街を駆け抜ける。
かん、かんとユウが通った後の、ブロックの塀に穴が撃たれてく。
「く――」
遠距離からの射撃。襲いかかる矢の軌道は様々で、ユウには狙撃者の位置を把握することが出来ない。ユウに出来るのは、視覚と聴覚だけを頼りに、同じ場所にとどまらず走り続けること。唯一、真昼という時間帯のおかげか、道には人通りがないのだけがユウにとっての救いであった。
襲いかかる矢、矢、矢――――ほぼ十秒の間隔で撃ち放たれる矢。
しかし、放たれる単発の矢など、その感覚に慣れてきたユウには通用しない。
狙撃者は、一射、一射、弓を引き、矢を放っているのだろう。そして、放たれた矢を操作して、ユウに狙いを付けているのだ。おそらく、相手の能力は、超視覚と矢を操る物。
ユウの推察は当たっている。狙撃者はビルの屋上に立ち、一本ずつ弓を構えては、矢を放つ。
ユウは飛翔する矢を、超人的な感覚を持ってして掴み取った。
そのユウの様子を確認したのか、矢はぱったりとおさまる。
……諦めた。あるいは、時間差を狙っての攻撃か。
ユウは、油断することなく辺りに神経を張り巡らせる。そして、思考では一体どのポイントから狙撃に適しているかを思考する。そのため頭の中に、自分の足で歩いて覚えた青葉台の地図を呼び出す。そして、最適なポイントを推察する。
瞬間。再び矢が襲いかかる。
ユウは三つ編みをなびかせて、矢をかわす。矢はアスファルトを砕き、先端が折れ曲がったまま地面へと落ちた。
その矢を拾い上げてみる。
今までの黒羽と異なる白羽の矢。その昔、人身御供を求める神が、求める少女の家の屋根に立てると言われた白羽の矢。込められた意味は、次で仕留めるといった物であろうか。
ユウは唇を吊り上げる。悪いが、こちらこそ仕留めさせてもらう。立ち上がり、高台にある一つのビルを睨み付ける。
屋上に立つ狙撃者もユウを一瞥した後、再び弓を構えた。
疾走をはじめたユウに向けて、遮るように白羽の矢が襲う。時速三百キロを超える速さだが、ユウは手刀で叩き落とす。
矢は軌道を変え、アスファルトへと叩きつけられる。しかし、羽が剃刀のように腕を裂き、血が流れ落ちる。ユウは自然とその矢の軌道に視線をつられる。
先程までと異なる白羽の矢。
その矢に、ユウは違和感を覚え――しゅん、と矢がユウの頬を掠めた。
「な」
咄嗟に避けなければ、間違いなく射抜かれていた。
ユウは思考は混乱させる。今の射撃、第一射からの間隔は約三秒。
……読み違えた。
今までのはフェイクで、本来はこの速度で矢を射ることが出来る――直後、腕を掠める白羽の矢。超速の羽によって、断たれる腕。舞うは鮮血。
「な――」
ここでようやくユウは自分の推察の間違いに気付く。
狙撃者が一射に要する時間は約十秒。しかし……。
†
屋上に立つ美住澄は、弦に矢をかけ、打ち起こす。服装は制服のままで、皮の胸当てだけをつけているだけだ。胸は開かれ、バランスよく均等に割り振られた力。引き分けられた状態で、制止する。
……一……二。
心の内で、数を数える。弓を引いた腕が微かに震える。
――放れ。
右手にはめられたゆがけを弾き、矢も放たれる。
澄は矢を放った姿勢のままで、再び制止した。残心と呼ばれる状態である。
澄は姿勢を戻し、地面に置かれた矢を拾う。構えて、起こして、引く。そして、矢を放つ。
矢を放ち、次の矢を放つまでの間隔は約十秒。足踏みから始まり、残心で終わる、射法八節と呼ばれる弓道における基本を全て守った、正しい射法で放たれる。三秒ほどで放つ速射などは行っていない。
更に八本。同じように矢は放たれる。
矢を放ち終えた澄は、ようやく弓を降ろす。
そして、弓を持たぬ右手をユウが走る方向へ向けて、
「行きなさい――」
宙に浮かぶ十本の矢に向けて、強く命じた。
†
少し考えれば分かること。放たれる矢は、色々な角度を持ってしてユウを狙い撃つ。だったら操作する矢を待機させ、まとめて発射することなどどれだけたやすいことか。
ユウは右肩を押さえて、襲いかかる矢を迎え撃つ。
視認できるだけで六本。風切り音から判断すると九もしくは十本。
……避けきれるか?
今自分が思ったことをユウは疑念を抱く。
避けきれるかではない。避けなければならないのだ。
そんな風に思考する自分にユウは戸惑ってしまう。
一本目を左手で叩き落とし、二本目を右手で払いのけ、三本目は……間に合わない。
ユウは目を大きく見開き、思考を更に加速させる。
三本目――――四本――五六七――
八本目が足を掠めた。激痛がユウの脳髄を刺激する。
ユウは顔には何も出さないが、そのことが反応を零コンマ一秒遅らせた。ユウは急所だけは貫かれぬように、身を縮める。
しかし、二本の矢は刀によって弾き飛ばされた。
「危ねーな。何だ今のは」
「シオン!!」
そこにはシオンが刀を片手に、学生服姿で立っていた。
†
「シオン。何故ここに?」
「なんでって……」
昼休み、結局あれから澄のことが気になったシオンは、一度家に携帯を取りに帰ったのだ。そしたら、またしても家の鍵は開いており(ユウは何故か鍵を毎回閉めずに勝手に出かける)、窓硝子が割れていて、電話機のそばには矢が落ちているではないか。
これは何事かと思い、矢が落ちている後を追ってきたら、ユウがそこに倒れていたのだ。
「それよりも、これは一体何が起こっているんだ?」
道路の状況を見て、眉をしかめる。そこらかしこに撒き散らされたように、矢が落ちている。しかも、ほとんどの矢が間ぐらいで曲がっており、もう使い物にはならないだろう。
とりあえず刀は持ってきたのだが、悪魔に襲われているであろうという推察くらいはたつが、ほとんど状況が分からない。
「申し訳ありません。私もよく状況が分からなくて。何分相手の攻撃が、遠距離からの狙撃ですので」
ユウは足を押さえて立ちあがる。そこで、彼女のはいているジーンズの、太ももの部分が裂けているのに気がつき、眉をひそめた。
「大丈夫?」
「はい。問題はありません。それよりも――」
ユウは高台を指さした。
「狙撃手のいるのはあのビルです」
「あそこは」
その指の先には一つの廃ビルが建っている。
「それよりもシオン。相手の攻撃はまだ終わっていません。注意してください」
「攻撃って」
刀を正眼に構え、周囲に注意する。シオンがユウの元に駆けつけて、一分近く過ぎるが、新たな矢が飛んでくる気配は今のところはない。
「相手は、バールベリトなのか?」
「いえ、違うと思います。相手はシオンと同い年くらいの女性かと思いますが」
「……女性?」
何でだか嫌な予感だけが増してしまう言葉だった。
†
シオンたちがそのビルにたどり着くまで、新たな射撃は行われなかった。そのために、彼らが廃ビルにたどり着くまで、それほどの時間はかからなかった。
シオンが屋上に続くドアを蹴り開けると、そこには一種異様な光景が広がっていた。
「澄。学校まで休んで一体何やってんだよ」
自分の動揺を出来るだけ外に出さず、いつもの軽い調子で話しかける。
「紫苑先輩こそ。何をやっているんですか」
澄は俯いたまま、押し殺したような声でシオンに答える。
「何をって」
「先輩こそ何をやっているんですか!!」
悲痛さを隠すことのない怒声であった。
何も言えないシオンに、澄は顔を上げる。不思議な表情だった。茶色の瞳は泣きそうなほど潤ませて、口元だけが笑ってる。
「何で、そんな人と一緒にいるんですか。先輩は、白雪先輩と一緒にいないといけないのに」
澄は右手でユウを指さす。
「それは――」
「聞きたくありません!!」
シオンが事情を説明しようとしても、澄は髪の毛を振り乱して聞き入れない。
「私。紫苑先輩のことが好きなんですよ……」
そして、澄は告白をした。それはもっとも深いところに沈めたはずの思いなのに。決して、開け放たれる思いではなかったのに。口にしてしまった。でも、一度口にしてしまったせいか、決壊したダムのように止めることは出来ない。
「私は本当に紫苑先輩のことが好きです。大好きです。そんな……人よりも、ずっとずっと!」
こんな状況ながらも、ぽかんとしてしまう。
「俺のことを? 何で?」
思わず聞き返してしまうと、澄は顔を少しだけ俯かせた。前髪が瞳を隠し、笑っている口元だけがシオンに見える。
「私が中学一年の時。いじめられていた私を先輩が助けてくれたときから、ずっと好きでした……」
「中一の時?」
――そんなことあっただろうか?
シオンには澄の言うことは思い出せなかった。
「ふふふ、やっぱり思い出せませんか。でもね、そこが先輩の凄いところなんですよ。普通の人は、良いことをしたら忘れたりしません」
くすくすと澄は笑う。
「そんな先輩が私は好きなんです。だけど――」
再び顔を上げた澄は、ユウを睨み付ける。
「白雪先輩となら、諦められた! 白雪先輩となら、この思いを閉じこめることが出来た。でも、貴方なんて!」
澄が手をかざすと宙に浮かぶ矢がユウを向く。
その数は十やそこいらできく物ではない。五十以上。矢という矢がシオンの視界を埋めている。
「澄!」
シオンは矢とユウの間に咄嗟に割り込み、放たれた二本の矢を払いのける。
「澄、聞いてくれ。俺は――」
「そんな風に、その人を守る先輩なんて!」
聞く耳を持たぬ澄に背を向け、ユウの手を取り屋上のドアまで走る。そのまま、ドアを閉めた。これで、少しだけ時間を稼ぐことが出来る。
「俺は――」
自分の拳を握りしめる。その言葉の続きを言うことが出来なかった。
そして頭の中では、澄の言葉がリフレインし続ける。
その人を守る……。守る。守る。守る。
隣に立つユウを見ると、
「シオン?」
髪の毛を三つ編みにして、大きな黒い瞳。姉の服に身を包んでいる、いつもと変わらぬユウがそこにいる。隣に立っているのは姫花ではなく、ユウだ。
嫌でも自覚する。バールベリトを討つための協力と言ってみても、やはり自分はユウに姫花のことを重ねているのだろうか。あの時守れなかったから、今度こそは、と。
「シオン、来ます!」
ユウの声で我に返り、刀を握り込んだ。
†
――騎士に憧れた少年がいた。騎士になりたいと思った少年がいた。
幼少の時に騎士は一人の少女に出会った。けれども、守ることは出来なかった。その騎士はまた少女と出会った。少年はきっと――
†
「はあはあ……」
嵐のように襲いかかる矢の雨を何とか退けて、呼吸を整える。
「大丈夫ですか、シオン?」
切れの悪いシオンに、ユウは心配そうに声を掛ける。
しかし、シオンはどうしても襲ってくる矢に集中できない。
未だに、澄の言葉が耳から離れない。
姫花と一緒にいなければならないといった澄の言葉が。ユウのことを守る先輩なんて、と言った言葉が。
――自分は、あの時守れなかった。
姫花を守れなかった。
そうだ。そうなのだ。自分は守れなかったのだ。
今更のように、そのことを認識する。
次にシオンは再び、屋上の扉を開いた。
「シオン!!」
ユウは驚きの声を上げる。今まで矢を撃ち落とすことが出来たのは、部屋の中という利点をいかしてのこと。屋上のように、開け放たれた空間で矢を阻む壁がなければ、防ぐことは果てしなく困難な物になるであろう。
「澄」
「紫苑先輩」
散々撃ち放たれたであろうに、澄の周りには未だに十本以上の矢が浮かんでいる。
「何のつもりですか、先輩?」
少しだけ冷静になったのか、澄はシオンのことをまっすぐに見る。
「俺は彼女を、ユウを守るよ」
シオンははっきりと告げた。
その言葉に、どのような意味が込められているのか。
「そんなこと――」
矢が数本放たれる。それは澄の意志ではなく、ただ感情に反応しての物。いや、それ自体が意志なのか。
しかし、シオンは数本の矢を斬り捨てる。
「――だって、そんなの。紫苑先輩らしくない」
「俺は、そんな格好良くなんかない」
――一人暮らしのくせに料理だって下手だし、学校の勉強などはほとんど分からない。そして、大切な人一人すら守れはしない。
刀と矢のシャフトのぶつかり合う金属音が鳴り渡り、響きわたるは多重奏。コンクリートにぶつかって、はじける矢がくるくると宙を舞う。
「大切な人を守れなかった奴は格好悪い」
騎士になりたいと思ったシオン。格好良い騎士になりたいと願ったシオン。
「だけどな。どんな理由があろうと、目の前に困っている人がいるのに、見て見ぬふりをするのは最低だ」
事故に遭ってから、時を止めた姫花と同じように、時を止めてしまったシオン。
しかし、そのことが意味するのは、ただの逃避だった。
格好を付けて、守れなかったという現実を認めずに、向き合うことを恐れていて。ただ、自分の殻に閉じこもり、前に歩くということを拒絶して。
澄の言葉でようやく、そのことに気がつくことが出来た。
そして、全ての矢を叩き落としたシオンは、澄のほうを向く。
弓を抱くようにして抱える澄は、潤ましたアーモンド色の瞳をしてシオンを見ている。
その澄に、告げる。はっきりと告げた。
「だから、俺はユウを守る。今度は守ってみせる」
†
「先輩……」
澄の瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
本当は分かっていた。
シオンのことだ。彼ならこうとしか答えないだろう。澄には、他のことを答えるシオンの姿を想像することなど、初めから出来なかった。誰よりもシオンのことを見ていた澄だからこそ、そのことしか想像することが出来なかった。
「紫苑先輩」
でも、それでも認めることが出来なかった。子供じみた感情だと自身でも分かっていたというのに、どうしても納得することが叶わなかったのだ。膨れあがった感情の濁流に呑み込まれることしか出来なかった。
シオンは刀を鞘に納める。
「ふふふ。はははは……」
すると澄は天を向き、唐突に笑い出した。狂ったように続く哄笑。
ぞくりと肌を貫く悪寒に、シオンは再び刀の柄に手をやらずにはいられない。
哄笑は止み、澄は顔を降ろす。その瞳の色は、真紅に染まっていた。魔を宿した紅色に。
「澄……?」
「ふふ。久しぶりだねえ、花嫁」
澄はシオンをすでに見ておらず、その瞳をユウに向けている。
「久しぶりですね、ファルズフ。二千世界ぶりでしょうか?」
「おや、もうそんなになるのかい。世界の流れっていうのは早いもんだね」
澄は妖艶に微笑む。普段の澄からは想像できないその笑みに、シオンには澄のことがまるで別人のように見える。
「ファルズフ?」
「はい。嫉妬のファルズフ。司教や修道士のように禁欲であらねばならぬ人を誘惑する存在です。おそらくはスミの内に秘めた思いを利用したのですね」
ユウはシオンを見ずに、澄……ファルズフを睨み付けたまま教える。
「ああ、そうだい。今時見ない愚かしいほど純真な子でねえ。誑かすのは、簡単だったさね」
「――てめえ!」
シオンは再び刀を構えて、駆け出す。
ファルズフが右の手の平をシオンへと向けると、空気が波打つように振動した。
「ぐは」
発生した衝撃波に反応できず、吹き飛ばされて、コンクリの壁に背中から激突する。
「坊やは大人しくしときなさいな。何も殺すつもりなんて無いんだからさ」
「……ど、う……いう」
コンクリがひび割れるほどの衝撃だ。内臓がぐちゃぐちゃに混ぜ返されたような嘔吐感に襲われる。
「あたしらの目的は花嫁を殺すことだけだからね。ま、こう見えても坊やには感謝しているんだよ」
「ファルズフ!」
ユウが駆けるの同時に、ファルズフは矢を持たずに弓を引いた。
しかし、弦を引き終えると、一本の矢が構えられている。通常の黒いシャフトとは異なる白く発光する矢。
放たれる矢。その矢を咄嗟に身を反らし、ユウは避けた。
狙いを外した矢は、空を裂き、コンクリートを打ち砕いた。それはまるで爆弾のように、コンクリートに触れた瞬間爆発し、半径一メートルほどのクレーターが穿たれる。
「遅いね」
ファルズフの弓から、第二射が放たれる。
浅い角度の軌道を描く矢。その矢を避けるユウの足下に突き刺さり、爆散する。生まれた衝撃にユウの体は宙を浮く。
「く!」
体をひねり、たんっと壁面に着地するユウに向けて放たれる第三射。ユウは三角飛びの要領で壁を蹴り、飛び退いた。後には、バラバラに砕かれたコンクリートだけが残る。
触れたら爆発する矢が相手では叩き落とすわけにもいかず、ユウはひたすら避け続けることしかできない。
歯がみする。人の身とは何て不便な物だろう。このような物を避け続けることしかすることが出来ないなんて。人の身でさえなければこのような物など、とるにたらない存在なのに。干渉すらまともに出来ぬこの体なんて。
情けない。実に情けない。何故自分は――
「どうしたのさ。そんな様じゃ神の花嫁の名が泣くよ!」
けたけたと笑うファルズフ。しかし、その手を休めることなく矢を放ち続ける。激しい閃光と砕けたコンクリートを撒き散らす。
ユウはちらりとシオンを一瞥した。シオンは刀を杖代わりにして立ちあがるところだった。
その様子を見たユウは突然方向転換をした。ファルズフに向けて、一直線に駆ける。
「狂ったのかい!」
放たれる矢。しかし、ユウは尚もまっすぐに走り抜ける。その瞳は、まっすぐにファルズフを見据えている。
その矢は――
「たあ!!」
横から飛び出したシオンが断ち切った。矢の爆発を包み込むように、振り切られた刀は白く発光し、飲み込んだ。
「馬鹿な……」
ファルズフは驚愕の声を上げる。
そして、その様子に澄は少しだけ微笑んだ。
「終わりです」
ユウは手刀を一閃させた。
†
気を失った澄の体を、シオンは抱きかかえる。
「全く、無茶苦茶暴れやがって」
屋上の惨状を見ながら、ため息をつく。
クレーターの数もさることながら、屋上に撒き散らされた矢の数も凄い。おそらく、弓道部の矢なのであろうが、そのほとんどが折れており使い物にならない。沙紀が頭を抱えている様子が目に浮かぶようである。
「そういえば、最後のあれ。何でまっすぐに突っ込んだの?」
シオンが飛び出していたから良い物を、そうでなかったら間違いなくユウの体は射抜かれていただろう。
「シオンが守ってくれると言いましたから」
ユウは答えながらも、心の内では混乱していた。
頭の内を、今のシオンの言葉が何度も何度も繰り返される。
――何でまっすぐ突っ込んだの?
その答えは先程答えたとおりである。その言葉には偽りはない。
だけど……。
ユウは胸の内に、言葉にならない不安で満たされていく気がした。