第五章

 

 春紫苑。それは白い花弁を持つ、春に咲いた雑草の名前。
 シオンが幼い頃、この名前がとても嫌いだった。
 だって、雑草なのだ。
 子供の頃、そんなことが理由で虐められていた。
 その時から、他の子供達よりも強かったシオンを、暴力を持ってして虐める者などは当然いない。けれども根は深く、影ながら密やかに、じっくりと広がっていく。
 そのことに対して、シオンは暴力を持ってしか報復をすることは出来なかった。
 喧嘩で負けた子供達は不満がたまる。
 そして、妬みや嫉妬の声が深く深く、浸透していく。


 †


 目を開いたシオンは、いきなり強い衝撃が走る。
「一体……」
 頬を左手で押さえながら、叩いた本人沙紀を見る。
 沙紀は思い切り瞳を吊り上げて、シオンのことを睨み付けていた。そして、シオンのことを何よりも驚かせたのは、その瞳を充血させ、潤ませていたことだ。
「一体、じゃないわよ! あんた一体何してたのよ!」
 沙紀は大声で怒鳴り散らすだけで、何が起こっているのかシオンにはさっぱりと分からない。
「姉貴、落ち着け」
「姉貴じゃない。先生って呼びなさい!」
 沙紀の隣に立っている良平が諫めるも、彼女はまるでおさまる気配がない。
 体を起こそうとするが、反応がまるで鈍く動きづらい。体を起こすことを諦め、右腕を動かそうとする。しかし、右腕は反応が鈍いどころかまるで動く気配がなかった。見てみると右腕包帯でつられていた。
「シオン。お前は白雪の部屋で倒れているところを、看護師の人に見つけられたんだ」
「そうか……」
 何とか沙紀を宥めた良平の説明に、少しずつそのときのことを思い出す。
 どうやらあのまま泣きながら気を失ってしまったらしい。
「大騒動だったんだぞ。見回りの看護師が気付いてくれたから良かったものの、お前の傷は酷かったんだ。深夜から朝方まで手術はかかったそうだな。夜中に駆り出されたであろう、医者と看護師には後で感謝しておけ」
「……ああ」
 言われるままに頷く。
「あと、お前の傷は刺し傷だったからな。後で警察が話を聞きに来るだろうが、それはともかくとして、何があった?」
 シオンが答えないでいると、それまで黙っていた沙紀が胸ぐらを掴んで、自分の顔のそばまで引き寄せる。
「何なの、その態度は。こっちがこんなに心配しているって言うのに。そんな大怪我して、右腕はもう動かないかもしれないっていうのに」
「え……」
 左手で右手をつねってみる。まるでゴムにでも触れているかのような感触だった。自分の右腕とはとても思えない。まるで良くできた模型にでも触れているようである。当然自分の意思で動かすことは出来ない。
「何があったの、シオン?」
 言葉を失うシオンに、沙紀は今までとうってかわり柔らかい声音で尋ねる。
「ごめんなさい」
 全てをぶちまけたい衝動に駆られるも、横を向いてぼそりと謝った。
 沙紀は大きくため気をつく。
「……あんまり心配ばかりかけないで。シオンのことは、香奈に頼まれてんだからさ」
 そう言って、沙紀は病室を出て行った。
「言葉の通り、姉貴は凄い取り乱していたんだぞ」
 入り口を見ながら良平は言う。そのことを重々と承知しているシオンには、頷くことしかできない。
「何があったのか、俺にも言えないことか?」
「ああ。言えない。こればっかりは良平にも言えないよ」
 今、自分が思っていることを口にしたら、良平はどう思うだろう。一つの恐怖がシオンをむしばみ、口を閉ざす。
 すると、良平は鞘に入った刀を放る。
「これは」
 中央で刀身がへし折れている刀。紛れもなくシオンの刀だ。
「お前が寝言で、公園が、剣がどうとか言っていたからな。行ってみると、折れた刀が落ちていたから、気になったから持ってきたんだ。お前のか?」
「……ああ」
 その刀を手に、再び黙り込むシオン。良平は二度頭をかいて、
「まあいい。またいつかそのことは聞くとして、鍵を借りるぞ。後で、お前の家から着替えを持ってくるから」
 そう言って、良平も部屋を出て行った。病室にシオンは一人残される。昨夜から降り出した雨はまだ止んでいない。
 一人きりになると、ようやく昨夜のことが実感が湧いてくる。
 姫花のこと。バールベリトのこと。そして、ユウのこと。
「俺は」
 まだ麻酔が効いているのか、意識が薄らいでいくのを感じる。
 そのため思考が単純化し、一つのことだけが残っていた。
 後悔だった。


 †


 何か夢を見た。神の欠片による、ユウの記憶ではないのだろう。見えるものは鮮明なものではない。だからこれは、いつも見るようなとりとめもない夢なのだろう。
 そしてシオンは目を開く。雨音は聞こえない。どうやら止んでしまったようだ。
「先輩。目を覚ましたんですか?」
 枕元には澄が座っていた。
「ん、ああ。お早う」
 挨拶をし、体を起こす。鉛のように体が重い。
「いえ、そんな。い、いいですよ、横になっていたままで」
 澄は慌てて、シオンをもう一度横に寝かそうとするが、首を横に振り断る。
「その。それで、先輩の右腕のほうは大丈夫なんですか?」
 気つかわし気味に澄はシオンの右腕の包帯を見る。
 右腕に力を込めて見るが、やはり動かなかった。そこだけコードが切れてしまったようである。
「見ての通りだよ」
「先輩。可哀想……」
 澄は泣きそうな顔をして、シオンの右手を手に取る。手の甲を優しく撫でるが、シオンにはその感触は伝わらなかった。
「別に、全然可哀想なんかじゃないよ」
 当然のことと言わんばかりの口調であった。
 まだ麻酔が効いているのだろうか。思考がほとんど回っていない。
「そんなことよりも、この間は悪かったな。馬鹿みたいに偉そうなことを言って」
 本当に何て馬鹿なことを言っていたのだろう。
 シオンは傍らに置かれた刀を見る。折れた刀。
 自分は一体何をしたかったのだろうか。思いっきり泣いてしまったせいか、今となっては全てが遠いことのように思える。
 姫花を守りたいと思った。けれども、彼女を守ることは出来なかった。
 ユウを守ろうと思った。けれども、彼女は自分に牙を剥いた。
「最初から守るべきじゃなかったんだろうな」
 横を向いたまま、ぽつぽつと呟く。
 それは澄に向けられてのものではなく、自分の内へと向けられたもの。
 姫花の怪我は、自分が原因だったのだ。自分の内に眠る神の欠片なんてものを滅ぼすためにユウに襲われた。最初から、自分は相手を不幸にする道しかなかったのだ。
「先輩。それは、本気で言っているんですか?」
 澄を見もせずに、頷く。
「本気で言っているんですか、って聞いているんです!」
 澄は病院であるにも関わらず、大声を張り上げる。もう一度頷いた。
 乾いた音が響いた。
 頬を押さえて、初めてそこにいることに気付いたように澄を見る。
「先輩は情けなさすぎます。格好悪すぎます!」
 澄は小さな拳を震えるほど握らせて、唇を強く噛みしめて、それでも言葉を続ける。
「先輩のあの時言っていたことは、所詮そんな程度の思いだったんですね」
 シオンは所在なさげに頭をかく。澄は泣いていた。
「ああ、俺は本当に格好悪いんだ」
「……先輩?」
「情けないけど。怖いんだ。今でも指先が震えてくるよ」
 左手を顔の前まで持ち上げると、言葉の通り震えている。
 ユウのことも、バールベリトのことも全てが怖い。彼らは、自分とは住む世界があまりにも違いすぎる。今更のようにそのことを理解させられた。
 結果として残ったことは、最初にあったときと同じように、手も足もだすことは出来なかった。刀も砕かれてしまった。今もベッドの横に折れた刀が立てかけられている。
 でも、そんなことよりも問題は、自分はユウを目の前にして何も出来なかった、ということ。あの時の夜色の瞳をしたユウを前にして、自分は何もすることが出来なかった。自分のことが餌としか思えなかった。
 情けない。本当に情けない。
「でも、先輩は……。怒って、いるんですね」
 澄は顔を拭いながらそんなことを言った。
 ――怒っている。
 言われてそのことを自覚する。自分は今確かに怒っているのだ。それは何にだというのか。
 半年前に誓ったことを果たせない自分自身。宿敵とも言える人物を前に何も出来なかった自分自身か。
 色々なことが頭の中を巡っていく。
 バールベリトの言っていたこと。ユウを殺すと、姫花を助けてくれるという契約。仮にバールベリトの言葉が偽りであったとしても、ユウがお互いの敵であることには変わりない。
 そして、春紫苑。自分のことだ。
 半年前に誓った。姫花にあんな目に遭わせた相手を絶対に許さない。絶対に許すことが出来ない。そのためだけにこの半年間生きてきたのだから。半年もの間、姫花はずっと一人きりだったのだ。ずっと一人きりで、あのベッドの上に眠り続けているのだ。
 そして、ユウのこと。全ての存在に対して偽りの天使。悪魔達の唯一の敵。そして、半年前にシオンたちを襲い、姫花にあのような目にあわせた彼女。そして、神の欠片というもののためだけに自分に近づいてきたユウ。自分を殺すためだけに、近づいてきたユウ。
 そして……。
「あの、せ、先輩」
「ん」
 澄の方を見る。
「紫苑先輩のしたいことって何ですか?」
「俺の、したいこと?」
「先輩の、思っていたことって何ですか?」
 体を起こし、ベッドの脇にある刀に手を伸ばす。
「紫苑先輩……?」
 シオンは肩で鞘を挟んで、器用に刃を抜いた。中央で折れているとはいえ、白色の綺麗な直刃が姿を見せる。左手でその刀身に触れてみる。温かくもなければ、冷たくもない不思議な感触であった。
「そうか。そうだよな」
 一度目を閉じる。もう一度澄の言葉を頭の中で繰り返す。
 自分がしたいこと。思ったこと。半年前に誓ったこと。子供の頃に憧れたこと。
 そのことがようやく自分の中でまとまっていく。
 そうやって目を開いたシオンの瞳には、すでに迷いはない。その瞳には強固な意志が再び宿る。
 たんと音をたてて、ベッドから身軽に立ちあがる。左手に刀を持って。
「悪かったな、澄。こんなだっさい先輩でさ」
「い、いえ。先輩は私にとって、いつもヒーローですよ。本当ですよ」
 顔を真っ赤にする澄。そんな澄に、シオンは笑いかけ、
「ヒーローじゃない。騎士見習いさ」
 そう言ったシオン見て、澄は笑い返すことが出来た。


 †


 良平が病室に戻ってくると、シオンの姿はすでになかった。
「もしかすると」
 良平は姫花の部屋へと行ってみる。
 しかし、その部屋には一人の少女が眠っているだけである。すでに部屋から血と水は綺麗に拭き取られていて、元の清潔な状態のままである。
 ある物に目がとまり、良平は不敵に笑う。
「なるほど。お前らしいな」
 花瓶には一本の小さなひまわりがさされていた。


 †


 公園の中は暗かった。
 通りが明るかったせいで、光が全く差し込まない公園はなおのこと暗く見える。暗さになれないせいか噴水の辺りに人がいることは分かるが、一体それが誰なのかはシオンには見えなかった。
「……ユウ?」
 確認の声を出す。
「はい」
 人の形をした闇は頷いた。
 ユウは最初からシオンと気付いていたようである。以前、瞳が大きいのは視野を広くするためと言っていたことを思い出し、場違いにも笑ってしまう。全くもって嘘くさい。
 闇は低い体勢を取る。それ以上話すつもりはないようだ。
 左手に持った刀をそちらに向ける。
 ユウから感じる殺意は前の時ほど感じない。三度目ともなると自身がその圧力に多少なりとも慣れたのか、公園を包む深い闇が少しだけ緩和しているのかは分からない。ただ、自分が冷静に思考できることにだけ感謝する。
 闇は地面を蹴り、公園を覆う闇にとけ込むようにしてかき消えた。
 それに対し、シオンは刀をまっすぐに向けたまま、動く気配を見せない。
 辺りに地を蹴る音が絶え間なく続く。その一蹴りごとに、アスファルトはえぐれていく。視認出来る速度ではない。しかし、シオンにはまるで焦った様子はなかった。姿勢を変えず、まっすぐに前だけを見据えてる。
 最後の一足。眼前のアスファルトが砕けた。同時にシオンは後ろに飛ぶ。
 迫る閃光。ユウの手刀がシオンの頬を掠める。体がその時交差する。シオンは体をひねり、ユウの体を巻き込んで自分の体ごと地面へと倒れ込む。
 次の瞬間には、山乗りの状態となったシオンがユウの首元に、刀を突きつけていた。
「……何のつもりですか?」
 ユウは尋ねる。
 この状態になってシオンにはようやく、彼女の顔をはっきりと見ることが出来た。以前見たときと変わらぬ、黒曜石の大きな瞳。その瞳もシオンの目をはっきりと見つめる。
 深い深い闇の色。温度自体感じられない、冷たさも暖かさもないその瞳。間近で見ると、以前のような殺意が肌を撫でていく。手の指先から胸の奥まで広がっていき、心臓すらも圧迫する。
 しかし、不思議と怖くない。肌も震えないし、左手にもはっきりと力が込められる。これは、自分が絶対的優位に立っているせいなのだろうか。
 やっと、ここまで来ることが出来た。
 半年間探し求めてきた相手を、ようやく追いつめることが出来た。
 左腕を少しだけ動かせば、達成することが出来る。
「俺には、ユウを斬ることは出来ない」
 刀を突きつけた姿勢のままシオンは言った。
 シオンが言い切ると、ユウはくすりと笑った。
「やはり、甘いのですね」
 一瞬の隙をつき、ユウは体を反転させてシオンの束縛をとく。そして、左腕でシオンの首を握りしめて持ち上げる。
「ぐ……は、あ」
 ユウの指が頸動脈へとめり込む。爪は突き立てられ、皮が破れ血がつうっと流れ落ちる。
「本当に甘いですね。全く持って、愚かしいことに」
 ユウは酷薄な笑みを浮かべ、左腕に更なる力を込めた。


 †


 本当に甘い。笑いを抑えることが出来ないくらいに。
 ユウは今まで神の欠片をその身に宿す者達を殺し続けてきた。
 何人も、何人も。悠久の時をかけて、一人、また一人と存在する世界を探し続けて。
 ああ、今回はなんて簡単にことが運ぶのであろうか。
 神の欠片を持つ者は例外なく、ユウに向けて牙を向く。奇跡と謳われる、世界から狂ってしまった力を持ってしてユウに襲いかかってくる。
「あはは」
 ユウは声をあげて笑う。
「あははははは」
 笑いが止まらない。夜の闇の中、笑い続けている。
 一体どうしたというのだろう。こんな風に笑い続けるなんて。
 自分は狂ってしまったのだろうか。こんな哄笑をあげ続けるなどあり得ない。
 違う。
 ようやく分かった。
 自分は狂ってなどいない。狂っているのは春紫苑、彼のことだ。
 再び出会ったときから彼は狂っていた。何でこれほどの才能を持っているのにそんなにまっすぐまっすぐ生きようとするのか。何故、有り余る才能をちっぽけな方向にのみ向けさせ続けることが出来るのか。どうして、こんな状況になってまで自分のことを斬ることが出来ないなどと言い続けることが出来るのだろうか。ただ、愚鈍なだけなのだろうか。自分が利用されているだけということにすら気付いていないということなのか。そんなことすらも、理解出来ないとでもいうのだろうか。何も分かっていないとでも言うのだろうか。自分のような悪を、何故斬れない。半年間、呪い続けていたはずなのに。半年間、それだけを求めて生きていたはずなのに。彼は確かに、誓っていた。口に決して出すことはなかったとしても想いという物は伝わる物だ。では彼の後悔はその程度のものだったのか。半年間物間にその気持ちを風化させたとでも言うのか。それは絶対にあり得ない。甘いなんていう言葉では片づけられない。じゃあ、何故――――――
 完全にユウの理解の外のことであった。
「何で、あなたは……」
「俺、は……」
 乾いた音が響いた。
「――え」
 ユウは自分が何をされたのか、理解できなかった。ただ、右頬が熱を持ったように痛み、横を向いている。
「今のは、姫花の、分だ」
 頬を押さえ、顔を戻す。シオンははっきりとユウの顔を見据えていた。首を絞められたまま苦しいはずなのに瞳には力が満ちている。思わず、顔を背けたくなるほどだ。
「何故、あなたは」
「姫花の、ことは確かに、許せないけど。お前のような、馬鹿も放って、おけない」
「――馬鹿にして」
 ユウは頭に来て、指先に力を更に込める。零れる血が指先を伝わって、ぽとりと落ちる。
「何度でも、言ってやる。お前は、馬鹿だ。大、馬鹿だ」
「――――!」
 ユウはシオンの体を地面へと思い切り叩きつけた。それ以上、彼の言葉を聞いていられない。
「あなたなどに、何が分かると言うのですか」
 苦しそうに胸を押さえて咳き込むシオンに向けて言い放つ。
「ユウは、さ。何が、したいんだ?」
 咳き込みつつも、シオンは無理矢理言葉にする。
「私は神を殺し者。ただ、そのためだけに生きています」
 ユウは迷いのない口調で言う。それはまるで、録音されたテープのように、無機的で繰り返し口にされてきた物だ。
「じゃあ。何で出会ったばかりの俺を、すぐに殺さなかったんだ」
「あなたの中に、神の欠片が存在しているか観察を」
「何でだ。何で、そんなことをする必要があるんだ?」
 シオンのその言葉に、ユウは言葉を失った。
 シオンを殺すことなどいつでも出来たのだ。朝眠っているときも、隣を無防備に歩いているときも、食事をしているときも。シオンを殺すことが一番早く欠片が入っていることを確認する理由となるのに。仮に神の欠片が入ってなかったとしても関係ない。神の欠片を持っていないのなら、別の世界に探しに行くだけだ。神を殺すこと以外、どうなろうと自分には関係のないこと。では、何故…………。
「どうして、ですか」
 ユウには分からなかった。
 まず思い浮かんでくるのは、二度目にシオンと出会ったときのことであった。シオンは憎いはずの存在に向けて、大丈夫か、と必死に呼びかけていた。
 そして、その次に出会ったとき。バールベリトにやられたときだ。その時も必死になって助けてくれた。決して、敵うはずもないのに。怖いはずなのに。
 だから尋ねた。何故、私を助けてくれたのですかと。返ってきた答えは明白だった。
 ……女の子が虐められていたら、助けるのは当然のことだろ。
 そんなおかしなことを、当たり前の口調ではっきりと答えた。
 思えば、シオンのことをおかしいと、このときから思っていた。自分のことを女の子扱いにするなんて。自分のことを、まるで人のように扱うなんて。
「子供がさ。表情のない顔をするときって、どんなときだと思う?」
 何とか呼吸を整えながら、シオンは尋ねる。それが、自分のことを指していることはすぐに分かる。
「何も感じていないからですよ」
「それは、嘘だ」
 ユウの言葉は即座に否定される。
「そんなの、痛いことを我慢しているときだけだ。自分の痛みを、他人に知られたくないときだけなんだよ」
 シオンは左手で地面を押さえ、立ちあがった。
「私が、痛いのですか。何で」
 ぽかんとした表情でユウは尋ねた。そんなユウを見て、シオンは呆れたように息を吐く。
「そんなことも分からないから、馬鹿なんだよ」
 ユウは力なく笑う。
「そう。馬鹿、ですか……」


 ――しゃらん。


 それはまるで鈴の音のようであった。透き通った透明な音。
 ユウはシオンへと微笑みかけ、三つ編みもほどけて、崩れ落ちた。


 †


 シオンには何が起こったのか、理解できなかった。
 目に映るのは、目の前に立つ少女の胸から一本のつららが生えていること。それから赤いものも一緒に見える。風船が破裂したときのように勢いよく、その赤いものが視界を埋める。時が止まる、という感覚を再び感じる。
 ――また。またなのか。
 左手で倒れ込むユウの体を抱き留めた。ユウはうっすらと目を開き、シオンを見つめる。しかし、その瞳は焦点があってはいない。
「ふふ。シオンの言った通り、私は馬鹿だったようです」
 くすくすとユウは笑い、シオンの頬へと手を伸ばす。彼女の手の平は冷たい。細い指の感触が心地良い。
「どうやら私は、あなたのことが好きみたいです」
 ……一緒にいたかった。あなたの温かさをそばで感じていたかった。ただ、それだけのこと。
 そう言い、ユウは瞼をおろした。
「――あ」
 ――結局。この繰り返し。
「ふ……ふざけるなよ!」
 公園中に響き渡るような大声を張り上げる。
 ――まだ、自分はユウのことを許したわけじゃない。言いたいことはまだ腐るほどあるというのに。
「こんなことが。こんなことが許されると思ってんのかよ!」
 ――それに。言ったのに。ユウのことを守ると言ったのに。ずっとずっと、彼女はSOSを出していたというのに。痛いと、声にならぬ声で言い続けていたのに。
 公園の入り口を睨み付ける。夜の闇にもすでに目が慣れたシオンにはそこに立つ人間がはっきりと見える。特徴のない黒い髪に赤い目。立っているのは、バールベリト。
「人間、大儀であった。おかげで事がたやすく運んだ」
 向けていた腕を降ろしバールベリトは言う。
「てめえ――」
 視界が赤く染まる。怒りが景色の色すらも変えることをこのとき初めて知った。
「何を睨む。契約は履行した。勿論、貴様の思い人を治してやる」
 バールベリトはつまらなそうに腕を横に振る。
「だから、早く止めをさせ」
「え」
 視線を落とす。血に濡れたその体にはまだ息がある。死んではいない。まだ、生きている。
「どうした。早くしろ」
 そのまま動かなくなったシオンを促す言葉。
 しかし、そんなもの頷くわけにはいかない。
「悪いけど、そんなことするわけにはいかない。だって今から彼女は病院に連れて行くんだからな」
「何を言っているのだ。貴様は白雪姫花を助けたいのではないのか?」
 勿論。助けたいに決まっている。
 彼女が目を覚ますようにと願わなかった日は一日としてない。こうしている最中も、姫花が目を覚ましてくれたらということが頭を占めている。
 だけど――
「姫花は目を覚ます。俺が絶対に目を覚まさせてみせる。だから、その時にユウは、姫花に謝らなくちゃならなんだ!」
 バールベリトは心底分からないという感じに首を振る。
「だからといって、ここを通すと思っているのか人間?」
「てめえをぶっ飛ばしてでも、通して貰う」
 ユウを地面の上へと優しく寝かせて、バールベリトと向き合う。動かない右腕はぶらんと垂れ下がり、左手には折れた刀を持って。
「……まあいい。母の願いは自らの消滅。その願い、今私が叶えてやろう」
 バールベリトはシオンへと狙いを定め、
「氷刑」
 根幹へと干渉する言霊を唱える。
 バールベリトからシオンへの線上に円錐の氷が連なるようにして、地面より生え出でる。
「なめるな!」
 左手で刀を横に一閃する。砕けた氷の欠片はまるで水晶の輝きのように、きらきらと煌めく。
「火刑」
「同じ手をくうかよ」
 シオンの元居た場所が爆炎が巻き起こる。シオンは氷柱を足場にして、高く跳んでいる。氷の固まりは跡形もなく消し飛んだ。
「もらった――」
 シオンは刀を振り上げる。
 バールベリトの左手に刃が閃いた。それは一メートルほどの透明な刃。何の装飾もなく、冷たい印象を与える剣だ。
「砕けろ。アルダースタン」
 剣が振り下ろされる。
 バールベリトとシオンの距離は五メートル弱。届くはずのないその刃。しかし、シオンは咄嗟に刀をたてて、自分の身を守る。
 襲いかかる一閃。
 その斬撃は、空気を断ち切り、刀を砕き、シオンの四肢を切り裂いた。


 †


 負けるのは嫌いだった。
 だから喧嘩をした。毎日毎日、喧嘩をふっかけた。
 春紫苑という名前が嫌いだった。
 何で自分の名前は雑草と同じなんだろう。雑草なんて、何の役にも立たない植物の。
 だからみんなには馬鹿にされる。毎日馬鹿にされる。
 やがて自分自身でも思いだす。
 こんな名前、最低だ。どうして、どうして自分はこんな名前なんだ。
 ある時泣いてしまった。誰にも見られたくなくて、自分の部屋の隅でひっそりと丸まって。
 おいおい、何泣いてるんだ。情けねーやつだな。
 けれども泣いているところを父親に見つかってしまった。しかも、そうやって馬鹿にされる。
 さすがに頭に来て、誰のせいなんだよ。父さんが、俺にこんな名前付けるからじゃないか、と怒鳴り散らした。
 すると、父はぽんと頭に手をやってこういった。
 いいか、雑草は売られている花なんかと違って、根性があって綺麗な物じゃねえか。それにな、雑草っていうのはまだ美点が見つけられていない植物のことなんだぜ。だからな、良い名前だろ、と。


 †


 全身に走る激痛と共に、シオンは目を開いた。遅れて、自分がバールベリトの一撃によって切り伏せられたことを思い出す。
 空が遠い。どこまでも遠い。
 明かりのないこの公園では、空の暗さがどこまでも遠く見える。せめて、月さえ出ていれば手を伸ばすことが出来るのか。分厚い雲は空を隠す。
「……そうだ」
 ここでようやく意識がはっきりとする。
 そう、あの日から自分の名前が好きになったのだ。無限の可能性が秘められた雑草という名前を。
 それに。
『シオン。春紫苑ですか。良い名前ですね』
 この言葉。初めて聞いたこの言葉。
 そうだ。自分はこんなところに倒れているわけにはいかない。
 左手で地面を押さえて、立ちあがる。裂けた傷口から血が溢れ、左手を伝わって流れ落ちる。
「しぶといな」
 バールベリトは口元を吊り上げる。いつか見た形だけの笑みだ。
 バールベリトが立っていた位置と変わらぬところを見ると、気を失っていた時間はごく僅かだったのだろう。
「雑草っていうのはしぶといっていうのが相場だろ」
「ふん」
 バールベリトは服に付いた埃を払い、今一度シオンに向けて腕を向ける。
「火刑」
 爆炎。シオンは後ろに跳んで、爆発を逃れる。着地すると同時に氷の槍が降り注ぐ。
 炎の燃える荒々しい音と、氷の割れるような凍てついた音。それはまるでロンドだ。
 ――せめて、右腕さえ動けば。
 ――せめて、刀さえあれば。
 悔しげに、自分の両の手を見る。垂れ下がったまま動かない右腕。避けるのも刀を振るうのも、想像以上に邪魔をする。左手に握りしめられた刀。すでに刀身はなく、柄と唾しか残っていない。これでは殴りかかることしか出来ないだろう。
「風刑」
 バールベリトを中心に突風が吹き抜ける。台風もかくや、アスファルトを砕いては巻き上げていく竜巻。
 吹き飛ばされずに、何とかその場に踏みとどまる。しかし、巻き上がるアスファルトの欠片がシオンの体をしたたかに打ち付けていく。
「――俺はぁ」
 拳大の石が跳ね上がり、シオンの額を打った。仰け反ってしまう。足の踏ん張りを無くしたため、真下から吹き上げる風に押し上げられ宙に浮かぶ。
 体から感覚が抜けていく。右腕はおろか、左腕も足もまともには動かない。
 だけど、左手に握る刀だけは放さない。すでに刀身すらない、刀とも言えない刀なのに。決して放さない。
 視界の果てには、再び透明の剣を構えるバールベリト。不可視の斬撃。アルダースタン。
「終わりだ」
 刃が振り抜かれる。
 こんな足場もない空中では避けきることなど叶わない。いや、たとえ地にいたとしても見えない斬撃など避けられるものか。
 だから、シオンはバールベリトなど見ていない。視界にはただ一人の女性を、倒れているユウの姿だけが映る。
「俺は!!」
 目を見開く。この行動は考えての物ではない。そして、防衛の本能にすら足りぬ物。けれどもシオンは、迷い無く刀を横に振り抜いた。
 人の耳には聞き取れない甲高い音が響き渡る。
「ち」
 衝撃の余波がバールベリトにも襲いかかる。咄嗟に左手で顔を庇う。ぴし、ぴしと薄い切り傷が庇った左手に無数に走る。
 バールベリトは自らの傷を一瞥し、自分の前に視線を戻す。
「貴様」
 そこには白い刀を手にしたシオンが立っていた。
「これは、一体」
 思わず、自分の持っている刀を見つめてしまう。折れた刀に再びまっすぐな刀身が伸びている。それだけに留まらず、淡い燐光を発していた。
「外からの干渉。いや、そんな次元ではないな。内からの再構成か」
 バールベリトは淡々と呟く。
 シオン自身何が起こったのかさっぱりとわからない。
「そうか……そうだな」
 ごく自然にそうすることが当然のように右腕で刀を握る。
「俺の名は春紫苑」
 そして、この刀は――
 痛みが嘘のように引いていく。それだけではない。力を失ったはずの四肢からも、力が底から溢れてきて、感覚がとぎすまされていく。
 まだ立てる。まだ行ける。自分は行ける。飛べる。飛べる。行け!
 シオンは地面を蹴った。まるで全身がバネになったように、力強くしなやかに。
「氷刑」
 バールベリトは自分を中心に円を描くように氷刃を突き立てる。しかし、シオンの姿はすでにない。
「何」
 シオンはすでにバールベリトの間合いに踏み込んでいる。先程までのシオンの動きとは段違いの速度だ。
「はあ!」
 真白な刃が真下から跳ね上がる。バールベリトは背後に跳び、その一閃を避けた。膝のクッションをバネに体勢を整える。左足から右足に体重を移動するその前に、上段から白い刃が振り下ろされる。バールベリトは左腕に握る剣で、剣戟を受け止めた。
 瞬き一つの間。それだけの時間に、七度の剣線が走り、一度のぶつかり合う音が鳴り響く。剣を横に振り抜くバールベリトに、シオンは後ろに跳んで一度距離を取った。
 バールベリトは半分ほど断たれた自らの剣を見る。
「人には過ぎた力だな」
 バールベリトの瞳に静かな殺気がともる。薄い。周囲に冷気の密度が増していく。
 バールベリトは体勢を低くして、剣を構える。シオンも刀を握る力を増させ、左足を前に、右足に体重を乗せて刀を引いたような構えをとった。
 お互いに全身全霊を込めている。次の一撃で決める。張りつめた雰囲気が高まっていく。
 まずシオンが動いた。小細工は一切なし。バールベリトまでの距離を一直線に駆け抜ける。
 バールベリトは高々と剣を掲げ、
「アルダースタン」
 全ての力を持ってして、振り下ろす。
 不可視の斬撃。剣閃に込められた力は今までとは段違いに、地面ごと断ちながらシオンへと襲いかかる。
 シオンは目を見開いた。
 ――見えた。
 シオンの目には確かに映る。見えないはずのその刃。風だけではない、この世界の空間ごと斬り進み、襲いかかる縦一閃。
 避けられる。いや、こんな物は断ち切れる。自分の持つ刀ならこんな物など断つことなどわけはない。なぜなら、この刀は――――
 音は何も響かなかった。
 シオンの頬や腕には無数の傷が線を引く。後を追うように赤い血も宙を舞う。しかし、それだけだ。
「ちぃ。何だ、その刀は」
 バールベリトは初めて、その顔にはっきりと焦りの色を浮かばせる。
「知りたいか。だったら教えてやるよ。この刀の名前はな」
 疾風を越えて、シオンは跳躍する。
「春紫苑っていう、雑草の名前だ!」
 白い刃が閃いた。
 そう。この刀は思いの形。願いはどこまでも高く、思いはどこまでも遠い。故に、その名前は春紫苑。シオンと同じ名を持つ、雑草の名前。
「止めだ」
 最後の一太刀を振り下ろす。バールベリトの持つ剣を打ち砕いた。
 バールベリトは剣を放り、後退する。
「ふん。余興が過ぎたな」
「何」
 間合いを詰めるシオンと別の方向に、バールベリトは手を向ける。咄嗟にそちらを向く。その先にはユウが倒れていた。
 放たれる氷の凶弾。シオンは迷うことなく切り捨てる。
 その間に、バールベリトはすでに公園から離脱していた。目だけでその後を追うが、追うような真似はせずに倒れているユウの元に近づく。
「大丈夫か」
 ユウを抱き上げて、問いかける。抱き上げられたユウはうっすらと目を開いた。
「……シオン?」
「よかった。本当に」
 安堵のために全身から力が抜ける。ともすればこのまま泣いてしまいそうだ。しかし、彼女の腹部を見ると、また指に力がこもった。
 バールベリトが去ったためか、彼女の胸を貫いていた氷の槍はすでに消えていた。しかし、そのために出血を抑えていた物も無くなり、血が溢れては止まらない。胸部や腹部には即興の止血の方法はない。いくら彼女の再生力が優れているとはいえ、救急車を呼ばないと間に合わない。
「バールベリトを追いなさい」
 しかし、ユウが言ったことはそんなことであった。
「何を言ってるんだ。そんなことよりも、今はユウの状態の方がやばいだろ」
「……バールベリトは、間違いなく姫花さんの体を狙います」
「え」
 決して聞き逃すことの出来ないことをユウは言う。
「それは、どういう」
「悪魔は人の体を操ることに、もっとも力を使われているのです」
「それは、つまり」
 人の構成は魂。精神。肉体の三つで構成されている。悪魔が人の体を操るとき、精神を抑えることに力の大半が費やされているのだ。そして植物状態というのは、魂と肉体を結ぶ精神の欠損により起こっている。つまり姫花の体を乗っ取れば、ほぼ制約無く莫大な力を放出することが出来るということとなる。
 バールベリトには甘さなどはない。あれは能率的に動く機械と同じだ。だから、姫花を狙うということ以外考えられない。
「だけど」
 しかし、このような状態のユウを置いていくことなんて出来るはずもない。
「シオン。私は大丈夫です」
 ユウはシオンの目を見つめる。言葉の力のなさとは裏腹に、瞳には強い力がともっている。シオンは根負けをしたように、息を吐いた。
「わかった。だけど」
 ユウに背を向けてから言う。
「今度は嘘をつかないでくれよな。ユウは、姫花に謝らなくちゃならないんだからよ」
 ユウは、少しだけ口をつぐみ、
「……がんばります」
 そんなことを言った。


 †


 ――騎士でありたいと願った少年。姫を守れなかった少年。
 いくら記憶を深く沈めても、事実を消し去ることは決して出来はしない。
 その事実。
 姫を――――、―――――少年の起こしたことは。


 †


 病院にたどり着いたときには、面会時間などとうに過ぎていた。ホールにはすでに人の姿はなく、照明は落とされており、深夜用の物に切り替えられている。そんな静寂を打ち破るように、シオンは走る。音を聞きつけた看護師による院内では静かに、と叱る声が後から響くが、シオンは振り向きもしない。
 姫花の病室に辿り着く。そこで見た物は、半身を起こしている姫花の姿だった。
「シオン……」
 それはよく知った声。シオンと最も親しかった者の声だ。
「姫……花?」
 何が起こったのかさっぱり分からず、呆然と彼女の元に足を進める。
「シオン……こっちにこないで」
 姫花の口から出てきた言葉、拒絶だった。
「え?」
「こっちに来ないで、シオン!!」
 亜麻色の髪の毛を振り乱しながら、姫花は両手で顔を押さえる。
 どくん、どくんと心臓が脈打つような音が病室の中を響く。肌があわだつ。
 姫花は俯いたまま向きを変え、ベッドから足だけ降ろし座ったままの姿勢でシオンの立つ入り口を向く。そこには、今取り乱した様子を微塵も感じさせない。
「くすくす」
 姫花の口から笑い声が零れてくる。
 肌があわだつ感じが止まらない。これは、まるで。
「ふふ。実に良いな。この体は」
「てめえ、まさか」
 姫花は幽鬼のようにゆうらりと立ちあがる。
 見開かれる瞳。魔を意味する紅い色。
 姫花が立ちあがると部屋の中を突風が吹き抜ける。カーテンは狂ったように踊り、窓硝子は砕け散った。
 シオンは刀を抜きながら、姫花を、バールベリトを睨み付けた。
 突風はすぐに止むが、姫花の長く伸びた髪の毛は静電気を帯びたときのように逆立っている。バールベリトは大きく両手を広げた。
「我は煉獄の司法官が一人、バールベリト。人間よ。貴様の咎を裁いてやろう」
 真紅の瞳があらん限り見開かれる。
 瞬間、世界が創世された。


 †


「ここは?」
 シオンは自分が今どこに立っているのかも分からずに困惑する。
 ここはまるで宇宙空間。上下の感覚もなく立っている地面の感触もない。まるで深い水の中を沈んでいるときのようだ。
 そして目には何も見えない。左の手の平を目の前でひらひらとさせてみるが、それすらも見えなかった。世界には光というものが一切存在しないのか、目では何も情報を処理できないようである。諦めて目を閉じる。
「ここは、どこなんだ」
 右手に力を込める。自分の分身たる刀の感触は確かにあった。そのことで、少しだけ安心する。
「ねえ、シオン」
 誰かが呼びかける声がする。透き通ったソプラノだった。
 一体誰であろうか。聞き覚えがある気がするが、思い出せない。
 けれども、その言葉が引き金となって瞳には一つの光景が浮かび上がる。いや、この光景は見たことがある。心の最も奥底に刻まれたその記憶。一番知っている。だけど、まるで知らない。そんな記憶だ。
「これは……」
 何度も何度も繰り返し夢で見続けた。けれども、肝心なところは何一つ見えない。ざーざーとノイズが走り、その光景を隠してしまう。
「逃げないでよ。シオン」
 誰なんだろう。耳慣れた声の主のはずなのに、思い出すことが出来ない。
「逃げないで、わたしをちゃんと見て!!」
「あ」
 シオンは目を見開いた。
 目の前に広がっているのは、半年前の公園だ。
「シオン。わたしね……」
 姫花の言葉を遮るよう公園に、体の内から震わせるような轟音が鳴り響く。直後、シオンたちに突風が吹き付ける。
 シオンは吹き飛ばされないようにして、音の中心に眼を向ける。今なら分かる、そこには人の形をした闇……ユウが立っていた。
 ユウは夜色の瞳を、シオンへと向ける。
「見つけました。トゥルース……」
 ユウが目を見開くと、世界は暗転し、崩壊した。ユウの背中から伸びる銀翼が、公園を包み込もうとする。
 まず、シオンの本能が反応した。それは生への執着。言うなれば危険の回避。
 シオンのとれるべき行動は、逃げるというものしか残っていなかった。
 体が勝手に反応したのだ。足が独りでに動いたのだ。二歩、三歩と、危険から背中を向けて遠ざかるように。その場に姫花を残して。
 ほんのコンマの時間だ。シオンは我に返り、姫花に向けて必死に手を伸ばす。しかし、手は何もつかめずに空を切った。シオンを庇うように立つ姫花のことを、掴めずに。
 シオンの目に入った光景は姫花が倒れている姿だった。血に染まる姫花の姿だけが見えた。
 シオンはそこで目を閉じた。知りたいことは全部見ることが出来た。この続きなんてどうでもいい。
 ――ああ、そうか。そうなんだ。
 ようやく何故このことが思い出せなかったかを理解した。
 今まで、恐怖からこの記憶を閉じているのだとずっと思っていた。恐怖という物は記憶を一番混乱させるものであると、医者の人が言っていたから、その言葉を信じていたのだ。 けれども、本当のところはどうやら異なっていたようだ。
「あなたは、わたしを守ってくれなかった」
 鼓膜を直接震わせるような声が再び響く。
 ――姫を守れなかった騎士。
 守れなかったどころではない。自分は逃げ出したのだ。
 人の記憶とは、どれだけ都合が良いように出来ているのだろうか。自分が逃げ出した、という事実をねじ曲げるためには、記憶すらも封じてしまう事が出来る。けれども、これは恐怖と同じ事。
 逃げ出した、という事実。
 ――こんな騎士が一体どこにいる。逃げるだけで飽きたらず、姫を盾にして逃げたのだ。
「ごめん」
 その言葉しか言いようがない。一体他にどんな言葉を付け足せるというのだろう。シオンには何も思い浮かばなかった。
「ううん。実はね、そのことは別に良いんだ」
「え?」
 返ってきた言葉に、間抜けにも聞き返してしまう。
「だってさ。結果的にはシオンのことを守ることが出来たみたいだしね。むしろ、嬉しいかな、何てね」
 その声は冗談めかして笑ってみせる。
 いつも願っていたその声。ずっとずっとこの声が聞きたかったのに。許してくれるとまで言ってくれているのに。どうして言葉が胸を焼くのだろう。
「でもなー。ちょっとだけ、残念」
 大げさに落ち込んだ声を出す姫花。頷くだけで何も答えず、続きの言葉を促す。
「だって、わたしが眠っている間にシオンに好きな人が出来ているんだもん」
「好きな人?」
 思いがけない俗っぽい言葉に目を開いてしまう。けれども、相も変わらず五センチ先も見えない闇の中だ。
「そりゃあね。あんな綺麗な人。わたしなんかじゃ敵わないな」
 あははとまた笑う姫花。しかし、その言葉には明らかに力がなかった。
「いや、一体何のことを言っているんだ」
「ユウさんのことだよ……でもなあ。わたしも少しは自信あったんだけどなあ」
「別に。俺はユウのことは」
 答えつつユウの姿を思い浮かべてみる。
「はは。本当、悔しいな」
 ぽつりと姫花は漏らす。
「あ、ごめん。こんなこと言うつもりなんてなかったのに。こんな格好悪いこと……」
 言葉からどんどん力がなくなっていく。そしてか細く震えだす。
「だって、ね。わたしはずっとシオンのこと見てたから。シオンが苦しんでるのを見ると、わたしも胸が苦しかった。だからシオンが元気になるんなら、誰のことを好きになったって構わなかったよ」
 言葉は何とか絞り出しているといったところの声量だ。
「でもどうせなら、殺して欲しかった」
 とぎれとぎれになりながら、ようやくそこまで言い切った。
 目の前には姫花が佇んでいる。その様子は儚げでそのまま消えてしまっても不思議ではない。
「シオンが楽しそうに笑っている姿を見たら、わたしも胸が弾むよ。だけどね、わたしは何も出来ない。今は、こうして話しかけることが出来るけど、わたしは一人じゃ何も出来ないんだよ」
 姫花の言葉の一つ一つがナイフとなって胸を刺す。
「一日、シオンが来ない日があった時。あの時が一番怖かった」
 一日と言われて、シオンはすぐにその日のことを思い出す。あれはほんの五日ほど前。ユウと出会った日のことだ。
「だって、これからもうお見舞いに来てくれないんじゃないかって思ったの。次の日は来るかもしれない。けど、また次の日は来ないかもしれない。そして、段々来てくれる日が少なくなっていくの」
「そんなことは」
「そんなことはない? どうして、そんなことが言えるのよ。毎日絶対来るって言ったのに、来なかったくせに! わたしをずっとずっと一人きりにしていたくせに!」
 声を荒げる姫花に言葉を失う。シオンにとっては大したことではないと、思っていたことだ。しかし、そのことは姫花を傷つけた。この上ないほど傷つけた。
「ああ、もう本当、わたしったら何を言ってるんだろう。本当ごめんね、シオン……」
「うん」
「実はシオンに言いたいことはたった一つだけなの。目を覚ましたらね、わたしを殺して欲しいの」
「そんなこと、出来るわけがないだろ!」
 思わず怒鳴り返してしまう。
「お願いシオン。わたしを殺してよ。もう、独りぼっちの闇は嫌なんだよ……」
 声が泣き声に変わる。姫花は両手で顔を押さえて泣いていた。
 シオンは自然と姫花の涙を拭う。一体どれほど、彼女を泣かせてきたのだろう。自分のせいでこんな動けない、ただ泣くことしかできない体にしただけでは飽き足らないのか。
「俺には何も出来ないの?」
 姫花は何も答えない。ただずっと泣きじゃくっている。
 騎士は一度姫に背いた。しかし、姫は決してそのことを責めはしなかった。ただ、ずっと一人ぼっちの闇の中で泣き続けていた。
「一緒に、居てくれるの?」
 頷いて目を閉じる。暖かな感触が体中に染み渡る。世界が遠くなる。まるで夢を見ているようだ。右手の力も抜けて、


「シオン!」


 世界にその声が響き渡る。
「……ゆ……う?」
「さすがはユウさんだ。この隔離された世界にすら割り込んでくることが出来るなんて。でもね――」
 姫花はユウを見据えて口元を吊り上げる。
「この空間の中ならどう」
 ユウに向けて、無限とも思える闇の腕が伸びて彼女の全身を束縛する。まるで地獄のそこから手を伸ばす亡者の群れだ。先を争うようにユウを捕まえようとする。
 ユウは瞳を見開いて闇の束を切り裂いた。彼女の手の平からは煌めく銀色の輝きがこぼれ落ちる。しかし、すでに体力の限界なのか、息を切らしたまま膝をついてしまう。
 そんなユウを見て、何でそんなことをしているのか分からなかった。まるで遠いことのように見えてしまう。
「シオン」
 ユウはただシオンに呼びかけるだけである。
 闇の浸食に彼女の身は確実に怪我を負わせていく。懸命に闇の束縛を切り裂くも、闇の腕の数は一向に減る様子はない。それどころか、勢いは更に増しているようにすら見える。そのため、ユウは少しも姫花に近づくことは出来ない。
「はああああ!!」
 ユウは裂帛の気合いを込めて、闇の渦を消し飛ばした。代わりにユウの背中からこぼれ落ちるように、銀の翼が空を漂う。
 今度こそ力尽きたのかユウは前のめりに倒れた。
 ――どうしてだろう。どうして彼女はそこまで。
 倒れるユウを飲み込むように闇は空間中に広がりを見せる。闇に広がっていた銀色の粒子もその闇に飲まれてしまう。
「わたし達の邪魔をしないでよ」
 闇は動物が大口を開けたように広がり、ユウを飲み込んで閉じられた。しかし幾本かの銀色の亀裂が走り、そのまま無の中に霧散した。後には手の平を突き出した姿勢のユウが残される。
 全身はぼろぼろで、突き出された腕は震え、苦しげに眉を歪められているというのに、ユウはそこに立っている。
「シオンには闇は似合いません」
 そんな理由。
「シオンは、前を向いていて欲しい」
 訳が分からない。理由のようで理由にもなっていない言葉。まるで子供が駄々をこねているのと変わらない。合理的な理由をつけたがるユウらしくない。
「早く逃げるんだユウ」
 この空間に入ってこられた以上、出て行くことも可能なはずだ。
 闇の勢いは収まることを知らない。世界その物が闇なのだ。闇を断ち切るには世界そのものを討ち滅ぼさなければならないだろう。しかし、そのようなこと敵うはずもない。
 だからここの世界からは脱出するしか道はない。懸命なユウならとうに、分かり切っているだろうに。
「シオンを連れて帰るまでは、退けません。一人きりの闇なんて、私だけで十分です」
 ユウは歯を食いしばりながらも言葉を続ける。
「だから姫花さんも、私が絶対に連れて帰ります」
「たく。あの馬鹿は……」
 本当に馬鹿だ。呆れるくらいの大馬鹿だ。
 だけど、どうしてだかこんなにも胸が熱くなる。
「シオン?」
「お前を守れなかった。俺は本当に自分自身でも最低な奴だと思う。だけどな……」
 シオンは目を開き、ユウのことを一瞥した後姫花を見る。
「そのことが理由で、他の人を傷つけたりしちゃいけない」
 思いに応えるように刀が白く脈打つ。
「シオンは、わたしのことをこんな風にした人のことを許すって言うの?」
 姫花は自分の胸に手を当て、泣きそうな顔をして主張する。
「半年間。それだけを求めてきたんじゃないの!」
「――殺すのなら俺を殺せ。姫花のことを守れなかったのは俺だ」
 ユウの暴挙を止められなかったのは自分自身。シオンははっきりとそう言った。
「……え?」
 姫花の言うことは一つ一つが鋭く貫く。
 自分は彼女を守れずに逃げ出した。彼女をここまで追いつめたのは、自分自身だ。
 彼女が願うなら、姫花になら自分は殺されても構わない。いくら傷を付けられようとも文句を言うつもりなどありはしない。
 それほどの仕打ちを姫花にはしてしまったのだ。そう思うのは当然だ。逃げ出したことに対する弁明などありはしない。
「俺にはあいつを、これ以上責めることが出来ないよ」
 人に恐怖しか与えたことのない少女。
 どうして、自分に怒ることが出来る。悲しそうに目を閉じるだけの少女を見て、どうしてこれ以上責めることが出来るのか。
「俺はあいつのことを、放っておくことが出来ない」
 ユウと初めて出会ったとき。心の底から恐怖した。今まで感じたこともないような絶望が精神をむしばんだ。
 そして、彼女が告白をしたあと、後から湧いてくるのは怒りだった。
 深い深い闇。混沌を凝縮して残る物は、孤独。
 そのことを理解すると、どうしようもない怒りだけが心を支配する。
 一度も、本心から笑ったことのない少女。
 自らの発する恐怖でしか、他者を拒絶することしかできない子。そんな不器用な方法でしか他人と線を引くことが出来ない。そんな女の子をこれ以上、責めることは出来ない。
「ただ、一度でもいいから、俺はユウのことを笑わせたいんだ」
 言葉は姫花を傷つける。そのことが分かっていてもその言葉を告げる。どれだけ格好を付けたとしても自分は格好良くはなれそうにない。騎士になりたいと思ったとしても、完璧な物になどなれはしないようだ。彼女を斬らなければならない騎士になどは、とてもなれそうにはない。
 だからはっきりと姫花の目を見て言う。自分がどれほど傷つけられようと、これ以上傷しか持たないユウを傷つけることだけは見過ごすことは出来ない。
 バールベリト、姫花は困ったように横を向いて、曖昧な風に笑った。
 刀を高く掲げる。
 闇の世界を塗り替えるほどの光を発し、そのまま世界を切り裂いた。

      

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