◆
刑法第×××条
人を殺した者は、死刑又は無期もしくは三年以上の懲役に処す
ただし、十四歳以上の人はそれに含まず
◆
「助けてください」
勢いよくドアが開け放たれたと同時に、悲痛とも言える叫び声がアパート中に響き渡る。
ドアを開け放ったのは、小学校高学年程度の男の子であった。瞳が大きく、天然なのか柔らかそうな髪の毛はカールしている。
男の子は百メートルを全速力で走りきった後のように、額に水滴のような汗を浮かばせ、息を切らせていた。おかげで、続きの言葉を言いたいのだろうが口にすることが出来ない。
胸を押さえて、何とか呼吸を整えてから部屋の中に男の子は目を向ける。
部屋の構造なのか、昼間だというのに、光がほとんど部屋の中に差し込まずに薄暗い。
留守なのだろうか、と男の子は思う。けれども、それなら入り口に鍵がかかっているだろう。男の子は目をこらして部屋の中を見てみた。
ごちゃごちゃと物に溢れた部屋だなというのが第一印象であった。床には服や本で足場が散らばっており、下手をするとカラフルな床の色と見間違えそうなほどである。物は床だけでなく、ソファやテーブルの上も占拠しており一体このテーブルでどうやって食事をすることが出来るのだろうか。無謀と思えるほどにたてに積み重ねられた本の塔は、触れただけで崩れ落ちそうな程である。ただ、その中にはゴミといえる物のないのが不思議であった。他には、備え付けられたキッチンと、奥の部屋に続くと思われるドアがある。さすがに台所のコンロや流しは綺麗に片づけてあった。
「……奥に、いるのかな」
男の子は少しだけ迷うが、靴を脱ぐ。留守だからといって帰るわけにはいかない。
「お邪魔します」
一応挨拶はして、物を踏まないようにしながら歩くが、緊張のせいか上手く歩けずに、テーブルに手をついてしまう。
それはほんのちょっとした衝撃に過ぎなかったが、積み重ねられた本がぐらりと揺れ、
「あ!」
――ばさばさばさ。
支えようとするがもう遅い。
本の塔は、ソファのほうに傾いて、重力に逆らうことなく倒れる。
「……そうだ。片づけないと」
手を伸ばした姿勢のまま固まっていたが、我に返った男の子は慌てて、片づけようと思いソファに近づく。すると。
「痛ってえなあ」
「ほ、本が喋った」
聞こえてくる声に驚いた男の子は、素っ頓狂な声をあげる。
「そんなわけあるか」
そんな言葉の後、ソファの上にぶちまけられた本と服がめくれ、一人の男が現れた。乗っかっている本の何冊かはそのまま地面に落ちてしまう。
眠っていたのだろうに、男の着ているのはジャケットであった。そのため、妙なところで折れ曲がった皺がくっきりと残ってしまっている。男は寝癖がつき放題になっている頭を乱暴にかいてから、吊り上った目を男の子へと向ける。男の子は怒られると思い、自然と体に力がこもる。
「ん、誰だお前。ここの葉の知り合いか?」
しかし、声には若干とげがあるが、別に腹を立てている様子は見られない。これが、この男の素の喋り方なのだろう。
「あの。ここの葉って?」
知り合いと言うからには、ここの葉というのは人の名前なんだろうか。そんなことを思いつつ、男の子は聞き返す。
「お前、ここの葉の知り合いじゃないのかよ。まさか……」
男は眉をしかめた。怒っているというわけではないのだろうが、どうにも男は不機嫌そうである。
「あ、あの。あなたが、木之元さんですか?」
「ああ、そうだ。俺は木之元 七璃<きのもと しちり>だ」
七璃はそこでようやくもぞもぞとはい出てくるように体を起こし、男の子のほうを見る。頭の上に乗っかっていた本もその時落ちた。男の子は丁寧に頭を下げる。
「僕は、根野 真緑<ねの まみどり>って言います。あの、その……」
「帰れ」
真緑の言葉を遮る七璃の言葉。
「どこの誰に聞いたのか知らんが、俺はお前のようなガキの面倒を見るつもりはない。じゃあな、お疲れ。お休みなさい」
そうとだけ断じて、七璃はまた服と本の中に埋もれてしまった。まるで木の葉の布団みたいだなんて、こんな時ながら真緑は思ってしまう。
「そんな。少しだけでも話を聞いてください」
真緑は、それ以上荒らさないようにして、七璃に近づくと、すうすうという寝息を立てていた。言葉通り、本当に眠ってしまったようである。
「木之元さん……」
「こーら」
真緑の横からすっと伸びた手が服の山に突っ込まれる。
「痛。いてぇよ、何しやがんだ、ここの葉」
そんな悲鳴とともに、七璃は引っ張り出された。
「何しやがんだ、じゃない。もう、いい年こいた大人が、こんな小さい子に意地悪して恥ずかしくないの。全く」
真緑がそちらをむくと、ここの葉と呼ばれた女の人が呆れ顔で立っていた。たれ目がちの優しい瞳に真白な肌。色素の薄い髪の毛は腰元近くまで伸びており、先端の近くでピンク色のリボンで纏められていた。
「うるせえなあ」
七璃はふんと鼻を鳴らせてみせるが、ここの葉に耳たぶをつねられているため、何とも情けない。
「ああ。今てめえ、なめたことを考えたろ、って、いたたた」
「だから、子供相手に何を粋がっているのよ。あなたは物語に出てきて、主人公の引き立て役にしかなれないヤンキー君なの。見ているこっちが恥ずかしくなるでしょ。ほら、こんなに萎縮させて可哀想に」
ここの葉は真緑のほうをむき、にっこりと微笑みかける。日に当たると溶けてしまいそうなその笑みを見ると、どきどきと胸が高鳴ってしまう。
「このマセ……」
「七璃」
「わーったよ。たく」
諦めた七璃は、ばらばらと乗っかった本を払い、姿勢を正してから真緑を見る。七璃の目はとても鋭く、刀剣の類を想像させられる。
「おいガキ。てめえ一体誰を殺したんだ?」
「そ、それは……」
単刀直入な七璃の言葉に、真緑は言葉を失う。拳には力が入らず、七璃から顔をそらすように俯く。七璃は催促するようなことはなく、懐からつぶれている煙草の箱と、ジッポライターを取り出した。ジッポライターは随分と年季の入った物で、形がいびつに歪んでおり黒ずんでいる。
そんなもので本当に火がつくのだろうか、と思い見ていたら、案の定というか一度すっても火花が微かに散るだけで、火はつかなかった。それでも七璃は気にした様子はない。何度か同じことを繰り返すと、火はついた。
「えーっと、灰皿灰皿……」
煙草をくわえたまま、器用に煙を吐きつつ、ソファの上でごそごそと手を動かす。
すると、かたかたという音が響く。いつの間にか流しに移動していたここの葉がお湯を沸かしていた。
「インスタントで悪いんだけど、砂糖とミルクはいくついれる?」
「あ、そんないいですよ」
咄嗟に拒否してしまう真緑。ここの葉はくすりと笑い、ミルクと角砂糖を二つぽちゃんと黒い液体に落としてから、くるくるとかき混ぜる。
御盆に三つのカップをのせてから、ここの葉は戻ってくると、空いた片手でひょいひょいとテーブルの上に置かれている物をずらすしてから、そのカップを置いた。テーブルの上には空いたスペースなんて無かったのに、一体どうずらしたのだろうか。まるで魔法を見せられている気分だ。
出されたコーヒーを飲まないのは失礼に当たると思い、一口すする。甘い。とても甘いコーヒーだった。母親の言いつけのせいで、コーヒーはブラックしか飲んだことがないため、よけいにそう感じる。
「おいしい……です」
真緑は素直な感想を口にする。その言葉に満足したのか、ここの葉は目を細めて笑った。
「さて、と」
七璃はカップをソーサーに戻して、
「俺は超能力者じゃないから、てめえが何か言わない限り、俺には何もわからん。当然、横にいるここの葉にもな」
真緑はここの葉を見ると、軽く首を傾げているだけで何も言わない。
「僕は……」
言わなければいけない。自分がここに来たのは、そのためなのだから。そのことは分かってはいるのだけれど、いざ口にしようとするとまるで出てこない。まるで、そんな言葉は初めから存在していないかのようだ。
「ふん。おおかた言わなかったら、ひょっとしたら現実にはおこっていないかも、とでも思っているんだろうけどな。それは違うぜ」
さすがにしびれを切らしたのか、冷たく七璃は言い放つ。心を見透かしたような七璃の言葉。真緑ははっと息とともに唾を飲みこんでしまう。
「どうせ、気にくわないお友達でも、間違って殺してしまったんだろ」
「七璃!」
七璃の隣に座るここの葉は耐えかねたような声を上げる。
「いえ、違います。僕が殺してしまったのは……母さん、です」
真緑は絞り出すように、何とかその言葉を口にした。ふーん、と七璃は頷き、
「ま、どうでもいいけどな」
と、突き放すように言い捨てた。
「どっちにしろ、助けてくださいっていうんだろう? その、"アウター"になったお母さんを殺してっていうんだろう。くだらないね。そんなどうでもいいことに俺を巻き込むな」
アウターという言葉に反応し、真緑は背筋を伸ばしてしまう。
七璃は短くなった煙草を灰皿に押しつけて、新たな煙草を口にくわえる。ここの葉の視線も煙草に向けられていた。それは暗に、吸い過ぎと言っているように思える。そのために、今度は火をつけずにくわえているままだ。
「お前さ、刑法第×××条って、知っているか?」
「刑法第×××条?」
唐突に出てきた言葉に、真緑はオウム返しになってしまう。
「人を殺した者は、死刑又は無期もしくは三年以上の懲役に処す。ただし、十四歳以上の人はそれに含まず。これは、十四歳以上の人が殺したらって意味じゃねえぞ。十四歳以上の人を殺しても罪にはなりませんっていうやつだ。だから別にお前は悪いことをしたわけじゃねえぜ。殺したければ、何人だって殺せばいい」
世界の理を七璃はくつくつと笑いながら言う。
「それがどういう意味かわかるか。誰も言わないだけで、簡単な話さ。人を殺したヤツは、殺し返されるのが自然の摂理だからだよ。ただそれだけのことさ。わかりやすくていいだろう?」
そこで言葉を一度切り、真緑の目をまっすぐに見据える。
「自分のしたことは法律なんかじゃなくて、自分で責任をとれってことさ。人を殺したお前は、殺されても文句は言えないっていう話」
七璃の言葉はそこで終わりだった。くわえていただけの煙草を灰皿の上にのせてから、コーヒーをすする。それから無造作に伸ばした左手には一冊の文庫本が開かれる。ブックカバーがついているために、何の本なのかは分からない。それは、七璃も同じだろうけれど、これはただの拒絶のポーズであって何の本でも構わないのだろう。
真緑は助けを求めるように、ここの葉の方を見た。彼女は二度ほど首を横に振るだけで、助け船を出してくれる様子はなかった。
「あの、僕……」
「悪気はなかった。死ぬとは思わなかった。そんな言葉は関係ない。人が死んだ。お前の母さんが死んだ。それは変わらない」
七璃は本を開いたまま冷たくあしらいの言葉を飛ばす。開かれた本は彼の顔を隠しているために、真緑には彼がどのような表情をしているのか分からない。
「はい。だから、僕は別に殺されてもいいです」
「ほう」
七璃はそこで初めて、ほんの僅かであったが興味深げな息を漏らした。
「僕はただ、お母さんに謝りたいだけなんです!」
半ば叫ぶように真緑は訴えかける。言葉だけでは足りず、両手も広げる。
七璃は僅かに本を傾けた。彼の右目だけがあらわになる。
「いいだろう。少しくらい話なら聞いてやっても良いぜ」
不敵に告げる七璃の本の影から見える瞳は鋭く細められていた。
◆
「え、え、と。何から話したらいいんでしょう」
話を聞いてくれるとは言われたものの、一体何から話せばいいのか分からない。ここに来る間に、話そうと思っていたことは決めてきたつもりだったのだけれど、怒られたりコーヒーを飲んだりしている間にすっかり抜け落ちてしまった。そのため真緑はあたふたと、両手を上下させたりと落ち着きのない動きをしてしまう。
「お前の母さんは何で死んだんだ?」
焦る彼とは対照的に、つまらなそうにコーヒーを口に運ぶ七璃は、話を促すべく聞いた。ここの葉は七璃の隣に(座るスペースなどなかったはずだが)座っている。
「あ、はい。えーと……僕が階段から突き落としてしまったんです。それで、母さんは頭を打って、それで」
真緑は言い淀みながらも説明する。
「それで、僕は救急車を呼びに行ったんです。近くの公衆電話まで。それで、戻ってきたら母さんがいなかったんです」
「お母さんは一体どこに行ってしまったんだ?」
「……血のあとが、僕の住んでいるアパートのほうに続いてました。それで僕も戻ると、母さんは何もなかったように家にいました。それで、母さんにそのことを聞いてみたんですけど――そんなこと、知らないって言われて」
あんなことがあったはずなのに、母は家でコーヒーを飲んでいた。それは、いつもと変わらない風景だった。
「ふーん。じゃあ、本当に何ともなかったんじゃねえのか。母さんはそう言っているんだろ?」
「……それは」
真緑も自分の勘違いだったらいいと思い、階段から落ちた場所にもう一度行ってみた。藍色のアスファルトの上には、水たまりくらいの染みが出来ていた。黒ずんだ濃い茶色のような色。血の跡は、確かに残っていた。
「それに……」
真緑は自分の首をそっと撫でるだけで、その言葉は飲み込んでしまった。
「何で突き落としてしまったんだ?」
「……それは、ただの事故です。僕が足を滑らせてしまったせいで。落ちるとき、僕を庇う感じで母さんが下敷きになってしまったんです」
その時の光景をまた思い出したのか、真緑は顔をしかめた。吐き気がこみ上げてくる。今飲んだコーヒーが喉元までせり上がってきているような気分だ。
「それで、お前は俺に何をして欲しいんだ?」
「母さんは、まだ自分が死んだことに気付いていないんだと思います。だから、僕の話を聞いてくれないんです。アウターになった人が存在できるのは短い時間だって聞いています。だから、その短い時間だけでも……」
階段から落ちた母親で一番焼き付いてしまっているのは、血の涙だ。打ち所が悪かったのか、眼球の内側の血管を押しつぶしてしまったのだろう。口をぽかんと開いて目を見開いているという母親の表情だった。その顔で唯一表情を表しているのは、流れる血の涙であった。つうっと流れるだけの涙とは異なり、目から溢れた赤色の液体は、わき出る泉のように広がって、顔の半分以上を赤く染めてしまっていた。死に化粧には濃すぎる。
あとは、言葉にならなかった。
言葉とはどんな意味を持っているのだろうか。口にすると、止まらなくなる。
「う、ぁあぁあぁあぁ……」
泣きじゃくる真緑を、七璃とここの葉はただ見守ることしか出来なかった。
◆
「あの子は眠ったわ」
「そうか」
ここの葉は、あのまま泣き疲れて眠ってしまった真緑を自分のベッドに寝かせつけてから、元の部屋へと戻る。七璃は先程適当に手に取った、本を開いていた。最初の方の内容は見たことがある。途中で内容に飽きたのか、今回の真緑のように誰かが飛び込んできてから邪魔され、そのまま行方不明になってしまったのか。どちらにせよ、続きも気にならないようでは大した内容ではないのだろう。
「さっきまではすました顔してたけど、寝顔は年相応に可愛らしい物ね」
「ここの葉ってショタだったっけ。ん、ショタってそもそも何の略だ」
ここの葉は落ちている本を一冊拾い上げ、ノーモーションで放り投げる。景気のいい音が部屋の中に響いた。
「それで、七璃はどう思っているの?」
目がー、目がー、と悲鳴を上げている七璃に対して、さも何事もなかったかのように先程のカップを流しに移動させてから、ここの葉は尋ねる。
「どうって?」
悲鳴とは裏腹に、七璃は鼻の頭を撫でていた。少しだけ赤くなっている。
「真緑君のことよ」
質問を質問で返され、不機嫌になったここの葉は唇を尖らせる。
「ああ、今のガキは十中八九、いや、百発百中かな。母親に虐待されてたんだろうな」
こともなげに言う七璃に対して、ここの葉は苦い顔をした。
「ええ、服の下は打撲と火傷の跡でいっぱいだったわ。本当に可哀想」
悪いとは思ったが、寝かしつけるとき確認させて貰ったのだ。一回や、二回殴られた程度の跡ではない。何度も何度も執拗に、外からは目立たない場所を念入りに痛めつけてあった。
「お節介な、ここの葉さん。どうせ、勝手に調べたんだろ。どうだったんだ?」
「ええっとね。根野真緑君。母子家庭の一人っこで、現在小学校六年生ね」
それからここの葉は、真緑のプロフィールを並べていく。
「最近中学の受験を受けていたみたいね。結果のほうは」
残念ながら落ちていたようだ。
「それで、肝心のお母さんのほうね。根野白緒。三十六歳で、三上産業本社の営業部門主任」
「……エリートさんだな」
三上産業といえば、一流メーカーの一つに数えられるほどの大手だ。年功序列制が薄くなったとはいえ、四十にもならないうちでそのポストは大したものである。
「会社の忙しさのせいで、子供に虐待をしてしまっているのかな……」
「たく。苛々する話だ」
七璃も吐き捨てるように呟き、先程くわえるだけで吸わなかった煙草に火をつける。
「それにしても何で、真緑君は虐待されていたことを隠しているのかしら」
その言葉に七璃は口を開いてしまい、火をつけたばかりの煙草を本の上に落としてしまう。
「ちょっと。何やっているのよ、七璃!」
煙草の先端には火がついていたため、ここの葉は慌てて煙草を回収し灰皿に押しつける。こんな本だらけの部屋で火を放ったら、さぞかし景気よく燃えることだろう。そんなことは、七璃にも分かりきっている。
「……お前ねえ」
七璃はここの葉の顔をまじまじと見据える。
「……何?」
「お前は、母親にはなれねーな。むしろなるな」
呆れ半分、諦め半分といった風に、七璃は頭をふった。その言葉を理解したここの葉は、かっと赤く頬を染める。
「何ですってぇ!」
両手に掴める分だけ本を掴み、振りかぶるここの葉。ワンモーションで、三つの本が投擲される。
「お・ち・つ・ぐべ」
一冊、二冊、三冊とまでは避けて見せた七璃だが、脇下に挟み、死角になるように隠し持った第四の本が、時間差でこめかみにヒットする。隠し持つ技術はまるでマジシャンさながらだ。それはさておき、ぶつけられた本がハードカバーであったり、丁度角であったりしたせいで七璃はその部分を押さえるだけで、声も出ないようであった。
「まあ、いいわ。それで、これからどうするの?」
「当然、あのガキの言ったとおりにするだけさ。さっき聞いた感じだと、母親はまだアパートにいるみたいだしな。あのガキが起きたら、母親のところへ連れて行って謝らせるだけだ」
七璃は先程落としてしまった煙草を見る。まだ十分な長さが残っているとはいえ、もう一度それを手にとって吸う気はしなかった。諦めて、胸ポケットから新しい煙草を取り出した。
「本当に、それだけ?」
「だって相手はガキだぜ。金はまるっきり期待出来ないんだぜ。それ以上して何になるんだ?」
ここの葉は怒るでもなく、悲しむのでもなく、表情をなくした顔で彼を見ていた。七璃は鏡を見ているような気分になり、舌打ちをする。
「そうだな。どうすっかな」
吐き出された白い煙は、その場に匂いだけを残し、空気の中に溶けていった。
◆
眠っている真緑は夢を見ていた。死んでしまった母親の夢だ。彼女は手をつないではいるものの、遅れて歩く真緑に背を向けて歩いている。歩幅が違うのだ。同じ歩数で歩けば自然と遅れてしまう。手を離せば遅れる真緑に気付き、母親は歩調を緩めてくれるだろう。
けれども、彼は手を離したくなかった。母親の手は細張っており、さわり心地は決して良いとは言えない。だが、そんなものは真緑には関係ない。彼にとっては、この感触しか知らず、他の感触に興味を引かれることもない。
歩いている場所は幼稚園の帰り道である住宅街という見慣れた風景。日はすでに落ちていて暗い。
これは幼稚園の帰り道なんだろうか。真緑は時間の感覚が曖昧になってしまう。
母親が着ているのは、薄い色のスーツだ。いつも清潔で、皺一つ無いスーツ。
ねえ、母さん。ねえ、母さん。真緑は何度も何度も、母親に呼びかける。
「母さん!」
自身の叫び声とともに、真緑は目を覚ました。
「悲しい夢を見ていたのね。大丈夫?」
枕元にはここの葉が座っていた。
目を覚ましたばかりというのと、涙で視界がにじむせいで、真緑にはここの葉のことが母親に見えてしまう。布団を脱ぎ、彼女に抱きつこうとする。ここの葉はその行動に驚き、咄嗟に避けてしまった。
「あう」
避けられた真緑はそのまま前のめりに転んでしまった。胸をうったため、呼吸が止まり、ごほごほと咳き込んでしまう。
「ご、ごめんなさい。大丈夫?」
「あ、はい。僕こそごめんなさい」
真緑は謝り、顔を上げる。自分が今いるのは六畳間くらいの部屋だった。ベッドの他には、窓際に一メートルくらいの観葉植物が二つ並んで置いてあり、机が一つある。パソコンと、数冊のノートと本がその上には並んでいる。
「あの、ここは何処ですか」
「私の部屋よ。真緑君が寝ちゃったから、運ばせて貰ったの」
先程の部屋の隣の部屋のようである。綺麗に整頓されたこの部屋と、汚さの極みのような先程の部屋とではどうしても結びつかないために、真緑はすこしばかり戸惑ってしまう。
「おう。起きたのか……ぶ」
がちゃりとドアを開き、部屋に入ろうとした七璃の顔に、ここの葉の手から放られた枕がヒットした。
「ノックもせずに入らないでって言っているでしょ!」
ここの葉は顔を赤らめて、抗議の声を上げる。俺のアパートなのに、と情けない声を出す七璃に、こんな綺麗なのにどうしてだろう、と真緑は首を傾げる。女心の分からない大人と子供であった。
先程まで座った姿、それも服と本の山に埋もれた姿しか真緑は見ていなかったために分からなかったが、七璃の身長は高い。百八十センチを越えているだろう。すらっとした細い体躯のせいでよけいに高く感じる。身長が同級生の女の子達よりも低い真緑には羨ましい。ただし、開いたドアの奥に見える荒れ果てた大地を見て、こんな風な大人にはなりたくないと思い直す真緑だった。
「たく、よく眠りやがって。すっかり暗くなっちまったじゃねえか」
真緑はその言葉で窓を見る。カーテンの隙間から見える外の色は暗くなっていた。一体何時くらいなのだろうか。もう秋で、日が落ちるのは早くなったとはいえ、六時はすでに回っているだろう。ここに来たときは日が丁度真上にあったくらいだから、結構な時間眠っていたことになる。
「起きたんなら、さっさと行くぞ」
七璃はあごで催促する。
「あ、はい」
頷き、外に向かおうとする真緑に向けて、七璃はほらよとフードのついたトレーナーを放った。真緑は両手でそれを受け取る。
「外はもう冷えているぜ。それを着ときな」
「あ、ありがとうございます」
真緑は受け取った服に袖を通す。予想通り、身長差のありすぎる二人のため、真緑の腕は袖の半分ほどのところまでしかないし。たけも膝元を越えたところまである。
「あ、あの……」
「よっしゃ。行くぜって、いたたた」
そのまま背を向けて、行こうとする七璃の耳をここの葉が引っ張る。
「こら。また、真緑君を困らせて。本当に子供なんだから」
「あん。一体俺が何をしたって言うんだ」
最初、何かの嫌がらせかと思ってしまったが、渡した本人である七璃は面白がっている様子はない。真緑と同じような癖毛のせいか、起きてから随分な時間がたっているというに、彼の髪の毛は未だに重力に逆らい、ぴんぴんと跳ねている。つまり人の見た目などまるで気にしていないのだろう。
ただの好意を悪意として受け取ってしまったことを真緑は悪く思った。
真緑は、七璃の目の前まで近づいてから、
「あ、ありがとうございます」
と、ぺこりと頭を下げた。
「別に気にすんな。これも仕事のうちだ」
七璃はふんと鼻を鳴らし、ぽんぽんと真緑の頭を軽く叩いた。
真緑は今叩かれた部分に手を触れさせる。何でだか、妙な違和感を感じたような気がした。しかも、最近感じたばかりのずれ。一体、それは何だったのか。
「おい、早くしろ。置いていくぞ」
ほおけたように頭を撫でている真緑に、短気な七璃は声を上げる。
「あ、はい。今行きます」
違和感の正体は結局分からぬまま真緑は部屋を出た。
「七璃」
部屋に残ったままのここの葉が七璃の名を呼ぶ。靴をはいている真緑を横目で見つつ、七璃は相づちをうつ。
「ごほごほ……」
胸を詰まらせたのか、ここの葉は軽く咳き込んだ。
「何だ?」
咳が収まるまで待ってから七璃は尋ねる。ここの葉は手を口に添えるだけで、何も言えない。
「気をつけて、ね……」
結局言えたのは、そんな言葉。
◆
真緑が外に出ると随分と冷えていた。昼間の日の強さと異なり、日が落ちると温度ががくんと落ちる。昼間は夏を思わせるほど暑く、夜は冬のように冷え込む。それが秋という季節だ。こんな時間になるとは思ってもいなかったため、ロングのティーシャツ一枚しか着てこなかった。トレーナーを貸して貰えなかったら、今頃寒さに身を震わせていたかもしれない。
ただ、やはり大きすぎるのはネックだった。腕をいつも折り曲げていないと、地面を引きずってしまう。ふともっと幼かった子供の頃に、父の服を着て喜んでいたことを思い出してしまった。
暗い夜道を、真緑は七璃の後ろを歩く。母と歩いた保育園の帰り道。先程見ていた夢の道だ。
けれども、前を歩いているのは母ではなく、木之元七璃という名前の男。アウターに関する問題を解決できるという唯一の人。真緑が知っているのはそんなことだけだ。
実際に真緑が彼のことを知ったのは、救急車に連絡を入れた後に、警察に連絡をしたときだ。その時、電話に出た女性に教えて貰ったのだ。だから真緑は、彼のこと何も知らないと言っても過言ではない。
ただ、見た目は全く気にしておらず、掃除が全く出来ない人であるということだけは、間違いようがない。
「おい、ガキ。俺に喧嘩を売っているのか。十円だせば買ってやるぜ」
……そして、異常に勘の鋭い人である。
前を歩いていた七璃は立ち止まり、真緑を睨み付けていた。大人気というものが欠片もないのが七璃という男である。
「……あの、アウターというのは、一体何なんでしょうか?」
真緑は今まで疑問に思っていたことを尋ねる。
「アウター、ねえ。お前はアウターってやつについて、どれくらい知っているんだ?」
七璃は視線を緩めて、鼻をならす。基本的にどうでもいいことを引っ張るような性格ではないのだ。
「僕ですか。ええっと、人が死んだらなるものってことと、生きている人には触れることが出来ないってこと。逆にアウターは生きている人に触れることが出来るっていうこと。あとは、アウターになったとしても、長くて二、三日くらいしかとどまれないってことくらいしか、知らないです」
アウターという名前自体は聞いたことがあるものの、そこまでなじみのない物だ。真緑にとって、生まれてから初めて見たアウターは母なのだから。
「ふーん、ま、そんだけ知ってりゃ十分だと思うが。そうだな、簡単に言えばアウターっていうのは、個人を恨む生き物が死しても現世に残っている状態だ」
「個人を恨む……ですか」
七璃はこめかみを軽くかいてみる。自身では理論を理解しているが、説明することには慣れていないのだ。仕方がないので、順序よく並べてみることにする。
「一般的に考えられているのは、俺たちが住んでいる世界ってやつはだな、第一世界サウルーン。第二世界ルーティナン。そんな名前の二つの世界でわけられているんだ」
「サウルーンとルーティナン?」
耳慣れない言葉に真緑は聞き返す。
「ああ、世界の名前なんて学術名だから気にするな。名前自体には意味はねえ。確か、そんな風な理論を最初に発表したやつの所属している研究機関の名前だったしな。そんなことよりも、今生きている人は第一世界を生きており、死んだ……殺された人は第二世界で生きている」
「え、と……。どういうことか、わかりません。だって、第二世界で生きているって、母さんはそこにいました」
七璃は空中に円を二つ描く。無限大のように、一筆書きだ。
「第一世界と第二世界っていうのが、この二つの円のことだ。そして、重なった二つの世界の表層が俺たちの住んでいる世界っていうわけだ。紙でもあればわかりやすいが。分かるか?」
「あ、はい」
真緑は算数の問題である、Aを買った人は何人。Bを買った人は何人。では、AとBを買ったのは何人、という風に二つとも買った時みたいな感じに重なったみたいかな、などと自分なりに理解する。
「それで二つの……。重なっているように見えるのは円を上から見たときで、横から見るとこの円二つは微妙に高さが違う」
七璃は両手の指でわっかを作り、それを上下に重ねてみせる。
「二つの世界は全く同じ物で出来ており、存在する物もまるで同じ。けれども全く同じはずがなく、アウターには人がさわれる割には、人がアウターには触れられないっていうのがその最たる差だな」
「…………」
もっと細かく説明しようとして七璃は止めた。真緑の顔を見て、苦笑いを浮かべる。必死で分かろうとしているのは分かるのだが、分からないということが手に取るように分かるのだ。
「ま、気にすんな。アウターと人との違いなんて、さっきお前が言ったとおりのことだけだ」
七璃は肩をすくめてみせた。
「消えて、しまう……」
「何だ?」
「恨みって、その……」
真緑には世界の構成のことなどまるで分からない。そのため、最初に言った言葉のほうが気になったのだ。
「アウターってのはな……」
気付けば、真緑の住んでいるアパートにたどり着いていた。
◆
アパートは六階建てで、エレベーターが備え付けられている。
エレベーターから降りて、四○六号室の前まで行きチャイムを七璃は押した。秒を待たずして、ドアが開かれる。
「真緑! こんな時間まで何処に行っていたの」
ドアを開いたのと同時に、きつい声が響く。
「どうも」
「……どなたかしら?」
親しみを表すように七璃は手を挙げる。相手を取りたがったことを謝りもせず、真緑の母親、根野 白緒<ねの しらお>はうさんくさげに見る。
家にいたという割には、そのまま外出できそうなしっかりとした格好だ。清潔なものが好きと言うよりは、汚いものが許せないという感情が先立っているのだろう。仕事の出来るエリートといった雰囲気を、そこにいるだけで醸し出している。寝癖がつき放題の七璃とは実に対照的であった。
「俺の名前は、木之元七璃って言います。奥さんのお子さんがうちに尋ねてきたから、送ってきて差し上げたんです」
一応目上の人に対する敬意をはらい、七璃は丁寧な言葉で応じた。七璃の後ろに隠れるように立っていた真緑が、おずおずといった風に前に出る。
「あ、あの。母さん……」
「貴方のその格好は何なの」
その格好。大きすぎるトレーナーのことをさしているのだろう。
白緒が真緑を見るその目は、とても自分の息子を見る物ではなく、まるで親の敵でも見ているかのようだ。
「あ、これは木之元さんが寒いだろうからって、貸してくれたんです」
そんなことにまるで気付くはずもない真緑は、両手を少し掲げて見せたりしてみせる。その行為がかんに障ったのか、
「やめなさい!」
近所に響きわたるのにも構わない大声を白緒は張り上げる。
「ご、ごめんなさい」
びくりと真緑は身をすくませた。
今の大声に対して、近所の人は誰も出てきはしない。大声を張り上げる状況なんて言うのは、ほとんど面倒事だ。好きこのんで関わりたい者などいないのは当たり前のことなのかもしれない。つまらない話だ、と端で見ている七璃はぼんやりと思った。
「ありがとうございました。それでは」
「それは、どうも」
まるで感謝の意味など感じられない白緒の礼に、同じように七璃は返す。
そのまま白緒は真緑の腕を掴み、部屋の中に戻ろうとする。
「おっと」
七璃は白緒の腕を掴んだ。その行為に驚いたのか、掴んでいた真緑の腕を放してしまう。
「一応、頼まれたことくらいはやっておかないと、良い夢が見れないもんでね」
「あ、あの、母さん」
「真緑!」
有無を言わさぬ白緒の言葉。人の上に立っているせいか、実に威圧的であった。直接言われていない七璃ですら、耳を覆ってしまいたくなる程である。直接言われる真緑には話す権利すら与えられない。
「そ、その……」
真緑は結局、続きの言葉を言えぬまま俯いてしまった。
「そう。なら、早く家の中に戻りましょう」
「……はい」
こっくりと頷く真緑に、にっこりと満足げに白緒は笑う。
七璃は何も言わず白緒を掴んでいた手を離した。そのまま二人に背を向ける。
「あ」
真緑は七璃のほうを向く。七璃は何のようもないといった風に真緑達のことをまるで気にかけた様子もなく、エレベーターへと向かっていた。白緒は立ち去る彼のことなど見向きもせずに真緑に手を差し出している。触れることなど出来ないのに、思わずその手を取ろうとしてしまう。
けれども、差し伸ばす手を真緑は止めた。
「真緑?」
エレベーターの中で七璃に言われたことを思い出す。
『アウターってのはな、恨みだけを持ちし存在だ』
ごくり、と唾を大きく飲み込む。七璃達に告白したときなどとは比べものにならないほど、体が強ばっている。手の先は震えていて、コップも持てる状態じゃない。ライオンに睨まれているというのとは違う種類の震え。陳腐なたとえだが、サンタクロースなんていない、と認めてしまうことに対する恐れに似ている。
それでもこれは、ここで言わなくてはならないことくらい真緑にも分かる。
「母さんは、すでに死んでいるんです。今、ここにいる母さんは、アウターって呼ばれている第二世界の人なんだよ」
「何を言っているの。さっきの男の人に、何を吹き込まれたか知らないけど、私はここにこうしているじゃない」
そう言い、真緑の目線にあわせるようにかがみ込んだ白緒は彼の頭を撫でてやる。けれども、柔らかげな言葉とは裏腹に、目には怒りの色がこもっている。そのことが分からないほど、真緑は子供ではなかった。
『それも、漠然とした恨みなんかじゃない。ちゃんとした方向性を持った恨み……個人を恨む思いだけが、アウターを第二世界に留まらせてる。つまりだ、殺した奴を』
――お前への、恨みだけが母親がそこにいる理由だ。
「ごめんなさい。僕が、母さんを殺しました」
言った。言ってしまった。真緑は思う。
七璃が言った言葉が全てだ。
アウターとは、個人を恨む呪いのようなもの。その恨みは拡散性を持っていれば意味はなく、自分を殺した人などの明確な方向性でなくてはならない。それは思いの濃度に関係しているのだろう、というのが一般的な説である。
つまり、真緑が告白したということに、真緑が彼女の前に姿を見せるという意味は。
白緒の頭を優しく撫でていた手が顔をなぞり、首もとまで移動する。触られている感触の代わりの、冷たい風に撫でられているような感触だ。酷く背筋を走るものを感じる。
「どうして」
彼女は真緑の胸元に顔をうずめて、
「どうして、貴方はいつも」
彼の首を握りしめた。
「う、か、あ……さん」
「目元ばかり、あの人に似て。どうして」
握りしめる手に力が籠もる。じ、じと気味の悪い音。その細腕に血管が浮かぶほどの力の込め具合だ。
真緑は、その腕を掴もうと手を闇雲に動かすが、空気でも相手にしているかのようにすかすかと空を切る。
大人しく殺される覚悟を持てるはずもない真緑は、必死になって腕を振り回す。ドアやコンクリートを思い切りぶつかっているというのに、皮がめくれ血にまみれてしまっているというのに、そんな痛みを気にかける余裕がない。苦しみが輪を増して、喉を締め付けられているというのに叫び声を上げようとする。
無意味な抵抗は段々力を失っていき、真緑は母親の顔を見る。
血走ったその目に映っているのが一体誰なのか、彼には分からなかった。
「そこまでにしてくれよ」
その直後、白緒の額には黒色の拳銃が突きつけられている。
白緒のみならず、真緑も唐突に突きつけられたその物体に反応できなかった。
「わりーけど仕事柄、本物だ。何なら試してみてもいいんだぜ。銃弾は意外に高いからあまりしたくねえけどな」
銃をつきつけた七璃は、冷ややかな瞳で白緒を見下ろしている。
「エリートさんは、そんなにそのガキが旦那さんに似ているのが、いや、似ていないのが気に入らないのかい?」
すでに丁寧とは言い難い口調となっている七璃のその言葉に、白緒は目の色を変える。
「あなたは」
銃を突きつけられた姿勢だというのに、白緒は七璃を睨み付ける。その行動が意味することは肯定。
そんな彼女の態度で、七璃は持っていた疑問が確信へと変わった。
家庭内暴力の原因は、育児によるストレスというケースが大半だ。けれども、それはもっと小さい子、幼稚園などに通っている時くらいのケースである。真緑くらいの子供で、しかも同い年の子供と比べて聡いといってもいい子が暴力を振るわれる理由など、親の要求が高すぎること以外にはありはしない。
「たく、つまんねー理由だな。勝手に旦那さんを投影されているそのガキには良い迷惑だぜ」
「あなたに、何が分かるって言うのよ!」
「ああ、分かるね。簡単すぎて嫌になるくらいだ」
目を剥く白緒に七璃は吐き捨てる。
「受験に落ちたそのガキが、最初からエリートな旦那さんと違うからだろ。そのせいで、自分が無能だと思っているからだろ。自分を棄てた旦那さんに、馬鹿にされていると思ったからだろ」
けれども、旦那を恨むことは出来ず、彼女にとって無能である真緑を恨むことしか出来なかったというだけのこと。もしくは、真緑を通してしか恨むことが出来なかったということ。どちらにせよ、直接関係のないのに真緑が恨まれているということに代わりはない。
白緒自身、幼少時代に賢くなかったせいで、責められたことがあるのかもしれない。けれども、七璃にはそんなことはどうでもよかった。
「私は、真緑のためを思――」
「奥さんに一つだけ教えておいてやる」
白緒の言葉を断ち切る七璃の言葉。
「賢いあんたのことだ。自分が死んでいることは知っているだろうし、俺に撃たれたら、もう一度完全に死ぬこともな」
真緑はその言葉ではっとする。
先程まで、気が動転していて気付かなかったが、目の前で母親に銃を突きつけている人は、先程彼女の腕を掴むことが出来ていた。自分が触れることも出来ない彼女の腕を。そして、彼のアパートにいるときに撫でられたときの違和感。つまり、木之元七璃という男は……。
「奥さん。刑法×××条っていうのは知っているかい?」
「当たり前でしょ。馬鹿にしているのかしら」
「だったら、話が早い」
七璃は口元を吊り上げる。
「人を殺した者は、死刑又は無期もしくは三年以上の懲役に処す。ただし、十四歳以上の人はそれに含まず……このことは当然、アウターも含まれる」
撃鉄があがる。七璃に瞳は何の濁りもなく、明確な殺意を浮かび上がらせる。
「わりーが、俺はあんたが大嫌いだ。あんたには同情してやれる要素はどこにもない。だから、
――――――消えろ」
トリガーにかけられた人差し指が絞られ――
「待ってください」
母を庇うように真緑が銃口の前に立っていた。奇妙な光景である。銃口は白緒の額にぴったりと押しつけられているために、彼女と重なって銃口を一緒に突きつけられている形だ。
「僕が、僕が悪いんです……。母さんをこんな目にあわせたのも、母さんにいつも悲しい思いをさせているのは、僕が馬鹿だから。受験に落っこちるから、母さんをこまらせて」
「そ、そうよ。真緑が悪いのよ。この子の出来が悪いのが!」
七璃はトリガーを引きそうになるのをかろうじて留まる。この状態で銃を撃ったら、一体どちらにぶつかるのか、さすがに試したことがないために分からない。
「ま、てめえがそう言うんなら、殺しはしないけどな」
安全装置をかけ、ポケットの中に銃を戻した。これ以上、彼に出来ることはないのは、真緑の態度を見ると明白だ。
「邪魔したな」
再び七璃は二人に背を向けると、パアンという乾いた音が響いた。真緑が白緒に触れることが出来ない以上、どちらが叩いたのかを推測する必要もない。七璃はやれやれとため息をつき、胸ポケットから煙草を取り出した。
「ガキがさ、虐待をされているのに、誰にも言わないのはどうしてなんだろうな」
返答は返ってこない。仕方がないので、七璃は煙草に火をつけてから言葉を続ける。
「そんなのガキが、あんたのことが大好きだからじゃねえのか。あんたが悲しむ顔じゃなく、笑って貰いたいからじゃねえのか。そんなことを、考えてもやらないあんたは、クズだ」
煙を思いっきり吐き出して、七璃は今度こそ振り返らずにエレベーターへと向かう。
下のボタンを押し、エレベーターがくるのを待っていると、たんたんたんと地面を駆ける音が響く。
七璃がそちらを向くと、隣まで駆けてきた真緑がぺこりと大きく頭を下げていた。
「ありがとうございました」
「あん。俺は何もしていないだろ」
七璃にしてみれば、この子供のことを見捨てたも同然だ。礼を言われるためには、たとえどれほど真緑に恨まれたとしても、白緒を殺すのが正解だ。見逃すことが優しさにつながることなどありはしない。
「いえ、母さんを、殺さないでいてくれて」
ぽかんとした様子で真緑の顔を見る。
「……そうか」
七璃はくつくつと声を押し殺すように笑ってしまう。一体全体、先程は何を偉そうに説教をしていたというのだろうか。どうやら、子供のことを分かっていないのは自分も同じであったようだ。理解するにはまだまだ十年は早すぎる。
「ま、がんばれや」
七璃が軽くを手を上げると、エレベーターのドアが開いた。
◆
「お疲れ様でした」
帰ってきた七璃に、ここの葉はねぎらいの言葉を言い、インスタントのコーヒーをテーブルの上に置いた。ブラックのコーヒーは熱く、白い湯気をたてている。
「別に。さっきも言ったとおり、俺はあのガキの母親に銃を突きつけただけだぜ」
七璃はすでにソファの上の服と本の山の中という定位置で、埋もれてしまっていた。
「まあ、いいんじゃないかしら?」
「どこがだよ。俺は綺麗事が嫌いだ。あのガキはもうきっと殺されてる」
相変わらずひねくれたことを言いながら、よけいに深く埋もれてしまう七璃に、素直じゃないんだからとここの葉はくすくすと笑う。
「初めから気付いているんでしょ。あの子の母親が、彼を殺すつもりなんかないことは」
真緑は知りもしないであろうが、白緒にそこまでの殺意があるのなら、そもそも彼を逃がしたりはしないだろう。生きている真緑には、彼女に触れる術はありはしない。それならば、彼女が自分の意思で逃してやろうと思わなければ、そんなことは起こりえないのだ。
白緒が、真緑を通して見ている物を恨んでいるのなら、彼自身を恨んでいるわけではない。彼の父親に向けられたベクトルの間に置かれ、方向性を狂わせないためだけだ。
けれども、そんなものは一時の気の迷いかもしれないし、別の何かに気を取られただけのことなのかもしれない。
そんなことは白緒にはおろか、七璃にだって確信は持ちようがない。
十中八九当たっているかもしれないが、一二は外れているのだ。二十パーセントもあるならば、賭け事なら十分勝負が出来る確率である。
けれども、そんなことまで保証する義理など七璃にはない。真緑が自分で決めたことだ。結局は真緑自身が決めたこと。
だから、出来るのはそう思うだけということだけ。
ここの葉はソファに近づき、彼の頭をなでてやる。七璃はそっぽを向き、
「銃弾代が勿体ないんだよ」
そんなことを言った。