◆
人は人を殺す
アウターは人を殺す
アウターはアウターが殺す
◆
「ごめんなさい」
その言葉を口にするのに、どれほどの勇気を要したかはっきりと覚えている。
高校の校舎の裏にある大きな木の下。大きいといっても、大人が二人手を伸ばせば抱きかかえられるくらいの太さだ。それでも校庭に植えられている木々よりも、一回りも二回りも大きいことには違いない。
少しだけ入り組んでいる場所に立っているその木の元へ行くのはちょっとしたこつがいる。知っていればなんてことはないのだが、知らなければ行くことが出来ない。伝説や怪談の類は一切ないけれど、ちょっとした秘密の場所。
その木に背を傾けている少年が一人。待ち合わせをしているのか、一分事に携帯電話を学生服のポケットから取り出しては時刻を確認したり、爪をかんだりとそわそわ落ち着きがない。
たんたん、と地面を駆ける音がした。その音は次第に大きくなっていき、ひょいと音をたてていた人が曲がり角から姿を見せる。
「ごめん。待った、て上坂君?」
遅れてやって来た少女は、待っていた上坂を見て驚きの声を上げる。
「うん。ごめん、三島さん。呼び出したりして」
と、頷いてから上坂は三島のほうを見た。
「ううん。それはいいんだけど。あの、それで……?」
三島は一メートルくらい手前まで近づいて尋ねた。
「……昨年同じクラスになったときから、ずっと三島さんのことが気になってた。だから、俺と付き合ってください」
三島は突然の告白に戸惑ってしまう。突然といっても、靴箱の中に手紙が入っており、『放課後木の下で待っています』、と手紙に書かれていたら想像することは難くない。今時まさか、前近代的な果たし状ということはないだろう。そんな物は身に覚えがない。
彼女が驚いたのは、そこに立っていたのがよく見知った相手だったからである。知っている人ならわざわざ手紙なんか入れず、メールで呼び出せばいいのだから。だから、同じクラスメートで電話番号を知っている子は頭の中から消えていた。
「あの、私、その」
三島は、面と向かって上坂の顔を見ることが出来ない。彼女にとって、告白されるなんていうことは生まれて初めての経験だ。なるほど、こんな気分になるのか。思考が羽毛のように舞い上がり中々帰ってきてくれない。しかも、舞い上がっただけでなく、掴もうとしてもすいすいと逃げてしまう。
頭の中で、何度も何度も先程の告白のフレーズがリフレインし続ける。
そして、体がほてるほど熱くなっていくのを感じて――――
◆
――――どうして。どうして、こんなことになってしまったのだろう。
由里は酷く混乱したままで、雑踏の中を歩いていた。日も落ちかけた夕刻。駅の周辺には家に帰る学生や会社員達で溢れている。その中を歩く彼女は、酔っぱらいのように足取りがおぼつかずふらふらとその様子はいかにも頼りない。生気を失ったように顔色も青ざめて、両手で抱きしめるように持っている鞄だけが頼りというように、身を縮みこませている。まるで、世界に彼女だけが取り残されてしまったかのようだ。
――私が、悪かっただろうか。
もう、何度目かも分からなくなってしまった自問自答を繰り返す。自己弁護の内容をいくつもいくつも、並び立ててみる。
――自分は悪くない――仕方なかったの――ああするしかなかったんだから。
言葉を並び立てれば並び立てるほど、意識の奥にすり込まれていく。同じところをぐるぐると回っているのではなく、螺旋階段を降りていくようだ。言い訳の言葉はより強く意識させ、思いを深く沈ませる。
そのために、周りの様子など上手く見えず、人混みの中を人とぶつからずに歩いていけるはずもない。ほどなくしてどん、とぶつかって尻餅をついてしまう。
「ご、ごめんなさい」
由里は咄嗟に謝るが、顔を横に背けてしまい決して相手のことを見ようとしない。
そのことが、ぶつかった相手の気に障ったのか、
「ち、邪魔なんだよ」
男の人は吐き捨てる。けれども、すぐに、
「あいたた……」
と、悲鳴に取ってかえられた。
「男の人が、女の子を突き飛ばしておいて、邪魔ということはないんじゃない」
一体目の前で何が起こっているのか。由里は恐る恐るといった風に、顔を上げる。男の人の背後に立った一人の女の人が、男の関節を無理矢理逆に向けていた。
女の人が手を離すと、男の人は彼女を睨み付けるだけで、そのまま逃げるように去っていった。女の人は、呆れたように息を吐いてその後ろ姿を見送る。それから、由里のほうへと視線を落とした。
「大丈夫?」
「あ、はい。大丈夫です」
目を引くような美人というほどではないが、たれ目がちな瞳が優しそうだな、というのが彼女に対する第一印象だった。長く伸ばされた髪の毛は腰元で纏められている。年齢は十六の由里よりも、一つか二つほど上程度だろう。由里と同じ高校生か、専門学校生といったところか。
由里が無事なのを確認すると、よかった、と嬉しそうに彼女は笑った。
「でも、あなたもちゃんと前を向いて歩かないと危ないわよ」
どうやらぶつかったところまで見られていたようである。そのことに気付き、由里は一人気恥ずかしくなる。
彼女は倒れている由里に差し出そうとした手を止めた。それから、ごめんね、と困ったように苦笑する。存在感の希薄な笑みであった。
「それじゃあね」
そう言い、女の人は由里に背を向ける。
何故だかこのまま行かせてはいけない。そんな風な思いから、咄嗟に由里は手を伸ばす。
しかし、その手は空を切った。彼女は運動神経が決して良いほうではないが、そんなものを見誤りはしない。今、確かに自分の手は彼女の手に触れたはずなのに、空を切ったのだ。
由里がその事実に気付くまで時間を要しない。
心の堤防が決壊する瞬間。折角積み上げてきた土嚢であったが、大津波は一瞬で飲み込んだ。むしろ、積み重ねた土嚢の重みのせいで、もはや土台が限界を迎えていたのだ。
「あなたはアウ……」
由里は悲鳴を上げるのだけは何とか堪える。けれども、彼女の顔を見ている以上、その青ざめた顔は隠しようがない。
女の人は顔色を失い、その場から駆け出してしまった。
「ま、待って!」
由里は慌てて立ちあがり、追いかけようとする。けれども、さっき押し倒されてしまったときに、腰が抜けてしまっており、追いかけることはおろか、数分の間、立ちあがることすら出来なかった。ただ、彼女の去り際の言葉が由里の頭の中を響いていた。ごめんなさい、という言葉が。
◆
「んー」
七璃は目を覚ました。目を開かずに、耳に神経を集中させる。物音はなく、家の中に人の気配が感じられない。ここの葉は買い物にでも出かけているのだろう。
彼は体を動かすこともなく、手だけを動かして一冊の本を丁度掴む。服の山から頭だけ出して、その本を覗き込む。手に取ったのは小説ではなく、漫画だった。
体勢を少しだけ直して、漫画を読みやすい体勢にする。ふと、本を読むとき目が近すぎたら悪くなるという言葉を思い出す。ここの葉がいたら、理由に関係なく目が近すぎると怒ってくるだろう。
そんなことをぼんやりと思いながら読んでいると、あっさりと読み終えてしまった。やはり、文字の少ない漫画では時間を潰すのには向いていない。
「えーと、この漫画続きはどこだったかな」
体を起こしてから、部屋の様子を確認し、三秒ほど考えてから七璃は続きを読むことを諦めた。この時、ちょっとだけ部屋を綺麗にしておけばよかったと、後悔したとかしなかったとか。
嘆息して、地面に落ちてある本を一冊手に取ることにした。都合良く、先程の続きの巻であった。何という巡り合わせか。こうして彼は、部屋は片づける必要はない、と思い直すのである。
そのまま読みふけっていると、がちゃりと玄関のドアが開く。
「お帰り」
漫画から目を離すことなく、七璃は言う。
「うん……ただいま」
ここの葉は気の抜けた声で応じる。そして、そのまま部屋へと戻ってしまった。
「ん?」
彼女は買い物にでも行っていたのかと七璃は思っていたのだが、ここの葉は冷蔵庫によらずそのまま自室に戻ってしまう。それから、十分以上時間が過ぎても出てこないし、物音一つしない。
「全く」
七璃は今日あったであろうことの推測をすると、大きくため息をついた。こうなると、まるまる一日程度部屋から出てこない。時計を見ると、四時半を差している。今日の夕食はどうやら諦めた方がいいらしい。
別に七璃は料理が苦手なんていうことはない。ここの葉が来るまでは一人で暮らしていたし、それ以前からも一人暮らしの時間は長い。だから、一般的な成人男性よりも自信があるくらいである。作ろうと思えば、料理雑誌で紹介されている程度の家庭料理なら問題なく作れるであろう。
けれども、ここの葉が食べないというのに、自分だけが食べるというのにはいくら彼でも罪悪感を感じるというものだ。
しかし……罪悪感がつのるからといって、お腹がすかないわけではない。
「くそ」
七璃は朝食は元々食べない主義だし、起きたのが一時過ぎであったため、昼ご飯も食いそびれた。そして、夕食もない。罪悪感をため込まない代わりに、苛々とした鬱憤がたまってき、どんどん不機嫌になっていく。
そして、タイミング悪く。
こんこんこんと、ドアをノックする音がアパートの中を響いた。
「……どうぞ」
思いっきり不機嫌なのを隠そうともせずに、七璃は返信する。
「あの……」
扉を半分開けて姿を見せたのは、ショートカットの少女、由里であった。
「上がれば? 少しだけ散らかっているけど」
七璃が何も言わなければ、そのままずっとそこに立ちっぱなしで入ってきそうにない。
由里は失礼しますと、一礼してから部屋の中に上がる。彼女は部屋の惨状を見て思わず立ち止まってしまう。少しだけ、のレベルではない。そもそもこれを少しなんて言うのは遠慮するという言葉に対して失礼である。そして、尚奇妙な物体を目に入れてしまい、彼女は顔をひきつかせてしまう。
服の盛り上がった山から、手と頭だけが出ている七璃がソファの上にいた。丁度良く緑の服の山であったせいで、その様子はどこをどう見ても亀であり、とても人を出迎えてくれる体勢ではない。
「何か用? ここの葉は今取り込み中だけど」
目つきの悪い亀は、ぎろりと彼女を睨み付ける。
「あの、いえ。そうじゃないんです。あなたは、木之元さん、なんでしょうか?」
「……ああ」
またかよ、と吐き捨ててから七璃は頭をかく。どうして、こう不快な気分にさせてくれることが続くのだろうか。全く持って苛々する。
結局、七璃が出した結論は。
「寝る。お疲れ様」
空腹に対抗するには眠るのが一番である。
その結論に達した七璃は、そのまま意識をブラックアウトさせる。パソコンのログオフなんて手間じゃなく、直接コンセントを抜いたような即効性であった。
それから、どれくらいの時間が過ぎたのか。七璃が目を開くと、視界がぼんやりとする。ふて寝のつもりだったために、ろくな睡眠時間の補充になっていないのか。目に映る全ての物が歪曲したように見える。さらに部屋の暗さが、それに輪をかけていた。一体今が何時なのかも分からない。
「悪い……電気つけてくれ」
「はい」
返事が返ってきて、パチンと電源の入る音がした。一度、二度と明かりが消え、三度目から明かりは安定する。
「サンキュ」
目をこすりながら、七璃は礼を言う。けれども、遅れておかしなことに気がついた。もう、ここの葉は部屋から出てきたのだろうか。それとも、彼女が機嫌を直すほどの時間が過ぎてしまったのか。
「こ……」
彼女の名前を呼ぼうとして、口をつぐんだ。
「は、はい」
そこには、先程尋ねてきた少女が立っていた。
七璃は時計を見てから、眉をしかめる。僅かな時間しか眠っていなかったのかと思いきや、そんなことはなかった。時計の針は十時を回っている。我ながらよくこれだけ眠ったものだ、と感心してしまう。
「……何で起こさなかったの?」
七璃は一端服の山に潜り、下から体を引き抜いて体を起こした。亀が甲羅を脱いだ日である。
「いえ、幸せそうに眠っているのを邪魔するのは悪いかと思って。それに私は頼みに来た立場ですし……」
もじもじと由里は答える。
どちらかといえば、寝ている姿をそんなに長い間見られている方が嫌だったのだが、そんなことを口にする七璃ではない。
少しの時間、七璃は彼女のことを見てみる。散々泣いていたのか、目元が腫れている。髪の毛もところどころで跳ねており、見た目を気にする余裕がまるでなかったのだろう。しっかりと整えれば可愛らしい顔立ちをしているのに、勿体ないなんて思ってしまう。
「あ、あの……」
「いいぜ。とりあえず、話くらいは聞いてやるよ」
と、七璃は答えた。
◆
それは由里あての、一通の手紙だった。何の変哲もない白い便せん。
その手紙を受け取ったときのことは、今でも鮮明に思い出せる。
彼女が手紙を受け取るという経験は、それで二度目。手にとってから震えるのは前と一緒。けれども以前とは決定的に違う。起源が未知に対する恐怖だとしても、これを類似していると言うにはあまりにも難しい。
由里は靴箱から、周りを二度確認してから手に取った。
来るはずのない相手からのその手紙。内容は、一体何なのだろうか。一体中の文章には、何が書かれているのだろうか。
今すぐ封を解き、中身を確認したい衝動に駆られるが、その衝動は何とかかみ殺す。いや、隠すというよりも、恐怖を先延ばしにしただけというほうが正しいかもしれない。
級友が、目ざとく由里の持っている手紙を見つける。
「あ、由里それなにー? ひょっとしてラブレター」
……答える気力が、由里にはなかった。
ただ、呆然とその手紙を見ている。差出人は書いていないのに。誰が出したか、間違えようのないことだけはわかった。
そのままホームルームが始まり、一限目を終え、二限目を終え……六限目を終え、ホームルームを迎えた。そこまで、由里は確認することが出来なかった。結局その間ずっと、恐怖から逃げ続けているのである。手紙を読むことが出来たのは、結局放課後になってからのことになった。
屋上に一人きりで、由里は立つ。十月の終わり、日が傾きはじめたこの時間は温度が急激に下がる。昼間は暑く、夜は寒いため、秋という季節を定義するのは難しい。十月の頭はまだ暑く、十一月の半ばにはすでに冷え込んでいる。厳密な意味で秋と言えるのはこの期間ぐらいではないだろうか。でも、四季というにはそれではあまりにも短すぎる。
屋上からは、グラウンドが一眸できる。活気に溢れたかけ声があちこちから上がっていた。少しだけ冷えたこの空気は、運動するには最適な温度だろう。運動の秋というのも頷ける。
フェンスから見下ろすグラウンドが現実。あれが日常だ。
運がいいのか、由里の立っている屋上からはあの大きな木は見えなかった。
由里はポケットから手紙を取り出して、封を切って中身を読んだ。
前の時と同じ文字。前の時のように、一文だけではなくルーズリーフ一枚に敷き詰められるように書かれている。
手が震えるが、見ないわけにはいかなかった。
内容は、彼女に対する恨み言。
それは、分かる。
由里は彼の告白を断ったのだ。そのせいで、自殺した。
断っただけで、彼とは無関係だ。そんなこと程度で自殺する彼が悪く、自分にしてみれば良い迷惑だ。そんな風に割り切れるほど、彼女は大人にはなれていない。
どんな形にせよ、自分が断ったせいで彼は自殺した。ひょっとすると、もう少し上手い断り方があったのではないか。それは優しい嘘だったかもしれないし、すっぱりと断るべきだったのかもしれない。その中から、由里が選択したのは、告白してくれた相手に対するもっとも誠実な答え。
この時ほど、彼女は自分の性格を後悔したことはない。
何故、ここで本当のことを言ってしまったのだろうか。
そんなことは返答した自分が一番分かり切っている。
誠実な告白には、誠実な答えをすべきであるべきだから。そのこと自体は当然のことである。
そしてその日。彼は自殺した。首つり自殺だったらしい。由里には、死体の状況は聞かされはしなかった。けれども、この手紙が存在している以上死体は残ってはおらず、自殺をした跡だけがあったのだろう。警察という組織は、死体を捕まえることは出来ずとも、そういう鑑定技術は正確である。この国の警察は優秀なのだ。
自殺した彼が、自分の元へと手紙を残した。
内容はきっと自分を呪ってのことなんだろうと思った。自分を殺してやる、そんな類のことが書かれているのだろうと思っていた。
その内容は半分ほど、当たっている。
彼が自分のことをどれほど好きで、振られたことがどれほどの絶望を感じさせたか。由里には、想像も及ばぬ世界である。
由里は今まで振ったこともなければ、振られたこともない。自分が振られた姿を想像して、思いっきり泣くだろうが、すぐに立ち直ってしまうと思う。その程度の悲しみだ。異国の戦争を憂う気持ちと何ら変わりない、遠い想像。
だから、自分が甘かった、と言わざるを得ない。
告白を断った言葉は、
『ごめんなさい。私は好きな人がいるの』
その言葉を聞いたとき、彼は平然とした顔をしていた。
「そうなんだ」
ちょっとだけ辛そうに顔をしかめたが、すぐにいつもの顔に戻っていた。
「ふーん、何て人?」
そうやって、話を進めてくれた。このときは、気まずいだろうから、そんな話を振ってくれたのだろうと彼女は思った。
好きな人のことは友達の何人にかは話しているが、男の友達にはそんなことを話したことはない。けれども、折角気を使ってくれているのだ。恥ずかしくて頬が熱くなるのを感じながら、由里は好きな人の名前を言った。大学生の家庭教師だった。
けれども、きっとこのときから、彼は決めていたのだろう。
由里が好きといった人を殺して、彼女も殺すと。
手紙の半分には、由里の好きな人のことが書かれていた。どこに住んでいるのか。どこの大学に通っているのか。どんな人物なのか。そんなことまで調べられていた。
手紙を読み終えた由里には、青ざめることしか出来なかった。
◆
「ふーん」
それが、この話を聞いての七璃の感想であった。
さすがに由里は落胆の色を隠せない。ふーんの一言。しかも興味もなさそうに、ぴんぴんと跳ねている寝癖をなでつけている。いくら人ごととはいえ、自分がこれほど悩んでいたのが馬鹿みたいになってきた。しかも、続けて発せられた言葉は、
「奇特な奴だな、そいつも」
なんてものである。反応しそうになった自分が悲しくなってしまう。
七璃はそのまま落ち込んでしまい顔を伏せる由里に、
「煙草吸ってもいい?」
などと、のんきな声で尋ねる。由里は肩を落としたままどうぞ、と力なく答えるのであった。
言葉通りしわくちゃになった煙草を取り出して、口にくわえる。
「だってそうだろ。いつ誰に殺されるかわかったもんじゃないこんな世の中で、人を好きになるなんてな。ま、いいや。それで、あんたは俺に何をして欲しいのさ」
煙を大きくはいたところで、七璃はようやく本題に入る。
「それは……」
言われてみて、ようやくそのことに思い至る。由里一人きりだったら、何をするという選択肢は愚か、何も出来ないという答えしか存在しない。
「その、あんたが好きな人ってやらには相談しなかったのかい?」
「お話が、あるんですってメールを送ったんですが、返事が来なくて……」
由里は携帯を取り出して確認するが、やはり着信はない。
「お話、ねえ」
七璃はにやにやと笑っている。
「……一体何が面白いんですか」
笑われる理由が分からない由里は、七璃を睨み付けてしまう。
「いや、失敬。あんたが先輩ってのに連絡が取れなくて、ほっとしているように見えたのが面白くてね」
「ほっとですか」
この男の言いたいことが由里には分からなかった。逆上している彼女には、神経をわざとらしく逆撫でされていることにも気付けるはずもない。
「さて、先輩にあってから何を話すつもりだったのかな。自分のせいで、貴方の命が狙われているんですって言うつもり?」
「それは……」
そうとしか、言いようがない。言いようがないのだが――本当に、言えるのだろうか。そんな言葉が。
「いいじゃねえか。その馬鹿は、そいつを殺すって言っているだけだろ。その間にあんたは逃げればいいじゃん。どれくらい恨んでいるか知らないけど、そんなやつ一週間もすれば死ぬだろ。それにあんたの好きな人を殺したら、その人がその馬鹿を殺し返してくれるぜ。きっと」
まるで人ごとの七璃の言葉だった。
実際に人ごとなのだが、由里にはその言葉に心底腹を立てる。灰皿をとんとんとんと一定のリズムを刻む煙草も煩わしい。何でこの人はこんな冷たいことが言えるのだろうか。
「そんなことが出来るわけないです」
自分が助かるために他人を犠牲にするなんて、そんなおかしなことを由里には見過ごせるはずがなかった。それが大好きな人なら尚更である。
「へえー。じゃあ、先輩に言えるのか。自分のせいで、命が狙われていますなんて言葉が」
笑いながら七璃は言う。
そう。先程も思った。本当に、そんな言葉が言えるのか。
あの人なら、と思う。けれども、それは全て由里の想像にすぎない。
自分はどれだけ愚かなんだろうか。先日も、そうやって勝手に人を信用し、そして騙されたのではないか。だから、こうやって脅されているのに。何も学んでいない。
「……い、言えないです」
言えない。言えるわけがない。好きな人にどう転んでも嫌われる言葉なんて、言えるはずもない。
どうして、自分で彼に嫌われることを言わねばならないのか。自分は何もしていないのに、好きと告白もしていないのに、嫌われなくちゃいけないのか。
「じゃあ、いいじゃねえか。黙っていればよ。そうすれば、あんたが嫌われることもなければ、傷つくことすらない。別に二、三日ならここにいても何も言わねえよ」
七璃のこの言葉は実に適当である。隠れていればすむという程度の問題なら、刑法×××条なんて制定されはしない。それほど甘くない。
アウターの存在意義が、復讐というのならそれに見合う物を持っている。そう、アウターには殺すべき相手のことが分かるのだ。赤ん坊が何も教えなくても酸素を求めるように、泣き声を発するように、アウターとなった者は自分が恨んでいる者が何処にいるのかが漠然とだが分かるのである。それはまさしく、狩りの本能のように。人が死ぬ間際に一番何を願うのか、どんな願いに一番力があるのか。アウターが示すのはそんな寒々とした現実である。
その声を聞き、由里は言葉を失ってしまう。言葉を失って何が出来るのか、瞳からほろほろと涙がこぼれてきた。
「そんなこと、出来るわけない、です」
先程も口にした言葉。
先輩が自分のために死ぬ。そんなことに由里は耐えられるはずがない。想像することも敵わない。
人を見捨てるということの恐ろしさは知ったばかりだ。それなら、自分が死んでアウターとなり、先輩を守っていた方が良い。
「あ」
いいことを思いついた。確かに、そうすれば先輩を守ることが出来る。そして、嫌われなくてすむ。
由里は涙も拭わずに、鞄の中に入っている筆箱からカッターを取り出した。
その突発的な行為に、七璃は首を傾げて見ていると、彼女は袖をまくった。
「な、お嬢さん。一体何を……」
由里は返答することもなく、小さな刃を手首に押し当てる。
「ちょ、待て待て!」
さすがに見過ごすことも出来ず、七璃は本を蹴散らしながら近づいてその手を止める。
「一体俺のアパートで何をやる気だ」
「離してください! 私は自殺して先輩を守るんですから!」
「いや、手首なんかカッターで切っても、すぐに凝固して死ねないから」
「それなら喉を切ります。足りなければ腹も刺します」
「いやいや、そんな根性出さなくていいから。そういう根性はもっと別のところで使おう、うん」
必死の形相で止める七璃。血が広がったアパートで今後とも寝泊まりしたいほど、鈍感な男にはなれない。
なんとか、宥めることに成功しカッターを奪い取った(力ずくで)七璃は、彼女にコーヒーを入れてあげた。好みも聞かずに勝手にミルクと砂糖を二つずつ入れてある。由里は肩を落として、俯いている。スカートの裾を握った手は微かに震えていた。
「あー、からかいすぎて悪かったよ。たく、あんたは何のためにここに来たんだ?」
さすがに反省し、七璃は気まずそうに横を向いて尋ねた。
「……あ」
反射的に顔を上げる。その言葉で、由里はようやく自分が今いる場所を思い出す。
汚くて、廃墟のようなこの部屋の住民は――――
「たく。そんな泣かれたら、さすがに断れねえよ」
やぶれかぶれといった風に七璃は息を吐いた。
了承の言葉が聞けて安心してしまったせいか、思いっきり目の前で泣き出してしまったことを恥ずかしく感じる。結局、由里は再び俯いてしまう。今度は僅かながら頬を染めてだが。
七璃は内心で、全く持って面倒だ、と心底思った。
「さてっと」
七璃は立ち上がる。身長が高い七璃を由里は見上げてしまう形となる。
「……ちっさいな」
ぽつり、と感想をもらす七璃。
「な」
あまりにも直接的な言葉に、反論の言葉が由里には何も思い浮かばない。埴輪のように口をぽかんと開くだけで、何の言葉も出てこなかった。
「おい。行くぞちびっこ。さっさと用意しろ」
その反応が気に入ったのか、気をよくした七璃は皮肉気に笑う。
「な、な……」
未だに金魚のように口をぱくつかせるだけで、次の言葉を言うことの出来ない由里を放っておいて、ここの葉の部屋のドアをノブを回す。
「入るぞ」
返答は返ってこないが、構わずに開いた。これから出かけるのだから、一言伝えておいた方が良い。眠っているのなら、書き置きの一つでも机の上に置いていく。
けれども、ドアを開いた七璃は眉をしかめる。
「たく、あの馬鹿」
その部屋の主はすでにおらず、窓が開かれている。吹き込んでくる風が、ぱたぱたとカーテンを揺らしていた。
いつの間に出て行ったのだろうか。おそらく、自殺未遂騒ぎの時だろう。話を聞いて勝手に調べ上げたここの葉は、このことを解決しようと一人で出て行ったのだ。七璃に知られないため以外の理由で、わざわざこんな六階のアパートのベランダから出て行くことはない。
よけいなことを、と七璃は舌打ちをする。
「おい。早く行くぞ、ちびっこ!」
不機嫌な声を上げる七璃に、由里は唇を尖らせる。
「もう。好き勝手言ってくれて」
文句を言いつつも、由里もその後ろ姿を追い、アパートを後にした。
◆
彼はいつも硝煙の匂いをまとい、アパートへと帰ってくる。そして、また次の来客者が来るまで、家で本や新聞などを読んでいる。
それが彼の生活のサイクルだ。そのサイクルの中に自分はいない。いや、いらないのだ。
彼女はその部屋にいるだけだ。買い物をしてきたり、食事を作ったりしているがそれだけのこと。
だからここの葉は言う。あなたの仕事を手伝うと。けれども何度彼に手伝いを申しても、返ってくる答えはいつも同じ。
――お前は家にいろ。
にべもない言葉だけ。
彼は彼女に決して手伝わせない。一緒にいくことすらも許されない。
目を覚ましたここの葉の耳に、話し声が聞こえてくる。どうやら誰かが七璃のことを尋ねてきているようだ。
物音を立てないように、ドアに近づいて耳を押し当てた。これで話し声がはっきりと聞くことが出来る。七璃と女の子の声だ。少し高めの声。どこかで聞いたことがあるような気がしたが、彼女には思い出せなかった。
ドアを少し開き、部屋の様子を伺った。そして、目を見開いてしまう。訪れている客は、夕刻、ここの葉にむけてアウターといった子であった。
「ごほごほ……」
思わず、咳き込んでしまった。しかし、彼女が七璃に向かって話す声が大きいせいか、幸いなことに気付かれなかった。
胸を押さえてから、その話の内容に耳を傾ける。
言っては悪いが、それはよくある事件だった。そんな風に思う自分に気付き、ここの葉は落胆する。何て、自分は冷たいんだろうと。以前の自分なら、彼女と一緒に泣いていたはずなのに。いつから自分はこうなってしまったのだろうか。七璃と暮らすようになってからか。自分が、殺されたときのことか。もしくは、それ以前……元々他人のことなどどうでもいいと思っていたのか。自分のことなのに、全く分からなくなってしまう。
それでも、相手の名前、狙われている相手の名前、住所、出てきたそれらのことを頭の中に留めておくのは忘れない。それだけ、聞けば十分だった。足りない情報は自分で補足しておく。
黒色のジャンバーとジーンズという動きやすい格好に着替える。動くのに邪魔にならぬよう髪の毛もポニーテールにして、ベランダからワイヤーを降ろした。そのままワイヤーを軽快につたい、地面に降りる。鋭く細められたその瞳は、狩りをする獣のものだった。
――標的はすぐに見つかった。彼女の家庭教師のアパートの付近のことだった。どこか焦点のぼやけた瞳をしている少年は、黒色の学ランに身を包んでいる。丁度街灯の下を歩いているために、その姿がくっきりと浮かんで見えた。
ここの葉は、背後に近づきその少年を組み伏せた。瞬き一つの間の出来事だ。
うつぶせに押し倒された状態。しかも背中では腕をひねられており、何の抵抗もできず、悲鳴を上げるだけだ。
表情に動きのないここの葉は、左手で彼の体を押さえつけたまま右手でナイフを掲げる。
そのナイフを振り下ろそうとしたところで、
「ここの葉!」
彼女の動きを止めるほどの怒声が響き渡った。
◆
世界というのは元々個人だけのもの。木之元七璃という男から見た世界。葛葉ここの葉という女性が見る世界。三島由里という少女が見る世界。そういう点でいうならば、世界というのは存在する全ての物の数だけ存在すると言えるだろう。逆の言い方をするならば、木之元七璃からしてみれば、木之元七璃の世界でしかないと言えるわけである。
では、アウターと人の違いは何か。それは見ている世界自体の違いであるということだ。
仮にAという男性がいたとする。彼は生きている普通の人だ。彼の持っている世界にはアウターなどは存在しない。存在しない物に触れることは出来るはずもない。
そしてBという男性がいたとする。彼はすでに一度死したアウターである。彼の持っている世界にはAという人は存在する。人が人を見ることが出来るのと同じだ。
そのために二つの世界という言葉がここで使われる。第一世界というのは人が見た世界であって、第二世界というのはアウターから見た世界ということだ。一般的には、第一世界の上に第二世界がフォログラフィーのように重なっているという考えられ方をされている。そのため、人にアウターが見えるのに、触れることも出来ないのだ。
七璃は何となくそんなことを頭の中で整理していた。何で今そんなことをしているかというと。
「それでですね。先輩はとても優しいんです。何というか、タンポポのわたげみたいにふわふわって。少しつかみ所がないっていう感じも含んでいますよ。そういうところは、あなたと似ているかも。つかみ所がないところだけよ。先輩はあなたなんかよりも、十倍や百倍は格好いいんですから。きっと頭も千倍も万倍もいいはずです。性格なんて億倍はおろか兆倍も無限大倍もいいんですし」
こういうわけである。
「へーへー。そりゃすげーや」
耳元で喚きまくる由里に、完全に辟易しきった様子で七璃は頷いている。しかも桁を確実に増やしていっていることだけは心の中で拍手を送っておく。先程までの落ち込んだ様子はなく、マシンガンのようにまくし立てる。けれどもそれが無理矢理やっていることくらい、ぎこちない体の動きから分かってしまう。
そんな彼女を眺めながら、七璃はいなくなったここの葉のことをぼんやりと考えてしまう。
彼女と初めて出会った時の関係は、塾の講師と生徒というものだった。塾といっても少人数体勢のため、彼女にはマンツーマンで教えていた。家庭教師という言葉から、ふとそんな時のことを思い出してしまった。
「ち」
「……どうかしましたか?」
「何でもねえよ」
七璃はふて腐れて横を向く。
「一世代ほど昔じゃないんですから、今時そんなふて腐れた態度や口が悪いのって流行りませんよ。今は天然でギャグが言える人と優しい容姿をした王子様タイプの方が人気爆発です」
「俺にそんな少女漫画の主人公を押しつけんじゃねえ」
そもそも狙ってギャグを言っている時点でそれは天然などでは決してない。意図の読み取られた天然のギャグのふりほど冷めるものはない。それは七璃の持っている持論の一つであった。
「んー、でもやっぱり無愛想キャラっていうのの人気は不滅ですね。でもそれはそのキャラが冷たいってことじゃないですよ。ヒロインのことが好きなんだけど、照れくさくてそんな態度を取ってしまうんです」
ようは子供なんですよね、とあははと由里は笑う。七璃は軽い頭痛を感じ、頭を押さえた。すると、弾切れをおこした機関銃のように由里の喋りがぱたっと止まる。どうかしたのか、と思い横目で彼女の様子を伺うと、由里はじーっと、七璃の顔を眺めていた。
「な、何だ」
「やっぱり、勿体ない」
「あん。何て言った?」
「勿体ないって言ったんです。もう少しぼさぼさの髪型とかファッションの細かいところに気をつかえば、格好良くなるのに」
――先生はもう少し髪型を気にすれば今よりも断然格好良くなりますよ。
そうか?
はい。美容師を目指している私が言うんだから間違いありません。
そうか――
七璃は今日何度目かの大きくため息をはく。感傷に浸るなんてらしくない。そんなものに浸るのは物語のキャラクター達だけで十分だ。
「お前さんさ、将来なりたいものって何かある?」
「はい。出来れば美容師に」
なるほどね、と七璃は心の中で納得がいったかのように頷いていた。道理で由里を見ていると、ここの葉のことを思い出すわけである。初めてであった彼女は緊張からか、妙に七璃に気を遣ってみたり、緊張をごまかすようにべらべらと喋ってみたり。
得心のいかない由里は首を傾げるだけだ。
「なれるといいな」
それは七璃の本心からの言葉であった。由里は、はい、と笑顔で頷いた。
それから、他愛のない話をしながら、彼女の家庭教師の住んでいるアパートに足を向ける。七璃のアパートから距離にしたら約三十分ほどの距離だ。
時より目の前を舞う黄色い葉。黄葉を終えて、散り始めたイチョウの葉だ。温度差の激しい秋の夜は冷え込むが、季節の変わり目ということが幸いして、制服も冬服に替わったばかりである。昼間は少し暑いが、夜の冷えていく空気には丁度よい。黄色い落ち葉を踏みながら二人は歩く。
その途中、一人の女性が少年を組み伏していた。
生気を感じさせない瞳をした女性は、ナイフを抜き放つ。少年は蒼白な顔を苦痛に歪めて、悲鳴をあげている。
――あれは。
由里は見覚えのある少年の名前を呼ぼうとして、
「ここの葉!」
それを上回る怒声が響き渡る方が先であった。
ここの葉はその叫びに反応するように、瞳に生気が返ってくる。それから、はじかれたように七璃のほうを見る。
「七璃……」
「何やってんだお前」
後ろに立っていた由里はその冷ややかな声に、鳥肌がたつほどの悪寒を感じた。ここの葉はその少年の束縛を解き立ちあがる。
腕でも折られてしまったのか、少年は束縛を解かれたというのに、立ちあがることもままならない。
七璃は状況を理解しているのか、その少年、上坂に近づいて、その額に銃口を押し当てた。
「先に言っておくぜ。動いたら、撃つ」
上坂だけでなく、由里もその銃を見て青ざめてしまう。
「ひょっとして説得でもして、恨みを晴らさせることによって成仏でもさせてやると思っていたのか? 悪いが、俺に出来るのはこんな奴を、殺すことしか出来ないぜ」
七璃はおびえた上坂から、目を離さずに言う。嘘ではない。上坂が抵抗した瞬間、銃は間違いなく発砲されるのは明白であった。
それでも、と由里はこの期に及んで思う。それでも、何か方法はあるのではないかと。この級友をただ殺してしまうには、あまりにも可哀想すぎる。
「待ってください。その……」
考えなど何もないというにも関わらず、七璃を止めてしまう。
「何だ。殺すなっていうのなら、別に殺しはしないけど?」
「あの、少しだけ。彼に私と話させて貰えませんか」
そう言い、上坂のほうを向く。
「上坂君。もう、止めて……」
こんなことをするのは間違っているよ――由里にはそんなことしか言えない。こんな時だというのに気の利いた言葉一つ浮かんできやしない。壇上に立ってよどみなく喋れる人達のことがこんな時ばかりは羨ましかった。
「嫌だね」
上坂の答えは拒絶のものだった。
「どうして?」
由里にはまるで分からない。
泣きそうな顔をする彼女のことを、上坂は歯を食いしばって睨み付ける。
「どうして、だって。笑わせるよ。君が僕をふったからじゃないか。どれだけ僕が傷ついたか分かっているの?」
「それは……」
言われるままに由里は、自分が先輩にふられたときのことを、考えてみる。
上坂は押し黙ってしまう由里に、獰猛な獣の唸り声のように激しく、悪魔のように恨み言を言いつのる。
「どれだけ僕が君を好きかが分かっていないから、そんなことが言えるんだ」
……では、自分はそんなに先輩のことを好きではないということなのか。
自分も先輩に断られると、先輩を憎むのだろうか。憎くて、憎くて、それでも好きで。どうしようもなくって。どうすればいいのかまるでわからなくって。訳が分からなくなって。そう思うと、由里にはもう何も言えなかった。溢れそうになる涙腺を止めることくらいしか出来ない。
「で、言いたいことはそれだけか?」
七璃はそう言った。
「あんただって。誰かを憎んでいるんだろ。憎くて憎くてたまらないんだろ。僕と同じように、そんな体で生き延びているくせに」
だから、僕の言いたいことは分かるだろう、と上坂は七璃とここの葉に同意を求める。自分に触れることが出来る時点で、七璃らが何者であるかすでに理解しているようであった。
ここの葉は七璃の様子を僅かに伺うだけで、何も答えない。
「で、それがどうかしたのか?」
七璃は全く興味がないのかつまらなそうに尋ね、より強く額に銃を押しつける。
「それなら、僕の気持ちが……」
「知ったことかよ」
ガチン、という音がした。あとは人差し指に少し力が込められるだけで、銃弾は発射される。そのことを理解した上坂は、ただでさえ引いていた血の気がよけいにひいて、いっそう顔を青ざめさせる。
「じゃあ逆に聞いてやるがな。お前の行動の、どこが正しいんだ?」
七璃の問いに上坂は答えることは出来ない。震える上坂にはその言葉が耳に届いているかも疑わしかった。
「お前は勝手に自殺して、相手からは決して反撃されないようになってから仕返し、いや、そんなまっとうなもんじゃねえな。八つ当たりか。くっだらねえ、八つ当たりをしようとしているだけの格好悪い卑怯者じゃねえか」
「うるさい」
上坂は体を震わす。
「うるさいうるさいうるさい。あんたなんかに、僕の何が分かるっているんだ!」
「だから、他人のことなんてわかんねえって」
つまらなそうに告げる七璃。
逆上したのか、我を忘れた上坂は、銃を突きつけられていると言うにもかかわらず、七璃の腕につかみかかる。
――鮮血が散った。
上坂はそのままうつぶせの姿勢で倒れる。額からは血が広がっていく。その場に残るのは僅かな硝煙の香りだけだ。
「忠告したじゃねえか。動いたら撃つって」
七璃はセーフティをかけて、銃をしまった。
それから由里のほうを向く。彼女は顔を青ざめさせている。殺人の現場を初めて見たせいだろう。悲鳴を上げて騒がないだり、ショックのあまりに気を失ってしまわないだけ全然ましといえた。
「悪いな。まだ、話したいことがあったか?」
七璃が尋ねると由里は首を横に振った。
それから彼女は、死体となった彼に近寄って膝をつき、手をとった。
死体となったアウターには触れることが出来る。死体は生き物ではなく、ただの物だから。第一世界の物となる。
「……ごめんなさい」
それは何に対しての謝罪だったのだろうか。
由里自身よくわからなかったが、その言葉を口にした途端、ほろほろと目から涙がこぼれ落ちた。特に仲が良かったわけではないが、流れ出した涙は止まることはなかった。彼をこんな目にあわせたのは自分自身のせいである。可哀想、と思うのは偽善であることくらいはふまえている。けれども、涙が未だに止まらない。
「そろそろいくぞ」
殺したこと自体は罪にはならないとしても、人に見られていいことはどこにもない。七璃にそう促され、五分ほど涙を流し続けていたが、由里はようやく立ち上がった。もう一度だけ彼の姿を振り返る。その姿を目に焼き付けて、由里は七璃達の後を追った。二度目は決して振り返ることなく。
「……あの、木之元さん」
「何だ、ちびっこ」
本人からの反論も、横からのヤジもなかったため七璃は内心拍子抜けしてしまう。
「あの……」
「人を好きになるのが、怖くなった、か?」
図星をつかれて由里ははっとなるが、すぐにこくりと頷いた。
もしも、自分が振られたとき、あれほどまでに人を憎むのか。想像するだけ、指先はおろか全身の震えが止まらない。
鮮明に焼き付けた上坂の死体と散り始めたイチョウの葉。きっと、今踏みつけている落ち葉となんら変わることなく――――
「私。私は……」
「ま、そんなもんだろ」
七璃は拍子抜けするほどあっさりと首肯した。
「こんなことにあっても、自信を持って好きとか言う方が異常だろ」
彼はからからと笑いながら、そんなことを言う。
「まあ、ちびっこはさっきの奴よりかは数倍はましだと思うがね」
「……どうしてですか?」
七璃はにやりと不敵に笑い、由里の頭をわしわしと撫でてやる。されるがままの由里は、ぽかんと彼の顔を眺めてしまった。
◆
「人ってすげえな」
どんなことがあっても、人が人を好きになることは止められない。
そんなことを思いながら、七璃はここの葉を見る。由里を自宅まで送り届けてから、アパートに帰り着くまで彼女は一言も口にしていない。
「私は間違ってなんかいない」
ここの葉がようやく口にした言葉はそんな言葉であった。七璃は答えずにヤカンでお湯を沸かし、コーヒーを入れる。濃いめに入れたのか、インスタントだというのに香りが強かった。
「私だって、七璃みたいに人を上手く殺すことが出来るよ。なのに、どうして私は手伝っちゃいけないの?」
ここの葉は切迫した様子で、胸を片手で押さえながら主張する。
「さっきの殺人をここの葉はどう思った?」
「どうって、特には何も」
嘘である。ここの葉は七璃がアウターを殺すのを傍で見たのはこれが初めてであった。昔見たときと変わらないように、七璃はアウターを、人を殺す。
「無理するなよ。可哀想だったんだろ。あの殺された奴のことが」
ここの葉が頷くと、だからだよと、七璃は言った。それが答えだった。
「七璃は、どうなの?」
「何がだ」
「さっきのは、どう思ったの」
「別に何も」
考えるそぶりも見せずに七璃は即答した。
「本当だぜ。俺はあんな奴を殺したところで、何も思わない。もう一度だってためらないなく殺せるね」
七璃の吊り上がった瞳には何の揺らぎも見られない。
ここの葉はそのまま黙ってしまう。置かれたコーヒーに手をつける様子も見せない。
七璃は大きく息を吐いてから、頭をがしがしと強くかく。
「あれだって。さっきのちびっこや、お前みたく人のいい奴はこういうのは向いてねえんだよ」
人のいい奴はどんな悪人でも嫌うことが出来ないけれど、悪人は同じような悪人を嫌うことにためらいはない。だから、問題はないと七璃は言う。
それでも、とここの葉は思う。すると、七璃は乱暴に、
「俺は人を殺す奴なんて大嫌いなんだよ」
と、言った。
「……え?」
七璃を見ると、本を読んでいた。顔を隠すには最適なハードカバー。ひょっとして、照れているのかと思いここの葉が聞き返すも、七璃はうるせえ、としか答えてはくれなかった。
◆
次の日。
朝になり、由里が携帯を手に取ると、不在着信が残っている。
彼女は携帯電話を強く握りしめる。そうすると、昨夜おこったことが強く思い出された。
何度も何度も深呼吸をする。
一晩考え抜いたことを、震える指で言葉にし、その文章を送信する。
それから少しだけ時間がたって返信が返ってくる。
さて、何と書かれているだろうか。
彼女は緊張して、そのボタンを押した。