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亡き君へ告ぐ言葉
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「……つまんねえな」
かたかたとディスプレイを見ながらキーボードを叩く羽場峰隆史<はばみね たかし>の呟いたその一言に、彼の心情の全てが込められていた。世の中がつまらない。
隆史は友達の数もそれなりに多く、家族関係も問題はなし。高校生活も良好。顔立ちも目鼻立ちが整っておりそれなりによく、運動も勉強も努力の必要もなく人並み以上に出来た。
でも、それだけである。
友達なんてものは、所詮表面上のものでしかないことを知っている。誰もが当たり障りのないつまらないことを言っては、誰かがそんなつまらないことに応じる。一時間もすれば記憶からも残ることのない話。そんな会話辟易する。
けれどもそれは仕方のないことだ。必要以上に踏み込めば、その人のことを知ってしまう。そして、自分のことを知られてしまう。
自分のことを知られることを恐れるのは当然のことである。不必要な干渉は、不必要な恨みをかいかねない。
だから、誰かと話すときは一歩離れて会話するのが当たり前だ。それをしないのは、考えのない馬鹿か、典型的なお人好しだけだ。もっとも、隆史にとってお人好しも馬鹿に含まれるのだが。
その点で、パソコンは便利な物だ。日頃たまった鬱憤をそのまま文字にすることが出来るからだ。おかげで匿名の掲示板の数は数えきれる物ではない。しかもそのどれもが繁盛している。
けれども隆史はディスプレイで流れる文字を追う目は、つまらないということを物語っていた。書き込まれた罵詈雑言のやりとりなど、少し冷静な目で見れば無意味なことであることがよく分かる。それもまた当然の話。知りもしない人、どのような顔をしているのかも分からない人をなじったところで、何の意味があるというのだろうか。
「つまんねえな」
隆史は同じことを再び呟き、画面を変える。いくつかの目についたチャットの画面を会話には参加せずに、同時に見ているのだ。今切り替えたものは、隆史の住んでいる地元のつながりのものである。
どの画面も大して内容のある会話をしていないし、そろそろ閉じて眠ろうかと思ったところ、興味深い内容が目に入った。
「……これは」
今までアウターに関することで誰もが知っていることを、一人の人がさも難しいことのように話していたのだが、そんなものには興味はない。よく見る光景だ。肝心のものは、その人に対しての質問で、
『この町にアウターを殺す人がいるって聞いたのですが、本当ですか?』
というものだ。
マウスをクリックしようとする指を反射的に留め、その内容に釘付けになる。今までべらべらと語っていた人は、時間をかけながらも丁寧に返答する。
少し長くなりそうだったため、ブラックのコーヒーを入れてくることした。すでに途切れかけた意識をはっきりさせるために、少し濃いめにいれる。マウスの横に白色のカップを置き、画面に意識を戻す。会話はそれなりに進んでいた。
アウター殺し。彼のことはそう呼ばれているらしい。
触れることの出来ないアウターのことを殺せるカラクリは至ってシンプルな物。つまり、彼自身もアウターということだ。
彼に頼めば、アウターを殺してくれるらしい。その依頼をするには、彼は携帯を持っていないために、直接アパートを訪れなければならないとのこと。
「……ふーん」
隆史はマウスをクリックし、自分も入室した。
『その人の住んでいる場所はどこですか?』
儀礼的な挨拶をすませて、尋ねてみると、その人は沈黙してしまった。そして、お茶を濁すだけでそのまま退室してしまう。どうやら、知らなかったようである。隆史は他に残っている人にも聞いてみたが、同じように知っていないようであった。
しょせんいつもの作り話だろうと酷く冷めた気持ちになり、コーヒーを口に運ぶ。そもそも、その人物がアウターというのなら、何故生き長らえているのか。そんな単純なことにも触れられていない。
アウターとは人が死んだ後になる状態である。けれども、その状態は三日程度のもので、長くて一週間くらいとされているのだ。
コーヒーの苦みが口の中に刺激を与え不快感を募らせる。自分も退室しようとしたところ、別の人が入室してきた。それだけでなくカナンというハンドルネームの人は、履歴の残らない個人会話用の物を使って話しかけてきた。
『彼のことを知りたいのですか?』
『はい』
少しだけ躊躇するが、キーボードを叩く。すると、一つの住所が打ち込まれた。ご丁寧なことにアパートの名前から、部屋の番号まで書かれている。
『これは?』
前後の文から得られる答えは一つしかないのだが、隆史は尋ねる。
『お探しの方の住所です』
隆史は、画面を見ている目を細め、気になったことをタイプする。
『これは、誰でも知っていることなのですか?』
『少しだけ知られているといったところです』
それから、かたかたというタイプを押す音だけが静かに響く。
先程の相手と異なり、質問を重ねる隆史に親切すぎるほど丁寧に解答される。ただ、どうしてその人物がアウターの状態で生き長らえているのかは、曖昧に濁されてしまったが。
『一つだけ、忠告しておくわ』
『なんですか?』
『彼は潔癖だから、中々相手にしてくれないわよ』
――ああ、やっぱりそうなんだ。
相手のその言葉に、嬉しくなって上唇を舐める。聞くだけで、期待通りの人物のようだ。
隆史は最後に、少しだけ気になっていたことを尋ねる。
『あなたは、その人のことを知っているのですか?』
『……誰より、知っています』
少しだけ、間を開けて返答がされた。
『私も、一つ聞かせて貰っても良いかしら?』
『はい』
これだけ自分は尋ねたのだ。一つくらい答えても良いだろう。もっとも、答えられることならばだが。
『貴方はどんなようで彼のことを知りたいのかしら?』
『だって、興味深いじゃないですか』
『面白い?』
『今時、正義の味方みたいなことをしている人がいるなんて、ね』
そう書き込み、隆史は口元を酷薄に歪めた。
◆
「あー、晴れだー」
七璃は空を見上げてぼんやりとそんなことを呟く。思えば、こんな日が高いときに外を歩いているのは久しぶりである。十一月を迎えたとはいえ、昼間の暖かさは十月の時とさほど変わらない。昼間の照りつける日差しを浴びると、このまま溶けてしまいそうな気分になってしまう。
「もっと、しゃんとしてよ。そんな猫背で歩かないで」
隣を歩いているここの葉を見ると、えへへという感じに笑っている。随分と機嫌が良さそうであり、どうでもいいかという気持ちになってしまった。
先日あれほど落ち込んでいたというのに、今ではすっかりと立ち直っている。いや、それ以上に機嫌が随分とよさそうだ。
女心は秋の空とは良く言ったものである。彼女の心情の変化に全然ついて行けない七璃であった。
今回もそのテンションのまま、無理矢理外に連れ出されたのである。わざわざ機嫌を損ねて引き込まれるのは面倒なため、嫌々がながらも出て行くことを了承したのである。でも、行くところは結局本屋だったりするのだが。
本屋に入り、七璃が手に取った本は、『アウターに関する考査』という少し前に話題になったアウターに関する本である。一方のここの葉が手に取ったのは、ファッション誌であった。
七璃はぱらぱらと内容に目を通す。一章は、刑法×××条の制定の経緯から、アウターの存在理由。アウターのおこした事件などが丁寧に記されている。
アウターというものは、復讐に関することや、人には触れられないなどの、アウトライン的なことは一般的にも知られている。しかし、だからといって、それ以上のことを知られているか、といえば異なる。ようするに、パソコンの使用方法は知っていても、ハードディスクそのものの構造の意味などは理解されてはいないのだ。
そういうアウターの内面に関することは、世界中で研究されているが、それらの成果は全て国が管理している物で、情報の大半は秘匿されている。一般的な研究施設では、それこそ研究など出来る題材のはずもない。研究が出来るのは、国立の大学や、国と関連のある企業くらいなものである。その中でこの本は、比較的丁寧に纏められたほうであった。
著者を見てみる。紀津月華南という名前であった。
ひょっとして似たようなペンネームの人が書いたのだろうか。いや、この執筆者は恐らくは彼女自身であろう。
そんなことを考えていると、七璃は皮膚の内面でどこかうごめくものを感じる。気分が悪くなる。昼食で食べたものが逆流してくる感じがした。
思い出したくもない、あの時のこと。胸の奥がうずく。服の下に隠された、火傷の跡が燃えているようだ。内側から零れた、黒い炎。あらゆるものを焼き尽くすほどの業火だ。それは全ての色を凝縮させた汚い色。
七璃は不快感を何とかそれ以上あふれ出さないように押さえ込み、本を元の位置に戻す。気分が悪い。熱が奪われてしまったかのように体温が下がり、空気が妙に暑く感じる。冷たい物で飲もうと思いここの葉の姿を探した。
彼女の姿を見つけた。
「おい。ここの……」
七璃が声を掛けようとしたら、何だか真剣に本を読んでいた。声を掛けることがためらわれるほどのめり込んでいる。
アパートでは読書をしない彼女が一体どんな本を読んでいるのだろうか。七璃は少しだけ興味に引かれ、声を掛けずにここの葉に近づく。幸いというべきか、彼女は声をかけたことも、七璃が近づいてきたことにまるで気付いていない。
タイトルに目をやってみる。
ライトノベルなのだろうか。表紙には繊細なタッチの美少年が二人描かれていることが目についた。
表紙とタイトルだけでは内容が分からなかったために、七璃は背中に回り込んで内容に目を通す。こういうとき背が高いのは便利である。
内容を追っていく。常日頃から本を読んでいる七璃と異なって、ここの葉の本を読むペースは緩やかだ。
「…………」
十ページも読むと、内容を掴むことが出来た。何となく感慨深い気持ちになってしまう七璃であった。
ぽんぽんとここの葉の肩を叩く、とびくんと背筋を彼女は伸ばした。
「な」
「……いや、ここの葉もそういうのを読むんだな。ボーイズラブ」
顔を真っ赤に染めるここの葉に、にやにやと七璃が笑いかける。
「おい、そりゃ店の商品――」
いつものくせなのか、七璃が止める間もなく、ここの葉は持っている本を投げつけてしまう。しかも、七璃は七璃で、器用にその本を避けてしまった。
結果、放物線を描く一冊の小説。
「……本屋で本を投げる奴を、俺は生まれてはじめてみたよ」
「いや、今のは七璃が悪いし」
「おいおい、俺のせいかよ。ここの葉がボーイズラブな小説を熟読していたのを、俺は横からそのボーイズラブな小説を見ていただけだぜ」
「ボーイズラブボーイズラブ連呼しないで!」
店員と他の客の冷たい視線をひしひしと感じる二人であった。
地面に落ちた本を近くに立っていた女性が拾ってくれる。
「ありがとうございます」
ここの葉が礼を言い受け取ると、その女性は少しだけ首を傾げて、
「ひょっとして、ここの葉?」
そう言った。
◆
一つの事件がある。
それは、この国におけるもっとも凄惨な事件として記憶されたものである。
犯人の名前は緋女御影。その時の年齢は二十六であった。
その女性が、最初に亡くなったのはいつのことなのか、そして原因は現在のところ解明されてはない。そのために、彼女が元々誰を殺したかったのかは不明である。
事件の始まりは、深夜未明。
彼女が一人の女性を殺したところから始まったとされている。また、最初の殺人の正確な時刻も不明とされている。
彼女は最初の殺人から間をおかずに、その晩だけで四人もの人を殺した。アウターとなった相手を殺していることから、都合八回の殺人が行われたことが分かる。彼女の卓越していたところいえば、狂っているというにも関わらずに、人を殺すことに関しては冷静で、まるで迷いがなかったことであるだろう。
彼女は人を一度殺し、反撃される前、アウターとなった瞬間にもう一度殺した。殺し続けた。確かにアウターが、人を殺す場合において、一度絶命した状態にならなければならないために、一度殺す側が絶対的に有利である事実がある。
そのことはさておき、その事件が表沙汰となるのは、明け方六時半のことであった。被害が知れ渡り機動隊が出動された。そして、三日間にもわたる説得にもかかわらず、出た被害は二十七名。彼女が再び眠りにつくまでの アウターに対する何の対策も持たぬ機動隊では、為す術がなかったのだ。
彼女は三日間という時間で、計三十一名もの人を殺した。都合六十二回の殺人である。
結局彼女は誰を殺したかったのだろうか。そこのところは今になっても不明である。彼女のことを知る知人達も、誰も知り得ないことであった。全ての人を憎んでいた、という俗説もあながち間違いではないのかもしれない。
結局のところ、人はアウターに関しては無力である。この事実を突きつけられる事件であった。
それから何年か後、他の刑法には何ら足されることもないのに、刑法×××条にのみ一文が足された。これは、アウターに関する事件を国は放棄したのと同義であった。このことに関しては、国の無力さが非難されもしたが、どうしようもない現実的選択だったと言えるであろう。
その法が施行されるにあたり、一番危惧されていたアウターによる犯罪は驚くほど少なかった。というよりも、施行される前とはなんら変わることがなかった。
これはアウターが、やはり人とは異なるということが考えられる。アウターとなった人は、睡眠欲、食欲、性欲の他に第四の欲求、仮に復讐欲と名付けようか。その欲求が生まれるせいであると考えられる。
アウターとなった人全員が、その復讐を行うわけではない。薄い復讐心ならば押さえつけることは可能であるし、強く深い欲求だとしても押さえつけること自体は可能である。しかし、アウターとなって犯罪を行おうと考える人間には、他の三大欲求よりも強い復讐心を押さえることが出来るはずもなく、結果己の欲を満たしてすぐに死人へと戻るのである。
「復讐欲か」
隆史は読んでいる本を閉じてから、机の脇に置いておいたコーヒーを口に運ぶ。明かりをつけていない部屋に置いて、唯一の明かりは付けっぱなしになっているパソコンのディスプレイだけだ。
隆史はコーヒーを飲みながら、一人の友人だった少年の顔を思い出す。
幼い頃からの友人で、隆史の一番の友人だった少年だ。
その少年はもういない。隆史が、一年前に殺したからだ。
彼が何故、隆史のことを殺さなかったのか、そのことを今考えても分からない。彼は自分を殺したのは隆史であることを、分かっていたはずだ。直接手を下さなくても、そんなことは明白である。
何故なら、あの時隆史は明確な殺意を持って殺したからだ。殺そうと思って殺した。そのことを、アウターとなった彼が気付かないはずがない。
「やあ、隆史」
そんな風に彼は、そのことに気付かないふりをして、すのままに隆史に話しかけてきた。そして、短い時の後、そのまま再び目を覚ますことはなかった。
隆史は幼い頃、自分の手で生き物を殺したことがない。カエルを殺したり、猫を痛めつけたりなんてことをしたことがなければ、人を殴ったことすらない。万引きなどの行為をしたこともなければ、父親に反抗したことすらない。
それは一件正しいようだが、そんなことは決してない。人は自分の経験からでしか物事は学べない生き物だからだ。していいこと、してはいけないことは自らで学ぶしかない。だから、何も経験が無い以上悪いことに対しての罰は推察以上の物にはならない。
そのため、その友人を殺したことを隆史は少しも悔やんだことはない。小学生の時の授業で道徳について語るものがあったけれど、彼に対しての罰は何もないのだ。一体何を悔やめというのだろうか。そして、それ以上にいけないことを、他の人が出来なかったことをしているという蜜の甘さの誘惑は、小さいものではなかった。
……トゥルルル。
携帯が鳴った。
「はい…………ありがとう」
用件は短く伝えられ、携帯をしまう。
「……さあ。狩りの時間だ」
隆史はライフル銃を片手に立ちあがる。
パソコンのディスプレイには、木之元七璃の写真が映っていた。
◆
からん、ころんという鈴の音がなる。
ここの葉達が訪れた喫茶店は、少し広めの内装をしており、インテリアとして赤い葉の植物が店のあちこちに飾られている。秋をイメージしてのことだろう。平日の二時過ぎという時間帯のためか、客の姿は少なく、一番奥に陣取ることにした。
それにしても、妙なことになったものだ、とここの葉は内心で呟く。
ここの葉の隣に座る七璃は、いつものようにぶすっとした顔して横を向いている。喫茶店の店内は禁煙であるために、どことなく手持ちぶさたな様子だ。そして、ここの葉の前に座る女性、美々原恵はにっこりと笑っている。
父と母が亡くなって以降会っていないわけだから、もう二年近くになるのか。久しく会っていなかった友人は、高校のころからそのまままっすぐに成長したようであった。短く切りそろえられた髪の毛も、シンプルなロンティとジーンズという格好はスタイルの良さを表している。そして、きりっと屹然としている印象はまるで変わらない。
「本当、久しぶりね。あなた何も言わずに引っ越しちゃうから、すごい心配していたんだよ。あんな……ことがあったばっかりだったし。携帯に電話しても、この番号は現在使われておりませんなんて言われるしね」
恵は注文を頼んで落ち着いたのか、ようやく昔のように話しかける。
彼女のその言葉が、よく通るその声があまりにも懐かしすぎて、ここの葉は瞳が潤むのを感じた。
「ごめんね。恵。ごめん」
「何で、謝るのよ。って、あなたの泣き癖は変わってないね」
そう言い恵は、ここの葉の頭を撫でようと手を伸ばす。
恵の昔から変わらぬその行為に、以前に戻ったかのような錯覚を感じ、そのままここの葉は下をむく。七璃は何も言わずに、横目で見ているだけだ。
「――え」
その声でここの葉は我に返る。
ここの葉が顔を上げると、慌てて手を引っ込めた恵の姿が見えた。恵は動揺からか、少し体を震わせている。白い肌に少し影が差している。
「ここの葉。あなた……」
「――――!」
――何て愚かなことをしてしまったのだろうか。自分の置かれている立場を忘れて。
アウターという存在の恐ろしさは、現代に生きる誰もが知っている。原理も解明できていない現象なのだから、怪異と変わらない。文明を築きあげた人がまるで敵うことのない、人と同様で人とは違う生き物。それがアウターだ。普通に生きる人にとってアウターという存在は、恐怖以外の何者でもない。
精神の未成熟なここの葉は、そんな恐れに満ちた目で見られることが耐えられない。まして、それが一番仲の良かった友人であったら尚更である。
「ごめん――」
いつもと同じように、相手の顔を見もせずにここの葉は席を立ち、逃げ出そうとする。その手を、七璃が掴んだ。
「放して!」
「今逃げたら、後で後悔するぜ」
七璃は半眼で、つまらなそうに告げる。
どうしてだろうか。やる気の無さそうな態度だというのに、あまり頼りになるとは思えないのにも、七璃を見ると何故だか安心してしまう。抱き枕のようにいつも傍にあると安心するものなのだろか、などとここの葉は思った。
ここの葉はしぶしぶ椅子へと腰掛けた。
「あの、ここの葉?」
「…………」
窺うように尋ねてくる恵の言葉が、今では悲しく胸を打つ。ここの葉のことをアウターと知った彼女と、昔と同じようには話せない。
「もう。ここの葉ったら。聞いてるの!」
「うん。ごめんね」
謝罪の言葉をここの葉は口にする。
すると、バアンっとテーブルが震動した。恵が叩いたのだ。店員が迷惑そうに横目で窺っているにもかかわらず、恵はテーブルを乗り出してここの葉に詰め寄る。鬼気迫る様子だ。
「何で、あなたが謝るのよ。あなたが何か悪いことしたの!」
「……ごめん。本当にごめんね」
ここの葉は耐えられずに俯き、はらはらと泣き出してしまう。
「ここの葉、ごめん」
「え?」
先程とはうってかわった、優しい声音であった。恵はまた、伸ばしかけている手を引っ込めて、苦笑する。
「あなたが何を気にしているのは私にはよくわからないんだけど、まず私から謝っておくわ。今あなたに触れられなくて、ちょっとだけ怖かった。あなただって、きっと好きでなったわけないのに、ごめんね」
「恵……」
やはり、恵は昔と変わらない。思ったことを、ここの葉の一番言って欲しいことを素直に口にしてくれる。
「だから、教えてくれない。ここの葉は、その、アウターなの?」
「うん」
ここの葉には頷くことがやっとだった。
「へへ。泣いちゃった」
ここの葉が顔を上げて目元をこすっていると、ハンカチを差し出された。受け取り、目元を拭う。
もう一度彼女のことをはっきり見直す。目の前に座っているのは、やっぱりここの葉の知っている、恵だった。
それからようやく、二人は昔と同じように話すことが出来た。恵は今大学に通っているらしい。前々から彼女が志望していた大学で、電気工学科だ。
「よかったね。あの大学すごく難しいのに。本当に凄い」
それにその学科は、女性の数が片手の指の人数もいないそうだ。いくら自分がしたいこととはいえ、回りに女性がいないようなところにいくのはここの葉には出来そうにない。
「そんな褒めないでよ」
素直に祝福するここの葉に、恵は照れたように笑った。
「ここの葉は、今何をしてるの?」
「私は……」
何と答えればいいのか、ここの葉には分からなかった。今自分は七璃のアパートに住んでいる。ただ、それだけだ。
「そ、そういえばさ、恵って左手の薬指に指輪はめているけど、彼氏が出来たの?」
ここの葉は咄嗟に話をそらす。ほっそりと長い、恵の左手の薬指にはめられた銀色の指輪。先程からちらちらと目についていて気になっていたのだ。
「えへへ。そうなのよ。あの私がねえ。やっぱ女子少ないから私みたいなのでももてたのかなー」
などと笑う恵は、まんざらでもない様子だった。
「ううん。私からすれば、恵に彼氏が出来ない方が不思議だったんだから」
「まー、あの頃は興味なかったからねー」
「……私のには、興味津々だったくせに」
ぼそりと呟くここの葉に、あははと笑い飛ばす恵だった。
「そんなことよりもさ」
ちょいちょいと恵は指で招く。少しだけ首を傾げ、ここの葉は耳を寄せた。
「私ずっと気になっていたんだけど、あの人だれ?」
……そう言えば、そうだった。すっかりその存在を忘れていたここの葉はそちらを向く。
当の本人は、いつの間にか運ばれていたコーヒーを口に運んでいた。普段はインスタントばかり飲んでいるが、本来七璃はコーヒーの味には少しばかりうるさかったりもする。その七璃は実に満足げで、いらない茶々を入れてくることもない。よほど美味しいのだろうか。コーヒー自体にはそこまで思い入れのないここの葉にはよく分からなかった。
「えーと、何なんだろ」
改めて問われると、回答に窮する質問であった。
保護者というのとは少し違う。七璃のことについては出来るだけ考えないようにしているせいで、ここの葉にはよく分からなかった。
「やっぱり、彼氏?」
その単語で、ここの葉の頬は完熟トマトよりも赤くなってしまった。
「な、な……」
「あはは。やっぱそうなんだー」
「違う違う。それはないそれはない」
盛り上がる二人を尻目に、七璃はここの葉の分のコーヒーも勝手に飲んでいた。
◆
喫茶店の外に出てると冷たい風が吹き、ここの葉は身を震わせた。時間はすでに四時を回っており、快晴だった空には黒ずんだ雲がぽつぽつと浮いている。話が弾んでしまったせいか、思った以上に時間が過ぎていたようだ。
それじゃあ、と恵に軽く手を振って別れを告げる。
「ねえ、ここの葉」
「…………」
「また会える、かな?」
ここの葉は一度俯いてから、もう一度顔を上げる。
「私は――――」
ここの葉が口を開いたとき、アスファルトの砕ける音が響き渡った。小さく割れたコンクリートが宙を舞う。
恵はおろかここの葉も何が起こったのかを理解できなかった。動くことも出来ずに、立ちすくむ。
がん、がん、がんと連続してアスファルトが砕ける音が響く。周囲を歩いていた人々も悲鳴をあげた。
音に反射するように身をすくめてしまうここの葉だが、頭の片隅で分かったことがある。これはライフルによる狙撃だ。どういう理由で狙撃されているのか分からないのだが、そのことは間違いがない。
「ここの葉!」
「七璃……」
七璃が叫び、ここの葉は助けを求めるべく目を向けると、彼女の隣から見慣れた赤色が舞った。
赤い葉にも似た黒ずんだ色。錆び付いた銅のような色。なんて、嫌な色だろう。なんて、汚い色なんだろう。そんなことを思いながら、ここの葉は隣を向く。
「きゃあああ!!」
絶叫が響き渡る。
目の前で倒れる恵を、ここの葉は抱き留めることしかできない。恵の白いシャツの腹部を中心に赤く赤く染まっていく。
「誰か……」
見るからに恵は生気を失っていく。驚くべき程の早さで、顔の色がなくなっていく。
「誰か、助けて……助けてよう!!」
ここの葉は恵を抱きしめたまま泣き叫ぶ。
けれども辺りに集まった人々は、気持ち悪い物を見たときのように顔をしかめ、そそくさと立ち去っていく。こんな事件になど巻き込まれては、命がいくつあっても足りはしない。事件に無関心であること。それが、生きていくためには最低限のルールだ。
「誰か。お願いだから……」
言葉が小さくなっていく。
誰も助けてくれはしない。そのことを分かっていながらも、ここの葉には何もすることが出来ない。混乱した頭のせいで、自分が何をすべきなのかを喪失してしまっており、携帯電話で救急車を呼びことすら失念してしまう。
「もう……あなたって、本当に泣いてばっかりね。おちおち、死んでもいられないわ」
「恵!」
うっすらとだが、恵は目を開く。
「……私が死んだら、ここの葉の頭、また撫でれるね」
「そんなこと、言わないで」
恵は震える手で、ここの葉の頬を撫でようとする。けれども、ここの葉の頬は赤くなることはなく、零れた涙が恵の手を濡らし、薄い紅色になって地面へと落ちた。
「あは。まだ、触れない、か」
「だから、そんなこと言わないでよ……」
七璃は離れていく人の一人を捕まえて、
「救急車に連絡してくれ」
「何で、俺が。そんなことを」
「――――」
「……わ、分かったよ」
男性は諦めたように頷き、ポケットから携帯を取り出した。
「七璃……」
ここの葉の消え失せそうな反応は、まるで親鳥に見捨てられ取り残された小鳥のようだ。七璃は鋭く目を細め、
「お前はその子と一緒にいろ。すぐに片づける」
◆
「あはははは」
自分の部屋に戻り、隆史は狂ったように笑う。
おかしくてたまらない。あの泣き叫ぶ女性の様子に、誰もそこだけ別世界のようにする迷惑ぶった人々の反応も。あの七璃という名前のアウターの、驚愕の表情も何もかもだ。
人の命を奪うということはなんて楽しいことか。
ぐちゃぐちゃのどろどろ。やはり、こうでなくてはならない。人が死ぬのは、驚愕と絶望でなければならないのだ。でないと、何も楽しくはない。
もっともっと。絶望に歪んだ顔が見たい。もっともっと追い込んで、ずたぼろにしてやりたい。
初めはただの好奇心だった。生にしがみつくほどの執着も何もないせいで、友人を殺してしまった。
二回目に隆史が殺したのは、殺した彼に対して、友人が何故何もしなかったのかを知りたかったからだ。結果は、恨み言を吐いて死んでいった。楽しかった。
三回目も、同じだった。恨み言を吐いて、隆史のことを呪いつつも、何も出来ず死んでいった。楽しかった。
四回目は、楽しかった。
五回目は――――
「さて、次は誰を殺そうかなあ」
隆史は呟く。
一週間ほどはここから出ることは出来ないが、すでに次のことを考えている。
相手がアウターとはいえ、所詮人には変わりない。つまるところ、アウターが恨みを持つ相手が何処にいるかわかろうが、その手の届かぬ場所にいれば問題はないということ。翼を持ち得ぬアウターに、空の上にいる人を殺すことなど出来はしない。
今の隆史は決して一般人が立ち入れるようなところにはいない。
隆史の今居る場所は羽場峰の金で作った要塞だ。金を多く持つものなら、シェルターの一つや二つもっているのは当たり前のことなのである。
法律が許す以上、人を殺すという行為が悪でなどではけしてない。森に生きる動物を殺すことは、悪いことであって、罪ではけしてないのだ。もともと人という生き物は何かを奪ってまで集めるという収集欲に充ち満ちている。動物の命はしかり、人の命であってもだ。結局のところ、人の命を奪うなんて行為は、国の黙認した、金持ちによる少しだけスリリングな道楽の一種にしかすぎないということである。
「しかし、本当にアウターだったんだな。あの人」
ライフルの弾丸は彼を確かに捕らえていたはずだ。なのに、彼の体を傷つけることなく貫通し、アスファルトを砕いていた。一発だけでなく、二発目も三発目も当たらなかったために間違えようがない。
しかし、アウター殺しに関する都市伝説じみたものは、一日や二日前に流れた物ではない。隆史はそこまで詳しくはないが、その噂はかなり有名な物で、二年くらい前から流れている噂だったように記憶している。
二年間。そんな長い期間生きているアウターなど隆史は聞いたことはない。人類史が始まってからも、そこまで長い記録は残されていないはずだ。
少しだけ調べてみようと思い、パソコンを立ち上げてインターネットを起動させる。
「一体、どうやって生きているんだろう……」
「誰よりも、あの女を憎んでいるからだ」
返ってくるはずのない言葉に、隆史は慌ててそちらを向く。
決して開かないはずのドアに背を傾けて長身の男が立っていた。たった今、検索をかけたばかりの木之元七璃だ。
「ど、どうやってここに!」
がたん、と椅子を蹴倒して隆史は立ちあがる。倒れた椅子がコードに絡まって、液晶のディスプレイが地面へと落ちてしまい、酷い音をたてるが、そのことを気にすることすら出来ない。
ここに誰かが進入してくるなんていうのは、たとえアウターだとしてもあり得ない話なのだから。何重にもロックされた扉の群を、一体どうやったら進入出来るのだろう。
「正義の味方っていうのは、そんくらい出来る物なんだよ」
冗談めかした口調で七璃は応じる。
「ふざけるなよ。そんな言葉が通じるか!」
「……お前の顔知ってるぜ。羽場峰の三男坊か。今までで六人殺したんだってな」
七璃は隆史の罵倒には答えず、寝癖を撫でつけて、ひょうひょうとした態度を崩さない。
「それが何か悪いのか!」
「別に。そんなことして何が楽しいのかねって思ってね」
「はあ? 人を殺すっていう行為が楽しいからに決まってるじゃないか。ゲームと一緒だろ」
「オーケイ」
七璃は唇の端を吊り上げて笑い、ゆっくりと隆史に近づく。いつの間にか握られていたのか、その手には銃を持って。
「ぼ、僕を殺すつもりなのか。羽場峰を敵に回して、どうなるか分かってるのか!」
「悪いけど。そんなことは関係ないね。こっちは一応、国の管理下で動いているんでね」
「国の管理下だって。はん。何だ、あんたは正義の味方ぶってて箱庭の中のヒーローでしかないんだな」
七璃は愉快げに口元を歪める。
「へえ。上手いこと言うな。俺もそう思うぜ」
そのまま七璃はくつくつと笑った。
「ぼ、僕が何をしたって言うんだよ。僕は何も悪いことなんかしてない」
「確かに、お前が誰を殺そうと、何人殺そうと俺は知ったことじゃない」
だから、今まで人を殺していてもどうでもよかった、と七璃は言う。
「だけどな、お前はここの葉を泣かせた」
笑っていた口を閉じ、口調が段々と淡々とした物になっていく。度を過ぎた怒りは青色の何よりも高温で、何よりも冷たい色をして燃えているようだ。
隆史は机の脇に置いていた、ライフルを手にとってゆっくりと近づいてくる七璃に向ける。そのまま発射するが、金属製の壁に当たったのか、一瞬だけ火花を散らし部屋を明るく光らせて、鈍めの甲高い音が響く。
「アウターについて、一つレクチャーしておいてやる」
すっと右手が伸び隆史は壁際に押しつけられた。そのまま七璃は銃を突きつける。押しつけられているのは、隆史の右腕の付け根。
アウターに対する抵抗が無意味であることは、隆史とて百も承知である。ただ、押しつけられる銃の感触はあまりにも冷たく、恐怖感を増させる。
一発の銃声の後に、響き渡る絶叫。
「人がアウターになるとき、決して健康な体に戻ったりするわけじゃない。寝たきりの人が亡くなったとしても、健康な体に戻る訳じゃないからな」
淡々と告げられる七璃の言葉など、今まで体験したことのない痛みに暴れ狂う隆史の耳に届くはずもない。けれども、七璃の銃を持っていない腕に首事壁に押さえつけられているので、何もすることが出来ない。ただ、灼熱の痛みに悶え苦しむだけだ。
「じゃあ、どうなっているのか? これもあくまで推測にすぎなくて、完璧な時間などはかれないんだけどな。まあ、今までの実験結果から導き出された数字は一時間。それだけアウターの肉体は第一世界から遅れているんだよ。簡単に言えば、死ぬ前の一時間前の肉体ってことだ」
銃声が続けて、三発響く。左腕の付け根と両足の付け根を打ち抜かれたのだ。地獄の底からでもなお響き渡るような絶叫が上がる。
「つまり、一時間前に致命傷を負っていて、なおかつ助けが無い場合は……どうなるかわかるか?」
最後に、少しだけ傾けて喉元に銃を突きつけた。
「――――!!」
わざと致命傷にならぬよう喉を撃たれ、もはや悲鳴すら上げることの出来ない隆史は、ひゅうひゅうと喉元から空気の漏れる音だけがする。
そこでようやく、七璃が手を放すと、隆史は重力の従うままに地面に突っ伏した。
ほとんど動かない両手で必死に喉を押さえながらも、隆史は鬼神のごとき形相で七璃の顔を睨み付ける。呼吸をするたびに、喉元から血が零れていく。
けれども、七璃は氷のように冷たい目をしたまま、隆史を見下ろして、
「地べたに這い蹲って、二度、苦しんで死ね」
何の感情を込めずに、告げた。
◆
恵が目を開くと、白い天井が目に入った。
……ここは何処なのだろうか。
少なくとも恵のアパートではない。自室の天井は茶色だ。そのくらいのことは認識できるくらい、意識がはっきりとする。
「……よかった。やっと、目を覚ました」
「ここの葉?」
枕元には、ここの葉が座っていた。
……そういえば、私。ここの葉と久しぶりにあって、それで。
あれからずっと泣いていたのか、ここの葉の目元が酷く腫れあがっている。顔色もすぐれないようだ。
恵は手を伸ばすと、零れる涙で手が濡れる。そして、ここの葉の頬に触れることが出来なかった。
「あなたって、本当に泣いてばっかりね」
「ごめんね」
「だから、謝らないでって」
恵は体をおこそうとするが、反応が鈍く起きあがることが出来なかった。頭もぼんやりとするし、麻酔がまだ残っているのだろう。諦めてそのままの姿勢のまま口を開く。
「まだ、あなたに触ることが出来ないわね。折角だからたっぷりと撫でてあげようと思ったのに」
「ううん。本当に良かった。恵が生きていて、本当に」
そう言い、ここの葉は立ちあがった。
「それじゃ、私は帰るわね。もう、夜も明けたことだし」
「ここの葉」
霞となって消えそうな容姿は儚げで、恵はどうしても言わずにはいられなかった。
「また会える、かな?」
ここの葉は背中を向けたまま、答えない。その小さな背中はふるふると震えている。
「ごめんね。約束は、出来ない」
「そう」
恵は何となくそんな気がしていたために、別段驚きがなかった。ならば、言いたいことは言っておくことにしよう。それが自分らしいのだから。
「今日はあなたにあえて、本当に嬉しかった」
「……うん。ありがとう」