第四話

 

 ◆


 雨が降る
 雨が降る
 雨が降る


 ◆


 ざーざーざー。まるで雨音のような音をたてているテレビ画面。
 高校指定の紺色のスカートの裾を握り、彼女は食い入るように砂嵐を見つめている。
 それからすぐに画面が切り替わる。ビデオの巻き戻しが終わり、再生が始まったのだ。
 画面はどこかの家庭の居間を映し出している。十畳くらいの部屋。ボーナスが出たときに買った少しだけ高級な革張りのソファにテーブル。テレビやサイドボード。中流家庭程度の装飾だ。
 テーブルの上にはグラスが一つ。枝豆ののった皿が一つ。
 テーブルを挟み、ソファに向かい合って中年の男性と女性が座っている。二人の話している内容は、娘のことだ。声を荒げる様子もなく、二人は娘の将来の心配をしている。
 しかし、そんな静かな空間はガラスの砕け散る音によって壊された。
 居間のガラスを割って進入してくるのは黒いコートを着た青年。青年はその夫婦に向かって銃を突きつける。
 夫婦はこの現状を理解できておらず、君は誰だ、と問いかける。
 返答は、二発の銃声だった。急所は外しているのか、夫婦ともに即死ではなく地面にのたうち苦しむ。
 青年は能面で、男性の顎を掴み自分のほうを向かせる。男性にはもはや抵抗する気力もないのか、睨み付けることしか出来ない。それこそ、その目にこの青年の顔を焼き付けておくべく。青年は気にした様子もなく、もしくはそれを望んでいたかのように冷笑を浮かべ、額に銃を突きつけた。男性は恐怖に顔を引きつらせる。
「悪いね」
 再び、銃声が響いた。今度は間違いなく即死だ。そのまま力なく倒れる男性はうつぶせに崩れ落ちる。
 それから程なくして、どくん、と男性は脈を打つ。
 ――アウターになったのだ。
 死した体は約一時間ほど遡る。男性の肉体は、先程酒を飲んでいたときと変わらぬ物になっている。違うのは、彼の肉体には第一世界にしか住まぬものに、触れられることが出来ないということ。
 男性は勢い青年にむかって、つかみかかる。
 ――恨み。それもあるだろう。しかし、男性を突き動かしているのは、横に倒れている妻を守るためである。今ならまだ間に合う。救急車を呼べば、助かるのだ。それと、後から帰ってくる娘を守るための。
 しかし、男性の額には銃が押し当てられたままであった。
 彼には理解出来なかったであろう。アウターとは、生存者には触れられることが出来ないのではなかったのか。
「だから言ったろう。悪いねって」
 再び銃声が響いた。男性は衝撃に吹っ飛ばされて、仰向けに倒れる。そして、今度こそ物言わぬ死体となった。それから、青年は女性のほうに向かい、同じことを繰り返した。
 彼は、二度ずつその夫婦を殺した。
 ビデオはそこで終わり、映像が変わり、勝手に巻き戻しが始まる。
 ざーざーざーという雨音のような砂嵐。巻き戻しを終えたビデオテープは、再び再生をはじめる。映し出される映像は、どこかの家庭の居間。そして、非常なる殺人。
 彼女は何も語らずに、その映像を見続けている。


 ◆


 しとしとしと。
 雨の音をBGMに七璃はソファに腰掛けて、本を読んでいる。いつもと異なり、珍しくちゃんとした姿勢であった。ただでさえ光の差し込む量が少ないこの部屋だが、雨のために日がまるで入ってこずに、昼間だというのにすでに明かりを付けてある。
 やかんでお湯を沸かしていたここの葉は、ガスをパチンと切り、用意してある自分と七璃のカップにお湯を注ぐ。少し濃いめに入れてあるコーヒーの香りが広がった。
 それをテーブルの上に運び、
「雨ね」
 ここの葉はそんなことを呟いた。
「七璃は、雨って好き?」
「好きだな」
「どうして?」
 この静かな音が好きなのだろうか。そんなことを思いながら、ここの葉は問いを重ねる。
「昼間から家でゆっくり本を読んでいても、文句を言われないから」
 七璃らしい答えに、ここの葉は苦笑する。先日、出不精の彼を、無理矢理連れ出したことを根に持っているのだろう。
 けれども七璃は気にした様子はない。そのまま本の続きを読んでいる。
「ねえ、七……ごほごほ」
「ん、大丈夫か?」
「平気。少し部屋に埃がたまっているのかな。また、掃除しないと」
 この部屋の汚さを考えると、途端にここの葉は憂鬱な気持ちになってしまう。
「それで、どうしたんだ」
「あ。七璃は何を読んでいるの?」
「んー、藁人形殺人事件っていう、ミステリーだよ」
「ミステリー?」
 耳慣れない言葉に、ここの葉は聞き返す。
「ん、お前。ミステリーもひょっとして知らないのか?」
 七璃は呆れたように声を上げ、本を置く。
「だって、私。本とか読まないし……」
 ここの葉は、元々恋愛漫画とファッション雑誌くらいしか目を通さない。他に読むのはもっぱら雑誌関連だけだ。
「でも、この間、読んでいたじゃん。ボーイズ……」
「あ、あれは。特別。特別なんだから」
「分かった分かったから、本を投げるなって。ミステリーは推理小説だ。物が紛失したりして、その無くなった物を探偵が見つけるってお話さ。大体は誰かが隠したりしているわけだから、隠した人のことを推測し、筋道だって何処に隠したか。何故隠したのか何かを突き詰めていく話だよ」
 七璃はコーヒーを口に運びつつ説明する。
 なるほど。ロジカルな話が好きそうな七璃が好みそうな内容だな、とここの葉は思う。
「そうだな。今の流行はもっぱら密室殺人だな。人を殺した犯人を見つけ出す話だ。興味があるなら読んでみるか?」
「殺人って、人を殺したってアウターが残るんだから、犯人なんてすぐにばれるんじゃないの?」
 素朴な疑問だった。
「そこらへんは結構ご都合主義で、初期のやつなんかだとアウターになっても、犯人が分からなかったんだけどな。そのせいで誰でも殺すことが出来たんだよ。後ろから壺で殴るだけで即死ってやつ。ま、そっからはそれだけじゃ物足りなくなって、どうやって殺される人を、二度殺すかなんてことに、トリックが変わっていったかな」
「ふーん」
 そんなことまでしているのかと、ここの葉は素直に感心してしまう。
「最近ので一番出来が良かったのはな。アウターってあれだろ。一時間かそのくらい前の肉体に戻るわけだろ」
「ええ、一時間くらい前の肉体に戻るわね」
 正確な時刻は判明していないが、アウターになったときの肉体は、絶命する一時間ほど前の状態を再現する。
「だからさ、被害者を拘束しておいてさ、一時間くらい前に致命傷を与え、その後一時間後に死ぬようにしておけばアウター殺しが可能だろ。ま、この場合は殺すためと準備に時間がかかるからな、アリバイトリックだったわけなんだけど、一時間っていうのはたぶん偶然なんだろうけど、良くできているだろ?」
 アリバイがともかくよりも、そんなアウターの肉体の時間のずれのことまで、ミステリー作家にとって知られていることの方が、ここの葉にとっては驚きであった。そんな事柄は、一般的に報告されていることではないのに。偶然とはいえ、作家の想像だけでその結論に辿り着いたということだろう。その想像力は驚嘆に値する。
 しかし、そんなことよりもそんな話を聞いているここの葉は、自然と気分が悪くなってきた。ミルクをたっぷりと入れているはずなのに、口の中に広がるコーヒーの味が酷く苦い。七璃に見られないように、こそこそと砂糖をもう一さじくわえた。
「それで、最近の流行はだな。実は犯人がアウターでって――」
 七璃は言っていて口をつぐむ。ここの葉は俯いたまま、何も答えない。コーヒーの白い湯気と、雨のしとしと、という静かな音だけだ。
「雨、止まないね」
「……ああ」
 それきり会話は途切れ、二人とも無言のままコーヒーを口に運ぶ。
 コーヒーを飲み終えた七璃はソーサーの上にカップを戻し、読みかけの本の続きに戻った。そんな七璃をここの葉は変わらずに見ている。
「髪、伸びたね」
「そうか」
 七璃は本から目を離さずに、前髪を引っ張ってみた。鼻の頭よりも少しだけ超えたところくらいの長さだった。
「ええ、伸びてるわよ」
 それを見て、ここの葉はくすくすと笑う。
 なるほど言われてみれば、前髪が目にかかってうっとうしいと感じ始めていたところだ。七璃にとって髪の毛は、読書の邪魔になるかどうかだけが問題であった。
「ここの葉も髪の毛、随分と伸びたな」
 七璃は目を細めてここの葉を見る。きめの細かい髪の毛は今でこそ、腰元付近まで伸ばされているが、初めて彼女がこのアパートに訪れたときの頃は、肩胛骨のところくらいまでしかなかった。そして、最初に出会った時は肩口にも届かない程度のショートだった。
「もう、ここの葉がこのアパートに来て、一年くらいになるのか」
 あの時も、この日と同じように雨が降っていた。いつ止むとも分からぬ弱い雨。長い長い秋の雨。
 しとしと、と静かな音をたてて。


 ◆


 ここの葉が七璃と初めて出会ったのは彼女が高校一年の時だ。
 ここの葉は高校進学と共に、塾に通うことになった。本当は家庭教師にしようというのが両親の意向だったのだが、ここの葉はそれを嫌がった。自分の部屋に人を入れたくないという、この年頃に持つ特に理由のない色々な我が儘の一つだろう。
 その代わりに、塾は少人数制のところとなった。それなら自分の部屋に入られることもないし、別に構わない。両親の勧める塾に通うことを、ここの葉は快く了承した。
 塾の場所は、高校から自宅までの帰り道の最中にあるものところにあった。十階建てのビルの七階に位置している。学校帰りに寄ったので、高校指定の野暮ったい紺色のブレザー姿のままだ。
 初めての場所というのはいつでも緊張してしまう。ここの葉は一度深呼吸をしてから、塾の扉を開いた。
 ロビーに受付の人が座っていた。二十代前半くらいの女性だ。スーツに身を包んでいる彼女はここの葉のほうを向き、
「えーと、連絡を頂いてた葛葉さん?」
「あ、はい」
 すでに母から連絡が届いており、ここの葉は自分の名前を言うだけで、手続きの必要は何もなく奥の部屋へと通された。少人数制のためなのか、スペースの割には部屋の数が多く、道は細い。
「もうすぐ、来ると思うから、少しだけ待っていてね」
 部屋の中には、学校で使われている机と変わらぬ物が、四つほど置かれている。あとは、ホワイトボードがあるだけで、部屋の内装はそれだけである。ここの葉は手前の席に座り、素直に待つことにした。
 それから待つこと十分。部屋に入ってきたのは、身長百八十を超えているであろう長身の男性だった。髪の毛は眉にかからないところくらいまで伸ばされ、吊り目気味な目は穏やかな色をしている。グレイのスーツを着ており清潔感の漂う格好だ。
 それを見て、ここの葉は緊張してしまう。どうして考えもしなかったのだろうか。特に考えもせずに、講師は女性と決めつけていたのだ。
「こんにちは。葛葉ここの葉さんだね」
「は、はい!」
 声が裏返ってしまい、慌てて口元を押さえる。
「教科は数学と英語と……。今日は英語だな。ん、どうした?」
 丁度鞄から参考書を取り出していたためか、どうやら気付かなかったようである。
「あの、先生のお名前は?」
 よかったとここの葉は胸をなで下ろしながら、尋ねる。この時自分でもよく先生の名前を聞けたと思う。どうせ、名前など聞いても先生としか呼ばないのだから。名前なんて無意味なことである。けれども、このときだけは自然に聞けた。
「ああ、忘れていた。木之元七璃って言うんだ。これからよろしくな、葛葉さん」
 そう言って七璃は笑った。
 これがここの葉にとって、七璃との初めての出会いであった。


 ◆


「そんなの決まっているじゃない。恋よ。恋」
「こい……ですか」
 次の日学校に行く途中、そのことを恵に話すと迷うことなく直球が返ってきた。
「……こい」
 とりあえず反復してみるここの葉。こい。こい。花札や池で飼っているやつである。
「何オヤジギャグをかましてんのよ。というか、何で最初に思うのが花札なわけ」
「ご、ごめんなさい」
 さすがは幼稚園の頃からの幼なじみだ。読みが実に鋭い。何で謝るのよ、と恵は笑っていた。ここの葉自身よく分からない。
「でも、あのネンネなここの葉が恋ねえ」
「ネンネって、一体いつの言葉?」
 恵はそんな突っ込みなど物ともせずに、ここの葉が恋をしていると決めつけて、しきりに感心するように頷いている。
 ここの葉は何となく唇を尖らせて、顔を上げてみる。温かな風が吹き、桜の花びらが舞い上がった。
「で、どうアタックするの?」
「ア、アタックってそんな」
 まだ自身の感情も自覚していないここの葉には、性急すぎる展開について行けず、散り始めた桜の花びらのように頬を軽く染めてしまう。
「だって、相手は年上だし。それに」
 この答え方ならまるで、本当に七璃のことが好きみたいではないか。
 そもそも、どうしてそんな話になったのだろう。恵に昨日塾に行った話を聞かれたので、恵と別れた後に、塾により先生が男性だったことを話して、それで……。
 確かに昨日の授業の時は緊張して、ここの葉は上手く話せなかった。でもそれは、男性と狭い部屋で二人きりというシチュエーションが、初めてであっただけで、相手が誰でも関係あるわけではない。
 もっとも、その緊張しているここの葉に対して、親切に応対してくれたのは事実であったが。年上の人、だからの余裕だったのだろう。
 自己紹介をした後のここの葉の態度は最低だった。ものすごく緊張してしまい、俯いてしまって話しかけられること話しかけられること、生返事をしてしまった。
「その人の好みってどんな子なの?」
 ここの葉の言い訳の言葉はことごとくスルーされ、恵は尋ねる。
「好み……好みって言われても。だから、私は授業を受けに行っているわけで、そういう話をしにいっているわけじゃないんだってば、もう! 恵ったら不潔よ、ふ・け・つ!」
 恵の質問攻めで、ここの葉は更に赤くなってしまうのであった。
 塾は週に二日あり、数学と英語の科目だ。そのどちらも七璃が担当している。
 七璃は十八歳の大学一年生であった。通っている大学は、この町にある四葉大学。しかも、医学部であるということに、ここの葉は驚きを隠せなかった。医学部にいける人なんてごく僅かしかいない。学力もさることながら、医学部というところには莫大な学費がかかるし、何より危険なところだからだ。
 ここの葉は与えられた数学の問題にも取りかからずに、七璃の横顔を眺めてしまう。今日も先日にあったときと変わらぬグレイのスーツ姿だ。髪型も変わらぬ整髪料の類は何も付けられていない。何だか酷く勿体ない気がした。
「ん、どうかしたかい?」
 七璃は見ていた参考書から目を離し、ここの葉のほうを見る。
「あの、何で医学部なんて選んだんです?」
 ――もう。恵があんなことばっかり言うから嫌でも気にするじゃない。
 ここにはいない恵に文句を言いながら、咄嗟にここの葉はごまかす。
 いくら医者という存在が国に保護されているとはいえ、人の恨みを最もかう職業の一つだ。人の恨みを最もかうということは、言い換えれば最も殺される可能性が高いといえる。そんなところに望んで行く人の気持ちには少なからず興味がある。幸い七璃は、授業中だから私語をするなというほど堅い人間ではなかったから、怒られるようなことはなかった。
「……ん、俺が医学部に行っている理由か。尊敬する人が行っているから、かな」
 七璃はそんなことを言った。
「尊敬してる、ですか……」
「ああ。他の誰よりも尊敬している」
 そんな恥ずかしいことを七璃は臆面もなく答えた。けれども、彼の顔には照れなどはなく、迷いがなかった。自分が医師を目指していることに、自信がよほどあるのだろう。そのことが眩しくて、ここの葉は羨ましかった。
「私はですね、美容師になりたいんです」
 そのためか、ここの葉も自分のなりたいもののことを口にした。まだ恵にしか言ったことがなく、両親にも言ったことのないことだ。
「美容師か」
 七璃はふっと優しく笑い、
「なれるといいな」
 と、言った。茶化すつもりなど少しもなく、純粋にそうとだけ告げた言葉だ。
 この時、彼のことが好きなのかもしれないと、初めて持った感情にここの葉は胸の内で思った。
 七璃は講師としては優秀だったため、ここの葉は順当に成績を伸ばすことが出来た。七璃が言うには、自分は元々要領が良いわけではないから、物事を整理することに慣れていると言った。ここの葉からすれば、整理が上手いことが要領がいいことだと思った。
 そして、二人の関係は、塾の生徒と先生という関係のまま進歩するようなことはなかった。外で出会ったときに何度かお茶をおごって貰う程度で、デートに誘ったこともない。しかも、そのいずれも制服姿であったことが、悔しかったことが思い出される。すでに衣替えを終えて、おばさん臭い紺色のブレザーでなく、水色のスカーフとスカートのさわやかな色合いの夏服であったことだけは、ましであったが。
 ここの葉にとっての初めての恋は、このくらいの距離感が居心地が良かったのである。それは、七璃が自分に対して、特別な感情など持っていないことは分かっていてもだ。それこそ、幼い少女が持つような、砂糖菓子のような甘い幻想のように。
 そんな時間は、半年を待たずして終わりを迎えた。
 一学期を終え夏休みが終わった頃に、ここの葉に教えてくれる教師は替わったのだ。
 ここの葉が理由を尋ねた。どうしてかと。自分はあの人が好きなのに、という言葉を胸の奥に閉じこめるのがやっとであった。
 返ってきた言葉冷たいものだった。彼は亡くなった、と。だから来ることが出来ない、と。
 酷い喪失感だった。世界の壊れやすさという物を、ここの葉はこのとき初めて知った。
 夏休みの間に一生懸命練習した料理には何の価値もない。特にコーヒーが好きだという彼のために、苦いコーヒーを飲む練習もした。豆からひくことも学んだし、ミルは筆で清掃することも知った。
 それは何の意味もなさない。自分の作った料理を食べさせたい相手も、コーヒーを我慢して飲む必要も、何もかも。
 葛葉ここの葉という少女が見る世界から、一つのピースが音もなく、何も知ることもなく、こぼれ落ちてしまっただけのこと。ただ、それだけのことであった。


 ◆


 抜け落ちたピースは決して埋まらない。そのことをここの葉は自覚する。
 痛みや哀しみは風化するけれど、無くなったものは蘇らない。変わりの物が埋めようとするが、ここの葉はそれを嫌った。それは花と同じだ。一度散った花は、季節が巡ればまた花開く。けれどもその花は、散った花と同じはずがない。
 女々しいと自分で思いつつも、彼のことが忘れられなかったのだ。そして、曖昧な距離のままで安堵していたことに、耐えようもない後悔が胸を締め付け続けていた。
 そんな気持ちのまま、四つの季節が巡り、ある秋の日――――彼女の父と母が殺された。
 死体状況から、死して尚殺されたということだけは分かる。つまり、両親は一度殺され、アウターとなってからも殺された。計四回の殺人の行われた現場は血にまみれていた。
 死体の第一発見者にもかかわらず、ここの葉は発見した時のことを覚えていない。ただ、真っ白になってしまったことだけが思い出せる。ショックで気を失ってしまったのだろうと思ったのだが、話を聞くと警察に連絡を入れたのは、ここの葉自身だったようだ。にわかには信じがたいが、きっと本当のことなのだろう。
 葬式などは、親戚に執り行われたのは確かである。式が執り行われているときここの葉は、恵の胸で泣きじゃくることしか出来なかった。そしてその最中に、警察の方がお話がある、とここの葉は言われて外に連れ出された。
 まともな思考など出来るはずもないここの葉は、何の疑問を抱かずに、警察と名乗る人について行った。もっとも、ここの葉が警察という組織について、殺人ということに対し、無関心を貫いていることを知るはずもない。ひょっとすると、この事件の犯人が分かったのかもしれない、そんな思いだけであった。
 警察署についても、別に殺人事件に対して取り立てて話はなかった。白衣の女性から一本のビデオを渡されただけである。
 ここの葉は家に帰って来る頃には、すでに日が傾きはじめていた。空は厚い雲が覆い、すでに暗くなっている。とりあえず言われたとおりそのビデオを再生した。ビデオを置いてあるのは居間だけだったので、自室へと運んだ。さすがにあの部屋で見ることはここの葉には辛すぎる。出来ることなら、足も踏み入れたくないくらいだ。
 ビデオが再生され、テレビ画面に映った光景に、ここの葉は目を見開いた。
 最初に見たときは、何が起こっているのか理解をすることも出来ないまま、ビデオは終わった。長さにしてみれば、五分程度の短い内容だった。ここの葉は無機質な動きで、巻き戻しのボタンを押す。巻き戻し終わったビデオを再び再生する。砂嵐の画面が切り替わり、映像を映し出す。
 そのサイクルを何度も何度も繰り返した。一度目、二度目と信じられなくとも、三度目では疑いを抱き、四度目では疑念に変わる。五度目以降はその疑念を深めていく一方だ。
 このビデオの存在を疑う余裕などここの葉にはなかった。思考を現実に立ち戻らせ一歩引いてみれば、このようなビデオが存在していることのおかしさに気付くだろう。しかし、両親が殺されたばかりで、しかも、その殺した相手が自分の"知っている相手"だというのに、一歩引いてみる余裕がある人など存在しない。
「どうして、あの人が?」
 返答はテレビのざーざーざーという砂嵐の音だけであった。
 翌日、ここの葉はそのビデオを持って警察を訪れた。先日から一睡もしてない上に、あれから一晩中ビデオを見続けていたため、目元は真っ赤に腫れており、着ている服も昨日から着替えていない。身なりに気を遣う方であるここの葉であったが、この日ばかりは気を回す余裕はなかった。
 先日のことを受付で話すと、奥の部屋で待っていてくれと言われて、奥へと通された。通された個室は昨日と変わらないところであった。中央にテーブルといくつかの椅子が置かれているだけの部屋だ。大きなホワイトボードには何も書かれておらず、何となく取調室という単語がここの葉には思い浮かぶ。テーブルの上に置かれた緑茶の入れられたカップが、所在なさげに鎮座している。そこまで狭い部屋でもないわけだが、異常なまでの圧迫感を感じるせいだ。窓が無く、ドアに鍵がついているせいかもしれない。
 十五分ほど待っていると白衣を着た女性が入ってきた。二十代の半ばくらいの年齢だろうか。黒縁の眼鏡や、髪型などは流行から後れたものをしているために、少しだけ野暮ったさを感じさせる。けれども、唇に塗られた目の覚めるような赤い口紅が目をひいた。
「ちょっと研究所のほうで火事騒ぎがあって遅れたの、ごめんなさいね」
 丁寧に頭を下げる女性に対し、習うようにここの葉も頭を下げる。
「今回は大変な事件に巻き込まれてしまったわね」
「あの、このビデオは一体?」
 ここの葉は震える腕で、ビデオテープをテーブルの上に置いた。
 女性は華南と名乗り、この事件のことを説明し始めた。
 一般的には知られていないこと。アウターとなった人が消えないことがあるという事実を、このときここの葉は初めて聞いた。そして、世間には放送されないで、そのことが起こりえることも。
「そんなことが……」
「ええ。いらない混乱を生まないために、知らされていないんだけどね。あ、煙草吸っても良いかしら?」
 ここの葉が頷くと、華南は胸ポケットから携帯用の灰皿をテーブルの上に置き、煙草を口にくわえた。
 ここの葉の両親もその被害者だという。被害者のことは、国が世話をしてくれるということらしい。
 そう言われたとき、ここの葉は、親戚の誰が彼女のことを引き取るかと、話をしていたことを思い出した。誰もが両親の残した保険金欲しさのためか、同情の言葉が並べられていた。ただし、その奥へと見える、おまけとしてついてくるここの葉本人への恐怖感が見え隠れしている。保険金は欲しいが、親戚とはいえ他人であるここの葉を、引き取ることは怖いのであろう。ここの葉は恐怖感を通り越し、どこまでも広がった砂漠にも似た虚無感が胸を満たしていた。
「……お茶でも飲んだらどう? もう冷めてしまっていると思うけど、少しくらいは落ち着くと思うわ」
「あ、はい」
 華南に勧められるまま、ここの葉はお茶を口に運んだ。緊張のためかとても喉が渇いていたために、冷たくなった緑茶が心地良い。
 一口で飲み干して、テーブルにコップを置こうとしたところ、地面へとコップは落ちた。砕ける単純な音が響く。
「すみません。その」
 ここの葉は慌てて割れたカップに手を伸ばす。しかし、手元が狂い破片で手を切ってしまった。
「あれ?」
 おかしい。いくら運動神経が悪い方とはいえ、ここまで酷いものではないはずだ。しかも、それなりに深く切っているはずなのに、痛みもしない。
「ごめんなさい。ちょっと、疲れてて……」
 とりあえず先に華南に謝ろうと顔を上げると、視界が薄れる。気を失う直前に映ったのは、華南の能面のような顔だった。
「――ん」
 ここの葉は体中の鈍い痛みに伴い目を覚ました。特に、腕が裂けそうなくらい痛い。
「私は、一体」
 彼女は両腕は広げられて固定され、まるで十字架に磔にされた聖者のようであった。聖者が手の平に釘を打たれていたのと異なり、ここの葉は全身を直径一センチほどの太さのワイヤーで、全身をくまなく縛り付けられている。
 かろうじて自由になるのは目だけであり、重い瞼をここの葉はかろうじて開いた。
 一体ここは何処なのだろうか。黒い色の部屋。夜のように闇で何も見えない暗さなどでなく、ただ黒いだけの部屋。そのせいか、部屋の輪郭が分かりづらく、広いのか狭いのかすらあやふやな感じがした。大きなテレビが真正面に置かれているだけで、窓も何もない、何の装飾もない部屋。
「一体、何なの……」
 ここの葉は腕や足に力を込めてみるが、まかれたワイヤーが食い込むだけで痛いだけであった。
『ごめんなさい』
 その言葉が耳元で響いた。どうやら耳元にスピーカーが置かれているらしい。警察に行ったときに、ここの葉が最後に話をしていた女性の声であった。
「どういうことなんですか!」
 ここの葉は今まで出したことのないような叫び声をあげる。
『あの事件に巻き込まれた人は、こうしないといけないのよ。"恨む"んなら、あの人を恨んでね』
 それきりアナウンスは途切れた。ここの葉がいくら叫び声を上げても、何の返答もない。
 それからテレビにスイッチが入る。ざーざーざーという砂嵐から、再生されるのは二日前の光景。
 一人の青年が、一組の夫婦を殺す。時間にすれば五分もない。
 その光景が延々と繰り返される。何度も、何度も殺される。何度も、何度も殺す。
「いや……」
 ここの葉にはすでに、どれくらい時間がたったのかも分からない。十回目までは数えていたような気がするけど、よく覚えていない。
 目を閉じると、父と母の悲鳴だけが聞こえてくる。暗い世界に響くその声。聞き慣れたその悲鳴は、焼き付いてしまったイメージを鮮明に繰り返す。そのほうが、余計に怖い……。
「いや……」
 かといって画面を見ると、父親と母親の悲壮な顔が映っている。二度も銃身を突きつけられ、それで。
 ――せめて、耳を塞がせて。目を閉じさせて。何も聞きたくない。何も見たくない。何も感じたくない。何も。何も。私を一人にして。
「いやぁぁぁぁ!!」
 目を閉じて絶叫する。
 せめて、この声が枯れるまでは何も聞こえないように……。


 ◆


「せ―――」
 どうして。私がこんな目にあうの?
 どうして。私がこんな目にあわなくちゃいけないの?
 私が何か悪いことをしたの?
 こんな目にあわされることをしちゃったの?
 どうして。どうして。どうして。
 わけがわからないよ。暗いよ。痛いよ。痒いよ。喉が渇いたよ。
 お腹がぺこぺこだ。そう言えばお母さん達が死んじゃってから何も食べなかったな。今なら嫌いなピーマンだって美味しく食べれそうだよ。
 喉がひりひりする。空気が乾燥している時みたいにからっからだ。まるで、ひびが入ってるみたい。冷たいジュースが飲みたい。でも、今飲むととっても喉にしみるのかな。
 腕が痛い。こんなに無理矢理縛られてて、足とか痣が残ったりしないのかな。残っちゃうのなら、スカートはきづらくなるなあ。
 怖い。黒い、この部屋が怖いよ。テレビに映る光景が怖い。耳元で響く悲鳴が怖い。鼓膜を震わせる低音の振動が怖い。
 体中が痒い。頭が痒いの。ワイヤーの食い込んだ腕が痒い。
 髪を洗いたい。シャワーを浴びたい。お風呂に入りたい。柔らかい布団に包まれたい。ゆっくり横になって眠りたい。
 声が、出ない。喉が痛い。自分でも何言ってるか、わかんない。何言っているかも、聞こえない。
「―――い」
 ああ、違った。何も聞こえないんじゃなくて、何も言えてないんだ。どうでも、いっか。でも、どうせなら、喉じゃなくて耳が壊れちゃえばいいのに。目が潰れてしまえばいいのに。
 誰が悪いの……私が悪いの? 私は何もしていないのに。お父さんとお母さんを殺されただけなのに。独りぼっちになっただけなのに。
 ごめんなさい。私が全て悪いんです。お父さんが殺されたのが悪いんです。お母さんが殺されたのが悪いんです。だから、許してください。許してください。許して。
 私が全て悪かったと言っているでしょう。何で何も言ってくれないんです。どうして!
 お父さんごめんなさい。だから、悲鳴を上げるのは止めて。
 お母さんごめんなさい。だから、悲鳴を上げるのは止めて。
 ……どうして、悲鳴を上げるの、お父さん。お母さん。
 私がこんなに嫌がってるのに、苦しんでいるのに、どうして死ぬの。
 酷いよ。そんなに、私のことが嫌いだったの。そんなに、私のことを苦しめたいの。私はお父さんも、お母さんも好きだったのに。
 ごめんなさい。私のこと嫌いでいいから、愛してくれなくていいから、もうこれ以上苦しめないで。悲鳴を上げないで。死なないでよ……。
「――せ―」
 ねえ。どうして、お父さんとお母さんを殺すの。
 どうしてあなたが、お父さんとお母さんを殺すの。
 あの人が殺したから。私はこんな目に。
 あの人のせいで私がこんな目に。
 どうして、二回も殺すの。一回殺すだけじゃ駄目なの。
 酷い。酷すぎる。こんなこと、あんまりだ。
 あの人が。あの人が。あの人が。あの人のせいで。あの人のせいで。あの人せいで。あなたが。あなたが。あなたが。あなたのせいで。あなたのせいで。あなたのせいで。あいつが。あいつが。あいつが――――――――――


 ――あいつが。


 ――――――あの人が。


 ――――――――――あなたが。


 あれからどれくらいの時間が流れたのか、ここの葉には分からない。夢を見ているときのように時間の概念が薄れてく。たった一秒という時間ですら、永遠にも感じられる。五秒は永劫に。十秒という時間は無限大に。
 ここの葉はぱくぱくと、唇を動かした。
 せ――ん――せ――い。
 音にはすでにならず、その形を結ぶだけだった。


 ◆


 解放されて、衰弱しきったここの葉の肉体は治療された。それから、教えられるままのことをそのまま学んだ。銃の使い方やナイフの扱い方などを教えられ、体中に注射を打たれ続けた。
 ただ、ここの葉が思うことは、胸の内側で黒色の炎が燃えているということ。決して消えない黒炎が、全てを焼き尽くそうととぐろをまいている。そんな心象風景。炎が大きすぎて、勢いが強すぎて、何も残らない。一体この炎は何なのだろうか。ごうごうと燃える炎。訳の分からぬ衝動が胸の中を駆けめぐる。
 自分自身でも理解しがたい、この汚濁のような炎も少しだけ弱まり、胸の奥の痛みも何とか耐えることが出来るようになった。ただ、炎の勢いが弱まるかわりに、黒炎によって心の奥底までも焼き尽くされてしまったような喪失感が、ここの葉の心を痛める。
 ――その日が来るまでは。
 人を殺せ。そう命じられ、一本のナイフを渡された。
 ここの葉の目の前にいるのは、錆び付いた鎖で両腕と両足を捕らえられた男性だった。自らの体を支える力も残っていないのか、ぶらんとつられているだけで前身に傾いている。俯いているために、表情は分からないが、身につけている白い服は汚らしい黒色っぽい汚れが染みついている。
「――あ――あ――」
 男性の口が動いたが、声が枯れきっているのか意味をなす言葉にはならない。
 ――この人を殺す? 私が、殺す?
 ここの葉には殺すことが出来ず、逃げ出すことしか出来なかった。
 約一年ぶりに、外の世界をここの葉は虚ろな表情のまま歩く。
 空はあいにくの雨模様。久々に見る外界は、道を歩く人々の姿は少なく、アスファルトとビルの灰色を水滴が黒く染め上げている。空は黒色と灰色の雲が覆っており、まるでモノクロの世界に迷い込んでしまったようだ。ここの葉は傘をさしているが、霧のような雨はしぶきとなって全身を濡らしていく。
 水たまりを踏みつけ、スニーカーを濡らした。水はスニーカーにしみ込んで、靴下まで濡らす。
「……寒い」
 体の芯から凍えるような冷たさが、身を責める。
 ここの葉は温もりが恋しくて、人の多い中央の通りへと足を向けた。
 丁度帰宅の時間に重なったのか、駅の周辺は人で溢れていた。
 人、人、人。見ているだけで気分が悪くなるくらいの人の数だ。そんな中を、ここの葉は中央の入り口で立ちつくしてしまう。
 ――ここは、何処?
 ふと、そんな言葉が頭の中をよぎった。
 目の前に広がる光景が以前見ていたものと同じだと、思えなかった。歩いている人が、通路の邪魔なここの葉を睨む人が、自分とは違う別の生き物にしか見えない。一体自分は何処に迷い込んでしまったというのだろうか。
 それから、どれくらいの時間そこに立ちつくしていたのか、一人の青年がここの葉の横をすれ違った。とっても懐かしい、長身の男性。
「――う」
 しかし、ここの葉の胸に去来したものは、押さえの効かない狂おしいほどの想いだった。心の内で燃えている黒炎が、まるで油でも放り込まれたように、炎の勢いが活性化する。その勢いがあまりにも強く心の内側から零れた。
 膝をつき、嘔吐する。何も食べていないから、漏れてくるのは唾液と混ざった、粘着性のある胃液。食道の奥が焼けるように痛み、胃がぎゅううっと締め付けられる。それと、聞き苦しい嗚咽が零れた。
「大丈夫ですか?」
「ご、ごめんなさい」
 蹲って嗚咽をあげ続けるここの葉に声を掛けたのは、柔和な顔をした女性だった。買い物帰りなのだろう。買い物袋からは、夕食の材料と思われる材料が姿を見せていた。
 だが、その柔和な顔が凍り付くのも、すぐのことであった。
 背中をさすろうとした女性は、ここの葉に触れることが出来なかった。それが意味することは一つだけである。
「ア、アウター」
「……え?」
 一体その言葉が誰のことを指すのか、ここの葉は分からずに立ちあがる。
「ありがとうございます」
 先程声を掛けてくれたと思われる人に、ここの葉は頭を下げた。女性は顔色を蒼白にし、一歩、二歩と後ずさる。買い物袋を地面へと落とし、地面の上に野菜が散らばる。周囲にはここの葉のことを囲うように人だかりが出来ていた。
「あの?」
「こ、こないで、化け物!」
 その言葉を引き金に、ざわめきが波紋のように広がる。あちこちで悲鳴が上がり、逃げ出そうとする。恥も外聞もない、ただ、ここの葉から離れるためだけに。
「待ってください」
 ここの葉は後ずさる女性の手首を掴んだ。そこにある顔は見たことがあった。あれは――父と母が、二度目に殺される時によく似ている。それは人を見る目ではない。ここの葉が手を放すと、女性は散らばった材料には見向きもせずに、逃げ去っていった。
 ぽっかりと広がる空間。ここの葉の目の映る範囲には誰も人はいない。
「そっか」
 ここの葉は落ちたジャガイモの一つを拾いながら、ようやく悟った。
 ――ああ、みんなが別の生き物になったんじゃない。私が化け物<アウター>になっていたんだ。


 ◆


 しとしとしと。
 雨は止まない。秋雨は弱く、けれど降り止むことは無い。霧のように粒は小さく視界を隠す。
 ここの葉はあのまま傘を駅に放置してきてしまったために、全身をすでに濡らしてしまっている。びっしょりと濡れた服が鉛のようにずしりと重い。とても寒く、がちがちと歯の奥がならしてしまう。雨に打たれすぎたせいか、頭がぼんやりとしてくるのを感じた。
 けれども、自分には居場所なんてない。化け物の自分がいて許される場所なんて一体どこにあるというのだろうか。元居た場所に戻るくらいなら、死んだ方がましである。
 家に帰りたい。けれども、今自分が何処にいるのかすらも分からない。お金を持っていないため、乗り物に乗ることも出来ない。
 ――この先の見えぬ霧が、どこか別の世界につながっていればいいのに。
 迷宮を歩いているようにふらふらと足取りはおぼつかない割に、歩く方向に迷いはない。どんなに複雑な迷宮でもちゃんと出口が用意されているように、たどり着く場所は決まっている。
 どれくらい歩いたのか、靴擦れが出来て体力も限界に近づいたここの葉が辿り着いたのは、一軒のアパートだった。お世辞にも綺麗とは言えないアパートだ。六○六号室のチャイムを押した。
 すると、一人の青年が姿を見せた。髪の毛はすっかり伸びきっておりぼさぼさで、頬はこけている。着ている服には皺がよっており、煙草の臭いが服に染み付いているようだ。けれども、彼はここの葉が大好きだった塾の教師……そして両親を殺した、人。
 突然のここの葉の訪問に、七璃は驚いた様子だった。
「……ずぶ濡れじゃないか。とりあえずあがって、服を乾かしな」
 ここの葉は俯いたまま静かに告げる。
「私は死にました。両親を殺したあなたのせいで、死にました。殺されました」
 久しぶりの挨拶も何もなく、自分の思いだけを口にする。
「私は、あなたがとても憎いです。先生のせいで、私はすごくすごく酷い目にあわされて。死ぬほど苦しい目にあわされて、実際に死んでいるんだけど、本当に痛くて、良いことなんて一つもなくて……」
 嗚咽が勝り、言葉にならない。涙腺が壊れたのか、流れる涙が止まらない。怒っているのか、悲しいのかすら分からない。大陸を飲み込むほどの大津波に、人が逆らうことが出来ないように、度を超えた感情は、それが元が何だったのかすらも理解できなくなる。
 七璃は何も言わない。黙ったまま、ここの葉のことを見下ろしている。
「私は先生を恨んでいても、いいですか?」
 黒い炎が燃えさかる。ごうごうと、世界を焼き尽くす業火が胸の内側で猛り狂う。
 彼を殺せ。跡形も残らないほど、壊せ。焼き尽くせ。衝動が止まらない。
「……ああ」
 七璃は頷くだけであった。
 雨が降っていた。秋の雨。視界を白く染める霧の雨。降り止まない長い長い雨――――


 ◆


「雨、止まないね」
「そうだな」
 依然として、静かに雨音をたてており、部屋の中は薄暗い。
 すでに七璃はここの葉のほうを見ておらず、本の続きに戻っている。ここの葉は空になったカップを流しへと運んだ。
 今この瞬間だって、恐らく七璃のことを殺そうと思えば、流しに置かれている包丁を使い殺すことは可能だろう。自分のことをこのアパートに置いておいてくれるということは、つまりそういうことなのだから。
 けれども、ここの葉はまだ七璃を殺してはいない。
 ――そして、殺せない。
 黒色の炎は未だ心の中で燃えている。この炎こそが、アウターの持つ復讐欲であることを嫌というほど自覚せざるをえないところであった。着たばかりの時は、酷すぎる発作のために部屋に閉じこもって出てこなくなってばかりであったが、今では随分と落ち着いている。
 ここの葉は自分の髪の毛の先をつまんだ。本当は、色々と髪型を変えてみたい。色も変えてみたかった。人形のように真っ黒な髪の毛に憧れもを持っていたし、もっと明るくもしてみたかった。
 けれども、アウターであるここの葉の髪の毛を、切ることの出来る美容師はいない。前髪ならば自分でカットすることが出来る。けれども、後ろ髪を自分で切ることは難しい。元々ショートのほうが好きなのに、伸ばしたくもないのに、伸ばさざるを得ない髪。それを見ると、酷く悲しい気持ちになる。この伸びきった髪の毛は、自分がアウターになった証のようなもの。
 七璃のほうを見る。寝癖のつき放題の髪の毛は、ここの葉の長さにはまるで敵わないくらい伸びきっている。
「髪の毛、切ってあげるよ」
 ここの葉はそう言った。
 雨は降り止まない。

      

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