第五話

 

 ◆


 さよなら


 ◆


 ピンポーンという呼び鈴の音。
 それは、いつもと変わらない音。
 いつも通り本と服の山に埋もれていて眠っていた七璃は、返事をしようとして止めた。鋭い目つきが険しく細まる。
 彼は返事をせずに、起きあがると部屋を片づけはじめた。部屋の隅に本をまとめ、服はハンガーに掛ける。その間にも呼び鈴が鳴り続けるが、構わずに黙々と片づけ続ける。はじめに呼び鈴が鳴ってから、約三分ほどで床がちゃんと見える程度までは片づけ終わった。
「……どうぞ」
 そこで、ようやく七璃は答えた。
 がちゃりとドアが開き、部屋へと上がってくる。姿を現したのは二十代半ばほどの女性だ。野暮ったい黒縁の眼鏡に、地味なベージュのスーツ。肩にかけているバッグも有名なブランドなどでなく地味な黒色だ。髪の毛は肩口のところで少しだけ雑に切りそろえられており、化粧はしていない。にも関わらず、唇に塗られた口紅は毒々しいまでの赤色だった。
「あら。聞いていた噂よりも随分と綺麗なのね」
 女性は待たされたことなど気にもかけずに、くるりと部屋の中を見回す。部屋の隅に乱雑に積み立てられた本や、ハンガーに掛かりきらなかった服なんて畳まれもせずに、大量の洗濯物のように皺になるにもかかわらず、籠の中につめ込められているのが見える。
 その光景を見て、彼女は綺麗と評するのだから、一体どのような話を聞いていたのだろうか。
「何か用ですか。先輩?」
「あら、悲しいわね。前みたいに、華南って呼んでくれないの」
「とりあえず座ったらどうです、先輩」
 あえて先輩という単語を強調する、七璃の子供じみた反応に満足したのか、華南は七璃の向かいのソファに腰掛ける。
「こうして面と向かうのは二年ぶりね。元気にしていたかしら?」
「で、今日は一体どうしたんですか。まさか、近くに寄ったからとかじゃないですよね。それとも――」
 七璃は懐に忍ばせている拳銃を抜きやすくするために、わずかに体を傾ける。
「恋人の家の近くを通ったから、寄るのっておかしなことかしら?」
「それは、おかしくないですね。先輩の恋人というのは一体どなたのことなんでしょうか。ひょっとすると、連れてきていらっしゃるのですか。紹介して頂けると嬉しいのですが?」
「あら。今目の前にいるじゃない。ひょっとして照れているの?」
「ふざけるな!」
 七璃はテーブルを思いっきり叩いた。テーブルの上に唯一残っている灰皿がかたんかたんと揺れる。
 しかし、まるで変わることのない華南の余裕の笑みを見ると、七璃はばつが悪そうに舌打ちをして、ソファに座り直す。
「ふふ、そんな親の敵を見るような目で見ないで。本当に用はないのよ。しいて言うなら、貴方の顔を見に来たというのが一番かしらね。貴方のことを殺しに来た訳じゃなくてね」
「――そうですか。それならコーヒーくらいいれますよ。飲みますか?」
「ええ、お願いするわ」
 七璃は立ち上がり、ヤカンを温める。その間に彼女の様子を盗み見た。華南は物珍しそうに部屋の中を見回しており、近くに落ちていた本を拾いぱらぱらと見ている。その行動に何ら不審な点は感じられない。
 少しだけ濃いめに入れたコーヒーはブラック。七璃は自分の分と彼女の分をいれ、テーブルの上に置く。
「ブラックでいいんですよね?」
 七璃が尋ねると、華南はええ、と頷いた。どうやら彼女の嗜好は昔から変わっていないようであった。
「とっても美味しいわね」
「……インスタントのコーヒーでお世辞を言われても嬉しくありません」
「折角褒めているのに」
 上品に笑う彼女のことが煩わしくて、七璃は眉をしかめる。
 それから二人は黙り、コーヒーを口に運ぶ。
 静かな時間だった。時計の針の音、かちんとコップとソーサーがぶつかる音だけが僅かに響いた。
 七璃には彼女が何を考えているのか、何も分からない。今まで、自分のことをずっと放っておいたくせに、何故今更尋ねてきたのか。ただ、どんな意味があったとしても、良いことではないことだけは確かなことである。
 焦っても仕方がない。コーヒーだけでは落ち着かなかったのか、七璃は煙草をくわえてジッポライターをポケットから取り出した。かちかちと何度か弾き火を付ける。紫煙が上がった。
「あら。そのライター、まだ持っていてくれたのね。嬉しいわ」
「ええ、当然でしょう」
 ――これを持っていれば、嫌でも先輩のことを思い出すからな。
 七璃は静かに華南のことを睨み付ける。視線で人を殺せるほど強く、深く。それでも、華南は涼しい顔のままだった。
 コーヒーを飲み終えると、華南脱いだ上着を片手に席を立った。
「それじゃあ、私は帰るわね」
 華南は言う。
「あら、さっき言ったじゃない。私は貴方の顔を見に来ただけってね。そうだ、忘れていたわ。私、勤めている場所が変わったの。今はここで働いているわ」
 七璃の睨み付ける視線に気付いたのか、華南は笑う。それから名刺を一枚テーブルの上に置いた。研究所の所長という文字が躍っている。その研究所の名前は七璃も知っていた。最近この町に出来たばかりの研究所だ。
「それにしても」
 くすりとした笑い声。そして、
「貴方は、どうして私を殺さないの?」
 その現実を突きつけた。
「俺は」
「憎くて、憎くて仕方ないんでしょう? 薄汚い黒色の炎が全てを焼き尽くしそうなほど憎いのでしょう? 他のことなんか総てがどうでも良くなってしまうくらい憎いのでしょう? なのに、何で私を殺さないのかしら、貴方は」
 七璃は答えない。
「それとも、何。今更だけど、死んでしまうのが怖いのかしら?」
 華南はそれだけ言い残し、出て行った。
 七璃は俯き大きくため息をつく。それから自分の体を撫でた。極度の緊張状態のためか、全身の筋肉が固まってしまったかのように、動きが硬い。
「先輩こそ。あの口紅をまだ持っているんですね」
 白色のカップには赤色の口紅の跡が残っていた。


 ◆


「……七璃?」
 ここの葉はドアを僅かに開き、部屋の様子を伺いながら自分の部屋から出てくる。影のような存在感のなさであった。顔色が蒼白になっている。
「今の人は?」
「紀津月華南。俺が、大学に通っていた時の先輩だった人だな」
「でも、あの人。アウターの研究をしている人でしょ」
 ここの葉には忘れることなど出来るはずがない。彼女を捕らえたのは今の女性だ。それだけでなく、その後の拷問の時、常に彼女の姿がそこにあった。その時のことを思い出して、背筋に冷たい物が走った。
「ああ。そうだな」
「……え?」
 ここの葉はこの場にいたくない程の悪寒を感じた。確かに華南のことを見るとあの時のことを思い出し、体が震える。しかし、今感じるのはぎゅうっと締め付けるような圧迫感だ。
 ここの葉は七璃を見ると、彼は片手で顔を押さえていた。手の平の隙間から見える目は、狂ったように見開かれている。
 血の滲むような狂気がそこにはあった。
 ここの葉は思わず身をすくめてしまう。怖い。この場にいるだけで間違いなく殺される。けれども、逃げようと動いても殺されることは明白だった。そのため、ここの葉に出来るのは逃げ出したい一心を押しとどめ、緊張に身を震わせながらもその場に佇むだけだ。
「今の人が、七璃を殺したの。確かに、性格悪そうな顔していたもんね。本当、人を陥れる人ってあんな感じなのかな」
 会話をすれば少しは落ち着くかもしれない。そんな思いから、喋りかけてみる。本音を言えば、喋っていないと怖くてしかなかった。
「あの口紅なんて、すごい趣味の悪い色だったし」
「――!」
 口紅という言葉に反応したのか眼球だけが動き、黒い目がここの葉を捕らえた。
「あ――」
 次の瞬間、ここの葉は壁際に叩きつけられるように押しつけられていた。背中を思いっきりぶつけたために呼吸が一瞬止まり、力が抜ける。ジャケットの内側から、ゆうらりと拳銃が抜かれ、撃鉄があがるのが見えた。七璃の動作が、ここの葉にはまるでスローモーションに感じる。にも関わらず、何の反応も出来ない。ここの葉の視線は七璃の目にだけ向けられているからだ。
 見開かれた両の目。狂気以外宿らない瞳は一体誰を映しているのだろう。少なくとも、自分ではないのだけは確かであった。そう思うとどこか胸がからっぽになったような気がした。からっぽになったところにすとんと別のものが滑り込んでくる。
「ここの……葉?」
 七璃は彼女の名を呼ぶと、手から銃が零れ、がん、という大きな音をたてて地面を跳ねる。ここの葉の中の酷く冷めた部分が、衝撃で発射されなくてよかったな、なんて思った。
「七璃」
 ここの葉が名を呼ぶと、七璃は頭を押さえて膝をつく。呼吸は荒く、額には脂汗が浮かんでいた。それと、つうっと口元から赤い筋が流れる。我に返るために、自分で噛み切ったのだろう。
「悪い」
 七璃は言葉短く謝り、ふらふらとソファへと向かう。途中で手にした詰め込まれた服をソファの上にぶちまけて、そのまま倒れ込んでしまった。
 ここの葉は床に落ちたままになっている銃を拾う。久しぶりに手に持った銃はずしりと重く、まるで人の命のようである。いや、それは間違いだ。人の命はこんなにも重くない。釣り合いがとれる物は、鉛玉一発分くらいの重さ程度だろう。
 ここの葉は銃を七璃へと向ける。焦点は頭部。トリガーを引けば、銃弾一つを代償に人の命を一つ奪うことが出来る。
 銃口を七璃へと向けて、一分ほどでその腕を降ろした。
「七璃、あのね」
 喉に詰まる感じがして、ごほごほっと咳き込んだ。テーブルの上に銃を置き、背中を丸めて咳き込む。中々止まらず、膝をつきながら両手で口を押さえる。
 咳も収まり、何とか立ちあがる。それから手の平を見ると、赤く染まっていた。
 ここの葉は七璃に言いたいことがあったが、結局口にすることはなかった。
 その日、七璃とは一言も口をきかなかった。
 次の日、カーテンの隙間から差し込む光が眩しくて、ここの葉は目を覚ました。ぼんやりとした頭のまま、自分の部屋を見回す。窓際に一メートルくらいの観葉植物が二つと、机が一つある。自分の部屋だ。
 ここの葉はとりあえず着替えてから部屋を出ると、部屋はすでに本の群によって浸食されていた。眠っているときを狙って、わざわざぶちまけたのだろうか。なんとなしに、太るのは簡単だけど、痩せるのは非常に大変なダイエットにも似た理不尽さを感じる。
 しかも、几帳面だと思うのは、どの本も折れ目がつくような置かれ方をしていないところだった。こうしていると、本当にただ単に部屋がごちゃごちゃしていないと落ち着かないだけなのかもしれない。世の中変わった嗜好の人はいるものだ。
 しかし、肝心の七璃の姿はというと、ソファの上にはなかった。
 こんな時間から、何処に行ったのだろうか。七璃が昼間から出かける唯一の理由として本屋が思い浮かぶが、こんな朝七時なんていう時間では開いていない。まさか、散歩に行ったのか。歩くくらいなら眠るが信条の七璃に限って、それはあり得ないだろう。でも、それなら本当に、一体どこに行ったのだろうか。
 ここの葉は不満そうに唇を尖らした。不機嫌になっていくことを感じながら目を閉じて、七璃のことを意識する。
 黒炎が七璃の居る場所を教えてくれるからだ。ここの葉がアウターとなった時から、燃え続けている汚らしい黒色の炎。
「……あれ?」
 まるで分からなかった。黒い炎が感じられない。七璃が何処にいるのか、分からない。
 これは、どういうことなのだろう。
 まだ寝ぼけているのだろうか。確かに体中がどこか重い。頭が鈍く痛む。けれどもこれは以前から感じていることだ。ここの葉はあまり気にせず、顔を洗い髪型を整えて、とっておきの髪留めで纏めてみる。
 冷たい水で洗顔したおかげではっきりと目が覚めた。しかし、頭はクリアにさえ渡っていく感じがするけれど、頭の痛みはしこりのようにひくことはなかった。
 朝食のパンを焼き、適当に生野菜を切り分けて、それと紅茶を用意してから食事する。出かけていることを考えると、七璃の分も用意した方がいいのだろうか、と少しだけ悩んだが、結局自分一人だけの分だ。必要ならその時に準備すればいいだろう。けれども、ここの葉が食事を終えても七璃が帰ってくる気配が全くない。
 もう一度、目を閉じてから黒い炎を感じてみる。何も見あたらない。炎の残照が感じられない。
 再び思う。これは、どういうことなんだろう。
 一つめは七璃が感じることの出来ないほど、遠くに行ってしまったということ。
 でも、そんなことはありえるのだろうか。
 ここの葉は自分が死んだときのことを思い返してみる。たとえ七璃がどれほど遠くにいても、感じることが出来た。太陽のように陰りを知らないかのように燃え続けても、決して勢いが弱まらないほどに強く燃えていた。
 では、本当の意味で遠くに行ってしまった、ということはどうだろう。昨日尋ねてきた華南の姿が思い浮かべる。魔女のように毒々しい口紅が思い出された。あの女性が七璃のことを。彼女なら、人の命など虫を潰すよりもたやすく殺してのけるだろう。
 そして、最後に思い浮かぶのは、自らの内に燃える炎が燃え尽きた、ということ。
 全てを焼き尽くすほどの勢いで燃え続けていても、恒星だっていつかは燃え尽きる。では燃え尽きるとき、どうなるんだろうか。考えるまでもない。それこそ、アウターの命が尽きるときだ。
 ここの葉は、三日やそこいらしか生きられないと言われている普通のアウターよりも、何倍も何十倍も何百倍も生き長らえてきた。逆に考えれば、そのことが異常なのだ。
 そして、改めて思い返す。昨日、七璃に銃を突きつけているとき、前ほど強く憎悪を覚えたか。答えは違う。あの時思ったことは、銃を撃つと人が死ぬ。そのことに対する恐怖だけだった。七璃に対する憎しみは……意識できなかった。
 怖くなった。酷く恐ろしくなった。震える体を自分でぎゅうっと抱きしめる。そんなことでは、震えは収まってはくれない。
 七璃は、七璃はどうなんだろう。自分よりも先にアウターになった人。彼の心の中でもまだ黒く燃え続けている炎があるのだろうか……。
 聞かないと。
 そう思ったここの葉は緑色のカーディガンをまとって、部屋を飛び出した。
 今、一人で家にいることなんて出来ない。


 ◆


 ここの葉は思い当たるところへ行ってみる。町にある本屋と図書館。姿を探してみるが、何処にも見あたらない。
 アパートを出たばかりの時はまだ空気が冷たかったが、駆け足になりそうなほどの速度で回っているせいか、うっすらと汗をかいていた。休日のせいか、十時を回ったばかりの時間だというのに、人の通りが多い。季節の変わりというせいか、すでにコートを着ている人や、派手な色の半袖シャツの人など、人々の格好には統一感がなかった。七璃は今日もいつも通り皺の入ったジャケットを着ているのだろうか。
 よくよく考えてみると、一年も彼と一緒に暮らしているというのに、七璃のことは自分は何も知らないことに今更のように気がつく。どうして、彼がアウターになったのか。彼がどのくらい彼女を恨んでいるのか。何も知らない。ここの葉は何も知らない。
「……ごほごほ」
 ここの葉は背を丸めて咳をする。食べ物をむせてしまったときのように激しいもので、喘息の発作にも似た呼吸の苦しみであった。目に涙が滲むのを感じる。発作の薬など持っていないため、ここの葉には口と胸を押さえて収まるまで耐えることしか出来なかった。
 咳が収まってからもう一度、本屋と図書館を回るが、七璃の姿はやはり何処にもない。朝からずっと歩き回っていたために疲れたので、図書館の端の席に腰掛けた。木製の椅子のしんとした冷たさが心地良い。ここの葉は回りを見回してみる。丁度人通りの少ないスペースなのか、辺りに誰もいない。そのことを確認してここの葉は備え付けになっている机に突っ伏した。
 おでこをぴったりと押しつけると、自分の体温が高いのか妙にひんやりとして気持ちいい。真面目に勉強している人達に謝罪しながらも、ここの葉はそのままの姿勢でいた。
 眠くはない。ただ、頭がぼんやりとしてしまうだけだ。
 いつから、こんなことに慣れてしまったのだろうか。ここの葉は、七璃と再び出会うまで一人になることは別に怖くなかった。むしろ、人といるときの方が緊張してしまうくらいだった。眠ってから起きたとき、自分が生きていることに対して落胆する。そんな毎日だった。彼女の大部分を占めていたのは形のない、黒色の炎が心の奥にこびり付いており、刺激を与えることが出来るのは恐怖だけであった。
 彼女にとって毎日が恐怖だった。自分自身でも理解できない憎しみなんていう感情よりも、目の前にある恐怖のほうがひたすらに怖かった。毎日したくもない銃器や刃物の扱い方を強要され、少しでも嫌がると痛めつけられて、それで……。
 その時に再び自殺するという考えは浮かばなかった。自殺を望むのは、人だけである。では、そのことを思いもしないアウターは、人ではないのだろう。少なくとも自殺をしたアウターという話は、今までここの葉は聞いたことがなかった。今にしてみれば、その時に自分がアウターである、ということは理解していたのかもしれない。
 七璃のもとに訪れてからの一週間は、満足に眠ることが出来なかった。
 黒い炎が揺らぐ。囂々と燃えていた汚らしい黒色。それは、風に吹かれたように揺らぐ。
 そして、傍に人がいる。それだけで、怖くなる。今日眠ったらもう起きることが出来ないかもしれない。アウターが死ぬときに、人が死ぬときのような明確な死因は必要がない。ただ、眠って起きることが出来なければ、それが死だ。そのことが酷く怖い。夜が来るのが怖かった。眠ることが嫌で嫌で仕方がなかった。
 ――ざーざーというノイズ。
 アウターということを自覚した最初の夜、ここの葉は七璃に尋ねてみた。先生は怖くないのですか、と。
 その時、少しばかり考えて、怖いよ、とだけ彼は答えたのだった。
「あの、ここの葉さん?」
 自分の名を呼ぶ声にここの葉は顔を上げる。
 そこには、三島由里が立っていた。


 ◆


「こうしてお話しするのは初めてですね」
 とりあえず近くの喫茶店に入り、席に座ると由里は笑いながらそう言った。
 言われてみればその通りだな、とここの葉は思う。
 最初に出会ったときは、青ざめて逃げてしまったし、二度目に出会ったときは勝手に落ち込んでいて一言も彼女の前では口をきかなかった。
 今更にして思えば、よく彼女は自分に話しかけてきたものである。ここの葉が思い出せる限りでは、由里に対して悪いイメージを与えたことしか思い当たらない。
 けれども、彼女はここの葉のことを恐れている様子はおろか、どこか親しさえ感じさせるように見える。
「そうね」
 とりあえず昼食時間ということもあって、スパゲティーを二つ注文した。図書館の近くという場所のせいか、勉強の合間に寄ったというふうな学生達の姿が多い。ここの葉は自分もまだ学生に見えるのかな、なんてことを思った。
 改めて見る由里は、以前とは異なり明るい感じがした。髪型なども綺麗に整えられており、可愛らしい。あと、それだけでなくうっすらと化粧もしている。自分よりも年下だというのに、手慣れた感じで、ここの葉は自分でこんなに上手くできるかな、なんて考えてしまう。
「そう言えば、あなたは先輩には、その?」
 ここの葉の手持ちの話題にはそのことしかなかった。いきなり切り札のエースをきる気分だ。
「ええ、オーケーを貰えました」
 彼女は華やかに笑って、答えた。
「そう。良かったわね」
 ひょっとすると、この後にその先輩と会う予定があるのかもしれないなあ、なんてことを想像するとここの葉は少しだけ嬉しい気持ちになった。
「あの、前は助けて頂いてありがとうございます」
 由里はぺこりと頭を下げる。
「……え」
「前のときは、何だか私が落ち込んでいる間に帰らされちゃって、満足にお礼を言えなかったから。これでようやく言えました。本当にありがとうございます。ずっと気になってて、気になってて、気になってて」
 ここの葉は、今時の若い子にしては何て礼儀正しい良い子なんだろう、と妙に感激してしまう。ひねくれ七璃に爪のあかでも煎じて飲ましてあげたい気分だ。
「お礼なんてそんな。私達は、あの子を殺しただけよ」
 ここの葉は謙遜の言葉を口にすると、自分の言ったその何気ない言葉に酷くひっかかりを覚えた。
 ……何が、"私達"なのだろう。自分はただ見ていただけではないか。そう、自分はただ見ていただけ。
 あの後七璃は、殺す奴が嫌いなんだよ、と言った。よくよく考えれば、そのことには自分自身も含まれている。自分自身が大嫌いと彼は言ったのだ。七璃は一体どんな気持ちでその言葉を口にしたのだろう。人を殺す自分自身が嫌いという意味で言ったのだろうか。そんな酷い意味を込めて言ったのだろうか――こんなこと考えたところで分かるはずもないのに。
 七璃に聞きたかった。会って、彼と話したかった。
 無愛想なあの青年が、何を考えているのかが知りたかった。
「あのですね。その、私にこんなことを聞く権利があるかどうかは、凄く疑問の残るところなんですが」
「えーと、何?」
「聞いてもいいでしょうか?」
 そんな言い方をされたら逆に気になるというものだ。大体質問の内容も分からないのに、良いか悪いかなど言いようもない。もっとも、質問の内容を教えて貰った時点で、質問されているのと同じことなのだが。
「七璃さんとは上手くいっていますか?」
 由里はおずおずといった風に尋ねると、ここの葉は小首を傾げた。
「上手く?」
「はい。あの時、私のせいでその雰囲気が悪くなっていたようですから」
 申し訳なさそうに由里は言う。あの時の険悪な雰囲気は自分のせいだと思っているのだろう。確かに、あの日ここの葉が落ち込んでいたのも、勝手に行動して怒られたのも彼女のせいと言えば言えるのだろうが、そんな風に思うここの葉ではなかった。
「ううん。大丈夫。あれは私が悪かっただけだから」
「……よかったです」
 由里は安堵し、胸をなで下ろす。
「私のせいで二人が別れていたらって思うと、気が気でなかったんです。そんな状態で、自分が上手くいっても全然嬉しくないですし」
「別れる?」
 ここの葉は間が抜けたように尋ねてしまう。
「え、だって。お二人は一緒に暮らしているんでしょ? だったら付き合っているんですよね」
「ええ。まあって、ええ?」
 ここの葉はこくこくと相づちを打ってしまう。
 ――私と七璃が付き合っている?
 誰に対する疑問なのか分からないことを、ここの葉は心の中で自問自答してしまう。
「別に私と七璃は付き合ってる訳じゃなくてね」
「ち、違うんですか? ああ、ひょっとしてもう結婚なさっているとか」
 何だか悪いことを聞いたような気がしてしまったのか、由里は慌ててしまう。
「けっこん……」
 その言葉をリフレインするここの葉は頬を赤く染めるだけで、ぼおっとしてしまう。あまりに飛躍した言葉に、思考処理がついてこない。
「あ、うん。ここのお題は払っておくね。私は空気を食べてたらお腹一杯になっちゃったの。あなたはゆっくりしてていいから」
 わたわたとテーブルの上に二枚ほどの紙幣を置いて、伝票を片手にここの葉は立ちあがった。
「ちょっと、ここの葉さん。レジで払うんなら、ここにお金を置く必要はないですよ! って、そっちはトイレです。しかも男子の!」
 どうやら、かなり重傷のようだった。


 ◆


 ――私と七璃が付き合っている?
 その言葉をどれだけ頭の中にリフレインし続けたのか。
「私と、ぶ!」
 ぽかーんと頭の中が真っ白になっており、電柱に真正面にぶつかるなんていう古典的なギャグを体現してしまうここの葉であった。
「痛たたた……」
 あまりの痛みと恥ずかしさから、ようやく我に返ったここの葉は、鼻をさすりながら辺りを見回す。幸い人通りがなかったため、これ以上赤くなる必要はなかった。
 それにしても、ここの葉は思い直す。自分と七璃は付き合っているのだろうか。
 前に恵とあったときにも言われたことだ。あの時、ここの葉は一人赤くなっていたけれど、七璃は興味なさそうに横を向いているだけで、コーヒーを満足げに飲んでいた(ここの葉の分も)。ただ聞こえていなかっただけかもしれないが、ここの葉には七璃にとってそのことは、どうでも良いことのように見えてしまった。別に、そのことでかちんときたわけではないが、恵には思いっきりただの友人ですと断っておいてやった。決して、悔しかったからではない。
 確かに、初めて出会った頃の七璃は好きだった。清潔で親切で、何よりも格好良かった。しかし、寝癖のつき放題なぼさぼさの髪。皺がよっていても全く気にしないファッションセンス。そして、性格のねじれっぷり。今の七璃を見れば、百年の恋も冷めるというものだ。
 それに、一緒に住んでいるだけで、ああいう行為はおろか、キスもしたこともない。それどころか、手をつないだこともなければ、容姿にかんしてのお世辞一つ言われたことすらない。確かに、陰険で根暗で無愛想な七璃に、そういう気のきいた言葉を期待すること自体が間違っているのかもしれないが、一緒にいるのに何もされないというのは、女性としての魅力がないのじゃないかなんて思ってしまう。そりゃ、由里のように可愛らしいわけでもないし、恵のように綺麗なわけでもないのだけれど、自分の容姿だってそんなに棄てたものじゃない、と思いたい。思うだけなら自由だ。
 ――馬鹿みたい。
「……はあ」
 ここの葉は大きなため息をはいた。
 何を一人で舞い上がっているのだろう。そもそも、七璃が自分に好意を持っているというのは考えづらい。七璃は自分の誕生日すら知らないのだから。
 ここの葉の誕生日は十一月十一日。今日だ。
 別に十九なんて歳になってまで、誕生日を祝って貰いたいなんて思っているわけではない。そんな子供の我が儘なんてわめき散らすつもりはない。ショートケーキの一つでも買って、食べれば気分くらい味わえる。ワンホールくらい食べきってやる。甘い物は別腹なんだから。それから、ろうそくを二十個くらい刺して、ハッピバースデートゥーミーって歌えば満足だ。
 ――それは嘘。
 本当は、祝って欲しかった。プレゼントなんてどうでもいい、一言おめでとうという言葉が聞きたかった。ただ、今日だけ一緒にいて欲しかった。
 何でこんな風に思うのか、ここの葉は自分でも分からない。黒い炎にも似た、燃えるような激情が心の底に沈殿しているのを感じた。
「ごほごほごほ――」
 両手で口を押さえる。路上に膝をついて、咳き込み続けた。発作は一分ほどで収まるが、ここの葉はそのままの姿勢で動くことがなかった。今の自分は、酷く滑稽なことだろう。こんな自分を笑い飛ばしてしまいたかった。
「ごめんなさい」
 口から出てきたのは誰に対しての謝罪なのか。きっと両親に向けてのものだろう。
 ――私はもうすぐまた死んでしまうのだろう。だけど、その敵を取ることは出来そうにはない。私に、人は殺せそうにない。
 そんな、謝罪だった。


 ◆


 すでに日は暮れており、ここの葉は両手一杯に荷物を抱え、自室の玄関の前に立っている。あれから、二度ほど本屋と図書館を往復したが、七璃の姿を見つけることは出来なかった。
 玄関の扉は鍵がかかっている。まだ七璃は帰っていないようだ。ここの葉は少しだけ落胆し、鍵を開けて部屋の中に入る。
 汚い部屋だ。その割には埃は落ちていないという、彼のよく分からない人柄が繁栄された部屋。この光景に慣れてしまった自分のことを、ここの葉は笑いたくなる。
 きっと、今日眠ると目を覚ますことはないだろう。そんな確信にも似た予感が、ここの葉の胸に去来している。黒色の汚れきった炎が感じられなくなったためだ。
 そして、最後の最後だ。どうせならこの汚い部屋を徹底的に片づけてやろう。埃一つ残してやるものか。七璃の悔しがる顔を思い浮かべて、ここの葉は声を上げて笑った。
 買ってきた物を冷蔵庫の中にしまってから、ここの葉はまず服を集める。かき集めてみると意外に多く、ハンガーに掛けていっていくとすぐにハンガーの数が足りなくなった。残りは一つ一つアイロンをかけてからたたみ、押し入れに入れていく。この作業だけで、一時間以上の時間を使ってしまった。
 次に本を集める。実は七璃の部屋には大きな本棚が二個ほどある。一個だけでハードカバーの物はそこまでは入らないであろうが、文庫本サイズの物なら千冊くらいは入る代物だ。その本棚は本来の役目を放棄して、押し入れにしまわれていたりする。
 ここの葉は本棚のうち一つを、服の山を片づけて出来たスペースに出す。どういう風に並べようか。落ちている本はブックカバーがついていたりいなかったりなので、種類でわけるのは難しい。本のジャンルでわけようとも思うのだが、本を読まないここの葉には、見た目だけでジャンルをわけることが出来ない。
 とりあえず、ハードカバーの物を集めてから本棚に詰め込んだ。意外にスペースを占めていたのか、二百冊ほど詰めてみると、少しだけ足場が見えてきたような気がする。
「思った以上に簡単かもね」
 調子づいてきたここの葉は、次に簡単に見分けのつく漫画を片づける。これは多かった。五百冊ほど数えるだけである。この数を作者別、シリーズ別に分けていくと片手間なんてものじゃない。手に取った一冊を、ぱらぱらとめくってみると、いつか読んだことのある内容の物もあった。もっとちゃんと読んでおけばよかったかな、なんて少しだけ後悔してしまう。
 一通り漫画を片づけても、まだまだ本はいくつも塔を作ってそびえていた。一瞬、思いっきり蹴飛ばしてやろうかなんてことが頭の中をよぎる。
 ――いけないいけない。私は七璃と違って綺麗好きなんだから。
 いかんいかん、と頭を振ってここの葉は残りの本を手に取った。けれども、ジャンルはよく分からない。ふとアニメのような挿絵の描かれた物を見つけた。まだ漫画が残っていたのか、と思い中を開いてみると、最初の数ページはイラストで中身はちゃんと文章になっていた。どういう内容なんだろうと気を惹かれ、ついつい読んでしまう。学校で学ぶような、固い内容ではなく、どこにでもある恋愛の物語だった。難しい言葉なんていうのは使われていないけど、どことなく繊細さを感じられる文章だった。何となく、この作者は自分と歳が近いのだろうか、とここの葉は思った。
 時計に目をやると、本を読み始めて一時間半過ぎていた。まだ、七璃は帰ってこない。
 ここの葉は気を取り直して、それから黙々と本を集めて本棚の中に入れていく。一応作者名が同じ物は同じ棚に入れるようにしておく。すぐに、一つ目の本棚がいっぱいとなった。空いたスペースに、もう一つの本棚を隣に並べた。
 結局本棚がいっぱいになるまで本を詰め込んでみたが、入りきらなかった。余った本は段ボールを取り出して、そこに詰めてから押し入れの奥へと片づけた。それから新聞を紐でしばってこれも押し入れの中に放り込んだ。
 本と服がなくなると、部屋は凄く広く見える。この部屋はこんなに広かったのか。もともと一人暮らしをするには広いスペースだとは思っていたが、何だか感動してしまう。ここの葉はとりあえずソファの上にダイブしてみた。おお、このソファってじつはこんなに座り心地が良かったのか、などと感動する。
 ――だから、そうじゃないでしょ。
 ついつい本来の目的から脱線しがちになる自分を叱咤し、立ちあがる。
 体調が悪い。朝から何も食べていないはずなのに、胃が痛んだ。胃液が出過ぎているような気がする。横になって休みたい。今のソファの感触をもう一度味わいたい。だけど、もう一度横になったら、きっと眠ってしまうだろう。眠ってしまえば、もう起きることが出来るとは限らない。いや、目覚めることは決してない。
 それから二時間が過ぎて、時計の針は二十三時五十八分を指した。準備を終えたここの葉は明かりを消して、ソファに腰掛けている。明かりを消してしまうと、僅かな月の明かりも差し込んでこないため、本当に真っ暗だ。目を開いても何も見えない。
 ――何て静かなんだろう。
 元々防音が優れているのか、隣の部屋の物音などは聞こえたこともなく、時計の針の刻む音すら聞こえない。そのため、ここの葉は目を閉じて、自分で時を刻む。
 一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、一、二、三、四、五、六、七、八、九、がちゃり。
 ここの葉はくすりと笑った。日付が変わる一分前だ。あながち、自分の勘も棄てた物ではなさそうだ。
「ただいま」
 七璃はそう言い、明かりを付けた。片づけられただけじゃなく、ケーキやフライドチキンだけでなく、フライドポテトやピザなどがテーブルいっぱいに並べられていた。とても二人で食べきれる量なんてものじゃない。七璃は驚いたように目を見開く。
 そんな彼を、ここの葉は笑顔で迎えた。今までで一番良い笑顔をしてみせたつもりだ。
「おかえり、七璃」
「たく。一体どういうつもり――」
 七璃は口を開こうとしたところ、ここの葉は倒れた。


 ◆


 酷い夢を見た。
 私を殺そうとする人がやって来た。そして、言った。あなたが憎い、と。髪の毛の長い十歳くらいの幼い女の子だった。
 あなたのせいでパパがしんじゃった。あなたのせいでママがしんじゃった。そして、あたしもしんじゃった。
 私は黒色の物で胸がいっぱいになった。凄く苦しくて壊れてしまいそうだった。女の子の目の前にいるだけで、呼吸が止まってしまいそうだった。私という存在に向けて突きつけられる悪意は、夢とはいえこれが初めてだった。
 そんな。私はやってない。怖くなって声高に主張する。全く訳が分からない。
 うそ! うそ! うそ! うそ! うそ!
 あなたのせいじゃない。あなたのせいなのに。なんでそんなこというのよ。
 女の子は叫び続ける。
 あたしはどうすればいいの。これからどうしたらいいの。
 女の子は泣き出した。髪の毛を振り乱し、わんわんと人目もふらず大声で泣いた。
 泣きやまない女の子の前に、私は立ちつくすことしか出来ない。打ちのめされすぎて、立っているかすら疑わしい。
 今自分はどんな表情をしているのだろう。恐怖に歪んでしまっているのか、呆然と目を見開いているのか、それとも一緒に泣いてしまっているのか。どの感情も飽和してしまい、自分がどんな顔をしているのかが分からない。
 どうしたらいいの?
 そんなこと、私のほうこそ知りたいくらいだった。
 ねえ、私はどうすればいいの?
 私は女の子の前で膝をついてから抱きしめた。
 父さんと母さんを殺した、七璃のことをどうすればいいの。許さなくちゃならないの。
 そんなの無理だ。
 許すことなんて出来はしない。
 今すぐにでも殺してやりたい。包丁で首元をかっきってやりたい。父さん達を殺したときと同じように、眉間を銃で撃ち抜いてやりたい。何度も何度も撃ち抜いて、どこまでもどこまでも苦しみ抜かせても飽き足りない。父さんと同じような苦悶の表情をさせてやらないと。母さんと同じように恐怖で顔を歪ませないと。
 私は今でも先生が憎いです。憎くて憎くて仕方ありません。
 だけど、だけど、だけど。
 それと、同じくらい。
 それ以上にきっと……。


 ◆


 頬に水滴の当たる冷たい感覚が酷く遠いことのように思える。目を開いてもいいのだろうか。
 ……きっといいのだ。だって私はまだ、目を開けることが出来るのだから。
「おはよう」
 目を開き、ここの葉は自分を覗き込んでいる人の顔を確認する。
 いつもの仏頂面は変わらない。吊り上がった目つきはやる気なく、ぼさぼさの髪の毛は水に濡れているというのにも関わらず跳ね放題だ。何度言っても整えようとしない人。
「おはよう、七璃」
 ひょっとして、これは夢なのだろうか。
 意識がはっきりとしない。まるで綿の上を歩いているような不安定さだ。体の感覚がまるでないし、視界もぼんやりとしている。時間のはっきりしない薄暗い世界の中で、七璃だけが浮かんで見えた。けれども、耳だけは鮮明に聞こえる。しとしとという音のない雨音が耳の内側を響いている。
「体は、平気か?」
「ん、たぶん」
 若干のけだるさは残るものの、頭痛などは感じない。気分も悪くないし、他にきついところもない。
「でも、黒い炎はもう感じない……」
 心の内を意識する。黒い炎は感じなかった。しかし、代わりに感じる物がある。
「お前は、俺のことが憎くないっていうのか?」
 静かな問いだった。
「俺は、お前の両親ということを知っていて殺したんだぞ。そんな俺を、お前は許すっていうのか?」
「嘘、ばっかり」
 ここの葉はくすくすと、声を上げて笑った。
「本当は知らなかったんでしょう? 七璃も嘘は下手だね」
「だから、許すって言うのか?」
 ここの葉は首を横に振った。
「夢に見たの。十歳くらいの女の子がね、私に言うの。パパが死んじゃった。ママが死んじゃった。そして、あたしも殺されたって」
 七璃は黙ってここの葉の顔を見つめている。
「その時、思い出した。すっごく真っ暗な世界、しかもそのどん底にいる気分。私はこんなにも七璃のことが憎いんだって。だけどね」
 ここの葉はくすりと笑い、続きの言葉を言った。
「それ以上に、あなたのことが好き」
 代わりに日の光にも似た暖かい温もりで満たされており、七璃のことを強く感じる。
「だから、私は大丈夫だよ」
 ここの葉は、自分の言葉だというのに照れてしまう。普段なら絶対言えないような言葉だ。夢の中だから素直になれているのだろうか。
 少しずつ視界がはっきりとしだし、部屋の輪郭が明らかになっていく。どうやら、自分の自分の部屋だ。
「悪かったな。誕生日プレゼント、遅れちまった」
 ここの葉が口を開く前に、七璃が先に口を開いた。
「……え」
 ここの葉は七璃が何を言っているのか、分からずにぽかんと口を開いてしまう。
 七璃はゆっくりとした動作で、黒ずんだ赤色の水玉のような模様の入った紙でラッピングされた箱を取り出した。大きさは、ハードカバーの本一冊分くらいの大きさだ。
 中身は何なのだろう。ここの葉は手を伸ばそうとするが、感覚が鈍いのかまるで動かない。
 そのことをさっしたのか、七璃はラッピングをはがす。彼の指先は震え、綺麗にはがせない。諦めたのか、乱暴に破ってしまった。出てきた物は白い箱で包んでいた紙と同じ黒ずんだ赤色の模様がついている。箱のふたを開くと、姿を見せたのは一つの大ぶりのはさみだった。
「前にはさみ、欲しがっていたよな。どうだ?」
「……誕生日に、はさみなんて」
 確かに、七璃の髪の毛を切るのに使っているはさみは切れ味が悪い、と愚痴をこぼしていたが、誕生日プレゼントにはさみというのはあんまりじゃないだろうか。七璃のことが無神経だということは知っているけれど、いくら夢とはいえこれは酷すぎる。これならシャンプーがきれてたからという理由で買ってきたのとまるで変わらない。
「ひどい」
「え」
「ひどい、ひどい! あんまりだ」
 震える声を何とか絞り出し叫ぶ。七璃は目を丸くしてここの葉のことを見下ろすが、がしがしと頭をかく。
「悪かったよ。こういうの買うの、苦手でな。何買えばいいのか、さっぱりわからん」
 自分でもプレゼントに相応しい物ではないことを理解しているのか、七璃は顔を背けてそんなことを言った。ひょっとして照れているのだろうか。七璃のくせに、なんて可愛い反応なのだろう、とここの葉は顔をほころばせる。
「それに、お前美容師目指していただろ。だから、そういうのがいいのかなって。やっぱり、駄目か?」
「ううん、嬉しい。ありがとう」
 すると、七璃はにっこりと微笑んだ。いつもの人を小馬鹿にしたような冷笑ではなく、優しい笑み。以前に一度だけ見せてくれた透明な笑みだ。
「七璃?」
「よかった」
 七璃はそう呟くと、彼の顔が近づいてくる。それはゆっくりで。とてもゆっくりで。
 ここの葉は心臓が破裂しそうなほど、どきどきしながらも目を閉じる。
 時間がどこまでも引き延ばされたような感覚だ。この瞬間だけは雨の音すら聞こえない。ただ、七璃のことしか感じない。
 けれども唇にあたたかな感触はなく、そっと胸元に頭がのせられた。ここの葉は目を開かずに、そっと彼の頭を抱きしめる。少しだけ温かな、液体の感触を手の平に感じた。
 ――ざーざーというノイズ。
 ……私は、どれくらい眠っていたの……何で、七璃は濡れているの……プレゼントの包装には相応しくないあの黒っぽい赤い模様は何なの……あの七璃がどうして優しいの……どうして、こんなに彼の顔色は悪いの……そして、この手に感じる温かな液体は何。
 今の置かれた状況が一つに結びついたとき、ここの葉は目を開く。自分は何を勘違いしているのか。
 そもそも、夢の中で夢を振り返ったり、疑問に思うことなどあり得ない。
「しち……り」
 両の平は赤く赤く染まってる。青白い顔をした七璃はぴくりとも動かない。
「いやぁぁぁぁ!!」
 ここの葉の絶叫が響き渡った。
 悪夢はまだ、終わらない。

      

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