二
どうやら、鏡の映るところだとワタシは話すことが出来るらしい。今朝アパートを出るとき、普段使っていないような手の平程度もある大きめの手鏡をコートのポケットに入れた。
学校にいる間、私はワタシとひたすら話をした。ワタシの言葉が周りに聞こえるかどうかは分からないけれど、私の呟きは音となって残ってしまう。そのため、教室ではワタシと会話をすることが出来ないため、休み時間になるごとに、人のあまり来ない階段の下に行ってから、ぼそぼそと会話をした。
何だか新しい友達が出来た気分だった。いや、新しい友達にしてはワタシが私のことを全部知っているせいで新鮮味が薄い。どちらかといえば、物心が付く前の友達と再び出会ったような感覚に近いのかもしれない。
昨日一日怯えていた反動からか、私は妙に浮かれてしまいワタシに夢中になった。
おかげで、今日一日授業でやったことはまるっきり記憶に残っていない。何度か、志野君に話しかけられてたような気がするけれど、会話の内容はまるきり覚えていなかった。
そのかわりワタシについて、いくつか分かったことがある。
ワタシは表に出て、私としてふるまうことが出来ないということ。元々解離性同一障害とは、一人の意識に断続が起き、その間に別の人格が浮かび上がるというものだ。つまり、ワタシが浮かび上がっているときの記憶は私には残らないのである。私が起きてから眠るまで特に記憶にないことなんてないし、このことは正しいと思う。眠っている間のことまではさすがに分からないけれど。
ワタシが言うには、深層心理に潜んでおり、記憶の管理を司っているトレイスと呼ばれる役割が、ワタシの存在に近いらしい。
それと、私が知覚したものをそのままワタシも感じているようだ。
それは、今日の二時間目にあった数学の授業の時だ。私がぼうっとしていると、先生に当てられた。全然聞いていなかったのもあるが、ほぼ一週間ぶりということもあり問題とされている数式なんて初めて見るもので、答えがさっぱり分からない。
私はチョークをとりあえず手にとって黒板に書こうとするが、その姿勢で動きを止まってしまう。
普段、私は成績がいいと思われているが、それは予習復習を欠かさないからだ。初めて見る問題をさらりと解けるほどではない。
どうしよう。わからない。
焦りからか必要以上の力を込めてチョークを押しつけてしまい、ぱきっと音をたててチョークが砕けしまった。
「あ」
くすくすという笑い声が聞こえてくる気がする。先生は私のことなんかどうでもいいのか、窓の外に意識を奪われており気付きもしない。
恥ずかしさからか、頬が熱くなるのを感じる。私は地面へと落ちたチョークの破片を拾うべく、腰をかがめる。腰をかがめると良い具合に、教卓に身を隠せた。
その時、くすくすという笑い声にまじって、数学の答えが囁かれたのが聞こえた。
はっとなって、私は顔を上げる。それからすぐに声の正体に気がつき、答えを黒板に記した。
数学の先生は特に何も言わず、赤いチョークでまるとだけ書いた。
授業が終わりワタシに尋ねたところ、
「雛乃と違って、ちゃんと授業を聞いてたからね」
と、けたけたと笑いながら言われた。確かに、私の聞いていることは、それが無意識のものだったとしてもワタシに聞こえているらしい。
そんな風にして一日を過ごした。幸い問題は何もなかった。
「あの、大野さん」
授業が終わり、私が鞄に荷物をつめていると、クラスの学級委員である今鳥ゆゆかに声を掛けられた。
「はい?」
今日は別に、掃除当番の日じゃないわよね、なんてことを思いながら首を傾げて応じる。
今鳥さんはえーと、なんて言いながら手で口を軽く押さえる。これは彼女の癖だ。彼女は学級委員もしているせいか、みんなによく頼みごとをしたりする。そのことで遠慮しているのかなって思った。
「大野さんは、牧本君と仲が良いの?」
「志野君と。何で?」
質問の意図が分からずに、私は聞き返してしまう。
別に仲は悪くはないと思うが、どうしていきなりそんなことを聞かれるのかが分からない。
「あの、最近よく話しているから」
今鳥さんはそう答えた。
そうか、と思い当たる。今鳥さんは私達とは小学校が違うために、志野君と私が同じアパートに住んでいるご近所さんということを知らないのだ。
そのことを私が説明すると、
「それなら、どうして最近まで話をしてなかったの?」
「特には理由はないけど」
あえてあげるなら、小学校高学年の時にクラスが違ったからだろうか。そのことが原因で、疎遠になっていたような気がする。
別に私達の年頃の男女には珍しくもないことだ。いや、逆に私達の年頃で、アパートが一緒だからという理由だけで、男女が仲が良いというほうが珍しいと思う。お互いの両親同士の仲が良ければ、また話も違うだろうけど、母さんは人付き合いが苦手だから、そういうこともない。
「そうなんだ」
けれども今鳥さんは、どこか納得のいかないといった風な顔をしていた。
「ひなちゃん」
後ろから呼びかけられ、私は振り返る。丁度噂をしていた志野君だった。
「一緒に帰らない?」
「うん、いいよ。ちょっと待ってて。コート着るから」
私は特に考えもせずに頷いた。
「それじゃあ、今鳥さん」
「あ、さよなら。大野さん、牧本君」
今鳥さんに背中を向けて、私たちは教室を後にした。
校舎から一歩踏み出すと、身を切るような風が吹いて、私は寒い寒いと身を縮み込ませた。朝はあんなに晴れていたのに、すっかり空は雲で覆われている。しかも、どんよりと重そうな灰色の雲だ。明日は雪が降るかもしれない。
「どうしたの、志野君?」
隣を歩く志野君は、にこにこと笑いながらこちらを見ていた。
「いや、そんな風に身を縮み込ませているのを見ると、よっぽど寒いのが苦手なんだなって」
「……ええ、嫌いよ。早く春がこないかな」
校庭で部活動にいそしむ生徒達の声があがっているのを聞くと、私は神経を疑いたくなる。こんなに寒いのに、外で運動するなんて考えられない。
「志野君は全然平気そうだね。寒いの好きなの?」
志野君は私と違ってしゃんと背を伸ばして歩いている。学校指定のコートにマフラー、手袋、ホッカイロまで私はつけているのに、志野君は学生服にマフラーを首に巻いただけの格好だ。男子は女子と違って、コートを着ることは校則で禁止されているから仕方ないのだけど。
「うん。寒いのはわりと得意かな。冬でもアイスクリームとか良く食べてるし」
「……変態だわ」
私は正直な感想を漏らした。
「酷い言われようだなあ。さすがにソーダ系のアイスを冬に食べてたら、おかしいと思うけど」
珍妙なこだわりを見せる志野君は大きく息を吐いた。
「でも、ひなちゃん元気そうで良かったよ」
「どうして?」
「いや、昨日は何だかすごく調子悪そうだったから心配してたんだ」
「……そうなんだ」
自分では平静を装っていたつもりだけど、やはり見る人が見れば私は動揺していたのか。
私は人のそういう感情を読み取るのは得意ではない。浮かべている表情の裏側にある物、言葉に隠された言葉、そういう内面を全く見抜けないのだ。国語の読解のように、心理を誘導してくれるものなら、多少はわかるのだけど。
元々私は、自分の表情も読み取るのが苦手だった。一番身近なお手本となるべき自分の表情が全く参考にはならない。
にこにこと笑っているのに怒っている。眉をしかめて怒っているのに悲しんでいる。しくしくと泣いているのに、内心では舌を出している。そんなことが出来ないから、人の内面を読み取ることが苦手になってしまったのではないかと思ってしまう。
「でも、今日は昨日に比べて随分と落ちついてるね。むしろ、楽しそうだ。何か昨日あったの?」
「うん」
まさか、鏡の中の自分と友達になった、とは言うことは出来ない。
だから私は頷くだけだ。
「そうなんだ……あのね、ひなちゃん?」
「何?」
「ううん。何でもない」
志野君はそういうだけで、それ以上尋ねることはなかった。
アパートにたどり着き、入り口で志野君と別れて部屋の中に入る。
母さんは居間にいるようだ。ただいまとだけ声をかけて、鞄を部屋に置いて洗面台の前に行く。
「そういえば、何であんなことを聞かれたんだろう」
どうして、今鳥さんにあんなことを尋ねられたのか私にはさっぱり分からないため、ワタシに尋ねてみる。
すると、ワタシはくすくすと笑った。
自分みたいな顔でも、使う人が使えば可愛らしく見えるものだななんて思ってしまう。ワタシは私とは違ってよく笑った。
「本気で言っているの? 彼女は志野君が好きだからに決まってるじゃない」
「え、そうなの」
私は酷くびっくりした声を上げてしまう。
「……本当に気付いていなかったのね」
ワタシは頭を大げさに抱えて見せた。
確かに、志野君は女の子から人気があると聞いたことがある。同じクラスの男の子達はみんな子供っぽいためだ。
「いや、だって。でも、好きだとしてもどうして、私に尋ねるの?」
「最近あなたが志野君とよく話しているからじゃないかしら」
「それは別に、私と志野君は元々友達なんだから話をしても不思議はないでしょう」
「あら、最近は全然話をしてなかったじゃない。いきなり親しげに話す子が現れて、びっくりしたんじゃないのかしら?」
「それは――」
言われてみれば、ワタシの言うとおりだ。
最近まではどちらともなく話しかけなかったし、お互い帰宅部だというのに一緒に登下校をするなんてこともなかった。
「おばあちゃんが亡くなったことで心配しているのかな」
登校した日の朝に話しかけたことを思い返してみる。朝からいきなり妙なことを言ってしまったから、心配されているのだろうか。今日の帰りの道でも、昨日の私がおかしかったことに気付いていたみたいだし。
するとワタシは、頭を振って大きなため息をついた。
「雛乃ってば、本当に年頃の女の子なのかしらね? 実は男の子なんじゃない」
なんてことを言った。
「何よ、それ?」
「別にー」
ワタシはにやにやと意地悪く笑っている。私は馬鹿にされている気がして段々と腹が立ってきた。
「好きって言葉知ってる? 農具でも、油断でも、髪をとかすことじゃないのよ」
「……思いっきり馬鹿にしてるわね」
「そうかしら?」
「それじゃあ、何。志野君が私のことを好きだとでも言うの」
「あら、何でわかったの」
「あれだけ言われてわからないはずないでしょ」
私は唇を尖らせて言う。
「でも、一体どうしてそうなるわけなの?」
「ワタシは雛乃と違って話すということをせずに、見てるだけだからね。会話の後にどうしてあんなこと言ったんだって、後悔するまでもなく、最初から冷静に物事を見ていられるから、雛乃よりもよくわかるの」
「そうなんだ」
直接会話に加わってなくて、ただ聞こえてくる会話に耳を傾けているほうが考えごとをしやすいのは確かだと思う。まるで耳年増みたいだけど。
けれども、
「でも、それはないわ」
と、私ははっきりと告げた。
「私が人に好意を持たれるなんてあり得ない」
「ひな――」
「雛乃!」
ワタシの言葉を遮る母さんの声が洗面所に響いた。それと同時に、母さんから手に持った雑誌を投げつけられる。
「うるさいわね。何一人でぶつぶつ呟いているの。気持ち悪い」
「それは……」
「ふん、私に対する嫌みでも言っていたんでしょ」
鏡の中の自分と話をしていました、と言うことも出来ずに私は口を閉ざす。
父さんが夜遅くまで帰ってこなくて、ただでさえぴりぴりとしている母さんをこれ以上追いつめるような真似は出来るだけしたくない。
私に出来るのは言い訳をせずに俯いて、母さんから顔をそらすことくらいだ。
「何なのその態度は」
思いっきり頬を引っぱたかれた。じん、と頬に熱を持つのを感じる。
母さんは髪の毛を掻きむしってから、
「ああ、どうしてこんな子が出来ちまったんだろうねえ……」
私は何て言えばいいのか分からずに、ただじっと黙っていると、突然母さんは我に返ったように、
「ごめんなさい、雛乃。痛くなかった?」
すっかりとうろたえながら、先程のことを謝る。
「うん。平気だよ」
「本当、ごめんなさい。私ったらかっとなっちゃって、ごめんね」
そう言って抱きしめられた。
私は母さんの体の感触は好きだ。もうすぐ五十に近いから角張った感触が強いけど、それでも好きなのだ。誰かが抱きしめてくれるという感触は、これしか知らないのだから。
……どこかで、感じたことがあるような気がするけど、一体どこだったろう。
勘違いだ。そんな思い出は私の中にはない。自分の中に浮かんだありもしない感傷を、私は振り払った。
「お詫びに、今日は雛乃の好きなご飯にするわね。何がいいかしら?」
「ハンバーグがいいな」
お詫びがご飯なんて子供みたいだ、と少しだけ思ってしまったけど、ついついつられてしまう時点で私も十分子供なんだなって思った。
夜、姉さんからメールが来ていた。
明日から二週間ほど、旅行で外国に行くと書いてあった。
私は、気をつけてね、と返信をした。