三
今朝は案の定雪だった。校門の付近で私は立ち止まり、しんしんと雪を降らせはじめた雲を睨み付ける。風がないせいか、随分と静かに降っており、大通りをゆく車の微かな音が聞こえてきた。きっと夜までに、たっぷりと雪を積もらせてくれることだろう。
寒さを除けば、雪はそこまで嫌いじゃない。積もった雪は町の景色の色を変える。
降る雪を手で捕まえても、手の平の上ですぐに溶けてしまう。そんな人の触れてはいけないような儚さが大好きで、延々と追いかけていたこともある。
けれども、一時間目にある体育のことを思うと、朝から憂鬱な気持ちへと沈んでしまう。
「お早う、ひなちゃん。こんなところに突っ立って、何してるの?」
丁度登校してきたのか、志野君が傘をさして私のそばに立っていた。相変わらず防寒具はマフラーだけで手袋すらしていない。
「とりあえず、神様を呪ってるの」
「……そうなんだ。がんばってね」
「うん」
雲を睨んでいた私の視界が、ひょいと濃い藍色で覆われた。
「風邪ひいちゃうよ。傘持ってきてないの?」
「ううん。持ってきてるよ。けど、鞄の奥に入ってるから」
私はぽんぽんと肩から提げている鞄を叩いて見せた。
「そうなんだ。じゃあ、今更わざわざ出すのも面倒だし一緒に行こうよ。僕の傘大きいし」
「ありがとう」
ふと、志野君が私のことを好き、という昨日のワタシの言葉が頭の中に蘇った。
自意識過剰なのだ。そもそも、志野君が私のことが好きだから話しかけてきた、と言うけど、それは別に最近である理由はないじゃないか。もしも、私なんかに好意を少しでも持っているのなら、別に今ではなく以前から話をしているだろう。
私は頭を振ってつまらない期待を頭の中から追い出した。
昇降口が見えてくると、始業まで随分と余裕があるのに人影が見えた。目をこらしてみると、その人は今鳥さんだった。
「……先に行くね。傘、ありがとう」
「え。ひなちゃん?」
志野君の呼び止める声も聞かずに、私は駆け出した。ぽんぽんと肩から提げた鞄が跳ねまわる。今鳥さんが靴箱を離れる前に、何とか間に合った。昨日のような誤解はさっさと解いてしまうに限る。
「おはよう」
弾む胸を押さえて、とりあえず挨拶をする。
「お、おはよう」
今鳥さんは酷くびっくりした顔で私を見ていた。
「大野さん、随分と早いのね」
「うん。私はいつもこの時間に登校しているから。今鳥さんこそ、今日は早いのね」
「ええ。今日は日直だから」
彼女の言葉を聞きながら、私は辺りの様子を伺う。朝も早い時間のおかげか、私達以外下駄箱には人の姿はない。肝心の志野君もまだ追いついてはいない。
「私と志野君は別に何でもないから、気にしなくて良いよ」
上履きに履き替えてから、私は努めて明るい声で言った。こういうことははっきりと言った方がいい。
「あの、痛くないの?」
「え、何のこと」
ひょっとして、昨日母さんに叩かれた頬に痣が残っているんだろうか。朝に鏡を見たときは残っていなかったのだけど。そう思い無意識に頬を撫でてしまう。
「ううん。何でもないの。それじゃ」
今鳥さんはそれだけ言って、私から逃げるようにさっさと教室へと行ってしまった。
残された私は首を傾げて、彼女の後ろ姿を見送った。
始業ベルまで時間が十分にあるから、一時間目にある体育に対する愚痴でも言おうと思い、私はいつもの場所へと向かう。
階段下の暗い場所。私はポケットから鏡を取り出して、人から見られないように床に腰を下ろす。こうすれば、大きめの掃除道具の入っているロッカーの影となって私の姿は隠れてしまう。
でも、光のささない場所のせいで、教室よりも廊下よりも温度がさらにぐっと低い。リノリウムの床も壁も氷のようだ。私は白い息を零しながら、両膝をぎゅっと強く抱きしめる。
「あの」
階段の上から呼びかけられ、思わずびくりと背筋を伸ばしてしまう。無意識的に鏡を隠しながらそちらを向くと、そこには志野君が立っていた。
「ど、どうしたの?」
「いや、最近休み時間事にふらっといなくなるから、どこに行っているのかなって思って。今日も先に行った割には教室にいないし」
確かに、今まではお手洗いに行く以外は、自分の席に座って時間を潰していたことが多かった。それに、違うクラスの友達に会いに行っているわけでもなく、こんな誰もいないところで一人体育座りなんかしているんだ。志野君じゃなくても変な感じがするだろう。
「うん、その」
上手い言い訳の言葉が思い浮かばない。
ひょっとすると、志野君なら今の私のことを理解してくれるかもしれない、と考え本当のことを話そうかな、なんて思った。志野君が私のことを好きだと思いたいからだろうか。
けれども、そんな考えを私は一瞬で打ち消した。そんなことをして一体何になると言うのだろう。私は、志野君に哀れんで欲しいのだろうか。そんなのは嫌だ。
言ってしまえば今の私は、全く駄目な人間が、自分の思い描く理想の人がいると思いこんでいる。ただそれだけだ。
けれども、世間はそんなことを認めてくれはしない。私だって人からそんなことを聞かされたとしても、まるっきり耳を傾けることはないだろう。仮に宇宙人が地球にやってきていたとしても、実際に捕まえたりしてみなければそんなことはわからない。たぶん、ワタシのことを話したとしても、可哀想だとしか思われない。親切な人だったら、そんな幻が見えなくなるように病院を勧めてくれるかもしれない。
でも、私は別に可哀想なんかじゃない。私は望んでワタシと話をしている。そのことの何が可哀想で、何が悪いと言うのだろう。
そんなことを考えていると、私はすごく怖くなってきた。望んでいない同情なんて貰うと、私はきっとくじけてしまう。無知な私は、自分は可哀想なんだって思いこんでしまうに違いない。
「ひなちゃん……」
私が答えずにいると、志野君は珍しく眉をしかめて唇を噛んでいた。どうやら、私が何も言わないことに腹を立てているようだ。
「ごめんなさい」
「何で、ひなちゃんが謝るの?」
「だって」
それきり私が黙ってしまうと、志野君は、もういいよと言わんばかりにため息をついた。
「とりあえず教室に戻ろ」
志野君に促され、私は仕方なしに立ちあがる。
結局、ワタシとは一言も口をきけなかったなと思いながら、鏡の表面を撫でてみる。たまった冷気を存分に得たのか、ぴしっと凍り付きそうなほど冷たかった。
「雛乃。足の裏に画鋲が刺さってる」
志野君には聞こえない程度の声で、ワタシが告げた。
私は上履きを脱いで足の裏を見てみると、確かに画鋲が刺さっていた。
抜いた。
その日一日、志野君が何でだか気をつかってくれているようだった。それは、少し過剰なようで、おかげで私は休み時間も一人きりになれず、今日一日ワタシと会話することが出来ずにちょっとばかり疎ましく感じてしまった。人の好意を邪険に思うなんて悪いこととは思うけど。
放課後になると、クラスメイトの女の子にちょっと屋上に来てくれと頼まれたので、私はコートだけを着て向かった。
屋上に出ると、雪は相変わらず静かに降り続いており、灰色のコンクリートは白く化粧していた。上履きで歩くと、しみ込んできそうだ。
屋上を覆う柵の向こうの白く染まりつつある町並みが目に入り、途端に動悸が速くなる。こんなに寒いのに、冷たい汗を感じる。私は、帰るとき寒そうだなあと無理矢理にでも別のことを考えた。
屋上にはクラスメイトの女の子が四人いた。その中には今鳥さんもいた。
「ねえ、大野って牧本君の何なわけ?」
その内の一人が私に、突っかかるように言ってきた。
その言葉で私はようやく現状を理解して、今鳥さんを見た。彼女は私と視線を合わせようとせずに顔を背け、居心地が悪そうにして立っている。本人も好きでこんなことをしているわけではないのだろうか。今鳥さんの態度が演技かどうかはさっぱりとわからない。
志野君が女の子に人気があるのは知っている。
同年代の男の子が子供っぽいことに対して、志野君は大人しいけれど声を荒げたりせずに落ち着いているからだ。
そんな風に大人っぽい子を好きになると言うことは、結局のところ自分自身が子供で、守って貰いたいという心のあらわれなんじゃないかなと思う。だから、私も志野君のことは好きなのだ。
でも、それが彼女たちが問いつめる恋愛感情なのかと言われれば、私にはよく分からないとしか答えられない。
「えーと……」
果たして私なんかが、上手く彼女たちを納得させられるだろうか。というよりも、何と言えば納得してくれるのだろう。ワタシだったら巧みに説明してくれそうなのに。
そう言えば、ワタシはこんなことになるとわかっていたのだろうか。きっと、彼女なら、「そんなことが分からないなんて、本当に子供ねえ」なんてことを笑いながら言いそうだ。
私が言葉に困っていると、苛ついてきたのか彼女たちの一人が、
「早く答えなさいよ!」
声を荒げ、どんと乱暴に私の胸を強く押した。
私はげほげほと咳き込みながら、二、三歩後ずさると雪で滑ってしまった。そして、金網へと勢いよく頭をぶつけてしまう。
咄嗟に頭を押さえながら、私は見てしまった。
金網の先に広がるものを。眼下に広がる景色を。
「あ」
思考が白く塗りつぶされる。膝から力が抜けるのを感じ、反射的に指を金網に引っかけて何とか体を支えるようとする。指に錆びた鉄が食い込んだ。結局指だけで体重が支えられるはずもなく、コンクリの上に腰をぶつける形で座り込んでしまった。スカートに水がしみ込んでくるが、私は立ちあがることも出来ず、震える体を力の限り抱きしめることしか出来ない。そして、自分がどんな表情をしているのかさっぱり理解出来ないままに、私は顔を上げた。
「ひなちゃん!」
私達以外の声がした。志野君だった。あの志野君が目を鋭く吊り上げて、拳を強く握りしめている。今の怒鳴り声も志野君が発したものなのだろうか。思えば、志野君があんな大声を出したのなんて、初めて見たような気がする。
「し……のくん?」
「やっぱり、虐められていたんだね。昨日からおかしいと思ってたんだ。ひなちゃん、休み時間のたびにいなくなるから」
志野君はクラスメイトたちから私を庇うように立ち、彼女たちを睨み付ける。
……志野君、そんなことを考えていたんだ。休み時間のたびに教室を出て行き、あんな人の来ない場所に行っており、今も原因はともあれ、棄てられた子猫のように隅っこでぶるぶると震えているのだ。確かにそんな風に見えないこともない。
「私たち、別に虐めてなんか……」
クラスメイトたちはお互いに顔を見合わせる。まるで、責任を押しつけあっているようなその行為……そして、最終的に非難の目線は、ショックで物が言えなくなっている私へと向けられる。収まるべき鞘にでも収まったとでも言うべきなのだろうか。
「何よあれ。わざとらしい」
「ちょっと男の子に人気があるからって」
「最低……」
何で、私がこんなことを言われなくてはいけないんだろう。何で、わざわざ聞こえるように言うんだろう。
止めて欲しい。私が一体彼女たちに何をしたっていうの。
私はぐ、と唇を噛みしめて彼女たちを睨み付けた。
言葉が口から出てこない。何を言えば良いのか分からず、何を言っても無駄なような気がした。沸騰しそうなほど頭にきていて、そのくせ酷くどうでもいいと感じてた。ただ、すごく気分は悪い。この人たちは、親戚たちと同じだ。
「……止めて」
「え?」
「止めてって言ってるでしょ!」
囁き声がぴたりと止まる。私は今鳥さんを見て、
「私が、悪いの?」
「え、その」
「私が、悪いの?」
繰り返し尋ねると、今鳥さんは顔をしかめてから背けた。それが全てだった。
「大丈夫?」
志野君は心配そうな顔をして、私に手を差し出す。これ以上あんな子達に弱みを見せるのは癪だったから、自力で立ってやると思ったのだが、情けないことにまるきり力が入らなかった。
「あはは。腰抜けちゃったよ」
もう、笑って誤魔化すしかない。志野君もつられるように苦笑して私の手を取った。
そして、私たちはそのまま屋上を後にする。背中に最後まで、虫が這っているようなおぞましくも冷たい視線を感じてた。
「あ、あの……」
たんたんたん。
「ちょっと、ねえ……」
たんたんたん。
「あ、あの、志野君ってば!」
私の手を握ったまま階段を降りる志野君の名前を呼ぶと、ようやく気がついてくれる。
「ん?」
私は抗議をするように、ちらちらとその握られた手を見た。すると、険しい顔をしていた志野君はぽかんと口を開く。
「あ、ご、ごめんひなちゃん」
志野君はようやくそのことに気がついたのか、慌てて手を放し、辺りをきょろきょろと見回した。こんなに寒いのに、わざわざ放課後の屋上になんて行こうという奇特な方はいないようだった。
私も何だか志野君につられて気恥ずかしくなり、俯いてしまった。けれども、志野君の様子が気になるから、視線が合わないよう上目遣いに窺ってしまう。
「よかったよ」
ぽつりと志野君は言った。
「志野君……」
「秋乃姉さんから頼まれてたんだ。ひなちゃんを見ててって」
志野君はにこにこと笑いながら、そんな言葉を口にした。
「……え?」
「お姉さん、とっても心配してたよ。メール送っても、いっつも元気だよってしか返ってこないからって。ひなちゃんがメールとかあんまりしないことは知ってるけど、もう少しちゃんと書いたほうがいいんじゃないかな」
私はかろうじて、そうなんだ、と答えることが出来た。
……なんだ。そういうことだったのか。あはは、何ですぐに気がつかなかったんだろ。私ったら馬鹿みたい。本当に、本当に馬鹿みたい。恥ずかしい。
当たり前のことなのに。ちょっと考えれば、分かることだったのに。何を私は期待していたっていうの。
ありえるはずがないのに。私なんかに義務や責務以外で善意が向けられることはあるはずがないのに。
分かった途端、酷い自己嫌悪におそわれる。
「あ、額から血が出てるよ」
そう言って、私の額に手を伸ばす志野君。その手を私は払いのけた。パチン、という小気味の良い音をたてた。
「ひなちゃん?」
「これは、大丈夫。別に痛くないから」
金網に頭をぶつけたときだろうか。額を拭うと、すでに乾きかけているのか黒色に近い液体が手の甲を汚した。
「それよりもね。志野君が、心配してくれてるのは嬉しいんだけど、あんな状況で助けられたら余計に状況を悪化させるわ。私と志野君が仲が良いと思われているのが原因なんだから」
「僕のせいなの?」
志野君はその事実に肩を震わせた。大人っぽいと言ってもまだ私と同じ子供なのだ。そう思うと何だか安心する。泥沼の中にいるのは私だけじゃない。だから私は、正直に頷いた。
「うん、だから。私のことを心配してくれてくれるなら、私には当分話しかけないで。お願いだから、ね。志野君にまで迷惑はかけたくない」
これは本心だ。
「僕のほうこそ別に大丈夫だよ。そんなことよりも、ひなちゃんのほうが」
「大丈夫。私は平気だから、ね」
けれど、本心なんて一つきりじゃない。志野君のことが心配なのと同時に、煩わしい。ああ、こういう風に人って嘘をつくんだ。
私は笑った。自分では上手く笑えたと思うけど、きっと気持ちの悪い笑みだったと思う。
はらはらと降る雪。私はコートに雪がしみ込んできているのにも関わらず、傘もささないで道を歩く。何となくそんな気分だった。
「雛乃。志野君はね……」
ポケットの中から声がした。
「聞きたくないわ」
「雛乃……」
「聞きたくない。聞きたくないの」
私は両目と両耳をぎゅっと塞ぐ。今日は本当に静かで、そうすると何の音も聞こえてこない。真っ暗な闇の中で、凍てついた冷たさだけが感じられる。まるで、その世界には私しかいない気がして、途端に怖くなった。
私は両耳を押さえていた手を恐る恐る外す。
「ねえ」
手鏡をポケットから取り出して、軽く呼びかけてみる。返事はない。
「ねえってば……」
「……」
「お願いだから、返事をしてよ!」
道の端で立ち止まり大声で喚く私に、通り行く人たちは怪訝そうな目を向けられていた。おおかた、携帯電話で別れ話でも告げられた可哀想な女の子とでも映っているのだろう。けど、そんなことに構っていられない。
「私にはあなたしかいないんだから」
親戚も、母さんも、クラスメイトも、志野君も……。
「そんな、捨てられた子犬みたいに、瞳を潤ませないで」
鏡の中のワタシは根負けしたように、肩を竦めて見せた。けど、すぐに深刻そうな顔をする。
「泣いてる雛乃って可愛いわね。庇護欲をそそるっていうか」
「へ?」
……真面目な顔をして一体何を言っているんだ!
すごく緊張していたため、思わず埴輪のように口をぽかんと開いたままになってしまった。
「いやいや、どうせ泣くなら男の人の前で泣いてみなさいよ。そうすれば、みんな大丈夫って心配して寄ってきてくれるわよー」
「嫌よ。だったら絶対に泣くもんですか」
私はコートの袖でごしごしと目をこすながら、まるで姉さんと話しているような錯覚に捕らわれた。今のワタシの言葉は、私が小学生の時に一度、姉さんに言われたことがあるものだったからだ。
……当たり前のことなのかもしれない。私の理想は姉さんだ。ワタシが私の理想を模しているのなら、姉さんのようになるに決まってる。
そのことに気がつくと、自然と気が楽になった。姉さんが傍にいると思うだけで、堅い防護服で守られているようなものだ。
帰り道の最中、ワタシは志野君についてそれ以上何も言わなかった。
今日は、姉さんからメールが来ていなかった。
そういえば、今日から海外に行っているんだっけ。
父さんは、今晩帰ってこなかった。